広告

青葉【青葉型重巡洋艦 一番艦】
Aoba【Aoba-class heavy cruiser First】

記事内に広告が含まれています。

①昭和2年/1927年(竣工時)
②昭和15年/1940年(改装完了後)

起工日大正13年/1924年2月4日
進水日大正15年/1926年9月25日
竣工日昭和2年/1927年9月20日
退役日
(解体)
昭和22年/1947年7月1日
建 造三菱長崎造船所
基準排水量① 7,100t
② 9,000t
全 長① 185.17m
垂線間幅① 15.80m
② 17.60m
最大速度① 34.5ノット
② 33.4ノット
航続距離① 14ノット:7,000海里
② 14ノット:8,233海里
馬 力① 102,000馬力
② 104,200馬力

装 備 一 覧

昭和2年/1927年(竣工時)
主 砲50口径20cm連装砲 3基6門
備砲・機銃45口径12cm単装高角砲 4基4門
魚 雷61cm連装魚雷発射管 6基12門(水上)
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 混焼2基 重油10基
三菱パーソンス式ギアード・タービン 4基4軸
その他水上機 1機
昭和15年/1940年(改装)
主 砲50口径20.3cm連装砲 4基8門
備砲・機銃45口径12cm単装高角砲 4基4門
25mm連装機銃 2基4挺
13mm連装機銃 2基4挺
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 2基8門(水上)
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 重油10基
三菱パーソンス式ギアード・タービン 4基4軸
その他水上機 2機
「テキパキ」は設定上、前後の文脈や段落に違和感がある場合があります。

広告

「ソロモンの狼」と呼ばれた不死身の重巡 青葉

大正15年/1926年に「古鷹型重巡洋艦」が2隻建造されましたが、その欠点は明白でした。
20cm単装砲6基、これはすべて人力装填でした。
軽量化というメリットは出たものの、これでは次発装填中に敵に狙い撃ちされても、反撃に時間がかかってしまいますし、長期戦になって砲塔内の弾薬が減ってきた場合、いちいち弾薬庫から砲弾を持ち上がらなければなりません。
もともと「古鷹型」を設計した平賀譲は、「古鷹型に連装砲はムリだ」として連装砲の装備に否定的だったのですが、それを強引にねじ込んだ形になったのが「改古鷹型」とも言われる「青葉型重巡洋艦」です。

本来「青葉型」【青葉】【衣笠】「古鷹型」の三番艦、四番艦となるはずでした。
しかし上記のような欠点があったことから、この三番艦、四番艦を再設計することでより強化させることになります。

基本設計は「古鷹型」と同様ですが、当然主砲は「古鷹型」の人力単装砲から機力連装砲である20cm連装砲へ強化。
また、【青葉】【衣笠】がカタパルトを搭載した翌年に自身もカタパルトを搭載しています。

「古鷹型」の船体には多少の余裕があったとは言え、連装砲化に加えて竣工後のカタパルト搭載は、徐々に【青葉】を蝕んでいきました。
そのため、昭和11年/1936年から「古鷹型」の2隻と妹の【衣笠】とともに改装工事に入っています。
「古鷹型」の改装は、「青葉型」に倣って行われています。
「青葉型」の2隻はこの時に砲塔を撤去せずに既設の砲塔口径を3mm削った20.3cm連装砲へ、「古鷹型」は単装砲をごっそり入れ替えて新しい20.3cm連装砲を搭載しています。
なので、同じ20.3cm連装砲でも砲の形に若干の違いが見られます。

出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ

改装後の公試中の【青葉】

【青葉】「古鷹型」の2隻と【衣笠】の4隻で第六戦隊を編成し、太平洋戦争に挑みます。
「真珠湾攻撃」の直後に繰り広げられた「ウェーク島の戦い」では予想外の苦戦と駆逐艦2隻の沈没という憂き目を見たため、増援部隊として【蒼龍】【飛龍】【利根】【筑摩】【浦風】【谷風】、そして第六戦隊の4隻、計10隻を送り込んで思いっきりねじ伏せています。
一方、5月の「珊瑚海海戦」では【祥鳳】の護衛を任されますが、初の航空戦に適応できずに【祥鳳】を守り切ることができませんでした。
残念なことに、【祥鳳】はこれが空母に改装されてからの初陣でした。

続く「第一次ソロモン海戦」では、偵察機による索敵を成功させ、その後の一方的な戦況をアシストしています。
この戦いは元【青葉】艦長である三川軍一長官率いる第八艦隊の大手柄で、旗艦【鳥海】以外は半ば寄せ集めのような艦隊にもかかわらず、多数の敵艦を撃破しています。
魚雷発射管に被弾するという危機も幸い小破ですみ、上々の戦果を上げました。

しかしその帰り道、対潜警戒が緩んだところに【米潜水艦 S-44】の魚雷が【加古】を襲います。
3発の魚雷を受けた【加古】はあえなく撃沈。
第六戦隊の4隻での日々はここに終わりを告げました。

続く「サボ島沖海戦」は想定外の海戦でした。
難攻不落のヘンダーソン飛行場基地の砲撃に備えて【青葉】はガダルカナル島へと進んでいたのですが、前方に艦影が確認されます(アメリカ側は、カタパルト上の偵察機が火災を起こして、この炎が【青葉】は島の陸軍が合図のために火を焚いたと思い込んだのではないか、としています[1-P311])。
これを【青葉】は先に揚陸作戦のために向かった、【日進】【千歳】と早とちりしてしまいます。
【青葉】はその艦影に向けて「ワレアオバ」という発光信号を放ちました。
しかしそれが敵艦隊だったため、返ってきたのは無慈悲な砲弾の嵐でした。

初弾がいきなり【青葉】に直撃し、これは二番砲塔を貫いて内部を完全に破壊。
その後後部の三番砲塔の背面にも直撃し、こちらも砲塔を貫通。
さらには艦橋も砲弾が貫通し、ここで第六戦隊司令官の五藤存知少将や副長の中村謙治中佐が戦死した他、多くの士官が死傷します。

艦橋と主砲を破壊された【青葉】は、反撃する間もなく一瞬で大破。
その後も容赦なく攻撃を受けた【青葉】は、乗員の7割もの死傷者が発生するものの、弾薬庫と機関を守りぬいて煙幕を張りながら命からがら逃げ延びます。
その道を作ったのは【古鷹】でした。
旗艦の危機に、【古鷹】は探照灯を敵艦隊へ放ちながら突撃します。
【青葉】の前に割って入った【古鷹】は、【青葉】の離脱のために攻撃を一手に引き受けました。
しかしその結果、【古鷹】は沈没してしまいます。

【青葉】の名誉のために記述すると、当時は敵艦隊の存在はないという前情報を持って進軍していたため、艦影が敵味方どちらのものかを迷う余地があまりなかったのです。
アメリカ側もレーダーで何かを捉えていたのですが、それが日本の艦隊だという認識はなく、ぐちゃぐちゃなやりとりの末に結果オーライで【青葉】に先制攻撃ができただけで、これは完全に運の善し悪しが招いた事態でした。
この海戦では混乱したのはアメリカも同じで、致命傷にはなっていないものの同士討ちが発生していました。

【古鷹】と、1,500mという超至近距離で撃ちあった末に沈没した【吹雪】を失い、【青葉】は急ぎ呉へ帰投して修理に入ります。
この時、海戦で大破した後方の20.3cm連装砲は撤去され、代わりに25mm三連装機銃に換装されています。
その間に、「サボ島沖海戦」で無事だった【衣笠】「第三次ソロモン海戦」で撃沈され、ここに第六戦隊は解散することになりました。

1隻になってしまった【青葉】は、修理を終えてトラック泊地へ移動、その後ニューギニア島のメウエパセージ港に停泊しますが、4月3日、突如現れたアメリカ軍の空襲に見舞われます。
夜であたりが暗かったためにやり過ごす予定でしたが、いきなり意図せず急接近してきた航空機が現れて慌てて発砲。
結局小規模ながら砲撃戦が始まりました。
そこで投下された爆弾は魚雷に引火してしまい、瞬く間に後部が大炎上してしまいます。
このままではたちまち沈没してしまうと判断した艦長は、急遽船体を浅瀬に乗り上げて難を逃れます。

一命を取り留めたものの、【青葉】は再び大破。
しかも擱座しているため、この状態で空襲に合えば今度こそおしまいです。
そこで乗員がとった行動は、【青葉】を島の一部に偽装するというものでした。
周辺の木を伐採して船体を多い、1ヶ月かけてゆっくりと排水、修理。
通称「青葉島」と呼ばれたこの偽装はついにバレることなく、【川内】に曳航されて【青葉】はこっそりと脱出しました。

最悪の局面を切り抜けた【青葉】はひとまずトラック島まで逃げ延びて【明石】の応急修理を受けることになります。
7月25日にトラック島を出発、呉で11月24日まで修理を受けました。
この時、【青葉】を航空巡洋艦や高速給油艦へ改造する案も浮上していましたが、結局却下されています。
その後の12月15日、【青葉】は三度戦地へ赴きますが、この時機関部の修理はなされなかったため、最高速度は28ノットにまで低下してしまいます。

昭和19年/1944年3月時点の主砲・対空兵装(推定)
主 砲50口径20.3cm連装砲 3基6門
副砲・備砲40口径12cm単装高角砲 4基4門
機 銃25mm三連装機銃 1基3挺
25mm連装機銃 6基12挺

出典:[海軍艦艇史]2 巡洋艦 コルベット スループ 著:福井静夫 KKベストセラーズ 1980年

この速度低下は戦場での活躍を許しませんでした。
【青葉】は以降、輸送任務につき後方支援の役割を担います。
この後方支援の相棒は多くが【鬼怒】だったようです。
そんな中、「レイテ沖海戦」のための兵員輸送に従事していると、【米ガトー級潜水艦 ブリーム】の魚雷が【青葉】を襲いました。
機械室側部に直撃した魚雷は船体を13度傾斜させ、【青葉】はまたも大破してしまいます。

【鬼怒】に曳航されてマニラへ避難し、応急処置を受けますが、今回の大破は相当ひどく、発揮できた速力はわずかに5ノット。
もはや戦地でできる任務はなく、【青葉】は台湾を経由して【熊野】とともに呉へ戻ることになりました。

しかし道中では【熊野】が空襲により被雷し航行が困難に、一方【青葉】は5ノットの速力で7本の魚雷をすべて避けきるという神業を披露しています。
【熊野】は自力での航行が不可能に近い、しかし【青葉】は5ノットという超低速運転、これで【熊野】を曳航するのは現実的ではなく、【青葉】は泣く泣く【熊野】を置いて台湾へ向かいました。
そして【熊野】は後日、空襲に見舞われて沈没してしまいました。
【熊野】の艦生はとても壮絶なものなので、ぜひ知っていただきたいところです。
「ワレ曳航能力ナシ、オ先ニ失礼」という発光信号があったそうですが、その心境は不明。受け手の【熊野】乗員はこのことに相当恨みを持っているとか。この件に関しては明言しにくいため、独自でお調べいただきますよう願います。)

またもやギリギリ生還した【青葉】でしたが、【青葉】はもう呉から出ることはありませんでした。
修理するにも被害が大きすぎたため、ひとまず放置されることになります。
その後、浮き砲台として満身創痍ながらも奮戦しますが、7月の空襲でついに大破着底、船尾が切断されるほどの被害が発生しました。

それから3週間後、日本は終戦を迎えます。
【青葉】は度重なる大破を乗り越えて、ついに終戦まで生き抜いたのです。
船体の状態は修理不可能だったため、翌年には解体されることになりました。

終戦後、呉に浮かぶ【青葉】

【青葉】は呉での着底を含め、4度の大破を経験しています。
ところがどれほど攻撃を繰り出しても、気がつけばまた復活してシンガポール近海を航行する【青葉】は、いつしか「ソロモンの狼」と呼ばれるようになりました。
もちろんここまで生死の境目を生き抜いた艦はおらず、目覚ましい戦果こそないものの、豪運の持ち主だったといえるでしょう。

青葉の写真を見る

参照資料(把握しているものに限る)

Wikipedia
[1]続・鳶色の襟章 著:堀元美 原書房