起工日 | 大正12年/1923年12月1日 |
進水日 | 大正14年/1925年3月25日 |
竣工日 | 大正14年/1925年11月15日 |
退役日 (沈没) | 昭和19年/1944年9月21日 |
マニラ湾 | |
建 造 | 藤永田造船所 |
基準排水量 | 1,315t |
垂線間長 | 97.54m |
全 幅 | 9.16m |
最大速度 | 37.25ノット |
馬 力 | 38,500馬力 |
主 砲 | 45口径12cm単装砲 4基4門 |
魚 雷 | 61cm三連装魚雷発射管 2基6門 |
機 銃 | 7.7mm単装機銃 2基2挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式缶 4基 |
艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
輸送から戦闘から、最後まで大奮闘した皐月
【皐月】は「睦月型」の五番艦ながら、「睦月型」で最初に竣工した長女です。
竣工当時は「第二十七号駆逐艦」と呼ばれ、昭和3年/1928年8月1日に【皐月】となります。
【皐月】は【文月】【水無月】【長月】とともに第二十二駆逐隊を編成し、第五水雷戦隊の指揮の下で太平洋戦争の各作戦に参加します。
開戦前夜に台湾の馬公へ向けて出発し、開戦すると同時にフィリピンになだれ込んで「フィリピンの戦い」の上陸部隊を乗せた船団の護衛を行いました。
年内はこの「フィリピンの戦い」の支援に集中しており、この戦いの中では命中しませんでしたが【皐月】は【米ポーパス級潜水艦 パーミット】から魚雷攻撃を受けています。
【皐月】も反撃しましたが、こちらの攻撃も効果はありませんでした。
年が明けると続いて「蘭印作戦」の一環としてジャワ島攻略の船団護衛を行います。
この中で3月1日に「バタビア沖海戦」が勃発しますが、【皐月】は【文月】【叢雲】【白雲】と共に、襲撃のなかったメラク湾方面で警戒を行っていたため海戦には参加していません。
その後もジャワ島攻略までは同海域での船団護衛に従事しており、3月10日からは第五水雷戦隊解隊によって第二南遣艦隊に編入されます。
南遣艦隊はそもそも「マレー作戦」が影響する範囲を管轄する部隊だったので、活動地域に変更はありませんでした。
4月10日にはそのマレー周辺と台湾・日本を結ぶ船団護衛を統括する組織として第一海上護衛隊が新設され、【皐月】ら第二十二駆逐隊はここに所属します。
そしてしばらくはこの船団護衛任務を静かにこなしていました。
その間に日本は「ミッドウェー海戦」でいきなり目の前に巨大な壁が立ちふさがり、その壁に突っ込んだ4隻の空母が沈没してしまいました。
やがて戦いの舞台はガダルカナル島に移り、陸海共に想像を絶する苦戦に喘ぐことになります。
【皐月】らはその血生臭い空気を一切吸うことなく、潜水艦に気を付けながら船団護衛を続けていました。
しかし戦況をひっくり返すことができなかった日本は、大量の被害損害を出しながらも遂にガダルカナル島を奪還することができず、年末にはガダルカナル島からの撤退を決定。
12月10日に第二十二駆逐隊は解隊され、翌年から【文月、長月】とともに南東方面部隊外南洋部隊に編入され、突如最前線に派遣されることになりました(【水無月】はもともとの任務継続)。
【皐月】が参加することになったのは「ガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)」。
ガダルカナル島に残された、生ける屍を1人でも多く救い出すという一大作戦でした。
連合国には総攻撃を仕掛けるための行動であると思わせ、その実ガダルカナル島から日本軍をそっくりそのまま引き揚げるというこの作戦は、昭和18年/1943年2月1日から3回にわたって行われましたが、【皐月】は3回すべてに参加。
まんまと連合国を出し抜き、想定以上の生存者を救い出すことに成功しました。
この作戦中に空襲とも魚雷艇とも戦っていますが、損害はなかったようです。
作戦後も他の島々への輸送を強化しなければならないため、【皐月】は12日には早くも【文月】とともに【給炭艦 野島】を護衛してコロンバンガラ島へ向かいます。
その後もショートランドを起点にカビエン、パラオ、フィンシュハーフェンなどへの輸送が頻繁に行われ、敵に襲われる恐怖と戦いながら日々を乗り越えていました。
5月28日にはショートランド付近で【長月】と共に座礁してしまいましたが、翌早朝までに自力で離礁に成功しています(【長月】は【水無月】が救出)。
ここまで自ら砲撃に参加することはほとんどない【皐月】でしたが、ここにきていよいよ海戦が想定されるエリアへの派遣が決定します。
6月30日から「ニュージョージア島の戦い」が始まり、【皐月】は連合国の輸送を阻止するために【新月】旗艦の第三水雷戦隊の一員として出撃します。
7月1日は空振り、2日は魚雷艇2隻を撃沈させましたが敵艦隊との遭遇もなかったため結果的にこの日も空振り。
4日はコロンバンガラ島輸送が主となったのですが、この時深夜にニュージョージア島への艦砲射撃を行っている艦隊と遭遇します。
鼠輸送中だったために状況は不利だと判断した第三水雷戦隊は、無理せず輸送を断念し、気づかれる前に魚雷だけ流して退散しました。
ですがこの魚雷のうち1本(【皐月】は発射形跡なし)が【米フレッチャー級駆逐艦 ストロング】に命中。
動けなくなった【ストロング】に対してさらに陸上砲台からの14cm砲弾が3発命中し、最後には機雷に誘爆して【ストロング】はここで沈没していきました。
5日には再び輸送の為に【新月】【谷風】【涼風】が身軽な状態で、他の7隻の駆逐艦は輸送隊として物資を搭載して出撃しました。
しかし連合国は今回は鼠輸送の情報をキャッチし、前日襲撃を受けた第36.1任務群に迎撃するように命令します。
ここで勃発するのが、「クラ湾夜戦」です。
連合国がレーダー射撃を行ったこの戦いですが、【新月】も対空用とは言え搭載していた13号対空電探が敵影を察知していました。
ですが戦力的に軽巡洋艦も要する連合国のほうが上で、かつ大型の【新月】には砲撃が集中しました。
【新月】はほとんど抵抗できずに通信も不通となって行方不明、最終的に沈没したと認定されます。
この間第一次、第二次輸送隊は一時的に引き返して戦闘に加わるものの、各艦輸送を行うためにコロンバンガラ島へ向かいます。
揚陸は【浜風】が全くできずに引き返していますが、他の船はそこそこ揚陸に成功しています。
しかし【皐月】はともに行動していた【長月】の座礁の対応も行っていたことからてんやわんやでした。
最終的に【長月】を早急に離礁させるのは困難と判断され、追撃の危険もあったことから止む無く【長月】は放棄されることが決定。
【天霧】【望月】が砲撃を受けながら逃げ延びていることから、かなりギリギリの状況だったことがうかがえます。
【新月】を失った日本ですが、この戦いで【涼風、谷風】の魚雷が【米セントルイス級軽巡洋艦 ヘレナ】を撃沈させています。
9日には再びコロンバンガラ島への輸送が行われ、これは無傷で成功。
12日には今度は【神通】旗艦の第二水雷戦隊が中心となって三度コロンバンガラへの突入に挑戦しますが、ここで再び敵艦隊と相まみえることになりました。
「コロンバンガラ島沖海戦」です。
この戦いではまたも先頭の【神通】が集中砲火を浴びますが、今度は日本の攻撃が連合国を圧倒し、【米グリーブス級駆逐艦 グウィン】を撃沈させたほか5隻を大破、輸送もすべて揚陸に成功します。
しかし第二、第三水雷戦隊旗艦を犠牲にしてまで行われたこのコロンバンガラ島への輸送も、発端となった「ニュージョージア島の戦い」の敗北を受けて今度は撤退と真逆の輸送を行うことになってしまいます。
17日、ブインにいた【皐月】は100機以上の空襲のターゲットにされてしまいます。
この空襲で大量の爆撃を受けた【皐月】は、直撃弾こそありませんでしたが複数の至近弾を浴びて損傷。
共にブインにいた【初雪】は至近弾の他に直撃弾を受けてしまい、浸水が酷くてついに沈没してしまいました。
他にも【水無月】、【望月】【夕凪】(翌日の空襲)が小破し、輸送任務を多く担ってきた艦が軒並み戦力を落としてしまいました。
この影響でブインにいた各艦はいったんラバウルへと避難し、さらに29日には【皐月、望月】は【熊野】を護衛してトラック島まで移動。
その後本土に戻って修理が行われました。
9月16日にラバウルに戻ってきたものの、前述の通り「ニュージョージア島の戦い」は敗北。
【皐月】は数ヶ月前に送り届けた兵士たちを、今度は救助するために28日と10月2日にコロンバンガラ島へ向かいます。
この「コロンバンガラ島撤退作戦(セ号作戦)」は、2日に米艦隊と一悶着あったものの大きな戦いにはならなかったため、なんとか大多数の救出に成功しています。
10月25日、輸送中に【皐月】はまたしても座礁し、今度はスクリューを損傷してしまいました。
戻ってきてまだ1ヶ月しか経っていないのに、もう修理のために本土にとんぼ返りすることになりました。
この時パラオからフ503船団を護衛して日本に戻っていたのですが、ここを【米サーゴ級潜水艦 サーゴ】に襲われてしまいます。
11月9日には【多賀丸】が、11日には【興西丸】が【サーゴ】の魚雷を受けて沈没しており、【皐月】は反撃をするものの【サーゴ】には全く被害がなく、悲壮感を漂わせながらトボトボと帰っていきました。
修理はパパっと終わり、12月10日に入港して15日か16日にはもう出港。
ラバウルに戻ってくるとすぐさま輸送に復帰します。
ちょうど年末年始にかけて、日本はラバウル防衛のためにも死守しなければならいカビエンの防御を固めるための戊号輸送作戦を実施することになっていて、【皐月】は【文月】とともに本土からやってくる戊二号輸送部隊の護衛に加わることになります。
昭和19年/1944年1月4日、2隻は先にカビエンで待機し、やってきた戊二号輸送部隊の揚陸中に周囲を警戒する任務でした。
明け方には揚陸も無事終了、戊二号輸送部隊はトラック島へ引き揚げ、【皐月】と【文月】もそれを見送ってしばらくしてからラバウルへと帰っていきました。
ところがこの戊二号輸送部隊の存在は偵察機によって明るみになっており、この時すでに第37.2任務部隊の【米エセックス級航空母艦 バンカー・ヒル】と【米インディペンデンス級航空母艦 モンテレー】の艦載機が部隊を探し回っていました。
実は1日に戊三号輸送部隊が同じくカビエンに輸送を行った際、【大淀】【能代】【秋月】【山雲】に対して空襲を行っており、警戒が強まっていたのです。
幸いにも戊二号輸送部隊はこの艦載機に発見されることはなかったのですが、逆にラバウルへ帰る途中の【皐月、文月】が目に留まってしまいました。
か弱い駆逐艦に殺到する約80機もの大群に対し、【皐月、文月】は見事な大立ち回りをやってのけました。
機銃を巧みに操り、舵を華麗に捌き、至近弾を受けながらも爆撃や魚雷を全て回避した両艦は、見事十数機の航空機を撃墜(確実・不確実合わせ)させます。
20分に及ぶ死闘を潜り抜けた2隻は、まだそこに浮かんでいました。
しかし被害も大きく、【皐月】は幹部を含め多くの死傷者が発生します。
艦長の飯野忠男少佐は機銃掃射で左足を打ち砕かれましたが、艦橋で軍医に頼み込み、切断手術を施してまでも指揮を続行するという奮闘ぶりでした。
意識が朦朧としながらも指揮を執り続け、【皐月】と乗員の命を守った飯野艦長。
残念ながら飯野艦長はラバウル到着後、入院先の病院で出血多量により戦死してしまいました。
戦闘後に入院先で息を引き取りますが、その功績を讃え、南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将より、鞘に「武功抜群」と墨書きされた白鞘の日本刀が授与されました。
彼と同級生だった【文月】艦長の長倉義春少佐は、彼の屍を乗り越えて再び戦地へと赴くのですが、長尾少佐もわずか1ヶ月半後の「トラック島空襲」によって帰らぬ人となってしまいます。
【皐月】はトラックを経由し、何度目になるのか再び佐世保へ帰投。
しかしラバウルからトラックへの道中での空襲で護衛していた2112船団の【羽黒丸】が沈没し、さらに20日にはトラックからともに本土へ戻る予定だった【伊良湖】も【米サーゴ級潜水艦 シードラゴン】の魚雷を受けて沈没寸前まで追い込まれます。
どうにか浸水を食い止め、【伊良湖】は【鳥海】や【涼風】【潮】に守られて(【鳥海】に曳航?)トラックに引き返していきました。
その後も【皐月】は【雲鷹】を護衛しながら2月11日に佐世保に到着しました。
復帰後の初任務は、これまた連合国の侵略に対してマリアナ諸島やサイパンの守備力を強化するための松輸送への参加でした。
すでに3月から行われていたこの松輸送ですが、【皐月】は4月7日出撃の東松五号船団の旗艦(第三護衛船団司令部)として護衛をすることになりました。
東松五号船団(往路)は父島付近で機動部隊の出現の報告を受けて10日から18日まで1週間以上待ちぼうけを食らいますが、その甲斐あって無傷で24日にパラオに到着。
揚陸を終えた東松五号船団は、26日にパラオを出港し、日本を目指しました。
しかし行きはよいよい帰りは恐い、27日には夜な夜な襲い掛かってきた【米ガトー級潜水艦 トリガー】に船団は食い散らかされてしまいます。
まず【阿蘇山丸】、続いて【三池丸】が相次いで魚雷を受けてしまい、【阿蘇山丸】は船首が大きく沈下。
【三池丸】は巨大な松明のような業火に襲われ、消火の見込みがないため船体の放棄が決定されます。
さらにこの【三池丸】の乗員救助を行っていた【笠戸】にも魚雷が命中し、【笠戸】は艦首を喪失するほどの損害を受けてしまいました。
最終的に沈没は1隻だったものの、やりたい放題された東松五号船団(復路)は【阿蘇山丸、笠戸】を守りながらパラオへ引き返します。
そして28日に【皐月】【第4号海防艦】【東山丸】【能登丸】の4隻に再編され、今度こそ無事に東京へ戻っていきました。
続いて【皐月】は14日にも東松8号船団を護衛してサイパンまで送り届けています。
6月14日にはより一層輸送に特化するため、【小発動艇】が搭載できるように改装工事が為されます。
その後もまだまだ船団護衛が続きましたが、「マリアナ沖海戦」で敗北をした結果、日本への包囲はどんどん狭くなり、また活動範囲も限定的になることからどこに行っても襲われるという危機に見舞われます。
日本の生命線はフィリピンとシンガポールにほぼ絞り込まれたため、ここに張り付けば確実に獲物がやってくるわけです。
昭和19年/1944年8月20日時点の兵装 |
主 砲 | 45口径12cm単装砲 3基3門 |
魚 雷 | 61cm三連装魚雷発射管 2基6門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 3基9挺 |
25mm連装機銃 2基4挺 | |
25mm単装機銃 9基9挺 | |
13mm単装機銃 5基5挺 |
出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年
9月6日、【皐月】は【神威】【旭東丸】【興川丸】を護衛してシンガポールからマニラへと向かいます。
マニラはしょっちゅう空襲があるため、盲目的に輸送は行えません。
情報をつぶさに確認し、この神威船団はブルネイでタイミングを見計らってマニラへ入港しました。
その甲斐あって、21日の入港時は無事空襲を受けることなく到着しています。
到着と同時ぐらいに、マタ27船団が高雄へ向けて出撃。
まだ補給が終わっていなかった【皐月】は、【興川丸】より補給を受けた後、マタ27船団の護衛に加わる予定でした。
しかしこの数時間のタイムラグが【皐月】を死地へと追いやるのです。
アメリカの第38任務部隊の艦載機がマニラ湾に集結し、留まっている艦艇に襲い掛かりました。
【皐月】は急いで抜錨、速度を上げて対空戦闘を行いましたが、至近弾で復水器が破壊されたためタービンが1機使用できなくなります。
もちろん速度が低下するため、回避行動が困難になり、さらにそこを狙われて爆弾が第一缶室に直撃。
こうなると獲物は狩ったも同然、次々と爆弾が【皐月】に降り注ぎ、小柄な【皐月】の英雄譚はここで終わりを告げます。
戦死者は52名、陸上からの【大発動艇】と【伊良湖】に多くの乗員が救助されました。