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浜風【陽炎型駆逐艦 十三番艦】その2

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人命救助に邁進 大和型の結末を全て目に焼き付ける

一大決戦で全く成果を残すことなく、犠牲だけを量産した「マリアナ沖海戦」
その後サイパンは陥落し、すでに2月の段階でトラックも破壊されていた日本にとってはシンガポールやフィリピンだけが頼みの綱でした。
逆に言えば、連合軍の次の標的はこの2つとなります。
もはや戦える戦力は限りがあり、しかも第十戦隊が守るべき存在である機動部隊は張り子の虎も同然。
事ここに至り、ついに日本は敵が最も欲しい獲物であろう空母群を囮にし、全軍でフィリピンレイテ島に突入して艦砲射撃や船団撃滅を図るという策を絞り出します。

【浜風】ら第十七駆逐隊はこの「捷一号作戦」の中で本隊ともいえる栗田艦隊に所属します。
第十戦隊ではありましたが、この戦いでは機動部隊には「秋月型」「伊勢型」など対空兵装が充実した艦が多く割り当てられました。
第十七駆逐隊は【金剛】【榛名】の第三戦隊を護衛することになりました。

10月22日、栗田艦隊はブルネイを出撃します。
目指すはレイテただ一つ、だったのですが、第一の難所であるパラワン水道でいきなり第一遊撃部隊の旗艦であった【愛宕】【高雄】【摩耶】が次々に被雷。
【愛宕】【摩耶】は沈没し、【高雄】は撤退と、いろんな意味で有用な船であった「高雄型」を突然3隻も失ってしまいました。

さらに24日の「シブヤン海海戦」では敵影ゼロの中寄せては返す荒波のように空襲があり、この中でひときわ巨大な【武蔵】に徐々に攻撃が集中します。
【武蔵】は莫大な浸水を抱えてとても随伴することができず、艦隊から落伍し始めました。
【浜風】もこの空襲の雨の中で至近弾1発、ロケット弾2発の被弾があり、この影響で最大速度が28ノットに低下。
全力航行ができなくなったこともあり、【武蔵】を護衛していた【清霜】【島風】【利根】に加わり、コロンへの撤退を護衛することになりました。
しかし同じく被弾損傷のあった【清霜】とは違い、【島風、利根】は元気だったので、【摩耶】から【武蔵】が救助した乗員を【島風】が引き受けて戦列に復帰し、護衛は【浜風、清霜】の2隻だけとなりました。

【武蔵】の離脱が決定したものの、その浸水はあまりに酷く、傾斜もゆっくりと、しかし確実に大きくなっていきました。
ついに万事休す、総員退去命令が出てから、海に飛び込む者たちを【浜風、清霜】が次々と救助していきます。
しかし相手は海を進む巨城である【武蔵】、しかもそれはいずれこちら側に倒れこんでくるわけですから、そう簡単に船に接近できません。
実際に接舷命令が【武蔵】からあったのですが、無理な行動をとればこちらが傾斜の波や接触で破壊されてしまいます。

いよいよ傾斜が強まってきたので、2隻は急いで【武蔵】から離れます。
世界最強戦艦の一翼を担った【武蔵】の沈没を間近で目撃しながら、その衝撃が落ち着いてから再び救助活動を再開。
結果的に2隻で1,400名ほどの生存者を救助し、その後コロンまで撤退しました。

遠方から仲間の吉報を待ちましたが、ブルネイに帰ってきたのは出撃した時よりも明らかに少ないメンバーと、勘違いで撃沈した敵護衛空母他僅かな戦果。
結局「レイテ沖海戦」もまた大敗北に終わったのです。

11月16日、ブルネイにいた【大和】【長門】【金剛】【矢矧】と第十七駆逐隊は日本に向けて出発。
出発時はほかに【梅】【桐】がいたのですが、天候悪化の影響でこの2隻は台湾沖で任務が解かれて艦隊から離れています。
この2隻が離れた後、またしても不幸が起こりました。

【米バラオ級潜水艦 シーライオン】は、荒ぶる波の中をひた走る日本艦隊の姿を捉えていました。
【シーライオン】は粘り強く追跡を続け、ついに21日午前3時ごろ、必殺の魚雷を発射。
この魚雷は【金剛】に2本命中し、また【長門】を掠めて1本が【浦風】に命中します。
【金剛】は魚雷を受けてからも健在だったのですが、その被害に気を取られた裏で【浦風】は瞬殺されていました。
ふと見ればポッカリと空いた【浦風】の席。
【浦風】の隣にいた【雪風】だけはほかの艦よりも早く【浦風】の沈没に気付いていたようですが、その轟沈の一部始終と【金剛】の被害状況から、まずは潜水艦の捜索と【金剛】の護衛を優先したのです。

一方戦艦の縦列の逆側にいた【浜風、磯風】はそんなことに全く気付かず【金剛】のそばで不測の事態に備えます。
当初の傾斜は酷くなかったのですが、しかし第一次世界大戦前に竣工した戦艦が、特にここ4年ほどは酷使されまくり、さらにはつい1ヶ月ほど前の「レイテ沖海戦」でも至近弾を浴びていた【金剛】です。
老朽化は見えないところで着実に【金剛】を蝕んでおり、この2本の魚雷と浸水に耐えることができませんでした。
最新の戦艦が沈没し、今度は最年長の戦艦が沈没。
【浜風】は再び救助作業に汗を流しました。
しかしこの【金剛】の最期を固唾をのんで見守っていたことで、僚艦【浦風】の死に立ち会うことはできませんでした。
【浦風】乗員、全員戦死。

「レイテ沖海戦」や【金剛、浦風】、そして「多号作戦」の犠牲者が海軍の未来をよりどす黒く塗りつぶしていきます。
そんな中本土に戻ってきた【浜風】は、まだ微量な光を放つ希望を護衛することになりました。
「大和型戦艦」から急遽空母に改装された【信濃】です。
現実的には「エンガノ岬沖海戦」で空母を捨て駒にしている時点で新空母の役割なんてないに等しいのですが、一応大型機の【流星】とか【彩雲】が発艦可能ではあります。
横須賀で艤装を行っていた【信濃】ですが、横須賀の空襲や潜水艦出没の危険性、工事環境の問題などから呉で残工事を行うことになり、その護衛に残された第十七駆逐隊が選ばれたのです。

満身創痍で25日に横須賀に戻ってきた【浜風】ですが、この任務を受けるにあたって懸念材料はいくつもありました。
まず1ヶ月以上の長旅の中で乗員は疲弊したまま。
続いて【浜風】は最大速力28ノットしか出ないうえに水中聴音機が修理が必要な状態になっていました。
そして第十七駆逐隊旗艦だった【浦風】が沈没したことで司令は不在のまま、さらには駆逐艦側の昼間沿岸航路案が却下されて夜間高速外洋航路が採用されたこと。
駆逐艦側の状況はほとんど考慮に入らない中で、近くて遠い横須賀-呉間の輸送が28日に始まりました。

駆逐艦が懸念したのはやはり潜水艦です。
水中聴音機の調子が悪いのは【浜風】だけでなく3隻ともで、こうなると乗員の目視だけが頼りな状態でした。
ただ見張りについても相当体力と精神力を消耗する任務であるにもかかわらず体力は戻っていないため、駆逐艦側はこれを懸念したわけです。
そしてこの不安通り、【信濃】はその日の夜に【米バラオ級潜水艦 アーチャーフィッシュ】に見つかります。

一行は潜水艦に見つかっても追いつかれないように、当時の【信濃】が発揮できる最大速度20ノットほどで進むことが予め決まっていました。
「バラオ級潜水艦」の最大速力は19~20ノットのため、この速度だと追いつかれることはありません。
しかもこれは水上での速度ですから、こちらが見つけていったん潜らせてしまえばもっと距離が稼げます。

ひとまずこの対応で【アーチャーフィッシュ】からの雷撃は受けずに済んでいた4隻。
【浜風】達は何者かが近くにいることも察知しており警戒は怠りませんでしたが、【信濃】から1隻でも離れると護衛がスカスカになるため艦長の阿部俊雄(当時大佐)大佐からは積極的な行動を許されていませんでした。
いったん【浜風】が前方6,000mの距離にいた【アーチャーフィッシュ】に迫る行動をとったのですが、護衛が減ると不意打ちを受ける恐れがあるため、【信濃】に制止されて引き返しています。

このような幸運もあって【アーチャーフィッシュ】はぎりぎりのラインでの追跡を続けていたのですが、ついに日本側に隙が生まれました。
魚雷を警戒するあまり、之字運動を取り始め、また推進軸の加熱により速度が落ちてしまったのです。
速度が落ちる絶好のチャンスを、【アーチャーフィッシュ】は逃しませんでした。

29日3時13分、【アーチャーフィッシュ】は6本の魚雷を発射。
駆逐艦の警戒を尻目に、【信濃】に4本(諸説あり)の魚雷が命中しました。
「大和型」の構造上、4本の魚雷でも沈まないことは【武蔵】が証明してはいますが、この時の【信濃】は全く戦時体制ではありませんでした。
何といってもまだ工事中ですから、戦うための人員も装備もオペレーションも組まれていないのです。

工事の配線がそこかしこに伸びていて、それが防水ハッチを閉める障害になります。
流れ込んだ海水は縦横無尽に【信濃】内を駆け回り、怒涛の勢いで浸水していきます。
再び速度を上げて【アーチャーフィッシュ】からの離脱には成功、また注水により一時的な傾斜回復はできました。
しかしこれが精一杯、圧倒的な人手不足と、被弾被雷時の訓練なしの工員ではどうあがいても「大和型」は守れません。

一方護衛の3隻ですが、一応曳航を試みましたが当然失敗。
70,000t近い【信濃】が水をがぶ飲みした状態なのですから、2,000t52,000馬力の「陽炎型」にできることは、脱出した人たちを助けることだけでした。
午前11時前に、当時世界最大の空母だったか、そうなるはずだったかの【信濃】は沈没しました。

救助中、水雷長が追撃を恐れて前川万衛艦長(当時中佐)に救助の切り上げを具申します。
しかし前川艦長「ここに泳いでいる人達は、我々が助けねば誰も助けてくれないだろう。それははっきりしている。 だが我々が救助の中で敵の攻撃を受けるかは運だ。だったら最後の一人まで助けようではないか」 と答えました。
これまで幾度も激戦地に派遣され、そして数えきれないほどの人員を助けてきた【浜風】の実績と運に賭けたのです。
そしてこの賭けには見事勝利をします。
3隻の駆逐艦は1,000名以上の乗員を救助し、翌日呉に到着しました。
無駄にでかいドックの使い道はもうありませんでした。
【信濃】沈没の教訓として、九三式水中探信儀が三式探信儀に換装されたりしていますが、遅い遅すぎる、この失敗は犠牲に見合いません。

束の間の休息を得た【浜風】達でしたが、過酷な任務はまだ終わりません。
12月31日、【浜風】【磯風、時雨】、そして護衛の海防艦とともにヒ87船団を護衛してシンガポールに向かうことになります。
本当なら【雪風】もこの護衛に加わるはずだったのですが、前日に機関故障があったことで参加できなくなりました。
1隻でも大きな離脱です、何といってもシンガポール輸送は最重要航路、すなわち極めて危険な輸送だったからです。
【雪風】の離脱により、【浜風】は第十七駆逐隊旗艦となりました。

この輸送では【浜風、磯風】の護衛は台湾の高雄までで、そこからは【時雨】と追加の海防艦が担うことになっていました。
昭和20年/1945年1月3日、中国大陸の湾岸沿いに船団は進んでいましたが、台湾が空襲されたことで舟山群島と杭州湾付近の嵊泗列島で一時待機。
この船団には貴重な貴重な【龍鳳】も含まれていたので、駆逐艦3隻はみんな【龍鳳】を護衛して嵊泗列島で息を潜めてやり過ごしました。

しかし空襲は避けたものの7日には潜水艦群に発見されてしまします。
このうち【米バラオ級潜水艦 ピクーダ】の発射した魚雷が【宗像丸】に命中。
沈没はしませんでしたが危機が迫っていることから船団は一時的に分裂します。
まず【龍鳳】と3隻の駆逐艦が急いで基隆へ向かいます。
一方で被雷した【宗像丸】には【倉橋】の護衛がつき、残りの船団はそのまま航行を続行させました。

基隆まで【龍鳳】を送り届けたところで、【浜風、磯風】は今度は【宗像丸、倉橋】の護衛に加わり、続いてこの2隻も基隆まで護衛しました。
一方本体のヒ87船団ですが、濃霧に進路を塞がれたために中港泊地にて仮泊することになりました。
【浜風、磯風】もここに向かい合流するのですが、到着後に【浜風】は視界劣悪の中で【海邦丸】と衝突してしまいます。
被害は大きくなかったものの浸水があったことから、旗艦は【磯風】に変更され、【浜風】はここから馬公に向かうことになり護衛から離脱しました。

応急修理を受けて【浜風】が呉に戻ったのは1月25日。
この間に護衛してきたヒ87船団が受けた仕打ちはあまりに残酷なものでした。
あの【時雨】もこの船団護衛中に命を落としています(【磯風】は高雄までの護衛だったので無事)。
【浜風】達が受ける任務は、もはや日本の延命措置ではあっても救命措置にはならなくなりました。

3月26日、連合軍が沖縄本島に上陸を開始。
沖縄が陥落すればいよいよ九州を始まりとして本土決戦が現実味を帯びてきます。
「沖縄戦」は住民を巻き込んだ死闘となりました。
海軍も残された戦力を日本防衛のためにつぎ込みます。
これは【大和】を敵陣に突撃させるという、事実上海軍の最後の戦いになるものでした。

同日「天一号作戦」が発動され、第十七駆逐隊はもちろんこの作戦に参加。
【大和】以外は第二水雷戦隊として編制され、【矢矧】牽引の元、4月6日に一行は徳山沖を発ちます。

ところが翌7日早朝、移動中に【朝霜】が機関故障を起こして速度が半減します。
昨日の出航直後ならまだしも、今はもう護衛に就いてくれた3隻の駆逐艦(【花月】【榧】【槇】)もいません。
どんどん本隊から離れていく【朝霜】の姿。
必ず修理を行って追いついてくれる、そう願ったことでしょうが、【朝霜】はこの後「我敵機と交戦中」という通信を最後に、二度と【浜風】達の前にその姿を見せることはありませんでした。

その【朝霜】の行く末を案じる時間もあまりありません。
我らの行く手についに大編隊が押し寄せてきたのです。
「坊ノ岬沖海戦」が始まりました。

敵艦影を見ない戦いももう何度目か、自慢の主砲は今回も曇天に向けて火を噴くばかりでした。
いくら増強された対空兵装でも、敵機の数があまりに膨大で全方面に対処などできません。
機銃がうなる中、【浜風】は左舷から迫ってくる魚雷を回避するために思いっきり舵を切りました。
おかげで魚雷は寸でのところで回避できましたが、そこに運悪く上空から爆弾が落ちてきました。
艦尾を襲った爆弾は推進器も破壊し、火災発生とともに【浜風】は航行不能となりました。

この火災は早々に鎮火に成功したようですが、速度を落としていた【浜風】に再び雷撃機が襲い掛かりました。
投下された魚雷は【浜風】の右舷中央部に直撃し、【浜風】を絶命たらしめました。
大爆発を起こした【浜風】は被雷箇所で真っ二つになり、轟沈します。

各々自らの身を守ることすら困難な大空襲で、【浜風】の轟沈を悔しがる暇すらありません。
蹂躙は続き、【磯風】も至近弾で大浸水を引き起こして、まるでオールで漕いでいるかのような速度で離脱しようと北上していました。
この大量の爆撃、雷撃、そして機銃掃射によって何千という命が無残に散り、そして最後には【大和】沈没という形で「坊ノ岬沖海戦」は終焉しました。

幾多の戦いに参加し、幾多の救助に参加し、何千という命を救い出してきた【浜風】
その【浜風】乗員の兵士たちは、最後は【初霜】に256名が救助されました。

【浜風】の慰霊碑に刻まれている言葉です。

「第二次大戦中作戦参加の最も多い栄光の駆逐艦であり、数々の輝かしい戦果をあげると共に、空母蒼龍、飛鷹、信濃、戦艦武蔵、金剛、駆逐艦白露等の乗員救助およびガダルカナル島の陸軍の救助等、人命救助の面でも活躍をして帝国海軍の記録を持った艦である。」

【浜風】が太平洋戦争中に救助した人命は5,000人はくだらないと言われ、戦果だけではなく、人命救助の功績が燦然と輝く武勲艦となっています。

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