陽炎【陽炎型駆逐艦 一番艦】

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起工日昭和12年/1937年9月3日
進水日昭和13年/1938年9月27日
竣工日昭和14年/1939年11月6日
退役日
(沈没)
昭和18年/1943年5月8日
ブラケット水道
建 造舞鶴海軍工廠
基準排水量2,033t
垂線間長111.00m
全 幅10.80m
最大速度35.0ノット
航続距離18ノット:5,000海里
馬 力52,000馬力
主 砲50口径12.7cm連装砲 3基6門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 2基8門
次発装填装置
機 銃25mm連装機銃 2基4挺
缶・主機ロ号艦本式缶 3基
艦本式ギアードタービン 2基2軸


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帝国海軍の主力駆逐艦 水雷戦隊の中核を目指した陽炎型

「特型」の建造で一躍世界の注目をかっさらった日本の駆逐艦ですが、「ワシントン海軍軍縮条約」と予算編成によってその勢いは急速に衰え、日本は苦悩の10年間を迎えます。
条約制限下で設計され、「準特型」ともいえる「初春型」で露呈した数多くの欠陥、そしてそれを解決するために建造された「白露型」、さらに条約脱退を視野に、制限を無視して「特型」復活を目指した「朝潮型」

しかしその全てが、全体的に無茶なものとはいえ、海軍の要求に応えることができませんでした。
「朝潮型」は公試ではほぼ要求を叶えており、大きな問題はなかった駆逐艦ですが、しかし設計段階では要求以下のスペックだったため、最終的には次の駆逐艦型を建造せざるを得ませんでした。

そこで登場するのが、太平洋戦争で駆逐艦の主力となった「甲型駆逐艦」の筆頭である「陽炎型」です。
「陽炎型」は昭和12年/1937年の「マル3計画」によって18隻、昭和14年/1939年の「マル4計画」で4隻の建造が計画されました。
なお「マル4計画」では同時に「夕雲型」13隻と、計画変更で「甲型」から「丙型」となった【島風】が計画されています。

ただし、「マル3計画」の18隻のうち3隻は実際には存在しません。
これは「大和型」建造のための予算を全部「大和型」で計上すると、予算規模から戦艦の性能の青写真が描かれることを危惧したための隠蔽措置です。
つまり、「大和型」建造の予算とは別に「陽炎型」3隻分の予算も裏で「大和型」に融通するという方法です。
これに加えて「伊十五型潜水艦」1隻分も「大和型」に回される予定でした。
「マル4計画」では【信濃】と4番艦【第111号艦】の予算が同じく「夕雲型」2隻と「伊十五型潜水艦」1隻分から回されています。

設計側としては条約脱退により制約が正式になくなり、ちょっと気楽に構えることができたかもしれません。
しかし制約というのはなにも条約だけではありません。
建造を指示する海軍というのは、相変わらず制約だらけで強力な駆逐艦を要求します。

「陽炎型」で海軍が要求したことは、

「1」速度36ノット以上
「2」航続距離18ノット:5,000海里以上
「3」「特型」を超えない大きさ

と大きく3つです。
当然ですが武装は「朝潮型」準拠ですから弱体化はあり得ません。
そして航続距離は、海軍が何年も口うるさく要求している至上命題でした。

ですがこの要求を全て叶えるのははっきり言って無理でした。
航続距離や速度というのは全長に大きく関係してきます。
流麗な線形による水の抵抗の軽減と、搭載機関の数・サイズを収めるためのスペース、燃料搭載のスペースなど、いろんな要素が関わってきます。
強いて言えば武装を減らして上部構造を少なくすれば軽くなるから速度は速くなるし航続距離が延びるというぐらいです。
じゃあその駆逐艦は強いのかと言われるとそんなわけはなく、結局この3条件は夢物語でしかありませんでした。

「3」を無視したとしたら、公試排水量は2,750t、全長は120mを超え、更には60,000馬力を発揮する機関を新たに開発する必要があるなど、何かと問題だらけでした。
ちなみに「特型」「第四艦隊事件」以降の改修後は公試排水量約2,500t、全長は118.5m、50,000馬力でした。
こう見ると超優秀な機関ができれば何とかなりそうな気もしますけど、それを短期間で造り上げろと言われると全く現実的ではありません。

とにかくどれか諦めろということで、結局海軍は航続距離が4,500海里に落ちることよりも速度を35ノットに落とすことで合意。
隠蔽性と航続距離を優先し、速度に関しては継続研究案件として引き続き改善が求められました。
ただし馬力に関しては52,000馬力と引き上げられています。

これらを踏まえ、「陽炎型」の要目は次のように決定します。

公試排水量2,500t
水線長116.20m
全 幅10.80m
最大速度35ノット
航続距離18ノット:5,000海里
搭載燃料615t
主 砲12.7cm連装砲C型 3基6門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 2基8門
次発装填装置 2基
機 銃25mm連装機銃 2基4挺

まず、航続距離を伸ばすために船体のバランスを整えます。
「初春型、白露型」の経験から、「朝潮型」では慎重に、ともすれば過剰に固められた復原性と船体強度を適正なものに改めて軽減を図りました。
排水量が多いとそれだけ速度にも燃費にも影響が出ます。
頑丈であればいいのですが、重いと頑丈はイコールではありません。
帝国海軍が目指した水雷戦での活躍のためには足回りに影響が出る要素はできる限り排除する傾向にありました。

速度を妥協してもらったからには燃費は必ず達成させなければなりません。
手っ取り早いのは搭載できる燃料の量を増やすことで、搭載する燃料は615tはとなりました。
これは「特型」の475tに対して約1.3倍の量です。
ちなみにこの計算は過剰であり、【磯風】の公試の結果617tあれば6,053海里の航続が可能だったようです。
後述します機関の構造を改めて燃費を向上させた影響もありましたが、にしても1,000海里の開きは「朝潮型」の時のように計算にも問題があったのでしょう。
こうなると計画の5,000海里を達成するために必要な燃料は510tなので、100tも排水量を減らすことができたわけですから、随分無駄な重量を稼いでしまいました。
ちなみになぜか「陽炎型」は発電機が直流のままでした。

ただ燃料というのは保管する場所が必要であることと、消費していくということが問題です。
場所の問題はさることながら、燃料がなくなると重心が上がるため、復原性がだんだん損なわれていきます。
航続距離を伸ばすということはこのような問題もあり、いかに燃料を消費しても復原性を保つかが問われました。

この対策としてはやはり上部構造物の軽量化が第一。
まず艦橋とかはともかくとして武装は軒並み重量が増えています。
強度に関しては「特型」から「朝潮型」でのゴタゴタの経験があるため、過度な軽量化、過度な重厚化を避ける下地はありました。
電気溶接も必要以上に忌避するのではなく、ちゃんと使うべきところでは使っています。

実験の結果、近辺の被害による爆風や水圧によって変更を起こした箇所は、鋲打ちの箇所は鋲と鋲の間に亀裂が入ったり、鋲そのものが衝撃で外れてしまうケースが多くありました。
しかし電気溶接では漏水もしないほど丈夫だったため、フレームや防水壁など、場所を絞って溶接が採用されました。

また速度35ノットが目標となったことで設計の配分で幅と長さに割ける範囲が増えました。
このため水線長は「特型」と比較して1m減ですが幅は0.45m広くなり、また喫水も「朝潮型」同様深くされ、少しどっしりした形となりました。
艦尾の形状は、「朝潮型」で急遽採用し、効果的であると証明された水線付近のナックルの取り付けを採用しています。
艦尾含めて全体の設計ではとにかく抵抗を抑えることを第一とされ、この結果推進抵抗は最大戦速時で7%、巡航速度で3%ほど抑えることができました。

出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ

機関は「朝潮型」の機関を改良、圧力と温度を上昇させて52,000馬力を達成します。
さらに巡航タービンのギアを1段減速から2段減速へと変更し、巡航速度での航行時の燃費の改善を図りました。
公試の結果が計画から1,000海里も上回ったのは、これらの地道な改善の積み重ねの結果なのです。
ですが機関室の配置に関して設計者の牧野茂海軍技術少佐は、機械室に左右非対称で機関を配置して、いずれかの舷側から攻撃を受けたとしても逆側の機関を守るという方式を提案したが、非対称を好まなかった上司を説得できなかったことを恥ずかしく思うと振り返っています。
一撃で航行不能となる艦隊型と、特に機械室・缶室を前後1組ずつで配置した「丁型」のどちらが頑強であったかは言うまでもありません。

「陽炎型」で見えづらくも大きく変化したのはこの船型と機関の部分で、上部構造物に関しては魚雷兵装以外は「朝潮型」とほとんど変わりません。
主砲は12.7cm連装砲C型で、2番、3番砲塔が背負い式で艦尾に配置。
機銃は口径が25mmと大きくはなりましたが、2番煙突前に設けた機銃台に2基4挺の設置のみ。
艦橋は少しだけデザインが変わってはいるものの大きさは「朝潮型」と同じでした。
艦尾は前述のように形状が直線・ナックル付きのものになっていますが、これも「朝潮型」で採用されたため類似しています。

出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ

ですが魚雷に関しては「陽炎型」「朝潮型」で決定的に違う場所があります。
「朝潮型」では1番魚雷発射管用の次発装填装置は後方に2基に分かれて、2番煙突を挟む形で設置されていました。
しかし「陽炎型」ではこの位置が逆になり、1番煙突を挟む形で1番魚雷発射管の前に設置されています。

これは従来の配置であると1番魚雷発射管→予備魚雷→2番魚雷発射管→予備魚雷と魚雷が連続してしまい、誘爆の際に最悪全ての魚雷に爆発が波及して爆沈する恐れがありました。
ですが1番魚雷発射管の次発装填装置が前方に来ることによって、2つの魚雷発射管の間には2番煙突だけという空間が生まれます。
たとえ一方が被弾しても、被害を拡大させないための措置でした。
これは1番煙突の基部をできるだけぺしゃんこにして高さを抑え、また通風路の配置を変更して基部付近の障害物をなくし、次発装填装置を配置するだけのスペースを確保することができたために達成できました。
このおかげで少しですが1番魚雷発射管の高さも低くなっています。
他にも1番魚雷発射管用の次発装填装置は2本ずつで煙突を挟み込む形となっており、一撃で4本すべてが誘爆することを防ぐ措置も取られました。

また魚雷そのものも遂に真打と言ってもいい酸素魚雷が建造当初から採用されます。
九三式魚雷、通称酸素魚雷は日本海軍のみが実現させた、純酸素を燃料とする世界最強の魚雷であり、速度は速い、射程は長い、排出されるのは水に溶けやすい蒸気と炭酸ガスで気泡=雷跡がでにくいと非常に強力な魚雷でした。
世界でも研究は進められていましたが、とにかく燃えやすい酸素を燃料とすることから、僅かなミスが爆発につながる危険な兵器でもありました。
その結果イギリスではなんとか酸素を燃料とした魚雷の開発には成功するものの、酸素100%の純酸素を用いるまでには至らず、その他の国でもいずれも開発は断念されています。

大戦中の特に初期~中期にかけての水雷戦、また末期では【竹】【米アレン・M・サムナー級駆逐艦 クーパー】を1発で真っ二つにへし折ったことからもわかるように、帝国海軍が絞り出せる限りの心血を注いだ唯一無二の結晶である酸素魚雷は連合軍を大いに苦しめる兵器の1つであったことは間違いありません。
予備魚雷含めて16本を搭載しています。
ただし扱いが極めて困難であり、第二空気圧縮機五型という装置で純酸素を抽出する際は、周辺の立ち入りは禁止され、また艦そのものもほぼ無動状態でなければ純度が落ちてしまうためにみんなハラハラしていたと言います。

対空兵装はようやくそれなりに効果の高い機銃が搭載されました。
日本の機銃の代表格である25mm機銃です。
数は相変わらず2基ではありますが、「陽炎型」25mm連装機銃を2基4挺装備。
後ほどどんどん増備されていき、また「陽炎型」は昭和18年/1943年以降から生存艦の2番砲塔を撤去して25mm三連装機銃を2基搭載する工事を受けています。

見えない部分では「朝潮型」にはなかった新たな対潜兵装として九三式探信儀九三式水中聴音機を搭載しています。
ただいずれもかなりの低速でなければ探知ができないし、探知範囲も最大3km程度と雷撃を警戒するには非常に物足りない装備でした。
爆雷は36個、また九五式爆雷投射機を1基搭載しています。
ちなみに「陽炎型」ではまだ電探は採用されておらず、適宜増設されていきます。

出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ

「特型」のような劇的な進化でもなく、「初春型」のような極めて意欲的、挑戦的な艦でもなく、保守的で過去の産物を磨き上げる形で世に現れた「陽炎型」
35ノットという速度のみが要求未達ではあったものの、当時の帝国海軍が持てる力を全て注ぎ込んだ駆逐艦の公試がいよいよはじまります。
が、ここで思わぬアクシデントに見舞われました。
なんと速度が35ノットに到達しない艦が次々と現れたのです。
10隻の平均最大速度は34.6ノットで、これは到底許しがたいことでした。

急いで改善策が検討され、「朝潮型」から改良されていたスクリューの形状を見直すことで速度アップを図る方向で話が進みます。
いくつかの案で実験をしてみた結果、円弧型に変更してみると空洞現象が発生しないことがわかり、これによって「陽炎型」の速度は35ノットどころか逆に平均35.5ノットにまでなりました。
空洞現象の説明を簡単にするのは私の知識では無理なのですが、要は特定の条件で水ではなく空気内でスクリューが回転してしまい、推進力が無駄になるということです。

公試による不具合を解消した「陽炎型」
「陽炎型」は太平洋戦争開戦前に全ての艦が就役しており、ここから「夕雲型」とともに数多の駆逐艦の先頭に立って大いに活躍し、そして大いに翻弄されていくことになります。

出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集』

第二水雷戦隊最長所属駆逐艦 ルンガで躍動するも罠に飛び込み沈没

栄えある一番艦【陽炎】は、【霞】【霰】【不知火】と第一八駆逐隊を編成。
突撃部隊である第二水雷戦隊に所属し、「真珠湾攻撃」に同行してします。
しかし「真珠湾攻撃」から戻って3日後に急に艦長の横井稔中佐が脳溢血で倒れてしまいます。
その後しばらくはご存命でしたが横井中佐は昭和18年/1943年4月7日に亡くなっています。

横井中佐の急病により、22日からは【秋雲】艦長だった有本輝美智中佐が就任。
その後は機動部隊の護衛をしながら「ラバウル攻撃、ポートダーウィン攻撃、セイロン沖海戦」と場数を踏んでいきます。
「陽炎型」は駆逐艦の最高峰、これまでの多くの駆逐艦が船団護衛や輸送に汗をかいている中で、【陽炎】らは艦隊護衛がメインだったので大きなことはしていません。
しかし多くの機動部隊護衛に就いていたことから、重要な役回りを担っていたことは間違いありません。

その機動部隊護衛ですが、「ミッドウェー海戦」では第二艦隊の一員として出撃したため、戦況についてはかいつまんでしか把握できません。
しかしやがて【赤城】始め3隻の空母が炎上しているという情報が飛び込んできて、【陽炎】は面喰います。
なにせ天下無双の帝国機動部隊です、一大決戦なだけに無傷とは思っていなかったでしょうが、3隻大破はとても信じられる情報ではありませんでした。

ともかくミッドウェー島砲撃に向かう第七戦隊の援護の命令を受けたので、【陽炎】ら第二水雷戦隊は速度を上げて東進します。
この時燃え盛る【赤城】の姿が見えたと言います。
しかしこの冷静さを欠いたと言える破れかぶれの砲撃作戦は中止となり、第七戦隊は(戦隊司令の問題もありますが)中途半端な位置から引き返すことになります。
そこに潜水艦発見の報告からのゴタゴタで【最上】【三隈】が衝突、更に空襲により【三隈】は沈没し【最上】は大破してしまいました。
【陽炎】は足を引きずりながら逃げてきた【最上】の護衛に後から加わり、トラックまで向かいました。
その後は【鈴谷】【熊野】とともに呉へと戻っていきました。

6月25日、【山風】【米ナワール級潜水艦 ノーチラス】の雷撃によって沈没します。
【山風】は東京湾沖で沈没したため、横須賀にいた各艦は警戒を強めており、直後の28日にキスカ島への輸送のために出撃した【千代田】【輸送船 あるぜんちな丸(のちの海鷹)】、そして【陽炎】を除いた3隻の第一八駆逐隊がその【ノーチラス】の襲撃を受けました。
幸い被害はなかったものの、その報告を受けた【陽炎】【敷設艇 浮島】などが現場に急行し、爆雷を投下して【ノーチラス】を追い払っています。
【ノーチラス】はこの被害によって任務継続が困難となり、ハワイまで逃げ帰りました。

さて、本来であれば【陽炎】【特設運送船 鹿野丸】と共に先ほどの輸送部隊と同行する予定でした。
しかし【鹿野丸】の荷下ろしが遅れた結果、7月3日出発の予定だったのが9日まで伸びてしまい、また輸送船も【特設水上機母艦 菊川丸】に変更となってしまいました。

ただしこのあたりはちょっと私の知る範囲では曖昧な部分があります。
もともと輸送は第一八駆逐隊と【千代田、あるぜんちな丸、鹿野丸、菊川丸】で編成されており、恐らく【陽炎】もこの2隻とともに出撃する予定だったと思われます。
しかし【鹿野丸】はトラックからの輸送物資の揚陸が遅れており、出発予定の3日は横浜で揚陸作業を開始したところでした。
輸送に使うはずの【鹿野丸】がまだ荷物でいっぱいだったため、【菊川丸】【鹿野丸】に載せる分もまとめて載せたというのは流石に無茶だと思います。
となると、もともとの輸送量は2隻でおよそ1隻分を搭載する計画だったものの、【鹿野丸】が使えないので【菊川丸】に可能な範囲で搭載して出撃をした、ということになるのかもしれません。

ちなみにこの【鹿野丸】、31日にキスカ湾付近で【米ガトー級潜水艦 グラニオン】の雷撃を受けてしまいます。
しかし砲撃で止めを刺そうと浮上してきたところに8cm単装砲を撃ちまくり、見事これを撃沈。
最終的に【鹿野丸】は今回荷物を移した【菊川丸】にキスカ湾に曳航されたものの9月の空襲で沈没していますが、輸送船にもちゃんと火砲は必要だということがよくわかる事例でした。

話が逸れましたが、7月9日に【陽炎】【菊川丸】は横須賀を出発。
当時すでにキスカ湾に到着していた先行組ですが、輸送の2隻を入港させた後、濃霧の為に5日未明には3隻の駆逐艦は湾外で仮泊していました。
ところがそこに忍び寄ってきた【米ガトー級潜水艦 グロウラー】の雷撃を受け、動かない標的に立て続けに命中。
【霰】沈没、【霞、不知火】が沈没寸前の大破という大惨事となりました。
2隻は海上で応急修理をしないと曳航すらできない状態で、霧も多くまた工作艦もいないこのエリアでは大変困難な作業だったと思われます。
そのため海軍は急いで【阿武隈】を派遣し、応急修理のための人材などを送り届けています。

【陽炎】【菊川丸】を送り届けた後、28日に【霞】を曳航する【雷】を護衛しながらキスカ港を出発。
慎重な曳航で幌筵島に到着したのは8月3日。
ここから【霞】【電】に曳航されていきましたが、【陽炎】は任務に復帰します。
ですが第一八駆逐隊は事実上崩壊しているため、すでに7月20日の段階で第一五駆逐隊に編入が決まっていました。
8月15日に【神通】と共にトラック島に入港し、新たな戦場となったガダルカナル島に突入します。

24日にはさっそくヘンダーソン飛行場への砲撃を行いますが、この砲撃は駆逐艦だけのもので大した効果はなく、逆に輸送から引き上げるところを敵機に襲われて【神通】大破、【睦月】【金龍丸】が沈没してしまいました。
その後も鼠輸送と小規模のヘンダーソン飛行場への砲撃を続けた【陽炎】ですが、敵も鼠輸送を黙って見過ごしていたわけではなく、ついに夜間でも積極的に空襲を行ってくるようになりました。
【陽炎】は9月21日に機銃掃射によって損傷し、月明かりのある中での輸送は断念せざるを得なくなります。

修理の為にトラック島まで一時撤退するものの、駆逐艦の価値は日に日に高まる一方で、修理が終わるとすぐに呼び戻されます。
「南太平洋海戦」「第三次ソロモン海戦」にも参加するものの、【陽炎】に目立った戦果はなく、特に「第三次ソロモン海戦」の第二夜では、混乱する戦況の中で敵機らしき存在が確認できても攻撃できないという苦い結果となりました。

その鬱憤を晴らす戦いが「ルンガ沖海戦」です。
17日、【陽炎】はブナへの輸送に成功するものの、ラエへの輸送に向かっていた【海風】が空襲を受けたことでその救援に向かいます。
ラバウルへ到着した後、ブナのあるニューギニア島とガダルカナル島への輸送強化の為に鼠輸送の頻度が増やされることになりました。
そして11月30日、ガダルカナル島のルンガを目指す8隻の駆逐艦の前に立ち塞がったのが、【米ニューオーリンズ級重巡洋艦 ミネアポリス】を旗艦とする第67任務部隊でした。

【陽炎】は隊列の6番目に位置し、20時ごろから各艦は搭載したドラム缶を投下するために準備に入りました。
しかし21時ごろにレーダーによりアメリカ艦隊はこの輸送隊を発見。
先手を取ったアメリカに対し、日本がアメリカ艦隊を発見した距離は先頭の【高波】からわずかに6,000mという近距離だったため、日本は中途半端なドラム缶は全部投棄(船に固定できるものは捨てていません)して急ピッチで戦闘態勢に入りました。

【高波】は敵艦から猛烈な集中砲火を浴びますが、日本はこの隙に魚雷を次々と発射。
闇夜の中で【陽炎】【巻波】は僚艦を見失って攻撃のチャンスを逃してしまいますが、その間に魚雷が面白いように敵艦に命中していきました。
【ミネアポリス、ニューオーリンズ】、そして【米ペンサコーラ級重巡洋艦 ペンサコーラ】が次々と被雷し、【ミネアポリス】【ニューオーリンズ】は艦首を失いました。
圧倒的優位な戦いを見せる中で突如襲い掛かった水柱と大爆発でアメリカ艦隊は無茶苦茶になりました。

それでも雷撃を回避した【米ブルックリン級軽巡洋艦 ホノルル】【米ノーザンプトン級重巡洋艦 ノーザンプトン】は反撃を諦めず、撤退していく駆逐艦に向けて砲撃を開始。
魚雷を撃ち尽くした駆逐艦に負ける巡洋艦ではありません。
ところが側面から新たな刺客が迫っていることに、2隻は気づきませんでした。

この時駆逐艦は南から南東に進路を変え、そこから反転北西に向かいながら雷撃をしています。
【陽炎】【巻波】、そして【黒潮】【親潮】はこの転舵についていくことができずに、そのまま直進してはぐれてしまいました。
ここでさらに【陽炎、巻波】【黒潮、親潮】と別れることになり、いずれも北西に向かっていきます。

この時アメリカ艦は北西に向かっていたと記録されています(日本側の記録とは差異あり)。
その後ろから同じく北西に向かう【陽炎】【巻波】にとっては、左舷ガラ空きのところに魚雷を打ち込める絶好の位置でした。
2隻の魚雷は吸い込まれるように【ノーザンプトン】の艦後部に命中。
2発ともかなり近い位置に命中したため、全く成すすべなく沈没していきました(この魚雷は【黒潮】【親潮】の可能性もあり)。

【高波】こそ失いましたが、重巡1隻を沈め、3隻を大破に追い込んだという、日本の水雷戦隊の真骨頂を発揮した戦いと言える「ルンガ沖海戦」
しかし輸送は1gも達成できず、またこのあとも輸送は中途半端なところで切り上げたり失敗したりと日本の劣勢はついに挽回することはできませんでした。
年が明けると、日本はガダルカナル島からの撤退に向けて本格的に動き出します。

2月16日、【陽炎】【隼鷹】を護衛して【黒潮】と共にトラック島を出発。
各艦整備を受けて3月28日には早くもトラック島に戻ってきました。
ガダルカナル島は失いましたが、そうなるとなお一層防衛に力を注がないといけない場所があります。
ニュージョージア島とコロンバンガラ島です。
飢えと病に苦しんだのは何もガダルカナル島だけではありません。
輸送が弱い地域はすべて同様で、空襲や潜水艦による通商破壊がひっきりなしに行われている南方諸島はほとんどのエリアが体力的な問題を抱えていました。

この危機的状況を受け、【陽炎、黒潮、親潮】の第一五駆逐隊(【早潮】は11月24日に空襲で沈没)はコロンバンガラ島への全6回の輸送のうち奇数回を任されました。
そして5月7日、第5回目の輸送が始まりました。

ブインを出撃した3隻は、闇夜の中8日1時ごろにコロンバンガラ島南東のヴィラ泊地に到着します。
パパっと揚陸を済ませ、3時過ぎにはヴィラを出発し、3隻は元来た航路を引き返していきました。
しかし4時ごろ、突如【親潮】で衝撃が走りました。
爆発を起こした【親潮】を見て、【陽炎】【黒潮】は潜水艦の魚雷だと判断し、すぐさま周囲を警戒し、爆雷攻撃を行いました。
その動きが、大きな誤りでした。

【親潮】を襲ったのは実は魚雷ではなく機雷でした。
これまでの4回の輸送はすべて同じ航路で行われていることに気付いたアメリカは、コロンバンガラ島南のブラケット水道周辺に大量の機雷を敷設しておいたのです。
まんまと罠にかかった3隻は、その後【陽炎、黒潮】も被雷して瞬時に行動不能となってしまいます。
【陽炎】の水雷長はこの衝撃を受けてすぐさま「機雷だ」と直感したと言いますが、しかしそれを唯一無事であった【黒潮】に伝えることはできませんでした。
その【黒潮】に至っては3つの機雷に立て続けに触雷したことで轟沈してしまい、【陽炎】【親潮】はプカプカ浮かぶほかありませんでした。

見事に敵艦を仕留めたアメリカでしたが、2隻がまだ漂流中であることを確認するや否や、迷わず止めを刺しに行きます。
荒天のため全機は到達しなかったものの、「SBD ドーントレス」「TBF アヴェンジャー」などが攻撃に向かい、【親潮】には爆弾1発が命中します。
また機銃掃射も受けてしまい、すぐに消火はできましたが【陽炎】では火災も発生しました。

天候が悪かったこともあり、二次攻撃はありませんでしたが、しかし【陽炎】の命運はすでに尽きていました。
半日以上粘ったものの、ついに【陽炎】は沈没。
多くの乗員が救助されましたが、【親潮】も沈没したため、残された第一五駆逐隊は一日で全滅してしまいました。

ちなみに、【陽炎】は第二水雷戦隊所属日数が第二次世界大戦勃発後では最も長い駆逐艦です。
太平洋戦争開戦後は正式に旗艦を務めたこともある【長波】がトップ、次いで二位を【陽炎、黒潮】でわけあっています。

2021年04月18日 加筆修正