五連装魚雷はついに撃てず 体力尽きてオルモックに沈む
「マリアナ沖海戦」でも日本は空母3隻を失うという完敗を喫し、【島風】はじめ水上艦は「ミッドウェー海戦」同様またしても敵艦と遭遇することはありませんでした。
帰投後呉で【島風】は魚雷を撤去したとありますが、果たして何本下したのかがわかりません。
この時に同時に機銃が大幅に増設されました。
打つ手のない日本は「捷一号作戦」を発動させ、とにかく使える戦力を注ぎ込んでレイテ島に突入するという無謀な作戦に出ます。
ただ、この多くの犠牲を前提とした作戦は栗田ターンが起こるまで意外と達成に向けて進んでいました。
【島風】はその本隊である栗田艦隊に所属しましたが、「シブヤン海海戦」で【武蔵】が断続的な爆雷撃によってついに沈没した際は、【武蔵】の乗員と、沈没して【武蔵】に移乗していた【摩耶】の乗員を救助しています。
この戦いの中では、【武蔵】のすぐそばで護衛をしていた【島風】にも近くに爆弾が投下されたり魚雷が飛んできたりと非常に危険な戦いでした。
しかし馬力が強いというのはありがたいことで、多少無茶でも急加速ができるのです。
このおかげで【島風】は魚雷を艦尾すれすれで回避しています。
翌10月25日、艦隊は潜水艦の襲撃に警戒を強めながら引き続き前進。
ところが【島風】は極度の緊張状態からポッと現れた小さな岩礁を魚雷艇と勘違いし、「敵見ユ」の信号を発して転舵します。
この時艦隊は24ノットという高速で移動していたため、その報告を受けて艦隊は動揺しました。
そんな中、同じく先頭で警戒を行っていた【秋霜】も逆方向に転舵してしまい、小規模ですが2隻は衝突してしまいます。
2隻とも艦首を、また【秋霜】はスクリュー部分も損傷しました。
日が昇っての「サマール沖海戦」では、戦力上では圧倒的有利な栗田艦隊でしたが、空襲と駆逐艦の妨害に苦しめられ、戦艦や重巡の遠方射撃はできても、駆逐艦のような魚雷を必殺兵器とする種別としてはなかなか苦しい戦いでした。
結果的に敗北もしていますし、【島風】はついに巡ってきた五連装魚雷発射管の出番をこの戦いで得ることはできなかったのです。
この時快速を活かしてグイグイ敵に迫った【島風】でしたが、【島風】は本隊である第一遊撃部隊第一部隊の所属だったため、追撃の先鋒となった【雪風】らとはことなり、交戦距離に入っていませんでした。
さらに先の「シブヤン海海戦」の動きも相まって燃料は多く消費しており、帰路での補給の時に燃料タンクを見てみるとほとんど底をつきかけていました。
もし栗田艦隊がそのまま突撃を続けた場合、【島風】は最後まで任務を果たすことができたでしょうか。
10月29日、【島風】はブルネイに到着します。
最後の一石だった「捷一号作戦」も大失敗に終わり、もはや艦隊による反撃は不可能でした。
しかし戦いは海だけではありません、フィリピンを守り、連合軍の進軍を阻むことは国防上どうしても譲れないものでした。
そこで「ガダルカナル島の戦い」同様、またしても駆逐艦によるレイテ島への高速輸送も実施されることになりました。
これが「多号作戦」です。
もちろん輸送船も参加しますが、これもまた敵の制空権内に突っ込むわけですから、遅い輸送船ばかりをダラダラ送り込むわけにはいきません。
「多号作戦」には高速の【一等輸送艦】も投入されています。
「サマール沖海戦」で第二水雷戦隊の旗艦であった【能代】が沈没してしまったため、【島風】はこの座につくことになります。
日本海軍の駆逐艦の理想そのものであった【島風】の二水戦旗艦。
しかしその任務はすでに理想とは似ても似つかない、指揮系統として空席はまずいからという、ただそれだけのものになり下がっていました。
【島風】が参加するのは「第三次多号作戦」。
しかし出発地であったマニラは11月5日に大規模な空襲に合ってしまいます。
ここで【那智】が沈没して【曙】も大破してしまい、第三次輸送部隊の出撃は延期されます。
この際早川幹夫司令官(少将)は、マニラ空襲を受けた今、敵制空権内を低速の輸送船を伴って航行するなど危険極まりないと猛反対したのですが、勅命という最後通牒を受けて止む無く命令に従うことになりました。
この辺りは「ビスマルク海海戦」と全く同じで、「やれって言ってんだからやれ」と押し切る上層部と徒に被害が増えることを避けたい現場の軋轢がこの窮地にあってもなお解消されていないことの現れです。
前述の通り第三次輸送部隊は出撃を延期。
一方作戦そのものに支障がなかった第四次輸送部隊は予定通り、結果的には先行して11月8日に輸送に向かいました。
この時第三次輸送部隊は第四次輸送部隊が帰投後に出撃する予定でした。
この第四次輸送部隊の輸送は、台風により現地の大発動艇の大半が水没していて揚陸は困難を極め、空襲を警戒するために長居もできず、また陸上もオルモック湾を射程に捉える位置に火砲が配備されたことで、人員の揚陸は100%も物資類は微々たる結果となってしまいました。
帰路では空襲に合って【高津丸、香椎丸、第11号海防艦】が沈没しています。
遅れてしまった第三次輸送部隊は11月9日にマニラを出発。
第四次輸送部隊の帰投を待たずしての出撃となりましたが、これは悪天候が続くという気象班の予測から、航空機の行動がとりにくい今のうちに急いで作戦を終えてしまおうという判断からです。
駆逐艦オンリーなら楽ですが、ここには他に掃海挺、駆潜艇各1隻と輸送船5隻がいます。
とてもスピードが出せる船団ではありませんが、それを承知で行けと言われている以上、今更毒づいても何も変わりません。
ところが翌10日未明に【せれべす丸】が座礁してしまい、救助など行うために【第46号駆潜艇】が共に離脱。
さらに夜が明けると、予測とは裏腹に上空には青空が広がり始めました。
第三次輸送部隊の未来はこの青空の下で海の藻屑と散ることか。
快速で名を馳せた【島風】の散り際が時々刻々と迫っていました。
ゆっくりと進行中の船団の向こう側から、やがてこちらに向かってくる複数の船の姿がありました。
先行した第四次輸送部隊でした。
第四次輸送部隊は輸送船3隻に対して駆逐艦6、海防艦4という布陣で、第三次輸送部隊より護衛は厚い部隊でした。
そして駆逐艦の損害は【秋霜】だけだったため、ここで事前に計画していた一部が第三次輸送部隊に加わる・また入れ替わることになりました。
第三次輸送部隊は【島風】【浜波】【初春】【竹】といった4隻の駆逐艦がいましたが、【初春、竹】は性能としてはどうしても下になります。
そのため第四次輸送部隊から【長波】【朝霜】【若月】が加わり、【初春、竹】は第四次輸送部隊に入ってマニラへ帰投することになりました。
これで第三次輸送部隊は駆逐艦6、さらに【若月】もいますから幾分心強いです。
11日深夜、船団の近くに忍び寄る影がありました。
魚雷艇です。
魚雷艇ぐらいなら敵ではありません、景気づけと言わんばかりに3隻を沈めています。
しかし魚雷艇に発見されたということは、明日の無傷は絶望的と言わざるを得ません。
そして第三次輸送部隊は、【大和】らが出撃したことを察知し、この攻撃に出たものの空振りに終わっていた第38任務部隊の帰還時に発見され、オルモック湾は地獄すら生温い修羅場と化すのです。
時間はバラつきがありはっきりしませんが、9時ごろに【島風】の電探はばっちりその敵機の姿を捉えていました。
船団の空気は一層張り詰めました。
魚雷投棄、ここが我らの死に場所ぞ。
総数347機による艦載機が、第三次輸送部隊の痕跡すら残すまいと怒涛の爆撃と機銃掃射で襲い掛かります。
日本の護衛は「四式戦闘機 疾風」が約30機程度で、物の数に入りません。
駆逐艦は煙幕を展張しますが、その中から姿を見せた輸送船に我先にと敵機が突っ込み、4隻の輸送船は瞬く間に炎上沈没し、また【掃海艇第30号】も空襲で沈没してしまいます。
一方この駆逐艦のメンツはみなそれなりに機銃は増備していましたが、機銃は裸で操作するため、戦闘機からの機銃掃射で吹き飛ぶ肉片は目の当たりにすると卒倒するほどの量になります。
まるで使い捨てのように、倒れればどかして操作し、倒れればまたどかして操作をする。
死ぬまでに何発の弾を撃つことができるか、そんな状態でした。
【長波、浜波、若月】に次々と爆弾が命中します。
1隻、また1隻と総員退去命令が下され、どす黒い煙を吐き出しながら傾いていきます。
船からは重油だけではなく、血と肉の焼ける嫌な臭いが発せられています。
海に飛び込んだ乗員には無慈悲の銃弾が高速で浴びせられ、ここでさらに死傷者が増えていきました。
そんな中、【島風】と【朝霜】は未だ健在でした。
2隻とも機銃掃射や至近弾による被害は膨大で、やはり多くの死傷者が甲板にも艦内にも転がっている状態です。
ところが直撃弾は受けることなく、とにかく動き回って撃って撃って撃ちまくります。
【島風】はその足を活かして爆撃を幾度となく回避しますが、秒刻みで機銃の弾痕の数が膨れ上がっていきました。
無数の攻撃によって浸水も蓄積し、徐々に【島風】の動きは鈍くなります。
いくら機関が無事でも水に足を取られれば速度は落ちます。
【島風】は蜂の巣状態となり、やがて機関室にも銃弾が飛び込んで負傷者が出るほど。
こんな状態ですから機関室も浸水や被弾が増え、トロトロと流れるような速度にまで低下してしまいました。
【島風】からもついに総員退去の命令が下ります。
この時【浜波】からの目撃では【島風】の艦首はなく、また艦橋もぐしゃっと潰されていたようです。
すでに早川司令官も戦死し、上井宏艦長(中佐)も重傷を負っていました。
甲板だけでなく構造物の側面も、まるでペンキ缶をぶちまけたかのような血の海と化し、乗員はぬめぬめとする足元に気を使いながら急いで海に飛び込みました。
一方艦載艇を降ろして乗り込もうとするも、これも四方八方が穴だらけで浮かびやしません。
何とか1艘浮かびましたが、それも穴を木栓で塞いで水を掻き出してとギリギリの状態でした。
【朝霜】は隙を見て未だ沈んではいない【島風】の救助のために駆け寄ってきました。
しかしそれを妨害する戦闘機がひっきりなしに飛んできます。
敵機接近の度に【朝霜】は離脱するわけですが、3回目の接近で接舷を妨害された際、【島風】に残っていた松原滝三郎先任参謀(大佐)に「帰れ」と告げられます。
救助無用、ということです。
余りに危険なため、【島風】の救助はここで敵わなくなってしまいました。
しかし【朝霜】はその後、やはりまだ沈んではいなかった【浜波】の乗員を救助しようと今度は【浜波】に接近しました。
ちょうどその時、雀の涙ほどの支援ですが日本の戦闘機が20~30機ほど現れたため攻撃の波が途絶えます。
この隙に約200名の【浜波】乗員が救助されました。
【島風】唯一のカッターには士官と軽症者計21名(途中1人増えます)が乗っていましたが、3時間かけてメリダ岬に到着。
とにかく急いで上陸し、オルモック湾に残された【大発】を搔き集めて洋上の漂流者を救おうと考えたのです。
しかしその願いはメリダ岬到達間近に突然絶たれます。
停止していた【島風】の後部付近が突如大爆発を起こし、【島風】は爆沈してしまったのです。
あそこには、救助を待つ仲間たちが大勢残されていました。
鎮痛の想いでカッターはメリダ岬目前に迫ります。
そして上陸しようとしたところ、怪しまれた住民に狙撃され、ここで機関参謀の鈴木安照少佐が戦死してしまいました。
慌ててカッターは離脱し、翌日深夜3時ごろにようやくオルモック湾に上陸することができました。
辛くも生き残りオルモック湾にたどり着いた【長波】艦長をはじめとする他艦の生存者ですが、しかしここからも治療は満足に受けれないし衛生環境も食糧事情も最悪、長きに渡り生き地獄を味わいます。
【島風】に乗っていた生存者はわずか17名。
二水戦司令部も合わせて430名もの戦死者を出しました。
帝国海軍史上最速を誇り、そしてその力を随所に示した【島風】。
しかし鎮座するその大きな五連装魚雷発射管からは、ついに1つの戦果も生まれることはありませんでした。
そしてその活躍もまた、たった1年半のものでした。