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旗風【神風型駆逐艦 五番艦】
Hatakaze【Kamikaze-class destroyer】

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起工日大正12年/1923年7月3日
進水日大正13年/1924年3月15日
竣工日大正13年/1924年8月30日
退役日
(沈没)
昭和20年/1945年1月15日
高雄港
建 造舞鶴海軍工廠
基準排水量1,270t
垂線間長97.54m
全 幅9.16m
最大速度37.25ノット
馬 力38,500馬力
主 砲45口径12cm単装砲 4基4門
魚 雷53.3cm連装魚雷発射管 3基6門
機 銃6.5mm単装機銃 2基2挺
缶・主機ロ号艦本式缶 4基
三菱パーソンス式ギアード・タービン 2基2軸
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バタビア沖海戦で奮闘 輸送を積み重ねた旗風


【旗風】
は当初は「第九号駆逐艦」として建造され、昭和3年/1928年に【旗風】となります。
【旗風】【朝風】【春風】【松風】と第五駆逐隊を編成し、第二水雷戦隊に編入されました。

昭和10年/1935年2月28日、【旗風】は訓練中に【電】と衝突しています。
【電】は前年にも【深雪】と衝突して沈没させており、1年も経たずしてまた衝突したことになります。
この時の損傷は大したことはなかったのですが、同年9月には「第四艦隊事件」が発生し、ここでも凹みやガラス破損などの軽微な損傷を負っています。

一時期第五駆逐隊は分裂していましたが、太平洋戦争開戦時は元に戻って第五水雷戦隊に編入されていました。
「フィリピンの戦い」に参加した【朝風】は、その後も「蘭印作戦」など南シナ海周辺の攻略作戦で支援を行います。

順風満帆な侵攻により、日本はジャワ島攻略に動いていました。
2月18日に大船団がジャワ島に向けてカムラン湾を出撃。
敵艦隊も「バリ島沖海戦」「スラバヤ沖海戦」で撃破し、輸送の障害はおおよそ取り除かれました。
【朝風】もこの船団の護衛として参加し、バンタム湾方面へと向かっていました。

28日に船団はメラク、バンタムに到着。
続々と輸送船から兵員や物資が揚陸されていきます。
その間【朝風】ら第五駆逐隊(【松風】別任務で不参加)は周辺海域の警戒を行っていました。

その光景を恨めしく見ている船が2隻ありました。
2隻の正体は【米ノーザンプトン級重巡洋艦 ヒューストン】【豪パース級軽巡洋艦 パース】
「スラバヤ沖海戦」を逃げ延びた2隻は、この輸送船団を見つけて一矢報いるために攻撃のチャンスをうかがっていたのです。

ただ、その姿をさらに別の存在が把握していました。
【吹雪】です。
【ヒューストン】【パース】【吹雪】に気づいておらず、また船団にも察知されていないと判断し、単縦陣でバンタム湾に突撃。
【吹雪】は急いで後を付けながら、この2隻の登場を報告します。

第五水雷戦隊司令官の原顕三郎少将は、まずは輸送船を守るために【名取】と駆逐艦でこの2隻の進路を変えて、そこから包囲殲滅しようと考えます。
しかし0時37分に【パース】が早くも照明弾を放ち、すぐさま【ヒューストン】が砲撃を開始してしまいました。
命中はなかったものの海戦が始まってしまったため、【吹雪】はここで後ろから砲撃を行い、存在を明かします。
続いて装填済みの魚雷9本を全部発射し、敵艦の混乱を誘発しました。

【吹雪】は煙幕を炊いて逃走し、続いて「吹雪型」「神風型」が次々に2隻に襲い掛かりました。
ところが【朝風】【白雪】【初雪】、そして【吹雪】の全ての魚雷が命中しませんでした。
距離は5km前後という近距離だったにもかかわらず、です。
この辺りは先日の「スラバヤ沖海戦」で命中率が壊滅的だったのと合わせ、大きな問題だったでしょう。

魚雷を失っては、巡洋艦相手に駆逐艦の出番はないに等しく、特に旧式艦の「神風型」はなおさらです。
しかも【旗風、春風】は攻撃を受けた影響で魚雷を発射することができず、砲撃は行いましたが体勢を整えるために一目散に逃げだしました。

そして午前1時20分ごろ、【最上】【三隈】【敷波】が到着します。
本命の重巡2隻が現れたところで、【ヒューストン】【パース】はより窮地に立たされます。
一時的に【三隈】は電気系統の故障により砲撃が停止してしまいますが、【ヒューストン】に複数の砲弾が命中。
【ヒューストン】の速度は徐々に低下していきました。

ここを狙って、先ほど魚雷を発射できなかった【春風、旗風】が雷撃を試みるために再び接近するのですが、【ヒューストン、パース】も当然それをわかっていますから、接近する2隻めがけてどんどん砲弾が飛んできます。
すでに建造から20年以上経過している「神風型」に飛んでくる20.3cm砲や15.2cm砲は恐怖そのものですが、なんとか【春風、旗風】共に魚雷を放つことに成功しました。
そして【春風】の魚雷発射からおよそ2分後、ついに【パース】に2本の魚雷が命中しました(夜戦のため情報不確か)。

被雷した【パース】には一気に砲弾の嵐が降り注ぎ、【ヒューストン】も2隻の重巡の到来によって被害が増大していきました。
【パース】が先に沈没し、その後動かなくなった【ヒューストン】【敷波】の魚雷で沈没。
「バタビア沖海戦」は完勝に終わった、かに見えました。

ところが揚陸地では何と次々と火の手が上がっていました。
実は【最上】の不用意な魚雷が輸送船や掃海艇に次々と命中したのです。
魚雷回避のために座礁した【龍野丸】を含めて5隻の船艇が被害を受け、そのうち【第2号掃海艇】【佐倉丸、蓬莱丸】が沈没しています。
当然戦死者も出ており、戦闘には勝利したのに自爆で大量の被害を出してしまいました。

3月10日に第五水雷戦隊は解散され、第五駆逐隊は第一南遣艦隊所属となります。
しかし5月に【旗風】は第五駆逐隊から除隊となり、【伊良湖】を伴って横須賀へ帰投、その後は横須賀鎮守府警備駆逐艦として船団や艦隊護衛任務に携わっていきました。
12月にはトラック島へ向かう途中、八丈島付近で【米ガトー級潜水艦 ドラム】の雷撃を受けた【龍鳳】救援のために駆けつけ、横須賀まで護衛しています。

2年近く警備駆逐艦の仕事をこなした【旗風】ですが、昭和19年/1944年3月、海軍は新たに特設護衛船団司令部を新設します。
マリアナやサイパン、パラオなど、当時の日本の絶対国防圏維持のために死守すべき要所の防衛力強化のため、しっかりした輸送船団を送り込む必要が出てきたためです。
海上護衛総司令部という組織が前年末に組織されていましたが、船団運用能力に長けた人材がおらず、見掛け倒しとなっていました。
そのために船団護衛を統括する組織として特設護衛船団司令部が作られ、少将クラスが指揮するようになります。

【旗風】はこの特設護衛船団司令部指揮の下、守備隊強化のための松輸送に参加することになりました。
【夕張】を旗艦とした東松三号船団は3月22日に東京から出撃。
途中【第54号駆潜艇】が雷撃を受けて沈没してしまいましたが、輸送船に被害はなく、サイパンとパラオへの輸送は達成されました。

6月18日からは連合艦隊所属となり、硫黄島や父島の輸送を行います。
しかし小笠原諸島は「マリアナ沖海戦」での敗北後により一層攻撃を受けるようになり、輸送も一筋縄ではいきませんでした。
空襲や潜水艦による被害が積み重なっていき、せっかく輸送が完了してもそれが破壊されたりと努力が水の泡となることもありました。

さらに8月5日に父島を出撃した第4804船団は、アメリカの「スカベンジャー作戦」と呼ばれる小笠原諸島に対する大規模な空襲に巻き込まれます。
この空襲で輸送船は全滅、さらに旗艦の【松】も他の艦を守るために単艦突撃という駆逐艦魂を見せつけて沈没してしまいます。
しかしこのおかげで【旗風】【第4号海防艦、第12号海防艦、第51号駆潜艇】は逃げ切ることができました。

昭和19年/1944年8月20日時点の兵装
主 砲45口径12cm単装砲 2基2門
魚 雷53.3cm連装魚雷発射管 2基4門
機 銃25mm連装機銃 4基8挺
25mm単装機銃 12基12挺
13mm連装機銃 1基2挺
13mm単装機銃 4基4挺
電 探13号対空電探 1基

出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年

「レイテ沖海戦」でも多種多様な艦が続々と沈んでいき、それに対して日本が得たものは何もないという最悪の結果を招きます。
その後はレイテ島への輸送である「多号作戦」と、フィリピン防衛のためのヒ船団と呼ばれる船団輸送が続々と行われるようになりました。

12月31日、【神威】を旗艦としてヒ87船団が日本を出発。
護衛には【旗風】を筆頭に、【浜風】【磯風】【時雨】といった歴戦の駆逐艦がおり、その他海防艦で輸送船を護衛するというものでした。
護衛対象にはかつて護衛した【龍鳳】も含まれています。

沖合を進むと潜水艦にとっても航空機にとっても有利となりますので、この時はおなじみであった沿岸沿いの航行となります。
しかし3日に台湾が空襲を受けたという報告を受け、船団は一時上海付近の舟山群島に避難。
様子を見て5日には航行を再開しますが、7日には周辺を経過していた潜水艦群に発見されてしまいます。
そのうちの【米バラオ級潜水艦 ピクーダ】の雷撃を受けて【宗像丸】が損傷しましたが、航行は可能だったので輸送は続行されました。
ですが高速で動ける【龍鳳、磯風、浜風、時雨】は船団から分離して先に基隆へと向かい、また【宗像丸】【倉橋】と対になって航行再開し同じく基隆へ、船団は高雄へ向けて先行するという、3つのグループに分かれました。

やがて【龍鳳】を送り届けた3隻の駆逐艦が船団護衛に復帰。
しかし8日に濃霧のため中港泊地に停泊中に【浜風】【海邦丸】と衝突してしまい馬公へ向けて離脱。
護衛1隻を欠いてしまいましたが、同日19時半には船団は無事高雄へ到着しました。

ただ、高雄はあくまで中継地点でしかありません。
ヒ87船団は【磯風】が本土帰投を命じられ、【旗風】は同地に留まることが決定。
再編されたヒ87船団は12日に高雄を出撃し、13日には香港に到着しました。
ヒ86船団が空襲により輸送船全てを失う大惨事となったため、台湾が攻撃される前に出撃してしまおうということでした。

しかし香港も台湾もアメリカからしたら攻撃対象であることに変わりありません。
15日は香港、台湾、馬公と周辺基地が一気に狙われ、ヒ87船団は翌日の空襲と合わせて輸送可能な船は【さらわく丸、橋立丸(高雄から加入)】だけとなってしまいました。

一方高雄でも【宗像丸】などの輸送船が残っていたため空襲を受けます。
【旗風】が動き回って必死に抵抗しましたが、多勢に無勢ですし他に戦える船もほとんどいません。
10時42分に第一、第二缶室の直上に命中した爆弾によって【旗風】は大破炎上。
恐らく浸水を食い止めることができないほどの火災が続いたのでしょう、18時ごろまで【旗風】は必死に浮かび続けていましたが、ついにそのまま高雄の海に沈んでしまいました。
太平洋戦争で最後に沈んだ「神風型」が、この【旗風】でした。