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文月【睦月型駆逐艦 七番艦】

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起工日 大正13年/1924年10月20日
進水日 大正15年/1926年2月16日
竣工日 大正15年/1926年7月3日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年2月18日
トラック島空襲
建 造 藤永田造船所
基準排水量 1,315t
垂線間長 97.54m
全 幅 9.16m
最大速度 37.25ノット
馬 力 38,500馬力
主 砲 45口径12cm単装砲 4基4門
魚 雷 61cm三連装魚雷発射管 2基6門
機 銃 7.7mm単装機銃 2基2挺
缶・主機 ロ号艦本式缶 4基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸
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大型貨物船と衝突 今はダイビングスポット 文月

【文月】は竣工当初は「第二十九号駆逐艦」と呼ばれ、昭和3年/1928年8月1日に【文月】と改称されます。
【文月】は太平洋戦争開戦時は【皐月】【水無月】【長月】とともに第二十二駆逐隊を編制しており、第五水雷戦隊に所属していました。
開戦前夜の7日に馬公を出発した第二十二駆逐隊は、9日にルソン島に上陸する陸軍輸送の護衛が最初の仕事となりました。
その後もリンガエンやシンゴラ、ジャワと立て続けに上陸作戦に従事しますが、シンゴラから馬公へ帰ってきた際に右舷のスクリューを損傷してしまい、ちょっとだけ修理を行っています。

3月1日にはジャワ島への大型輸送にも参加しましたが、【文月】ら第二十二駆逐隊はメラク湾方面への上陸支援だったため、バンタム湾付近で発生した「バタビア沖海戦」には関与していません。
あれよあれよと攻略が進んだため、日本の占領地域は一気に拡大。
担当エリア拡充にあわせ、昭和17年/1942年3月10日に第五水雷戦隊は解隊され、第二十二駆逐隊は第二南遣艦隊所属となりました。
ですが4月10日には今度は第1海上護衛隊に配属となり、ここから更に船団護衛任務に邁進していくことになります。

6月5日の「ミッドウェー海戦」も遥か彼方の出来事。
【文月】は地道に輸送を続けていました。
しかし9月15日、262船団を護衛して馬公から六連へ向かっていた【文月】は、前方からやってきた日本郵船所属の【勝鬨丸】と衝突し、なんと大破してしまいます。
この【勝鬨丸】、もとは米貨物船で【プレジデント・ハリソン号】と呼ばれていましたが、開戦当日に日本が拿捕曳航した船でした。
ところがこの【勝鬨丸】は、コレラ蔓延、座礁、衝突、船内事故多発など、呪われているのではないかと言われるほど不幸が取り巻いており、その中で【文月】との衝突も発生しました。

艦首が破壊され、1番砲塔下の弾火薬庫に浸水も発生する大事故となったため、当然護衛は続けられません。
護衛の為に【若竹】が駆けつけ、【文月】は馬公へ戻っていきました。
その後長崎で本格的な修理を行い、年の瀬の12月26日に修理は完了しました。

ここまで戦場とは縁遠かった【文月】でしたが、この3ヶ月半ほどに及ぶ離脱の間に、日本はかつての勢いを完全に失い、激戦となったガダルカナル島からの撤退が決定します。
それに伴い、【文月】も年明け早々にいきなり最前線に送り込まれることになりました。
「ガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)」に参加するためです。

2月1日、第一次撤収作戦が開始されます。
ショートランド泊地を出発した、総勢20隻の駆逐艦。
これまでの鼠輸送でも、こんな規模での活動はありません。
堂々と現れた荒くれ者たちに対し、日本の総攻撃を警戒していたアメリカはすぐに行動に出ます。

駆逐艦群は【零式艦上戦闘機】18機の直掩を受けていましたが、そこへヘンダーソン飛行場から航空機が突っ込んできました。
この空襲によって旗艦の【巻波】が直撃弾、至近弾を受けて航行不能となり、空襲後【文月】【巻波】を曳航してショートランドへ戻っていきました。
第一次撤収作戦では、撤退時に【巻雲】が機雷に触れてしまい最終的に雷撃処分されましたが、「ケ号作戦」は結局喪失艦は【巻雲】のみで、想定を大きく下回る被害で作戦が達成されました。

撤収作戦は成功しましたが、今後の戦いがより激しさを増すのは言うまでもありません。
3回すべての撤収作戦に参加した【文月】は、かつての台湾やジャワなどの輸送に戻ることはなく、そのままラバウルやショートランドを起点に最前線での輸送に従事することになりました。

2月25日、前年12月に一度解隊された第二十二駆逐隊が再編され、第三水雷戦隊に編入されました。
しかし3月1日にその第三水雷戦隊の一部が参加していた「ビスマルク海海戦」で多くの同志を失い、同海域での輸送がいかに危険なものであるか、改めて実感することになります。
そしてその危機はひたひたと【文月】にも迫ってきていたのです。

3月30日、第二十二駆逐隊はフィンシュハーフェンへの輸送を達成。
11日のレカタ、16日のスルミに続き、【文月】はこれで3連続で輸送を完遂させるところでした。
しかし帰路、カビエンまであと少しという距離で【B-17】1機がが第二十二駆逐隊に襲い掛かってきました。
この空襲で【文月】は若干の損傷を負っていますが、これが良くないことの前触れであったと知るのは、その3日後でした。

4月2日、第二十二駆逐隊は再びフィンシュハーフェンを目指してカビエンを出撃します。
しかし今回はその道中で敵機に触接されてしまいます。
先日の【B-17】の襲撃もあり、敵はこの辺りの警戒を強めているようです。
やむを得ず第二十二駆逐隊はカビエンへと引き返していきました。

しかしカビエンには先客がいました。
【B-17】が真夜中にカビエンを空襲していたのです。
この空襲で停泊中の【青葉】が爆撃を受けて大破しており、この火災の模様はカビエンを目指していた第二十二駆逐隊からも見えたそうです。
そして【B-17】は、次に真っ暗闇の中でも第二十二駆逐隊に攻撃を仕掛けてきました。
攻撃を行ったのは3機だけだったようですが、【文月】はこの空襲で至近弾を受け機械室が浸水してしまいます。
沈没はしませんでしたが、このまま戦い続けることはもちろんできません。
空襲をやり過ごした後、【文月】は応急修理を受けながら佐世保へ戻っていきました。

修理期間中、第二十二駆逐隊は悉く被害を受けてしまいます。
【皐月、水無月】が空襲で損傷し、【長月】「クラ湾夜戦」の輸送の最中に座礁してしまい船体放棄。
第二十二駆逐隊が1隻として活動できない時期がありました。

9月にラバウルに戻ってきた【文月】ですが、今度もまた復帰直後に撤収作戦に参加することになります。
前回はガダルカナル島でしたが、今度はコロンバンガラ島でした。
9月28日未明、3隻となった第二十二駆逐隊が警戒隊の【天霧】とともにコロンバンガラ島へ到着。
一部は【大発動艇】に乗ってそのまま北のチョイセル島へ向かいましたが、この最初の撤退で約5,000人がコロンバンガラ島を脱出しています。

第二次撤収となった10月2日は、前回の撤収を受けて戦力を強化していた連合国との競り合いがあり、砲撃によって【水無月】が小破してしまいます。
しかし海戦というほどの規模にまで発展することはなく、ここでも無事に撤収作戦は完了しました。
この2度の「コロンバンガラ島撤収作戦(セ号作戦)」が終わったことで、今度はそのすぐそばにあるベララベラ島からも撤退することになりますが、ここでは「第二次ベララベラ海戦」が勃発しており、【夕雲】が沈没してしまいました。

しかし11月1日には、そのコロンバンガラ島・ベララベラ島からの撤収先であるブーゲンビル島にも連合国が及んできます。
上陸の報を受け、直ちに【妙高】【羽黒】と第三水雷戦隊が逆上陸・輸送阻止のために出撃しました。
ところがどっこい、戦い方は稚拙そのもので日本は第三水雷戦隊の旗艦【川内】【初風】を失い、輸送も戦闘に全く影響しなかった、ブーゲンビル島すぐ北のブカ島へ【水無月】が行ったものしか達成できませんでした。
輸送隊は【小発動艇】の搭載に時間がかかったことで、そもそも輸送自体も途中で間に合わないと判断されて中止となっていました。

息つく暇もなく、5日はラバウルが多くの炎に包まれます。
これまでにない大規模な空襲が行われ、当日到着したばかりの重巡が次々と被害を受けて、すごすごと帰っていきました。
ここで被害を受けなかった【文月】らは、6日にブカ・タロキナへの輸送を実施しています。

5日の空襲は多くの駆逐艦がやり過ごしたのですが、11日にも再びラバウルが空襲され、ここではその駆逐艦も複数被害を受け、【涼波】は沈没、【長波】は被弾でスクリューを亡失するなど航行不能となってしまいました。
仲間が次々と戦線離脱していく中、残された駆逐艦はより貴重になったため、こんな大惨事になったがために次々と仕事が舞い込んできました。
数日おきに輸送任務が行われ、【文月】は11月中は走り回っていました。

しかし12月に入り、およそ半月ほどは月が満ちていくため輸送にとっては不利になります。
そのためここで輸送も中断され、ラバウルの戦力はトラックへ引き揚げることになりました。
【文月】【夕張】とともに、大破した【長波】を曳航する【水無月】を護衛しながらトラックへ向かいました。
もちろん【文月】もトラック到着後に整備を受けています。

12月後半に入ると、【文月】らはラバウルに戻ってまたまた輸送。
ちょうど年末年始にかけて、日本はラバウル防衛のためにも死守しなければならいカビエンの防御を固めるための「戊号輸送作戦」を実施することになっていて、【文月】【皐月】とともに本土からやってくる戊二号輸送部隊の護衛に加わることになります。

昭和19年/1944年1月4日、2隻は先にカビエンで待機し、やってきた戊二号輸送部隊の揚陸中に周囲を警戒する任務でした。
また【皐月(文月も?)】の【小発動艇】も揚陸に参加していたと思います。
戊二号輸送部隊の揚陸は明け方には終わり、すぐさま撤収。
それに伴い小発動艇の収容が終わり次第、【文月】【皐月】もラバウルへと帰っていきました。

ところがこの戊二号輸送部隊の存在は偵察機によって明るみになっており、この時すでに第37.2任務部隊の【米エセックス級航空母艦 バンカー・ヒル】【米インディペンデンス級航空母艦 モンテレー】の艦載機が部隊を探し回っていました。
実は1日に戊三号輸送部隊が同じくカビエンに輸送を行った際、【大淀】【能代】【秋月】【山雲】に対して空襲を行っており、警戒が強まっていたのです。
先にカビエンを出発した戊二号輸送部隊は、幸い第37.2任務部隊に見つかりことはありませんでした。
しかしそれより遅くにカビエンを発った【文月】【皐月】は、残念ながら発見され、ここから2隻は銃弾の豪雨に晒されてしまいます。

約80機が2隻を蹂躙する戦いで、【文月】【皐月】は死力を尽くして戦います。
直掩がない以上、爆撃だけでなく機銃による攻撃にも抵抗しなければなりません。
爆撃機の動きを追いながら、突っ込んでくる戦闘機に対して夢中で機銃を撃ち続け、船は右へ左へとカーレースのように振り回されます。
弾痕が至る所に刻まれ、呻き声と血だまりが甲板に広がり、すぐそばで立ち上がる至近弾の水柱に驚く余裕すらありません。
それでも2隻は猛攻を加え、20分による戦いの中で遂に被弾なく、不確実6機を含む15機の撃墜を記録し、空襲を耐え抜きました。

カビエンで空襲を受ける【文月】

九死に一生を得た【文月】【皐月】
しかし【皐月】の艦長である飯野忠男少佐は機銃掃射で左足を打ち砕かれ、その場で切断してまで指揮を続行した結果、戦闘後にラバウルの病院で戦死。
飯野少佐【文月】の艦長である長倉義春少佐は海軍兵学校時代の同級生で、固い絆で結ばれた二人はそれぞれの艦を守り抜いたのです。

ですがこの戦いで絆の片翼は一足先に靖国へ旅立ってしまいました。
翼は1枚では飛べません。
長倉少佐の命も、残り僅かになってしまったのです。

昭和19年/1944年1月30日、トラック島へ向かう2312船団を護衛中、アドミラルティー諸島沖で空襲に合ってしまい、ここで【文月】は至近弾により艦前部の複数の区画で浸水します。
幸い隔壁は突破されなかったので浸水は途中で収まり、何とかそのままトラック島まで避難することができました。
しかし今や避難先が安全かどうかはわかりません。
なにせラバウルはもう危険と隣り合わせなのです。
トラック島はもちろん陸からの攻撃は届きませんが、空母だとそんなのは一切関係ありません。
陸のラバウル、海のトラック、この2つがなくなれば、日本は両腕をもがれたに等しい損失となるのです。

そのトラックを壊滅させるべく、アメリカ軍は機動部隊だけでなく戦艦7隻なども含んだ大艦隊で2月17日にトラック島を火の海へと変えました。
【文月】はこの時修理中だったため、空襲警報を受けて動き出したものの片舷航行しかできませんでした。
いつぞやとは全く違うとろい動きの【文月】は、それは狙いやすい的でした。

直撃弾を受けた【文月】は機械室が浸水し、このため航行もできなくなってしまいます。
さらに至近弾を複数受けた【文月】はどんどん海水で重くなり、このままでは沈没は免れません。
地獄絵図と化したトラック島から敵が去ってから、【文月】【松風】による曳航が試みられたのですが、あまりに浸水が酷くて重くて引っ張れません。
巡洋艦は【香取】【那珂】【阿賀野】がいましたが、3隻とも沈没しており、さらに【阿賀野】は空襲前からボロボロの状態だったのでたとえ生存していても曳航は不可能でした。
結局【文月】はそのまま徐々に海に引っ張られていき、翌日の18日には完全に沈没してしまいました。
浅瀬での沈没だったことから、【文月】はダイビングスポットとして今も我々に姿を見せてくれています。

空襲で至近弾を受けた【文月】