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早潮【陽炎型駆逐艦 五番艦】

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起工日 昭和13年/1938年6月30日
進水日 昭和14年/1939年4月19日
竣工日 昭和15年/1940年8月31日
退役日
(沈没)
昭和17年/1942年11月24日
ラエ沖
建 造 浦賀船渠
基準排水量 2,033t
垂線間長 111.00m
全 幅 10.80m
最大速度 35.0ノット
航続距離 18ノット:5,000海里
馬 力 52,000馬力
主 砲 50口径12.7cm連装砲 3基6門
魚 雷 61cm四連装魚雷発射管 2基8門
次発装填装置
機 銃 25mm連装機銃 2基4挺
缶・主機 ロ号艦本式缶 3基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸
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ビスマルク海海戦だけではない、ダンピールの高い通行料

【早潮】【黒潮】【親潮】【夏潮】とともに第十五駆逐隊を編制し、第二水雷戦隊に所属して太平洋戦争を迎えました。
フィリピン方面の電光石火の攻略を支援し、ダバオの空襲やレガスピー、ホロ攻略作戦に参加。
1月からは蘭印部隊として引き続き日本の快進撃を支え、メナド、ケンダリー、マカッサルといった要所を次々と手中に収めていきました。

しかし「マカッサル攻略作戦」の輸送の最中、悪天候の中で【夏潮】【米S級潜水艦 S-37】の雷撃を受けて大破。
同行していた【黒潮】が曳航を試みましたが、浸水が酷く被雷部分の中央付近が徐々に折れ曲がりはじめ、結局自沈処分されてしまいます。

早くも喪失艦を出してしまった第十五駆逐隊。
3隻のまま任務は続き、3月には【早潮】がオランダ貨物船【シグリ】を拿捕しマカッサルへ回航させます。
【シグリ】は名前を【時雨丸】と改められて雑用船として活用されました。
その後第十五駆逐隊は【加賀】を護衛してスターリング湾を出港、佐世保まで送り届けた後に自身も整備のために呉へ向かっています。

整備を終えた頃にはフィリピンの戦いも佳境を迎えていましたが、まだコレヒドールなど一部の抵抗勢力が残っていたため、第十五駆逐隊は再びフィリピンに進出することになりました。
ところが寝耳に水の出来事、4月18日の「ドーリットル空襲」で東京が【B-25】に空襲されたのです。
第十五駆逐隊は空襲後に中国大陸へ向かう【B-25】に遭遇して対空射撃を行っており、戦果はなかったものの本空襲での貴重な接敵でした。
多くの近海の船に敵空母捜索や本土警戒が命じられたのですが、【B-25】が戻ってこない今回の作戦だと発艦完了が機動部隊にとっては作戦終了であるため、当然見つけることも追いつくこともできませんでした。
またこの空襲とは関係ありませんが、【早潮】は19日にソ連商船と遭遇し臨検を実施していますが、天候悪化の中で商船を見失ってしまいます。

ゆめゆめ油断ならぬ相手だと思ったことでしょうが、第十五駆逐隊は命令通りフィリピンへ向かいます。
【早潮】は到着後にマニラ湾の封鎖部隊として従事しますが、作戦は1ヶ月もしないうちに終了。
また開戦以来所属していた比島部隊からも除かれて、第十五駆逐隊は「珊瑚海海戦」で大きな被害を負った【翔鶴】とそれを護衛する【漣】【夕暮】とサイパンで合流し、本土に帰っていきました。

あのマッカーサーも追い出し、フィリピンやシンガポールといった連合軍の重要拠点を手中に収めた日本でしたが、6月に仕掛けたザル作戦「MI作戦」が日本の明暗を分けました。
【早潮】は第十一航空戦隊として、第十五駆逐隊とは別行動となり、キューア島の攻略やミッドウェー島攻略後の水上機基地設営などが任務として与えられました。
戦隊には【千歳】【特設水上機母艦 神川丸】がいます。

ところがご存じの通り「ミッドウェー海戦」は大敗。
6月4日には第十一航空戦隊も空襲を受けて、攻略部隊全体では輸送船2隻が被害を受けるなど、こちらの動きは主力部隊以外の方面でも知られていました。
キューア島へ向かっていた第十一航空戦隊も当然引き返すことになりますが、【神川丸】と護衛の【第35号哨戒艇】は鈍足のため、一足先に【早潮】【千歳】が第二艦隊と合流。
翌日早朝には2隻も合流に成功し、また8日には敵制空権からも脱出し、自分自身が被害を受けることはありませんでした。

その悲劇から1ヶ月後の7月5日には、同じ「陽炎型」【不知火】と、【霞】【霰】がキスカ島付近でそろって魚雷を受けて【霰】が沈没、他2隻が大破という大惨事を引き起こします。
この結果第十八駆逐隊は機能しなくなり、【陽炎】が第十五駆逐隊に編入されます。
第十五駆逐隊は4隻編制を回復し、一方で第十八駆逐隊は解隊となります。

任務から編制からめまぐるしく変わる情勢の中、8月には「ガダルカナル島の戦い」に呼び出されます
この時第十五駆逐隊はインド洋の通商破壊作戦である「B作戦」に参加し、敵艦隊との衝突も想定されていたのですが、これはまずいということで作戦は中止、この後大量の艦艇が南東の島々での血みどろの戦いに身を投じてきます。

こちらでは単なる護衛ではなく、駆逐艦の高速性を活かして自分自身が物資を運ぶという鼠輸送も任されます。
輸送船をゆっくり護衛していると、強奪されたヘンダーソン飛行場や空母からの航空機がバンバン空襲してくるので被害が増える一方だったのです。
9月30日、【早潮】【親潮】とともに【日進】を護衛してカビエンを出発し、翌10月1日にショートランド泊地へ到着。
そして3日には早速ガダルカナル島への輸送が始まりました。
この時は内火艇やカッターなどの短艇を沿岸から降ろして往復させるという方法が取られていました。
輸送にはあらかた成功しましたが、雲間からの爆撃をかろうじて回避するヒヤヒヤした輸送となりました。

この時【早潮】はタサファロングから300mのところで停止し、そこから各艇で上陸するという作戦でした。
駆逐艦に乗っていれば300mなんて誤差程度。
しかし闇夜の短艇での300mは思いの外遠く、焦りを感じたと掌砲長は応えています。

一方で輸送される兵士たちも大変でした。
まず駆逐艦にはデリックがないため野砲などの重火器は搭載できません。
自然人間が運べる重さのものしか輸送できず、みな自分が持てる限りパンパンに弾薬や食料を所持し、短艇に乗って敵地に乗り込んでいったのです。
自ら持つものが尽きるとき、命も尽きると考えると、余りに短命です。
10月は3日を含めて計6回の揚陸作戦に従事しました。

また13日にはヘンダーソン基地艦砲射撃を行う【金剛】【榛名】を護衛し、さらに26日には同じく【金剛、榛名】を中心とした第二艦隊所属で「南太平洋海戦」にも参加しています。
さらには11月の激闘である「第三次ソロモン海戦」でも、【早潮】は二水戦の一員として参加。
ところが当時は【神通】不在、さらにその後を継いでいた【五十鈴】が12日に空襲を受けてしまったことで、作戦中に旗艦が【早潮】に変更されることになったのです。
「第三次ソロモン海戦」での二水戦は輸送任務だったので戦闘に直接参加してはいませんでしたが、あの戦いの二水戦の指揮を執っていたのは【早潮】でした。

しかし「第三次ソロモン海戦」の第一夜は大混戦の末に【比叡】が沈没して日本は敗北を喫し、また敵への被害も大きいとはいえ、もともと敵基地の無力化を狙った作戦でしたがそれも達成しなかったことで輸送も中止。
14日には空襲を受ける中輸送船を擱座させてまで揚陸を強行したのですが、6隻が空襲で沈没、1隻が撤退、残り4隻の強行輸送もその後の攻撃で物資などが破壊され、輸送実績としては散々なものになってしまいます。
2隻の沈没、輸送も僅かで、ヘンダーソン飛行場は健在。
「第三次ソロモン海戦」も日本の敗北に終わり、日本はいよいよ決断に迫られます。

ただ本土の机で仕事をする人たちが決断するまでは戦いを続けなければなりません。
この時ブナ、ゴナの輸送強化が急がれていたのですが、その一員だった【海風】が空襲による損傷で撤退を強いられ、【早潮】が代わりにこの輸送に加わることになります。
ちなみに二水戦旗艦は16日に【長波】に引き継いでいます。
23日にラバウルへ入った【早潮】は、休む間もなく翌日はラエ輸送作戦の一員として、同じくラバウルに到着したばかりの【磯波】【電】【春雨】【白露】とともにラバウルを出港、夜半にラエへ到着する予定でした。
しかしダンピール海峡に差し迫ったところで上空に謎の航空機が現れます。
判別はつきませんが、艦内には緊張が張りました。

そしてダンピール海峡を抜けたところで、やはり敵襲がありました。
【早潮】【B-17】の接近を許し、背後から爆撃を受けて至近弾で2番砲塔が使用不可、3番砲塔射撃装置が故障したことでほぼ無力化されてしまいます。
また至近弾で左舷の機械室に浸水が発生して機能停止、【早潮】の脚は途端に遅くなりました。
続いて吊光弾が投下され、機銃が一斉に【早潮】に襲い掛かりました。

猛攻を受けて輸送隊は輸送を断念し撤退を開始し、また【早潮】も応急修理によって速度を28ノットまで回復させましたが、その後も至近弾や直撃弾により【早潮】はいたぶられていきます。
特に艦橋前の直撃弾による火災は凄まじく、やがて輸送物資の弾薬にも引火して更に爆発が発生します。
大炎上する【早潮】は弾薬や魚雷の誘爆の危険も残っていて、救助のために接近した【春雨】も接舷できないほどでした。

火焔地獄と化した【早潮】は総員退去が命令され、みな次々と脱出していきます。
幸いだったのは、これだけ燃えていても【早潮】は爆沈をすることがなく、炎上しながらも浮き続けていたことです。
しかしそれでも44名の戦死者を数えており、定員から見るとだいたい5分の1ほどがなくなっている計算です。
最後は【白露】が砲撃処分し、魚雷が誘爆して【早潮】の艦生は終わりを告げました。

駆逐艦
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※1 当HPは全て敬称略としております(氏をつけるとテンポが悪いので)。

※2 各項における参考文献、引用文献などの情報を取りまとめる前にHPが肥大化したため、各項ごとにそれらを明記することができなくなってしまいました。
わかっている範囲のみ、各項に参考文献を表記しておりますが、勝手ながら今は各項の参考文献、引用文献をすべて【参考書籍・サイト】にてまとめております。
ご理解くださいますようお願いいたします。

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