スリガオを超えよ 三隈同様破壊の限りを尽くされ沈没
しかし復帰後の6月8日、突如の轟音と振動が【最上】を襲います。
まるで大和砲が直撃したような衝撃を受けて辺りを見渡すと、何とあの【陸奥】の艦後部がボッキリと折れて大量の煙と炎を吐き出していました。
【陸奥】謎の爆沈です。
周囲は騒然としながらもすぐに潜水艦の潜伏を疑い、【最上】は爆雷を2個投下していますが、これは慌ててやみくもに放ってしまったようです。
その後、【最上】はトラック島で待機することになります。
この頃は多くの重巡がトラック島を拠点としていましたが、やがて11月になると「ブーゲンビル島の戦い」が勃発。
これまで大きな任務もなかった【最上】らは、上陸支援のためにやってくる輸送艦やそれの護衛を撃破するためにトラック島からラバウルへと移動します。
ところが11月5日に到着するや否や、ラバウルは【レキシントン級航空母艦 サラトガ、インディペンデンス級航空母艦 プリンストン】による大空襲に見舞われることになります。
実はラバウルは2日にも空襲を受けていて、すでにラバウルは敵制空権に落ちつつある中で警戒心の薄い出撃ではありました。
そしてやってきた重巡は、ゾロゾロとやってきた瞬間にこの大空襲でボッコボコにされてしまい、情けない姿をさらしながら再びトラック島へ帰っていくことになりました。
【最上】は1番、2番砲塔の間右寄りに直撃弾を受けたほかに複数の至近弾の被害があり、最大12ノットという速度で引き下がっていきました。
トラック島でまたもや【明石】の世話になった【最上】。
その後呉に戻って本格的な修理をし、3月には呉を出発してリンガ泊地へと到着しました。
そして6月19日の「マリアナ沖海戦」に参戦。
【最上】は【飛鷹】【隼鷹】【龍鳳】を中心とした第二航空戦隊に所属しますが、もともとこの海戦では水上部隊の出る幕はなく、【最上】も攻撃面では戦闘に貢献できていません。
この戦いで日本は空母の中核である【翔鶴】と貴重な新造空母【大鳳】を失い、さらに【飛鷹】も空襲によって沈没。
貴重な空母とそれを支えた機体、搭乗員の大半が海に飲み込まれ、もはや機動部隊は張りぼて状態。
そして乾坤一擲起死回生、戦力ではなくなったが存在感は未だ戦艦よりも大きな空母を囮にして、現存戦力を総動員してレイテ島へ突入する作戦を練り上げます。
【最上】は西村艦隊に所属し、【扶桑、山城】を基幹としてスリガオ海峡を突破、レイテ島付近で栗田艦隊と合流することになりました。
【扶桑】【山城】はこの長い太平洋戦争で初めての戦場でした。
そしてこのルートは細い海峡を突破するため、待ち伏せがあっても逃げられない、まさに捨て身の特攻でした。
「足の遅い【山城】や【扶桑】を出すようでは日本海軍も先が見えている」
西村艦隊の未来は暗いどころか漆黒でした。
昭和19年/1944年6月30日時点の主砲・対空兵装 |
主 砲 | 50口径20.3cm連装砲 3基6門 |
副砲・備砲 | 40口径12.7cm連装高角砲 4基8門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 14基42挺 |
25mm単装機銃 18基18挺 | |
電 探 | 21号対空電探 1基 |
22号対水上電探 2基 | |
13号対空電探 1基 |
出典:[海軍艦艇史]2 巡洋艦 コルベット スループ 著:福井静夫 KKベストセラーズ 1980年
10月22日15時30分、ブルネイから西村艦隊が出撃。
24日午前2時、【最上】は索敵機を発射して敵情の視察を命じます。
その結果はおよそ5時間後の6時50分にもたらされましたが、その内容というのは「戦艦4隻、巡洋艦2隻、駆逐艦16隻、輸送艦80隻余り」というものでした。
これが獲物だったら選り取り見取り、しかし相対する敵としては非常に困難な勢力です。
ですがこの数字も把握できた内容だけのものであって、実際はさらに多くの艦、更に護衛空母も陣取っていました。
この索敵機は敵情を報告した後、命令通り【最上】に戻らずにミンドロ島へと向かっています。
やがて西村艦隊も敵の知るところとなりますが、意外にも空襲は1回だけ、至近弾を受けたものの大事無く、西村艦隊はスールー海を抜けてミンダナオ海、つまりスリガオ海峡の手前へと到着しました。
このころアメリカの機動部隊は本体である栗田艦隊と「シブヤン海海戦」の真っ只中でした。
つまり【武蔵】の強靭すぎる体力が、西村艦隊を無事にスリガオ海峡まで送り届けたのです。
この間に【最上】はさらに2基の偵察機を飛ばしており、敵情はより正確に西村艦隊、栗田艦隊にもたらされました。
19時になると、西村艦隊はスリガオ海峡を進むうえで必ず現れる魚雷艇を先に潰しておこうと考えます。
【最上】が駆逐艦と共に先行し、【扶桑】【山城】【時雨】がゆっくり別針路でそのあとを追いました。
20時を回り、西村艦隊はまだ【最上】らからの通信を受け取っていません。
この段階では後発の志摩艦隊もまだ合流できていませんし、「シブヤン海海戦」を戦った栗田艦隊は予定よりむしろ突入が遅れるのが確実でした。
しかし予定の変更に関する通信は一切ないどころか、栗田艦隊が今どのような状況なのかすら西村艦隊は知りませんでした。
結局西村艦隊は他艦隊との連携を待たずして、単独でスリガオ海峡に突撃することとしたのです。
23時ごろ、掃討隊ではなく本体に向けて先に魚雷艇が迫ってきました。
しかし2戦艦の副砲と【時雨】によって簡単に追い払われます。
掃討隊側も0時過ぎに魚雷艇と遭遇しますが、これも魚雷を回避して事なきを得ます。
ですが猛烈なスコールに巻き込まれることもあって、魚雷艇を悉くなぎ倒した、というわけにはいきませんでした。
夜間のスコールは効果的な攻撃を妨げることもあり、西村艦隊は25日1時30分にスリガオ海峡の入り口で合流。
艦隊は単縦陣を組み、海峡の出口を目指していました。
しかし2時53分、複数の駆逐艦がこちらへ迫ってくるのを【時雨】が発見します。
3時9分に西村艦隊は探照灯によって暴かれた駆逐艦に対して砲撃を開始。
ですが命中はなく、また駆逐艦もすぐに引き返していきました。
そのわずか1分後、まず【扶桑】が右舷中央に魚雷を受けて減速し始めます。
すでにあの時駆逐艦は魚雷の発射を終えていて、反転するところだったのです。
電源系統が故障したためか、この後【扶桑】は体勢を立て直すことができず、憤懣やるかたない、1時間ほど復旧に努力が続けられましたが、やがて大爆発を起こして沈没してしまいました。
【扶桑】が被雷してから10分後、【山雲】が右舷からの魚雷を受け、水柱を上げるや否や瞬く間に轟沈。
呆気にとられる中、【満潮】も被雷大破してのち沈没、【朝雲】も魚雷が艦首を抉り取り大破。
たった10分で2隻が沈没3隻が大破。
戦力は半減し、残るは【山城、最上、時雨】の3隻のみとなってしまいました。
その【山城】も魚雷を受けてしまい、5番、6番砲の弾薬庫に注水されたため8門の火砲を失います。
そして日本艦艇の断末魔を号令として、単縦陣に対して単横陣、つまり丁字戦法で待ち構えていた、ジェシー・B・オルデンドルフ少将率いる第77任務部隊の総砲撃が始まりました。
実は第77任務部隊はこの海戦の前までに結構な弾薬を消費していて、いくら数的有利があると言っても無駄打ちできる余裕はありませんでした。
第77任務部隊の戦艦群は、6隻中5隻がかつて「真珠湾攻撃」で徹底的に痛めつけられながらも復帰してきた、いわゆる旧戦艦群でした。
この戦いは絶好の復讐のチャンスではありましたが、彼らはこの戦いのためだけにいるのではありません、命令に従い、戦艦の砲撃は【コロラド級戦艦 ウェストバージニア】の16斉射が最大でした。
その代わりに魚雷艇と駆逐艦による大量の雷撃と巡洋艦による徹底的な砲弾の嵐により、西村艦隊は救いのない結末を迎えます。
「ワレ魚雷攻撃ヲ受ク、各艦ハワレヲ顧ミズ前進シ、敵ヲ攻撃スベシ」
この命令を最後に、【山城】は日本の命の灯火のように燃え上がり、それを標的としてさらに砲弾が降りかかります。
対して西村艦隊はその発砲による閃光を頼りに砲撃するしかなく、信用に足るレーダーを備えている第77任務部隊とは正に格が違いました。
【山城】はその灼熱地獄の中から怨嗟の砲弾を放ちながら沈没。
【最上】は振り返りざまに魚雷を4本放ちましたが、3番砲塔への直撃弾を皮切りに、巡洋艦からの砲弾が次々と命中して炎上し、左舷機関部の被弾で急激に速度が落ちてしまいました。
この時艦内では、艦長であった藤間良大佐が【最上】をレイテ島に座礁させて陸戦隊として戦う意思を示しています。
これに対して中野信行航海長は、「本艦は戦闘艦艇です。われわれは船乗りです。誰も生きて帰ろうとは思っていません。最後まで戦い、艦と運命をともにしましょう。1門でも撃てる限り、弾丸のある限り、湾内に突っ込むべきです」と強い口調で進言。
ですが藤間艦長は「そんなこと言っても君、たいまつを背負って突入は無理だ」と意見を聞きません。
中野航海長は艦長に対して「何はともあれ、現状のままで進撃していただきます!」と上官に対してかなり威圧的に反抗を示しました。
中野航海長は普段は部下を叱ることもめったになく、言葉遣いも丁寧な人物で、このやり取りを後世に伝えることになった艦長伝令の長谷川桂はたいそう驚いたと言います。
いずれも【最上】の最期を迎えるための真剣な問答でした。
しかしこの問答はすぐに終わりを告げます。
この直後、4時2分に艦橋に砲弾が2発直撃。
【最上】の行く末の決定権を首脳陣から無理矢理引きはがし、多くの士官が戦死しました。
長谷川は辛うじてこの直撃弾によっても命を落とさずに済みましたが、それでも重傷を負っています。
この時、幸いにして第77任務部隊はレーダー射撃による誤射で【フレッチャー級駆逐艦 アルバート・W・グラント】が被弾したことから一時砲撃を中断していました。
ちょうど西村艦隊と第77任務部隊の間に位置することになってしまった【アルバート・W・グラント】は、双方から合計22発という命中弾を受けてしまったのです。
いやぁいくらなんでも数が多すぎる気がしますけど。
この隙に【最上、時雨】は辛くも戦場を脱し、スールー海を目指しました。
一方、遅れていた志摩艦隊はすでに戦場を目視できる距離まで迫っていました。
当初は闇夜に浮かぶ真っ赤な火柱を西村艦隊の大戦果だと思っていましたが、その正体は2つに割れた【扶桑】であり、そしてその【扶桑】の姿こそが、西村艦隊の末路であったことを知ると一気に沈黙が支配することになります。
そこへ【時雨】が志摩艦隊と交差。
【時雨】は操舵故障中とだけ残して戦場を離脱していきましたが、やがて志摩艦隊旗艦の【那智】からはこちらに艦首を向けた炎上停止中の巡洋艦が見えました。
ボロボロの状態から逃げ出してきた【最上】でした。
【那智】は【最上】とその後方にレーダーで2隻の敵影を発見し(実際はヒブリン島)、【足柄】とともに雷撃を行いました。
ところが【那智】は【最上】は停止していると勝手に思い込んでいました。
【最上】は舵は故障していたもののスクリューの回転調整で進路を選びながら、ちゃんと出し得る最大の10ノットで航行していたのです。
【最上】からは信号灯で「ワレ最上」を連送していたのですが、ついに【那智】は全く気付くことなく、【最上】の右舷前部に艦首をぶつけてしまいました。
後ろの【足柄】はちゃんと気付いていたのに・・・。
【最上】と【那智】の衝突で旗艦負傷、さらに【阿武隈】がすでに道中で被雷大破していたこと、スリガオ海峡の火柱と閃光は日の丸を焼き尽くす煉獄であることを悟った志摩艦隊は、西村艦隊の仇討ちを断念。
志摩艦隊は撤退を開始し、【最上】も這う這うの体でそのあとに続きます。
こんな状態にもかかわらず、【最上】は襲い掛かってきた3隻の魚雷艇を機銃などで追い払っています。
7時ごろ、志摩艦隊の【曙】が【最上】の護衛にやってきます。
その頃はすでに周辺も明るくなっており、闇夜で蹂躙された【最上】の惨状が明らかになりました。
左へ傾斜しながらも懸命に動く【最上】からは艦橋がほとんどなくなっていて、砲塔は直撃弾によってぐちゃぐちゃ、砲身もひん曲がった状態で、そして焼け爛れ、認めたくないが、よくわからない黒くて赤い物体、大きい物、小さい物、丸い物、長い物は、ほんの数時間前まで日本を守るために戦い続けた仲間達の成れの果てでした。
その姿は、まるでかつて同じように衝突し、そしてその後の空襲によって散った僚艦【三隈】のようでした。
【三隈】の運命を知っている彼らにとって、今の状況は当時とそっくりであることは否が応でも頭によぎったことでしょう。
それを知ってかしらでか、やはり再現映像のように【最上】の上空には敵機が現れました。
「ミッドウェー海戦」での【最上】は「もう沈むだろう」という甘さに救われました。
しかし今度はそんな甘さは微塵もありません。
【最上】と【曙】は対空射撃や高角砲で抵抗しますが、【最上】にはさらに機銃掃射と空襲が行われました。
彼らの信じる神はこれほどまでに残酷なのか、【最上】はさらに衝撃を受けて火災が大きくなり、消火はできず、そして引きずりながらも動いていたその速度もついにゼロとなりました。
【曙】が【最上】の後部に横付けします。
総員退去が決まり、生存者を移乗するためです。
先任将校であり、スリガオ海峡からここまで【最上】を連れてきてくれた砲術長荒井義一郎少佐をはじめ、生存者が【曙】へと移っていきました。
この時に救助された人数はいろんな記述があってはっきりしませんが、【最上】は約600人の生存者がいます。
救助を終えた【曙】は【最上】から離れます。
雷撃による介錯をするためです。
【最上】には暗号文が残されたままでしたが、通信科が全滅していたため人の手による処分はできませんでした。
訓練通り、【曙】は目標に向けて魚雷を1発発射。
見事に右舷中央部に命中し、【最上】は横転しながら艦首より沈んでいきました。
その時持ち上がった艦尾には、【最上】を動かすには至らずとも、1軸だけ無事だったスクリューがまだ日本を目指して回り続けていました。
【最上】沈没。
スリガオ海峡海戦の最後の犠牲者でした(唯一戦場に取り残された大破艦【朝雲】も撃沈させられています)。
最強の軽巡として生まれ、アメリカを驚かせた重巡化改装、そして「利根型」に見た巡洋艦の未来を反映させた航空巡洋艦。
波乱万丈な艦生を送った【最上】は、2019年9月9日、同年5月8日にポール・アレン創設の探査チームが発見したことが公表されました。
横転沈没した【最上】は、若干右舷に傾きながらも垂直に近い状態で着底していました。
艦橋などは喪失していますが、1番砲塔や方位盤などの装備でははっきりとその姿が残っているものもあります。
2017年に【扶桑、山城】らが発見された際、1隻だけ沈没地点が異なっていた【最上】の捜索が期待されていましたが、これではれて「スリガオ海峡海戦」で奮戦沈没した艦の姿をすべて確認することができました。