起工日 | 昭和15年/1940年4月7日 |
進水日 | 昭和19年/1944年10月8日 |
竣工日 | 昭和19年/1944年11月19日 |
退役日 (沈没) | 昭和19年/1944年11月29日 |
(潮岬沖) | |
建 造 | 横須賀海軍工廠 |
基準排水量 | 62,000t |
公試排水量 | 68,059t |
全 長 | 266.00m |
水線長 | 256.00m |
水線幅 | 36.30m |
最大速度 | 27.0ノット |
航続距離 | 18ノット:10,000海里 |
馬 力 | 150,000馬力 |
搭載数 (相違多し) | 艦上戦闘機【紫電改二】/18+2機 |
艦上攻撃機【流星】/18+2機 | |
艦上偵察機【彩雲】/6+1機 | |
格納庫・昇降機数 | 格納庫:1ヶ所 |
昇降機:2機 | |
備砲・機銃 | 40口径12.7cm連装高角砲 8基16門 |
25mm三連装機銃 35基105挺 | |
25mm単装機銃 40基40挺 | |
缶・主機 | ロ号艦 本式ボイラー 12基 |
艦本式ギアード・タービン 8基4軸 | |
飛行甲板 | 長256.0×幅40.0 |
格納庫 | 1層 |
エレベーター | 2基 |
乗員数 | 2,400人 |
[11-P331]※搭載機数、対空火器は一例
- 大和型戦艦三番艦 戦艦信濃の下準備
- 信濃に全てを託す 世界最大空母の誕生へ
- 急げと急かして止めろと止めて
- ドックで暴れる信濃 大わらわの進水式
- 近くて遠い呉航海 裸の信濃出撃
- 落ち武者は薄の穂にも怖ず 見えぬ群狼が信濃を狂わす
- 惜しいことをした
大和型戦艦三番艦 戦艦信濃の下準備
「帝国海軍で最も不幸な船はどれか」、という問いがあれば、必ず名前が挙がるであろう【信濃】です。
【被害担当艦 翔鶴】や「扶桑(不幸)型戦艦」など、「不運」なエピソードが多い船は他にもいますが、【信濃】はやはり別格でしょう。
【翔鶴】は第一線で大活躍していた成果こそが目立つべき空母ですし、「扶桑型」も初の超弩級戦艦建造であることや、標的艦や練習艦としての実用がされていたこと、戦場に赴いて沈んだことなど、誕生した価値は十分あります。
一方【信濃】は何も残していません。
残したのは負の教訓のみ。
成果は「アメリカの魚雷4本を消費させた」のみ。
国家予算の4%程を使って、アメリカの魚雷4本を消費させたのみ。
これを不幸と言わずして何と言うか。
【信濃】は、「大和型戦艦」三番艦として建造が始まりますが、その前に必要だったのは、ドックでした。
6万tの超巨大戦艦を3隻(実際に起工されたのは4隻)も建造することになるのです、ドックで建造ができるのはこの時呉だけでした(佐世保の第七ドックが同規模?[11-P328])。
という事は大型の修理や改装などが発生した場合も呉にだけ頼ることになり、これは将来的に問題があるという事で、日本2番目の軍港である横須賀にも「大和型」対応の大型ドックを建造することになったのです。
昭和10年/1935年7月、横須賀海軍工廠に第六ドックの建造が始まりました。
「大和型」の修理も行えるようにするもので、後で船殻工場も建造が始まっています。[2-P167]
※修理用としてのドック建造が先にあり、その上でここで【信濃】も建造することがあとで決まったとも言われています。[4-P58]
大きさは長さ336m、幅が62m、深さは18mと、空母と戦艦のどっちでも収まるものでした。
しかし工員はここで何を建造するつもりなのか、どれだけの性能の船が出来上がるのか、これっぽっちも情報を得ていません。
不気味に思いながらも、動かすことのできないスケジュールをこなすために必死に働きました。
場所は海抜50mほどの台地であったことから、深さ20mの掘削と合わせて70m分の高さの土砂を除去しなければなりません。
連日爆発音が響き渡り、何十台というトラックが出入りします。
掘削した土砂の容積は150万㎥という小さな丘ができてしまうぐらいの量で、第六ドック建造は完成までに約5年もかかりました。
ただ台地を削るという事は絶壁の遮蔽物となりますから、呉のような山から丸見えになるという事がないのは利点でした。
使いやすくするためにもっと削って広くしようと計画していたところ、海軍から反対されたこともありました。[2-P190]
【第110号艦】すなわち【信濃】と、【第111号艦】(一説には【紀伊】)が書面上に登場したのはマル4計画です。
「大和型」としてはこの4隻までが「大和型」であり、マル5計画の5番艦からが「改大和型」や「超大和型」にあたります。
この2隻に関しても予算上の隠蔽工作があり、基準排水量は【大和】【武蔵】の35,000tよりも増えて40,000tとなりました。
もちろんこんなt数で建造できるはずもなく、今回も「夕雲型」2隻と「伊15型」の予算、そして補助艦艇のt数を全体的に水増しして【信濃、第111号艦】の建造費を賄うつもりでした。
さて、2年半も遅れての起工ですから、【大和】と【武蔵】建造によって得られたデータは存分に【信濃】へ反映されています。
まず艦底の防御を底上げします。
磁気機雷や艦底起爆魚雷の開発により、従来の水雷防御の厚みでは不足と考えられ、範囲を広げ、また機関部付近は三重底にし、二重底の部分に50mmという分厚い鋼板を貼り付けることで機関部まで絶対に被害が及ばないように徹底されました。
これは工事開始後に変更された箇所で、再設計のためにいったん工事を中断する羽目になっています。[3-P195]
この強化によって重量が約600tも増えてしまいましたが、一方で逆に薄くなった面もあります。
46cm三連装砲で【大和】に使われている装甲に対して試射を行ったところ、46cm三連装砲は完成前の予測データよりも若干貫通力が弱く、すなわち装甲が過剰であることがわかりました。
そのため、410mmの舷側装甲は400mmに、200mmの甲板装甲は190mm、560mmの砲塔鋼鉄が540mmに薄くなって、この削減分がだいたい三重底分で相殺されています。[3-P196][11-P183]
昭和15年/1940年4月7日、【信濃】起工。
この時はまだドックや船殻工場、設備が未完成であり、建造が始まったことでなおさら周辺設備の工事は急がれました。[11-P185]
3隻目の極秘戦艦の建造となりますため、こちらも例に漏れず徹底した身辺調査が行われ、外部との接触を極力遮断。
起工式の祈祷をどうするかとなったところで、なんと足場の組長だった大須賀種次という工員が神主の資格があるからと、彼にお祓いをさせるほどでした。[2-P190][11-P329]
起工時のざっくりした予定は以下の通りです。
機関搭載:昭和17年2~4月
進水:昭和18年10月
主砲搭載:昭和19年4月
呉回航:昭和19年10月
竣工:昭和20年3月[11-P184]
日米関係は【信濃】の建造が始まったころから急速に悪化し、結果として【信濃】どころか【大和】の誕生すら待たずして太平洋戦争が始まっています。
建艦計画はもちろん対米を意識したものですが、それは威圧のためであり、マジで戦争が始まりそうだとなるとリアルに役に立つ動きが求められます。
それが航空機と潜水艦の量産です。
航空機の制圧力は「日華事変」ですでに目の当たりにしているところで、また海軍としてはアメリカに対して漸減作戦を軸としていたことから、潜水艦は腐るほどあっても構わない船でした。
かつて戦艦1隻造るよりも航空機500機や1,000機を造るべきだと訴えた大西瀧治郎の懸念が日本の目の前に立ち塞がったわけです。
世界最大の戦艦がアメリカを黙らせると信じてからわずか5年のちゃぶ台返しです。
航空戦力第一への転換が明確にわかる文章があります。
昭和16年/1941年11月6日、「昭和16年度戦時艦船建造及航空兵力拡充ニ関スル件商議」として、軍令部総長だった永野修身大将は兵力整備の優先順位を述べています。
1.航空機 2.潜水艦 3.航空母艦、防備艦艇(海防艦を含む) 4.駆逐艦 5.飛行艇母艦、運送艦 6.巡洋艦
そして7が戦艦、大型巡洋艦 8.その他の艦艇です。[12-P7]
つまり戦艦なんて日米戦争において最も不要な船だと言っているのと同じでした。
協議の結果、開戦直前に戦艦建造の中止が決定。
これは戦争を仕掛けた側の日本に選択の優位であったとはいえ、自らの決断で大艦巨砲主義に終止符を打ったことに他なりません。
しかも太平洋戦争が始まる前に中止としているのも重要な点です。
日本はこの戦いの主役が潜水艦と空母や航空機になることを見越していたのです。(それであの運用に最後まで固執したのは何なの?)
アメリカのルーズベルト大統領が「モンタナ級」の建造中止を命令したのが昭和17年/1942年4月、その後も海軍では「モンタナ級」の建造は必要だという声が止まず、完全に建造が取り消されたのはさらに翌年の7月ですから、どちらに戦艦に未練があったのかは一目瞭然です。
戦艦が不要になったことから、【信濃】と、呉で起工した四番艦の【第111号艦】は建造の中断が決定します。
予想通り、日本は戦艦は航空爆撃・雷撃に弱いということを「真珠湾攻撃」「マレー沖海戦」によって証明しています。
「真珠湾攻撃」は入念な訓練を行った上での奇襲ではありましたが、「マレー沖海戦」は戦況から決まったぶっつけ本番の戦艦への攻撃で、しかも移動する戦艦相手でしたから、もう戦艦どころか水上艦を仕留めるのは航空機だというのは誰が見ても明らかでした。
起工後したものの【大和】建造にかかりきりになったために工事がずいぶん遅れていた【第111号艦】は、【信濃】のような出渠のための工事は行われていなかったようです。
太平洋戦争が始まった時、【信濃】は前部の弾薬庫の床部分、中部は中甲板付近までの隔壁、後部は弾薬庫の床以外に上部も大部分が取り付けられていて、またバルジも搭載されていた状態で、おおよそ船体工事の40~45%が進んでいる状態でした。[1-P16][2-P184][4-P66][11-P330]
ドックに残された【信濃】に対し、「百十号艦は浮揚出渠可能に至るまでの工事を促進し、早急に出渠せしむべし」という命令が出てきますが、やれ急げやれ秘密を漏らすなとガミガミ言われてきたのに、今度は邪魔だから早くどけろときたもんだ。
工員も資材も修理にやってくる船のために多くが引き抜かれ、こんなので工事が促進されるわけもなく、【信濃】の建造はゆっくりと続けられました。
船を海に出せるまでの工事は10月までに終わらせるようにというお達しでした。[4-P66]
信濃の写真を見る
参考資料(把握しているものに限る)
Wikipedia
[1]軍艦開発物語2 著:福田啓二 他 光人社
[2]航空母艦物語 著:野元為輝 他 光人社
[3]艦船ノート 著:牧野茂 出版共同社
[4]空母信濃の生涯 著:豊田穣 集英社
[5]1 US Sub Sinks a Japanese Supercarrier – Sinking of Shinano Documentary
[6]What Was The Fate of The Shinano? Japan’s Ten-Day Supercarrier
[7]『雪風ハ沈マズ』強運駆逐艦 栄光の生涯 著:豊田穣 光人社
[8]空母大鳳・信濃 造艦技術の粋を結集した重防御大型空母の威容 歴史群像太平洋戦史シリーズ22 学習研究社
[9]日本の航空母艦パーフェクトガイド 歴史群像太平洋戦史シリーズ特別編集 学習研究社
[10]図解・軍艦シリーズ2 図解 日本の空母 編:雑誌「丸」編集部 光人社
[11]日本空母物語 福井静夫著作集第7巻 編:阿部安雄 戸高一成 光人社
[12]戦史叢書 海軍軍戦備<2>開戦以後 著:防衛庁防衛研究所戦史室 朝雲新聞社
[13]沈みゆく「信濃」 知られざる撃沈の瞬間 著:諏訪繁治 光人社
[14]「信濃!」日本秘密空母の沈没 著:J.F.エンライト/J.W.ライアン 光人社