
起工日 | 昭和17年/1942年3月27日 |
進水日 | 昭和18年/1943年3月12日 |
竣工日 | 昭和18年/1943年7月27日 |
退役日 (沈没) | 昭和18年/1943年11月11日 ラバウル空襲 |
建 造 | 浦賀船渠 |
基準排水量 | 2,077t |
垂線間長 | 111.00m |
全 幅 | 10.80m |
最大速度 | 35.0ノット |
航続距離 | 18ノット:5,000海里 |
馬 力 | 52,000馬力 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 3基6門 |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 2基8門 次発装填装置 |
機 銃 | 25mm連装機銃 2基4挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式缶 3基 艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
外の世界に疎いまま沈んだ涼波
【涼波】は竣工時は訓練部隊である第十一水雷戦隊に所属し、8月20日に竣工が続いた【藤波・早波】とともに第三二駆逐隊を編成。
しかし外洋に出るのはまだ少し先で、10月に【山城・伊勢・龍田】と丁三号輸送部隊を構成してトラックへ向かったのが初でした。
トラック着後は早速輸送任務に就き、11月3日にはタンカー【日章丸】が空襲にあって被弾したため、【鳥海】とともに救援に向かいます。
この救援があったため、本来ならすでにラバウルへと到着していたはずの2隻は出発が遅れます。
しかしこの時、ラバウルは大規模な空襲に見舞われており、大小様々な被害を負ってしまいます。
【涼波】は偶然にもこの危機から逃れていたのです。
【涼波】は【鳥海】とともに一度トラックへ引き返し、再出発後、9日にラバウルへと到着しました。
しかし危機は1度だけではありませんでした。
思いの外空襲がうまくいったと戦果を喜んだ米軍は、11日に更なる空襲を企図し、そしてそれを実行に移します。
早朝、再び耳にけたたましいプロペラ音が飛び込んできました。
今度は湾を挟み撃ちするように襲来した米航空部隊でしたが、日本は偵察機によって南からやってくる航空部隊を察知し、スコールに紛れて脱出しているところでした。
【涼波】も北方へ避難し、そこにやってきた雷撃機を撃墜するなど退避は順調に進んでいるかに見えました。
しかし今度は右から突っ込んできた雷撃機の魚雷にさらされます。
4本もの魚雷を至近距離から投下された【涼波】は、かろうじて3本の魚雷を回避しますが、残りの1本が【涼波】を逃しませんでした。
1番魚雷発射管付近に直撃した魚雷の影響で爆発、さらに予備魚雷格納所からも火の手が上がり、誘爆は避けられない状況でした。
さらに空襲は続き、爆弾一発が【涼波】を襲い、そして最後には予備魚雷が爆発。
【涼波】竣工から4ヶ月、外洋に出てからたった1ヶ月での沈没となりました。