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敷波【綾波型駆逐艦 二番艦】

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起工日 昭和3年/1928年7月6日
進水日 昭和4年/1929年6月22日
竣工日 昭和4年/1929年12月24日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年9月12日
海南島東
建 造 舞鶴海軍工廠
基準排水量 1,680t
垂線間長 112.00m
全 幅 10.36m
最大速度 38.0ノット
馬 力 50,000馬力
主 砲 50口径12.7cm連装砲 3基6門
魚 雷 61cm三連装魚雷発射管 3基9門
機 銃 7.7mm単装機銃 2基2挺
缶・主機 ロ号艦本式ボイラー 4基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸
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姉の武勲を見届け、大敗北のビスマルク海海戦を生き抜いた敷波

【敷波】【磯波】【浦波】【綾波】とともに第一九逐隊を編制します。
昭和10年/1935年2月28日、【敷波】は訓練中に【狭霧】に衝突してしまいました。
艦首を少し損傷してしまった【敷波】はこの後修理を行っていますが、この時【雷】【旗風】も衝突しており、視界がかなり悪かったのだと思われます。

太平洋戦争では、第十九駆逐隊は「マレー作戦」の支援のために開戦前からこっそり出撃。
海戦と同時にコタバルに上陸し、輸送船から続々と陸軍兵が遥かシンガポールを目指して進撃していきます。
イギリスは3~4機程度の【ハドソン】で揚陸の邪魔をしてきましたが、数が少ないとはいえ日本もしょぼしょぼの機銃で応戦するしかないので全然追い払えません。
最終的に【淡路山丸】が爆撃を受けてガソリンに引火、大火災となって放棄されてしまいます。
その他【綾戸山丸、佐倉丸】も被害を受けており、対空の準備が疎かだとどうなるのか、開戦するや否や実感することになります。

とは言え「マレー作戦」は電光石火の快進撃を続け、【敷波】ら支援する側も協力し甲斐のある戦果が上がり続けました。
2月になるといよいよジャワ島への上陸を行うための準備に入り、【敷波】も船団護衛に参加することが決まります。
総勢56隻という輸送船を抱え、船団はジャワ島目指して進軍します。

28日、バンタム湾とメラク湾に分かれた船団は予定通り揚陸をせっせと始めます。
ところがそれを【米ノーザンプトン級重巡洋艦 ヒューストン】【豪パース級軽巡洋艦 パース】が目撃し、退避を中断してこの輸送を妨害するために南下してきました。
ところがところがそれを警戒中の【吹雪】が発見しており、報告を受けたバンタム湾側の護衛艦は戦闘準備を整えていました。
一方で違うエリアを警戒していた【敷波】【最上】【三隈】にも応援要請が入り、3隻はバンタム湾へ向かいます。

【ヒューストン、パース】が砲撃を開始したため、【吹雪】は後方から砲撃、雷撃を行い気を引きます。
その後バンタム湾からも駆逐艦が次から次へと躍り出るのですが、接近戦となったもののなかなか魚雷が当たりません。
砲撃では勝ち目がないため駆逐艦は雷撃をして逃げるほかないのですが、足止めはできるものの致命傷には至らずに戦いは混戦となります。

やがて【敷波】らが戦場に到着。
20.3cm砲なら十分な威力がありますから、これまでのちまちました12cm、12.7cm砲による攻撃とはわけが違います。
【三隈】が一時電気系統の故障によって砲撃ができなくなってしまいますが、それでもこの砲撃によって敵2隻はどんどん体力がそがれていきます。
そこへどこかから放たれた魚雷が【パース】に命中し、【パース】はやがて沈没していきました。

【ヒューストン】にも魚雷が命中したことで、勝敗は決しました。
【最上、三隈】の砲撃を浴びてガタガタと振るえるだけになった【ヒューストン】は、最後はこの戦いでまだ魚雷を発射できていなかった【敷波】が止めを刺すことになりました。
【敷波】はこの戦いで至近弾を受けており、ここでも魚雷発射の為に接近していくとまだ動く機銃で抵抗されました。
そんな【ヒューストン】も、最後の魚雷を受けてからは静かになりました。

こうしてめでたしめでたしで終わればよかったのですが、【最上、三隈】【ヒューストン、パース】に向けて放った魚雷が、そのまま一直線にバンタム湾に突っ込んでいき、多くの被害を生み出していることがあとになってわかります。
現地では【ヒューストン、パース】か魚雷艇の魚雷を受けたものだと最初は思っていたのですが、調べてみると九三式魚雷の痕跡が見つかったのです。
船も失い戦死者も出しているため全く笑い事ではなく、この真実は魚雷艇による雷撃であると偽装されました。

ジャワ島の攻略も完了し、日本はいったん仕切り直しとして編制を組み替えます。
そして次なる目標として、フィジー、サモアを制圧して米豪遮断を達成する「FS作戦」を行う準備を進めました。
【敷波】はいったん本土に引き返し、次の任務に備えて整備、待機をしていました。

しかし「FS作戦」は「ポートモレスビー攻略作戦」に失敗したことと「珊瑚海海戦」【祥鳳】を失ったことで展望に陰りが見えてきます。
この停滞を取り戻すためにもと、連合艦隊がもともと主張していたミッドウェー島攻撃が行われますが、この「ミッドウェー海戦」は取り戻すどころか作戦そのものを完全にお釈迦にしてしまう結果となりました。
【敷波】はこの海戦では【大和】ら戦艦を護衛して出撃しておりますが、当然何の戦果もありません。
この前後から日本の綻びを連合軍が的確についてくるようになり、戦争は苦しくなっていきます。

8月に入ると「ガダルカナル島の戦い」が始まり、インド洋での通商破壊作戦を行うはずだった【敷波】らは急遽作戦を中止してガダルカナル島に向かうことになります。
駆逐艦にとってこの戦いは非常につらいものであり、本来の水雷戦はあくまで結果、目的はヘンダーソン飛行場への艦砲射撃と各島への鼠輸送ばかり。
「ルンガ沖夜戦」のように海戦で勝利しても輸送が達成できなければ勝利した意味がないのです。
【敷波】もガダルカナル島へ何度も何度も鼠輸送を行い、また日本の空母が出撃した数少ない戦いであるうちの1つである「第二次ソロモン海戦」にも参加しています。
ですが「第二次ソロモン海戦」も輸送には失敗しています。

そして11月13日に【比叡】【霧島】を中心としてヘンダーソン飛行場への艦砲射撃とガダルカナル島への輸送が実施され、ここで「第三次ソロモン海戦」が勃発します。
【敷波】は第一夜の海戦には参加しておらず、第二夜では掃討隊として【川内】に従ってサボ島を目指して航行していました。

サボ島が迫ってくると、【綾波】がサボ島の西側を、【川内】【敷波】【浦波】がサボ島の東側に回ってそのまま南下していきます。
すると先頭の【浦波】が前方に敵艦隊を発見。
この時敵の戦力は巡洋艦2隻駆逐艦4隻とされていたのですが、とんでもない、敵には【米サウスダコタ級戦艦 サウスダコタ】【米ノースカロライナ級戦艦 ワシントン】がいたのです。
魚雷があるとはいえ、敵う相手ではありませんでした。

スコールを抜けて会敵した両者ですが、もちろん【敷波】達が不利の為、いったん煙幕を張って間合いを取り、雷撃のチャンスをうかがうことにしました。
ところがそんな時に西側から【綾波】が飛び出してきたのです。
【綾波】には【川内】からの報告が何も届いておらず、恐らくサボ島に電波を遮られたのだと推測されます。

1隻で敵艦隊と対峙することになってしまった【綾波】でしたが、ここで【綾波】は艦隊に突撃し、砲撃と雷撃を浴びせて2隻を撃沈、1隻撃破、さらに【サウスダコタ】の砲撃系統に故障を発生させるなど躍動。
最終的に沈没はするものの、【綾波】の乗員は沈没してからも興奮冷めやらぬ様子で【浦波】【敷波】に救助されていきました。

ですが海戦そのものは、この【サウスダコタ】を撃破したものの【霧島】が沈没してしまい、そして根本的な問題であったヘンダーソン飛行場の奪還もできず。
ここに「ガダルカナル島の戦い」の趨勢が決したのです。
【敷波】【磯波】【日進】とともに日本へ帰っていきました。

呉で修理を終えた後、【敷波】はニューギニア島のウェワクへ向かう「丙一号輸送」を実施。
【敷波】はここから「ビスマルク海海戦」に引きずり込まれていきます。

輸送完了後はラバウルへ向かい、「ガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)」などの輸送を実施。
2月も末になるとラバウルに引き返し、いよいよダンピール海峡を抜けてラエへ向かう輸送に参加することになりました。
輸送船8隻を駆逐艦4隻で護衛し、さらに上空には陸海軍の直掩機が交代で就くといった体制でした。
丸腰で飛び込むわけではありませんでしたが、艦船の対空装備は相変わらずのまま、上空の支援も数が足りないのを承知で出撃させていますから、まさに命を賭けた作戦でした。

28日に出撃をした船団ですが、3月2日に空襲を受けてまず【旭盛丸】が沈没。
ですがこんなのは序の口でした。
翌日、大編隊がダンピール海峡付近で船団の上空に展開され、そこから無数の爆弾と機銃で船団は制圧されてしまいます。
【零式艦上戦闘機】は前日同様水平爆撃を仕掛けようとする【B-17】撃墜の為に高度を上げていきました。
しかし【零戦】が上昇したことで空白地帯となった中低空に【B-17】【B-25】が滑り込み、ここでは水平爆撃に加えて魚雷のように爆弾を横からぶつける反跳爆撃も行われます。

米軍が新たに考案したこの反跳爆撃は、急降下爆撃よりも命中率が高い上に訓練の程度も軽くて済みます。
デメリットは艦上攻撃機同様被弾リスクが高いことですが、ある程度硬い上に【B-25】も機銃掃射で艦船の乗員をなぎ倒せば問題ありません。 
加えて日本の対空装備が貧弱であることから、うってつけの攻撃方法でした。

結果、輸送船8隻は全滅、駆逐艦も4隻を喪失するという、予測をはるかに上回る被害を出してしまった「ビスマルク海海戦」
【敷波】は生き残った木村昌福少将(第三水雷戦隊司令官)らを救助して、命からがら逃げ出しますが、敵機から逃げきった後で救助者を【初雪】に移乗し、更に燃料の補給を受けます。
何をするのかというと、戦場に取り残されている【荒潮】の救助のために引き返すというのです。

【荒潮】はこの海戦で船の状態は最悪でしたが、【敷波】らが離脱するときはまだ沈んではおらず、乗員も取り残されていました。
【敷波】【朝雲】【雪風】とともに夜陰に紛れて【荒潮】と乗員の捜索を行います。
そして無事、まだ浮かんでいる【荒潮】が発見されたため、生存者約170名(人数に差異多し)は3隻に救い出されて命拾いをしたのです。

こんな状況でも「ラエへ向かうからフィンシュハーフェンで降ろしてくれ」という陸軍参謀を説き伏せてラバウルに戻った後、コロンバンガラ島への輸送を経て【敷波】は傷を癒すために本土に帰投します。
4月9日に呉を出港した後は、【敷波】の活動範囲はこれまでよりも一歩引いたエリアとなり、スラバヤやバリクパパン、シンガポールといった海域で船団護衛などを実施。
しばらくは戦火とは距離を置いた活動となりました。
ただ空襲は時々受けており、7月22日のスラバヤでの空襲では戦死者も出しています。

年が明けて昭和19年/1944年1月、【敷波】【鬼怒】【北上】を護衛して兵員輸送の為にポートブレアを目指していました。
25日にポートブレアに到着し、無事輸送は完了、3隻はその日のうちにボートブレアを出港してシンガポールへ引き返していきました。
ところが27日の真夜中に【北上】は突如2本の魚雷を受けて大破してしまいます。
【北上】を雷撃したのは【英T級潜水艦 テンプラー】で、【北上】は航行不能となったため【鬼怒】が曳航してなんとかシンガポールまで帰っていきました。

その後も船団護衛を黙々と行っていた【敷波】でしたが、そんな中、「マリアナ沖海戦」を直前にして連合軍がビアク島に上陸してきました。
日本は「あ号作戦」発令によって戦力を絶対国防圏に集中させていたのですが、その穴を突くように「ビアク島の戦い」が始まってしまったため、日本も慌てて「渾作戦」を発動させて駆逐艦による輸送と、【扶桑】と重巡による攻撃部隊を送り込むことにしました。
ただ、相変わらず航空支援はありません。

6月2日に「第一次渾作戦」部隊がダバオを出撃したのですが、偵察機に発見された上、不幸にもその後機動部隊の出現を誤認してしまい、作戦は中止され、陸軍兵はソロンに上陸していきます。
そして上陸が終わった後に誤認の報告が入り、地団駄を踏みながら次の作戦の為に引き揚げていきました。

ソロンに残された兵士たちを再びビアクに送り届けるため、「第二次渾作戦」部隊が8日にソロンを出撃。
今度は輸送に専念するために駆逐艦6隻だけでの出撃となり、当然この中には【敷波】も含まれています。
ところが今度も偵察機に発見されたことで、【春雨】が空襲を受けて沈没。
さらにビアク周辺を警戒していた【豪重巡洋艦 オーストラリア】【米ブルックリン級軽巡洋艦 ボイシ、フェニックス】らが立ち塞がり、結局輸送もできずに撤退する羽目となります。
そしてやっぱりこいつら排除しないとダメだと重巡どころか【大和】【武蔵】を引っ張り出してまでビアク島に上陸する「第三次渾作戦」が始まろうとしていたところに、マリアナが空襲を受けたことでビアクは見捨てられてしまったのです

7月18日、【敷波】【大井】を護衛してマニラからシンガポールへと向かいます。
ですがこの時【敷波】の機関が故障したため、いったんマニラへ引き返して状態を確認してから再出発することになりました。
これが原因かどうかはわかりませんが、この結果19日に【大井】【米ガトー級潜水艦 フラッシャー】の雷撃を受けて沈没。
【敷波】は乗員を救助して、シンガポールまで向かいました。

シンガポール入港後、【敷波】は25mm機銃の増備を受けています。
しかし【敷波】の敵は空にはいませんでした。

8月1日、【敷波】はシンガポール沖で座礁してしまいます。
離礁には成功しましたが応急修理だけではどうにもならず、9月6日に【敷波】はシンガポールを出発し、本土で本格的な修理を受けることになりました。
この時一緒に護衛したのが、ヒ72船団です。
ヒ72船団は輸送船9隻と護衛艦6隻で構成されており、門司を目指してシンガポールを発ちました。

しかし12日にヒ72船団は【米ガトー級潜水艦 グロウラー】に発見されます。
船団は潜水艦が付近にいることは察知していましたが、日本の対潜装備は未だ精度も制限も問題が多く、【グロウラー】の接近に対処することができませんでした。
突然【平戸】が大爆発を起こし、大きな水柱が上がったかと思うと、次の瞬間には沈没し始めていました。
ド派手な海戦の幕開けとなり、ここから輸送船は統率が取れずに四分五裂してしまいます。

なぜ輸送船が船団形態をとっているのか、それはバラバラに動くと危険だからに他なりません。
その隊列が崩壊すると、敵からしたら願ってもないわけで、今度は輸送船が狼に狙われた野兎のように襲われていきました。
そんな中【敷波】は何とか【グロウラー】を仕留めようと動き回るのですが、一枚も二枚も上手の【グロウラー】は今度は【敷波】に向けて魚雷を発射します。
この魚雷が見事に【敷波】に2本命中し、返り討ちにあってしまいました。
【敷波】も魚雷を受けてから数分で轟沈し、現場はさらに混乱。
【敷波】の生存者は【御蔵】に救助されましたが、その後もアメリカの狩りは続き、13日だけで4隻の輸送船が沈没しています。