浦波【吹雪型駆逐艦 十番艦】 | 大日本帝国軍 主要兵器
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浦波【吹雪型駆逐艦 十番艦】

起工日昭和2年/1927年4月28日
進水日昭和3年/1928年11月29日
竣工日昭和4年/1929年6月30日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年10月26日
第一次多号作戦
建 造佐世保海軍工廠
基準排水量1,680t
垂線間長112.00m
全 幅10.36m
最大速度38.0ノット
馬 力50,000馬力
主 砲50口径12.7cm連装砲 3基6門
魚 雷61cm三連装魚雷発射管 3基9門
機 銃7.7mm単装機銃 2基2挺
缶・主機ロ号艦本式缶 4基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸
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姉の磯波と二度の衝突 特改Ⅰ型とも呼ばれる浦波

【浦波】は建造時は「第四十四号駆逐隊」とされ、建造中の昭和3年/1928年8月1日に【浦波】と改称されます。
【浦波】「特型」全24隻の中でも少し特殊な存在です。
概ね「吹雪型」に属する【浦波】ですが、「特改Ⅰ型」と呼ばれることも多いです。
もっとも「特改Ⅰ型」はこの【浦波】1隻のみで、続く【綾波】以後は「特Ⅱ型・綾波型」となります。

出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ

出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集』

この「特改Ⅰ型」の正体ですが、はっきりわかるのが吸気口です。

「吹雪型」の吸気口は「キセル型」という形状で、1番煙突の両脇と2番煙突の後ろ、いずれも後ろ向きに設置されていました。
しかしここに配置すると、後ろ向きにしていても荒波の中高速で航行するとどうしても海水が飛び込んでしまい、缶に不純物が入り込む状態となっていました。
この対策として吸気口は形状が変更されることになり、新しく煙突そのものをグルっと覆う、ひっくり返した「おわん型」の吸気口が採用されました。
この吸気口は煙突の内外筒の隙間から缶室に空気を送り込む方式で、「キセル型」のような1つの太い口から空気を入れるのではなく、周辺から満遍なく空気を取り込む方式となりました。

吸気口は下側に向けられていますから、海水が飛び込む可能性はこれによって減少しました。
そして副次的な効果として、空気の予熱利用上にも効果的な形状であったことから、この煙突を覆う「おわん型」吸気口は以後の駆逐艦の標準となりました。
他にも煙突の太さが少し太く、そして防雨装置が設置され、さらに頂点の傾斜が若干強まっています。

「特改Ⅰ型」の実際の特徴は以上なのですが、実は【浦波】にはもう1つの幻の改装がありました。
それは搭載砲です。

12.7cm連装砲A型を搭載している【浦波】ですが、実は【浦波】にはB型が搭載される計画でした。
しかし昭和2年/1927年の「ジュネーブ海軍軍縮会議」の経過を見るに、もしかしたら「特型」レベルの排水量を持つ駆逐艦は保有制限がかけられるかもしれないという不穏な流れになってきました。
もしここで条約にまで発展した場合、「特型」の建造は突然中断されるというかもしれません。

このままの【浦波】の建造計画では竣工前に条約の締結もあり得る。
その不安があり、【浦波】には製造待ちとなるB型を搭載することを諦め、すぐに搭載できるA型を搭載して竣工を約半年早めることにしたのです。
結果的に「ジュネーブ海軍軍縮会議」は条約までには至りませんでしたが、これが【浦波】「特Ⅱ型」ではなく「特改Ⅰ型」に留まった理由です。
つまり「ジュネーブ海軍軍縮会議」がなければ、もしくは駆逐艦の保有制限に話が及ばなければ、「綾波型」は存在せず、「浦波型」「特Ⅱ型」となったわけです。

【浦波】は昭和3年/1928年に【磯波】【綾波】【敷波】とともに第一九駆逐隊を編成します。
昭和12年/1937年に入り「支那事変(日中戦争)」に参加するのですが、8月19日、【浦波】は後方に【磯波】をおいて横須賀へ向かっていました。
そこへ【さんとす丸】が前方からやってきたため、【浦波】は回避するために舵を左に切りました(現代では行違う場合は右側へ避けます)。
ところが後方の【磯波】がこれについていけなかったため、転舵が間に合わず【浦波】の左舷に衝突してしまいました。
大事故にはなりませんでしたが2隻とも修理することになりました。

太平洋戦争に突入すると、第一九駆逐隊は第三水雷戦隊の一員として「マレー作戦」に参加します。
「真珠湾攻撃」よりも少し早く実行に移された「マレー作戦」は陸上作戦ですから、一朝一夕の作戦ではありません。
第三水雷戦隊はじめ艦船による支援というのは継続的に行わなければなりませんでした。

ひとたび開戦の知らせが入ると、コタバルに向かう船団に向かって午前3時半にはもうイギリス軍は妨害の「爆撃機 ハドソン」を飛ばしてきました。
護衛機がいないため攻撃手段は各艦数挺しか装備していない機銃だけ。
相手は3~4機と僅かな数ですが、攻撃手段がほとんどないため排除もできません。

五月蠅い虫を手で払いながら続々と輸送船が揚陸を進めていきますが、ついに【淡路山丸】が爆撃を受けてしまいます。
この爆弾は装甲挺に直撃し、この爆発によってガソリン缶に引火して大炎上します。
更にその炎は弾薬にも引火して手が付けられなくなり、【淡路山丸】は放棄が決定。
他に【綾戸山丸、佐倉丸】も被弾しており、輸送は成功しましたが空が開け放たれた状態での輸送が危険なものであるかは、海戦早々に実感していたのです。

昭和16年/1941年12月19日、同じくコタバル沖で船団護衛中に旗艦の【川内】「九四式水上偵察機」が潜水艦らしき存在を発見。
正体は【蘭O19級潜水艦 O20】で、爆撃を受けた【O20】は慌てて潜水します。
やがて報告を受けた【浦波、綾波】【天霧】による爆雷も始まりますが、【O20】は全速力で逃げていきました。
ところが浅瀬だったことから【O20】は海底に接触してしまい、泥から抜け出すために空気タンクを切り離さざるを得ませんでした。
当然空気がボコっと海面に放出されますから、これを目印に【浦波】が哨戒活動を続けていました。

根競べとなりますが、相手は潜水艦ですから絶対どこかで浮上してきます。
日が沈んでからも我慢して待ち続けた【浦波】でしたが、ついに待望の【O20】が姿を現しました。
【O20】は空気タンクの喪失の他にも爆雷によって艦のバランスが崩れていて、浮上時はスクリューが少し海面に出てしまうほど艦尾が浮いていました。

探照灯で【O20】を照らし出した【浦波】は砲撃で【O20】を追い詰めます。
【O20】ボフォース40mm機関砲などで応戦しつつ魚雷を放ちますが、海面で唸るスクリューの振動によって魚雷は狙った方向に発射されませんでした。
結局【O20】は自沈処分され、乗員が脱出する一方で注水されてやがて沈んでいきました。
(沈没する前に内部の調査ができたとも言われています。)

開戦早々お手柄だった【浦波】ですが、その後も第一九駆逐隊の面々と共にマレー半島やスマトラ島の攻略に関わっていきます。
次から次へと連合軍の陸上部隊、海上部隊を蹴散らしていき、「マレー作戦」も「蘭印作戦」も、日本が求めた未来は全て現実となっていきました。
あまりにもうまくいきすぎて、逆に次の展望が見えないところまで来てしまいます。
3月になって海軍は各編成が再編されていき、その中で第一九駆逐隊は一度本土に戻っていきました。

ところが5月の「ポートモレスビー攻略作戦」「珊瑚海海戦」などで苦戦を強いられ、連合軍も地に足の着いた反撃をしてくるようになります。
そしてついに馬鹿馬鹿しい敗北となった「ミッドウェー海戦」で、連合軍の本格的な反撃が始まりました。

この時【浦波】【大和】ら後衛の護衛に就いていたのですが、何も知らされずに戦艦たちは踵を返していきます。
それを受けて【浦波】らも付いていくのですが、何とこの時またしても【磯波】と衝突してしまいます。
この時も【磯波】【浦波】の左舷に突っ込んでしまい、今度は前回よりも酷く【磯波】の艦首が1mほど潰れてしまいました。
自力航行には支障がなかった【磯波】でしたが、しかもなぜかこの後【川内】【浦波】が隊列から離れて行方不明になってしまいます。
唯一生還した空母【鳳翔】「九六式艦上攻撃機」が捜索に出てくれたために引き戻すことができましたが、これがなければ帰るのにずいぶん時間がかかったかもしれません。

続いて8月からは「ガダルカナル島の戦い」が始まります。
これまた手薄な飛行場をかっぱらわれるというお粗末な逆転劇で、一事が万事、日本は終始敵の土俵での相撲を強いられました。
【浦波】はこの戦いで数回のヘンダーソン飛行場艦砲射撃に参加したほか、他の駆逐艦同様鼠輸送で走り回っています。
ですが幸運なことに空襲などの被害を受けることはなかったようです。

11月14日、日本は前日の「第三次ソロモン海戦 第一夜」【比叡】を失ってしまいましたが、この機を逃しては反撃の望みが絶たれると、【霧島】を中心に再びヘンダーソン飛行場への艦砲射撃と輸送を行うべく出撃しました。
【浦波】【川内】を旗艦として掃討隊の一員としてサボ島を目指します。

この時、【川内】を中心として【川内、綾波】がサボ島の西を、【浦波、敷波】がサボ島の東を進み、警戒態勢にはいっていました。
その時、【浦波】【米ノースカロライナ級戦艦 サウスダコタ】を中心としたアメリカ艦隊をサボ島南東に発見。
それを【川内】へ報告すると、【川内】【綾波】から分離して【浦波、敷波】の支援に向かいます。
その後この3隻は米艦隊と砲撃戦を行うのですが、さすがに相手に戦艦がいると危険ですから間合いを取らなければ木っ端微塵になってしまいます。

【川内】らは煙幕を展開し、いったん撤退しながら雷撃のチャンスを狙って奇襲の機会を伺っていました。
ところが【綾波】には「敵発見」の声も「撤退」の声も届いておらず、この結果【綾波】は単艦で信じられない戦果を上げる事になるのです。
【浦波】はこの一騎当千の活躍を成し遂げて沈没した【綾波】の乗員を救助しています。

「第三次ソロモン海戦」によって、最も火力のあった戦艦2隻を失った日本は敗色濃厚となります。
ここから日本はガダルカナル島からの撤退について協議が進み、それに合わせるかのように【浦波】も本土へ帰っていきました。
帰投後は整備と合わせて機銃の増備も受けています。

激闘から開放された【浦波】でしたが、その次の任務もまた日本海軍史の汚点となる、「八十一号作戦」、すなわち「ビスマルク海海戦」でした。
ガダルカナル島からの撤退は大成功を収めたのですが、「ニューギニアの戦い」も同様にジャングルで敵の豊富な装備の前に押されており、特に「ブナ、ゴナの戦い」に敗北したことで、当初のポートモレスビー攻略を達成するためには輸送と戦力を強化するほかありませんでした。
そのためには危険なダンピール海峡を通過してでもラエ、サラモアへの輸送を行わなければならないという結論になったのです。

2月28日にラエ行きの駆逐艦4隻と輸送船8隻がラバウルを出撃。
罠とわかっていながら、しかもその罠を突破する策もない中で飛び込んでいくこの作戦。
皆気が気ではありませんでした。

そして3月2日、ついに敵機の襲撃がありました。
もともと数の差が大きい上に向こうは護衛の戦闘機も出ていますから、「零式艦上戦闘機」が護衛に就いていましたがそうやすやすと「B-17」に接近させてはくれません。
「零戦」はそんな中で1機撃墜14機撃破と十分な戦果を挙げたのですが、それでも水平爆撃によって【旭盛丸】が沈没してしまいました。

翌3月3日、前座は終わりだとばかりに大量の戦闘機と爆撃機が上空を覆いつくしました。
まず護衛の戦闘機が前日同様に水平爆撃を行おうとしている「B-17」を追いかけて上昇していきます。
ところがその後に今度は中低空から水平爆撃と、新たに反跳爆撃を織り交ぜた攻撃が船団を食いつくしていきました。
この時日本が初めて味わった反跳爆撃は、魚雷と同じように艦船の目線から突っ込んでいき、魚雷の投下と似た要領で爆弾を海面に投下し、海面を弾んだ爆弾が船を粉砕するというものでした。
反跳爆撃は水平爆撃よりも標的に近いため命中率も全然違いますし、また命中させられる範囲も広いため、撃墜される危険性に目を瞑れば非常に使い勝手のいい攻撃方法でした。

この2種類の爆撃に加えて機銃掃射を受けた船団はボロボロになり、最終的に輸送船は7隻全てが沈没し、駆逐艦も【白雪】【朝潮】【荒潮】【時津風】の4隻が沈没してしまいます。
作戦を立てた段階ではある程度の被害は止むを得ないとしていましたが、そんな甘っちょろいものではなく、輸送船全滅という最悪の結果となりました。
【浦波】はこの空襲を乗り切りはしましたが、生存者を救助した後はトボトボとラバウルへ引き返していきました。

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特型の歴史を牽引した浦波 危うき多号作戦で撃沈

1ヶ月後の4月2日、【浦波】はアンボンからスラバヤへ向けて航行していました。
しかし道中で座礁してしまい、何と離礁まで3週間近くかかってしまいました。
21日にようやく脱出できたのですが(救助に携わった艦がわからない)、その後8月中頃まで修理を受けることになりました。
修理が終わってからは、【浦波】は最前線から少し離れて東南アジア方面の輸送や護衛を行いました。

9月20日から第一九駆逐隊は【足柄】とともに第一六戦隊に編入されます。
ちなみに4月9日に【磯波】【米タンバー級潜水艦 トートグ】の雷撃を受けて沈没したため、第一九駆逐隊は【敷波】との2隻だけとなっていました。

昭和19年/1944年1月、ミャンマーのメルギーにいた【浦波】【球磨】と共に航空訓練の標的艦として活動していました。
ところが11日、訓練中に【英T級潜水艦 タリホー】が忍び寄ってきて、7本の魚雷を放ちます。
僅か1,700mという距離で7本もの魚雷に襲われると、さすがに回避は難しく2本が命中してしまい、【球磨】は沈没。
【浦波】は逃げ出した【球磨】の乗員を救助しましたが、その後の爆雷攻撃で【タリホー】を仕留めることはできませんでした。

5月に入るとサイパンやマリアナと言った絶対国防圏が危機的状況に陥ってきたことから、日本は「あ号作戦」を発令します。
しかし作戦を発令したところで主導権は相変わらずアメリカ側にあったことと、「海軍乙事件」によって「あ号作戦」の前身とも言える「新Z号作戦」の資料を入手したことで、目標そのものもバレてしまったことで反撃の糸口にはなり得ませんでした。
そしてアメリカはこの動きを利用してビアクを攻撃、「ビアク島の戦い」が始まります。
日本はビアクへ戦力を送るために「渾作戦」を発動させ、注意が削がれてしまいます。

【浦波】はこの「渾作戦」に参加したのですが、輸送途中で偵察機に触接されたことと敵機動部隊の誤認で作戦はいったん中断し、8日に再び6隻の駆逐艦だけでビアクに突入することになりました。
ところがやはり偵察機に発見されたことで、【春雨】が空襲を受けて沈没。
さらにビアク周辺を警戒していた水上艦隊に追い回されて、結局輸送もできずに損傷だけして5隻は逃げ帰ってしまいました。

やがてサイパン、テニアン、グアムへの集中的な空襲が行われ、敵の本当の意図はサイパンにあるということがはっきりします。
ビアクは捨て置ける島ではありませんでしたが、サイパンとどっちが大事となるとサイパンのほうが断然大事です。
結局「渾作戦」は中止され、その後「マリアナ沖海戦」が起こるのですが、ここでも空母3隻を喪失し、当然ビアクも陥落してと、最悪の結果となりました。
さらに9月には【敷波】【米ガトー級潜水艦 グロウラー】の雷撃によって沈没し、ついに第一九駆逐隊は【浦波】1隻だけとなってしまいました。

7月2日にシンガポールに入った【浦波】は、ここで修理と共に3番砲塔を撤去して25mm三連装機銃を2基新たに装備。
8月からは第一六戦隊はパラオやセブなどへの輸送を繰り返し行いますが、【五月雨】が座礁して身動きが取れないまま担っていたところを雷撃されて沈没。
上記の【敷波】沈没もそれに続いて、10月10日に第一九駆逐隊は解隊されました。

10月と言えば「レイテ沖海戦」
「捷号作戦」発動に伴い、【青葉】【鬼怒】【浦波】の3隻となった第一六戦隊は、当初ルソン島での決戦を予定していた部隊を急遽レイテに送り届けることになったため、その輸送を行う任務を受けました。
ブルネイにいた3隻は部隊を収容するためにマニラへ向かったのですが、到着直前の10月23日早朝に【青葉】が突然爆発しました。
【米ガトー級潜水艦 ブリーム】の雷撃を受けたのです。
【青葉】はこれで3度目の大破となってしまい、またしても修理を受けざるを得なくなってしまいました。
【鬼怒】【青葉】を曳航し、3隻はマニラへ入港しました。

【青葉】を失った2隻ですが、輸送は中断できません。
24日にマニラを出撃し、一路レイテ島を目指します。
2隻はまずはミンダナオ島のカガヤンを目指し、そこで一等輸送艦、二等輸送艦各3隻と合流してレイテ島への輸送を行うことになりました。
この輸送が、正式に作戦としては発令されていないものの、実質的な「第一次多号作戦」となります。

ですが2隻は出港直後からねちっこく空襲を受け続けます。
直撃弾を受けることなく突破した技量は目を見張るものがありますが、老体に鞭打って動き続けている2隻にとっては至近弾でも相当なダメージとなります。
速度もこのせいで28ノットに低下、さらに機銃掃射の被害も多く、【浦波】はこの空襲で31人もの戦死者を出しています。
【鬼怒】も通信機や機械室のポンプも故障してしまいますが、航行には支障がなかったためそのまま耐え忍んでカガヤンに向かいました。

25日16時に2隻はカガヤンに到着。
ここで新たに2,000人?700人超?の陸軍兵を収容しますが、【青葉】を失ったことで出撃も遅れ、また3隻に分かれて乗り込むのが2隻に分かれて乗り込むことになりますから時間もかかります。
そのため危険ですが、なんと輸送艦6隻は25日の朝に護衛なしで出港していました。
輸送艦は輸送船に比べると足も速いし対空兵装もありますが、俊敏でもないし軽快でもありません。
被害がなかったからいいもの、ここにきてもまだ乱暴な命令を下しています。

【浦波】【鬼怒】も17時半にはカガヤンを出港し、翌日未明には全艦がレイテ島オルモックに到着していました。
まだ敵には気づかれておらず、皆急いで陸へ降り立っていきます。
もちろん物資や兵器、弾薬なども次々と揚陸されていきました。

無事に輸送を終えた面々ですが、帰りも油断なりません。
相手の制空権の中にあることには違いないため、身軽にはなりましたが急いで引き揚げなければなりません。
【第101号輸送艦、第102号輸送艦】だけ任務のためビサヤ諸島へ向かいましたが、残りはマニラへ向けて出発しました。

ですが案の定、夜が明けると敵機が襲い掛かってきました。
これは実は「サマール沖海戦」でタフィー3に攻撃を行っている栗田艦隊を攻撃するための出撃だったのですが、その道中で輸送艦を見つけたことで目標を変更し、こちら側に襲い掛かってきたのです。

またも至近弾と機銃掃射で痛めつけられた【浦波】は、じわじわと嬲り殺されていきます。
速力が落ちたところで遂に爆弾が【浦波】の甲板を貫き、第二缶室が吹っ飛びます。
速度はぐんぐん落ち、さらに乗員も銃撃や爆風、破片の直撃などにより戦死者の山が築かれていきました。
最後は艦橋付近の被弾によって総員退艦が命令され、【浦波】は見るも無残な姿を晒しながら沈んでいきました。

この悲劇は【浦波】だけではありません。
【鬼怒】もこの絶望的な状況の中で必死に走り回りますが、ここまでの酷使で速度が上がり切りません。
もう少しで回避できるという爆撃や魚雷が艦後部に集中し、【鬼怒】もこの空襲から逃れることができずに沈没してしまいました。
いずれの艦も、生存者は後続の輸送艦に救助されています。
幸いだったのは、2隻が先行していたため4隻の輸送艦が敵に発見されずに済んだことでした。

偉大な「特型駆逐艦」の歴史、その結びとなった【浦波】の最期でした。

2022年10月23日 加筆修正