
起工日 | 昭和5年/1930年2月21日 |
進水日 | 昭和7年/1932年6月16日 |
竣工日 | 昭和8年/1933年3月31日 |
退役日 (除籍) | 昭和20年/1945年10月5日 |
建 造 | 舞鶴海軍工廠 |
基準排水量 | 1,680t |
垂線間長 | 112.00m |
全 幅 | 10.36m |
最大速度 | 38.0ノット |
馬 力 | 50,000馬力 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 3基6門 |
魚 雷 | 61cm三連装魚雷発射管 3基9門 |
機 銃 | 12.7mm単装機銃 2基2挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式缶 3基 艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
幸運ではなく、不死身 必ず復活して戦い続けた響
【響】は【暁・雷・電】の「暁型」4隻で第六駆逐隊を編成します。
太平洋戦争では「カムラン湾哨戒、ジャワ作戦船団護衛、バタビア沖海戦」と開戦当初から戦地へ赴きます。
昭和17年/1942年5月のキスカ島攻略時には、島の占領が完了した直後に米航空機の空襲を受けてしまい艦首が脱落。
幸い沈没は免れ、また浸水も辛うじて抑えることができました。
その後、【暁】に曳航されてキスカ島へ、そして大湊までゆっくりと戻っていきます。
この修理の影響により、【響】は「ガダルカナル島の戦い」に参加できず、1隻だけで護衛任務を行うことになりました。
そしてこの最中に、【響】を曳航してくれた【暁】が「第三次ソロモン海戦」にて沈没しています。
多くの空母の護衛を着々とこなしていた【響】でしたが、その最中に【響】は再びキスカ島へと向かうことになります。
その目的は当時とは全く真逆のもので、今度は撤退作戦でした。
この「キスカ島撤退作戦」は史上まれに見る損害ゼロでの撤退作戦で、米軍も日本軍が綺麗さっぱりいなくなってから初めて撤退したことに気づいたほど、隠蔽性に優れた作戦でした。
【暁】に守られた【響】が今度は陸軍兵士を守るために、霧に紛れてキスカ島へ進出。
【響】は418名を救出し、たった1時間でこの作戦を完遂します。
昭和19年/1944年には2番砲塔を撤去し、25mm単装機銃2基、連装機銃2基と22号電探が装備されました。
その後も護衛任務を中心に活動していた【響】ですが、4月には【雷】が潜水艦に襲われて沈没(とされています)。
さらに悲しいことに、5月には【電】とともに補給船護衛を行っている最中で、2隻の持ち場を交代。
そしてその30分後、【電】は目の前で【米ガトー級潜水艦 ボーンフィッシュ】の雷撃によって撃沈します。
【響】は慌てて【ボーンフィッシュ】の行方を探しますが、すでに【ボーンフィッシュ】は戦場を離脱、【響】は急いで生存者を救出するのですが、残念ながら169名もの死者を出してしまいました。
昭和19年/1944年7月20日時点の兵装 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 2基4門 |
魚 雷 | 61cm三連装魚雷発射管 3基9門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 4基12挺 25mm連装機銃 1基2挺 25mm単装機銃 14基14挺 |
電 探 | 22号水上電探 1基 13号対空電探 1基 |
爆 雷 | 九四式爆雷投射機 1基 |
出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年
1隻となってしまった第六駆逐隊は解散し、【響】はその後も輸送任務に精を出すのですが、9月には高雄出港直後に【輸送船 永治丸】が機雷に触雷して爆沈。
【響】が救助を行うために接舷しようとするのですが、その際に【響】もまた触雷、再び艦首に亀裂が入り、少し垂れ下がってしまいました。
高雄で艦首修理を行うものの、空襲の頻度は増す一方で、修理中も死傷者が発生します。
さらに赤痢も蔓延する非常事態となり、【響】は急ぎ佐世保へと避難することになりました。
この時、ともに航行していた【運送船 護国丸】の護衛も兼ねていたのですが、赤痢の危険性が増したために止むなく両者単独航行を選択、その結果、【護国丸】は【米ガトー級潜水艦 バーブ】の雷撃によって沈められてしまいます。
その後、呉、横須賀と移動するのですが、そこで赤痢菌の滅菌のために一時隔離されます。
昭和20年/1945年1月、滅菌が完了したのち、ようやく【響】は修理を行います。
この時、応急処置としてすでに取り払われていた1番砲塔を【潮】から移設し、そして第二水雷戦隊第七駆逐隊に編入されます。
しかし第七駆逐隊の相棒である【潮】はもはや航行は叶わず、編入されたものの【響】はまだ一人ぼっちでした。
やがて3月、「天一号作戦」が計画されます。
【大和】をはじめとした残存勢力で、沖縄への上陸を何としても阻止するための特攻作戦には【響】も選ばれました。
しかし幸か不幸か、出撃してしばらくもしないうちに【響】はまたしても機雷に触雷し、電源系統が破損してしまいます。
結局【朝霜】に護衛されて【響】は呉へと引き返すのですが、途中で9ノット程度での航行が可能になり、【朝霜】は【響】と別れを告げ、死地へと戻っていきました。
そして彼女も、坊ノ岬沖で沈んでしまいました。
【朝霜】は、交戦前に機関が故障していました。
【響】はこれを最後に、呉から舞鶴、そして新潟港で防空砲台として半年近くを過ごします。
そして8月15日、日本は敗戦します。
何度も戦い、そして傷ついた【響】でしたが、戦後にもまだまだ仕事は残っています。
まずは復員船として14回各地と日本を往復。
そしてその任も一段落した後、【響】は賠償艦として寒いソ連へと引き渡されることになりました。
ソ連では名を『ヴェールヌイ』と改めます。
日本語で、「真実の 信頼できる」という意味を持ち、まさに不死身の【響】に相応しい艦名でした。
その後の兵装に関しては不明ですが、【響】は昭和23年/1948年7月5日、引き渡されてからちょうど1年後に退役、その後練習艦の期間を経て昭和28年/1953年除籍、1970年代に標的艦として処分されました。
【響】はすぐ近くで多くの艦の最期を見続けてきましたが、【響】はどの艦よりも長生きすることで、彼女たちに思いに応えています。