多摩【球磨型軽巡洋艦 二番艦】

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①大正10年/1921年竣工時
②昭和9年/1934年(改装完了後)

起工日大正7年/1918年8月10日
進水日大正9年/1920年2月10日
竣工日大正10年/1921年1月29日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年10月25日
エンガノ岬沖海戦
建 造三菱長崎造船所
①常備排水量
②公試排水量
① 5,500t
② 7,044t
全 長① 162.15m

水線下幅① 14.17m

最大速度① 36.0ノット
② 33.6ノット
航続距離① 14ノット:5,000海里

馬 力① 90,000馬力

装 備 一 覧

大正10年/1921年(竣工時)
主 砲50口径14cm単装砲 7基7門
備砲・機銃40口径7.6cm単装高角砲 2基2門
魚 雷53.3cm連装魚雷発射管 4基8門
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 混焼2基、重油10基
技本式ギアードタービン 4基4軸
その他
水上機 1機(デリック)
昭和9年/1934年(改装時)
主 砲50口径14cm単装砲 7基7門
備砲・機銃13mm連装機銃 2基4挺
(⇒のち25mm連装機銃 2基4挺)
魚 雷53.3cm連装魚雷発射管 4基8門
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 混焼2基、重油10基
技本式ギアードタービン 4基4軸
その他
水上機 1機
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猫の手も借りたい? 東奔西走縦横無尽 多摩

「球磨型」のニ番艦として登場した【多摩】は、【球磨】と同じく戦中は輸送任務や護衛・哨戒が多かったものの、【球磨】よりははるかに戦場に出る機会に恵まれた艦でした。

初陣は【球磨】と同じく「シベリア出兵」のための輸送で、この任務に就いたのは「天龍型」【球磨、多摩】の4隻のみです。
「シベリア出兵」ということは第一次世界大戦直後ということですから、やはりベテラン艦であったことがわかります。

大正14年/1925年にはアメリカの駐日大使だったエドガー・バンクロフト氏が客死されたことを受け、サンフランシスコまで送り届けるという重要な任務を拝命します。
この時アメリカでは排日運動が起きる不穏な状況で、バンクロフト氏はこの気運の解消に尽力されていました。
また昭和7年/1932年の「満州事変」の際は、中国沿岸の哨戒活動や上陸掩護の任務についています。
その後も随時対空兵装の換装が行われています。

出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ

昭和12年/1937年、海軍は第四艦隊を新編しますが、そこに所属しているのは第十七戦隊の【千歳】【神威】、第三〇駆逐隊の【睦月】【望月】だけという非常に小規模な艦隊で、正直どんな活用をするつもりなのかわからない艦隊でした。
しかし第四艦隊は中部太平洋方面を担当するという、近々に大きな動きがある海域です。
昭和15年/1940年には【機雷敷設艦 常盤】とともに第十八戦隊が新編されましたが、すぐにそんな余裕もなくなり、第四艦隊は連合艦隊へ編入。
【多摩】は戦争直前になっていよいよ軍艦の本懐を示すようになっていきます。

昭和16年/1941年7月25日、【多摩】【木曾】とともに第五艦隊の第二一戦隊に所属。
第五艦隊では旗艦を務め、【木曾】とともに北海道やそれより北の北方海域を活動拠点とします。
この時の第五艦隊の編成の理由はソ連との戦争に備えてでした。
陸軍は対ソ戦、海軍は対米戦を想定しており、前門の虎後門の狼の状況だったのです。

しかし最終的に日本はアメリカとの戦争に突入。
昭和16年/1941年12月8日、太平洋戦争の勃発です。
第二一戦隊は北方部隊担当でしたが、その日に【多摩】は幌筵島へ到着しています。

開戦後も【多摩】【木曾】とともに北方海域の哨戒を続けます。
ただ、12月15日には悪天候で損傷を受け、さらに2月にも機関の不調があり、さすがに老齢の影響は出始めていました。

3月10日には第五艦隊に【那智】がやってきて、旗艦は【那智】へ変更となります。
5月は「アリューシャン方面の戦い」の支援に出撃し、アッツ・キスカ両島の占領に貢献しています。
そして【多摩】はその島からの撤退まで、基本的に北方海域の哨戒を任務として活動を続けました。
ちなみにトップ画像の迷彩塗装は【木曾】とともにこのアリューシャン方面進出時に施され、他にも存在する迷彩塗装艦よりもかなり早い段階で変更されています。

しかしアッツ・キスカ島の占領からすぐに「ミッドウェー海戦」が起こり、日本の第一航空戦隊、第二航空戦隊が跡形もなく消滅してしまいます。
この敗戦は遠く北方海域にも影響し、大型空母は【翔鶴】【瑞鶴】のみとなってしまった日本。

さほど重要性の高くないアッツ・キスカ島は見放されてしまいます。
その後ソロモン海を中心に半年の大激戦が行われ、【多摩】の知らないところで何隻もの船と何万という命が失われていきました。

そして北方海域の安定性も徐々に危うくなり、昭和18年/1943年3月にはついに輸送中に米軍との交戦が始まります。
この「アッツ島沖海戦」時に【多摩】は2発の被弾を受けるものの、戦闘は続行、しかし勝利することはできず、このままずるずるとアッツ・キスカ島の情勢は悪化していくのです。
やがて有名な「キスカ島撤退作戦」が実施されますが、1回目は【多摩】は不参加でした。

しかし霧に紛れて兵士を撤退させるというこの作戦は、実行前に霧が晴れてしまい、【阿武隈】座乗の木村昌福少将が現場判断で作戦を中止。
これに不満を持った第五艦隊司令部は、「督戦のため」(つまりは監視・命令違反を見逃さない)と2度目の出撃の際に【阿武隈】らに同行し、作戦の行く末を後ろで見つめていました。
監視役だった【多摩】は作戦に参加せずに決行の直前で引き返していますが、「キスカ島撤退作戦」は誰もが予想だにしなかった、無傷の撤退作戦として名を残すことになります。

緊張の「キスカ島撤退作戦」を無事見届けた【多摩】の次の舞台は、うって変わって南方海域でした。
しかしこちらでは輸送任務からの帰還中に被弾し、2ヶ月で横須賀へ戻ります。
その際【多摩】は兵装の刷新を同時に行っています。
主砲2門と、昭和9年/1934年4月から11月までの改装で設置されたカタパルトを撤去し、代わりに21号対空電探12.7cm高角砲、さらに25mm機銃を計22門装備するなど、疎かになっていた対空兵装の強化を行います。

そのまま南方に復帰するかとおもいきや、半年ほどは住み慣れた北方海域を再び哨戒活動を行います。
そして北方にいるうちにまたも「マリアナ沖海戦」で日本は壊滅的な被害を負ってしまいます。
日本に戻ってきた【多摩】は、【木曾】【長良】とともに次なる防衛線となってしまった硫黄島をはじめとした小笠原諸島への緊急輸送を実施しました。
しかし8月7日に鹿児島から佐世保へ向かう途中に【長良】【米ガトー級潜水艦 クローカー】に襲われて沈没。
【多摩】【長良】の後任として、一時的に旗艦を任されていた【桑】から第十一水雷戦隊旗艦を引き継ぎました。

昭和19年/1944年8月29日 あ号作戦後と改装時の対空兵装比較
高角砲40口径12.7cm連装高角砲 1基2門(+1基)
50口径14cm単装砲 5基5門(-2基)
機 銃25mm三連装機銃 5基15挺(+5基)
25mm連装機銃 4基8挺(+2基)
25mm単装機銃 18基18挺(+18基)
13mm単装機銃 6基6挺(+6基)
電 探21号対空電探 1基(+1基)
22号水上電探 2基(+2基)

10月、瀕死の状態の海軍は全戦力を持ってレイテ島を目指して出撃。
地獄の「レイテ沖海戦」が幕を開けます。
【多摩】小沢治三郎中将率いる、いわゆる小沢艦隊の一員として「エンガノ岬沖海戦」へ出撃します。
「レイテ沖海戦」は総じて大殲滅戦となり、囮として敵機動部隊を誘い出す小沢艦隊は、10隻もの空母と対峙することになりました。
こちらには今やただ1隻となった大型空母【瑞鶴】と、【瑞鳳】【千歳】【千代田】だけ。
しかも艦載機は数えるほどしか残っておらず、太平洋戦争の主役といってもいい空母を本当に沈めても大きな影響がないぐらい、航空戦力は枯渇していました。

小沢艦隊は四方八方からの攻撃に苦しめられ、【多摩】も被雷によって大破してしまいます。
一時【五十鈴】の護衛があったものの、【多摩】は同じく被弾している【千代田】の護衛につくように【五十鈴】に指示、その代わりに護衛についた【霜月】にも、孤軍奮闘している【瑞鳳】の護衛に回るように伝え、【多摩】は単独で海域から離脱を試みます。

しかし米軍はその傷ついた軽巡を逃してはくれませんでした。
【米バラオ級潜水艦 ジャラオ】は艦首、艦尾から2回に分けて魚雷を発射。
艦尾から放たれた4発のうち3発が直撃、さらに2発が爆発し、【多摩】の長い海上生活は終わりを告げます。
護衛艦なし、海上のど真ん中、【多摩】の乗員全員が死亡しました。

誰一人として帰還できなかった乗員の御霊は70年もの間海上をさまよい続けていたため、2014年に沖縄で招魂祭が行われ、そののち沈没した10月25日に東京の大國魂神社にて慰霊祭が開かれました。

2018年12月9日 加筆・修正

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