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【松型駆逐艦 松】

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艦型と個艦の説明を分けましたが、単純に分割しただけなので表現に違和感が残っていると思います。
起工日 昭和18年/1943年8月8日
進水日 昭和19年/1944年2月3日
竣工日 昭和19年/1944年4月28日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年8月4日
聟島(むこじま)南西
建 造 舞鶴海軍工廠
基準排水量 1,262t
垂線間長 92.15m
全 幅 9.35m
最大速度 27.8ノット
航続距離 18ノット:3,500海里
馬 力 19,000馬力
主 砲 40口径12.7cm連装高角砲 1基2門
40口径12.7cm単装高角砲 1基1門
魚 雷 61cm四連装魚雷発射管 1基4門
機 銃 25mm三連装機銃 4基12挺
25mm単装機銃 8基8挺
缶・主機 ロ号艦本式ボイラー 2基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸


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駆逐艦としての最期 圧倒的不利な戦況に挑んだ松

戦時量産型駆逐艦である「丁型駆逐艦」のネームシップとなる【松】は、そもそもその建造が遅かったために登場したのは昭和19年/1944年4月と、太平洋戦争ではかなり劣勢となっていた時期でした。
「丁型」の詳細はこちらで紹介しているので、ご覧ください。→個艦優越主義の崩壊 遅れた量産型駆逐艦の実態
【松】は他の駆逐艦同様、竣工後は第十一水雷戦隊で訓練を積むことになります。
当時の第十一水雷戦隊の旗艦は【長良】でした。

5月3日、【松】が第十一水雷戦隊に配属された直後に海軍は「あ号作戦」を発令します。
「あ号作戦」とは「マリアナ沖海戦」につながる作戦です。
当時最も戦力となる空母だった【翔鶴、瑞鶴】と、装甲空母として救世主になることが期待された【大鳳】を中心とした機動部隊の力で、パラオ方面でアメリカ軍を壊滅させるのが目的でした。
加えてサイパン島に陸軍兵士を投入する「イ号作戦」、そのアメリカ軍を撃退する「ワ号作戦」も同時に立案されます。
この「あ号作戦」の発令に伴って、第十一水雷戦隊からは【霜月、秋霜】が出撃することになりました。

この「あ号作戦」の決行のためにはサイパン島への輸送が不可欠です。
しかしこの輸送は敵制空権下での強攻策であると同時に、満足な兵力も護衛もなかったため、日本は多大な犠牲を払うことになります。
すでに燃料もあちこちで不足しており、たとえ航空機が残っていても、「あ号作戦」のために温存し、結果輸送船が傷つき、沈むという悪循環でした。

そんな中、6月15日、米軍がサイパン島へ上陸し始めます。
四の五の言っていられる状態ではなく、何としてでもサイパン島へ兵力を注ぎ込まねばなりません。
サイパンへの輸送は【山城】と第五艦隊、そして第十一水雷戦隊など本土に残っている船で緊急に行う準備が進められました。
【松】も当然この輸送任務に参加することになり、【長良】【清霜】とともに19日に横須賀に到着しました。

一方で硫黄島からは「マリアナ沖海戦」に向けて航空機が飛び立つ予定でしたが、悪天候に阻まれて出撃は遅れてしまいます。
そして6月19日に勃発した「マリアナ沖海戦」も圧倒的な数の航空機に為す術もなく、日本は被害をただ重ねていくだけの大敗北に終わりました。
「マリアナ沖海戦」での大敗北はすなわちサイパンへの輸送に大きな危険が伴うことであり、また輸送は継続して行わなければなりませんから、かつての「ガダルカナル島の戦い」のように消耗輸送戦になってしまいます。
結局この敗北はサイパン島奪還の断念に直結します。

さて、硫黄島は戦略的観点から非常に重要な島でした。
ソロモン諸島からニューギニアを抜け、マリアナ諸島が奪われたとなりますと、アメリカの拠点はここになり、そして本土への通り道にまさに小笠原諸島が存在します。
日本にとっては小笠原諸島は本土空襲を避けるためにも絶対に落とせませんが、しかし逆に言えばこの硫黄島が奪われてしまえば、日本のすぐそばにアメリカ軍の基地が設営されるという悪夢が待っているのです。

事態は一刻を争いました。
何しろそれだけの重要拠点であるにも関わらず、これまではこのような危機が近々に迫ってくるとは思わなかったので、この硫黄島の兵力はとても貧弱だったのです。
伊号輸送部隊は3部隊で編制され、6月28日、【松】【長良、冬月】と3隻で、【第4号輸送艦】を護衛して父島へ向かいました。

【松】の初任務は、海戦の敗北とサイパン島陥落という最悪の形で幕を下ろし、日本はいよいよ本土空襲や日本近海への米軍進出の危機にさらされます。
サイパン島逆上陸のために集めた兵力はこの硫黄島に向けられることになりました。

7月3日に伊号輸送部隊は解散となりますが、【松】は引き続き小笠原諸島への輸送任務を継続し、7月6日には【第4号輸送艦】とともに再び硫黄島へ出発。
無事に送り届けることができますが、その帰り道に兄島へ向かうように命令を受けます。
7月3日と4日に硫黄島ではアメリカ軍との衝突があり、そのタイミングで輸送にあたっていた【第153号輸送艦】が兄島へ避難するも、攻撃を受けて航行不能となっていました。

同じく救援に訪れた【旗風】とともに【第153号輸送艦】を曳航した【松、第4号輸送艦】は、7月12日に横須賀へ到着。
【旗風】が増援を要請するも断られていたこの護衛任務は、なんとか成功を収めました。

15日には【梅、竹、桃】らで第四十三駆逐隊を編制することになります。
しかし実際には上記4隻で行動をした記録はなく、【松】はそのまま輸送任務にあたる他の艦との連携が続きました。

7月16日、3718船団が編制され、7隻の輸送艦、商船を【松】【旗風】などが護衛することになります。
硫黄島行きを甲分団、父島行きを乙分団とし、【松】は甲分団所属となります。
率いるのは高速性のある輸送艦3隻で、【旗風】とともに【松】は無事硫黄島へ、一方乙分団を率いた【水雷艇 千鳥】も無事父島への輸送を果たしました。

続いて7月29日、3729船団を同じく硫黄島、父島へ輸送することになり、今度は対潜哨戒として連合艦隊所属である【瑞鳳】も同行。
この船団に加わるため、一時的に船団を統括する第二護衛船団司令部の所属となりました。
通常【瑞鳳】には第六五三海軍航空隊が乗っていますが、対潜哨戒任務とのことでその任務に長けた第九三一海軍航空隊の【九七式艦攻】12機が搭載されました。

第二護衛船団司令部の旗艦となった【松】は、船団を率いて輸送、護衛用として誕生したにふさわしい役割を担いました。
【松】らは輸送船6隻を護衛し、潜水艦の電波を探知しながらも、8月1日に無傷で父島への輸送を成功させています。
【瑞鳳】の護衛は大変有効だったようです。
【瑞鳳】は8月2日に先に本土へと帰投しています。

しかし硫黄島への危機は目前に迫っており、父島出発後に硫黄島への米軍接近の警報が発令されました。
この報を受けた【松】達は、踵を返して今度は4804船団を編制し、急ぎ父島へ戻りました。
8月4日には、硫黄島に直行した船団が揚陸を終えて父島にやってきましたので、父島に残っていた船とともに本土へ向けて出発しました。
この時、3729船団に所属したものの、帰りの4804船団には編制されなかった輸送船、輸送艦が一部ございます。

しかし4804船団が父島を離れたからおよそ1時間後、懸念していた米軍がついに父島へ到達(マーク・ミッチャー中将主導の「スカベンジャー作戦」)。
幸いなのか、この航空部隊は父島空襲が目的ではなかったようで(【瑞鳳】を狙ったという説があります)、父島への被害はありませんでした。
父島は別に航空基地があるわけでもなく、船と言っても取るに足りない小型船が多少目につく程度。
攻撃対象とは到底言えませんでした。
ところが何も土産がないのに米軍も帰るわけにはいきません。
上空旋回中に、10隻ほどの船団の存在を確認すると、攻撃の目標はその船団となりました。

その船団こそ4804船団。
輸送船を囲う形で進んでいた4804船団ですが、瞬く間に補足されてしまいます。
10時半頃、巧みな操艦で第一波を凌ぎ、【松】は5機撃墜を記録しました。
しかし13時頃の第二波では【延寿丸】が雷撃を受けて沈没。
他艦も被害を負いますが、航行に支障はなく、引き続き北進します。

16時頃、父島北方の聟島(むこじま)を過ぎてなおも航行中に、恐怖の第三波が船団に襲いかかります。
第三波空襲は苛烈を極め、輸送船が無残に蹂躙されます。
【第七雲海丸、昌元丸、龍江丸】が被雷、そして沈没。
中央で真っ二つに折れて沈む船、艦首を海面に突き刺してズブズブと飲み込まれていく船、火達磨になり、怨念のような黒煙をもうもうと吐き出す船。
地獄絵図が繰り広げられ、満身創痍になりながらも近くにいる生存艦は【松、利根川丸、第4号海防艦】の3隻。
対空兵装がある【松】【第4号海防艦】はともかく、ろくな装備を持たない【利根川丸】は穴だらけの状態で、執念で動いているようなものでした。
【旗風、第12号海防艦、第51号駆潜艇】とははぐれてしまい、各々で横須賀を目指していました。

この時の第一波、第二波の空襲はおよそ30機、そして第三波の空襲ではおよそ50機が襲い掛かってきたと、【第4号海防艦】水谷勝二艦長(当時大尉)は答えています。

西日が海面を照らす中、【松】ら3隻は未だ死に抗い続けている、沈没した船の乗員たちの救助を行いました。
しかしアメリカの執拗な攻撃は、月光の下でも赤い炎を求めて繰り広げられるのです。
船団の体はなしえていないものの、固まっている【松、第12号海防艦、利根川丸】
ターゲットとなったのは、輸送船も含まれるこの3隻でした。

マーク・ミッチャー中将は小笠原諸島の砲撃のために用意していた第13巡洋艦隊を一部分離し、この3隻の壊滅のために送り出します。
その数、軽巡、駆逐艦合わせて11隻。
第三波の空襲前後で、すでに米艦隊を近海で補足したという情報を、【松】は父島の特別根拠地隊より入電を受けていました。
そして18時頃、デュ・ポース少将率いるこの米軍艦隊に【松】らは発見されました。
この時、3隻はまだ救助に専念しており、突如上がった砲撃による水柱に最初は「また空襲か」と思ったそうです。
しかし2本目の水柱と、上空に航空機が見当たらないことから、入電のあった艦隊であると察知。
当たりはすでに暗くなり、艦影は見えず、砲弾の閃光のみが不気味に襲い掛かってきました。

当然【松】は逃げ切ってしまいたいのですが、まず【松】の最高速度は28ノット足らず、海防艦も遅いですが、【利根川丸】に至っては最大11ノットととても鈍足です。
加えて各々が先程死闘を終えたばかり。
傷だらけの船団が、大戦中に建造された最新軽巡である「クリーブランド級軽巡洋艦」に勝てるわけがありません。
逃げきれるわけがなく、どんどん敵艦隊が近づいてきます。

【松】【利根川丸】が主に標的となり、3隻は次から次へと撃ち込まれる砲弾を回避しつつも全力で航行しますが、いよいよこちら側も砲撃をしなければならない距離まで詰め寄られてしまいます。
【松】の12.7cm高角連装砲、【第4号海防艦】の12cm高角砲、そして【利根川丸】の備砲が、後方の米艦隊に向けられました。
ですが、このままでは3隻とも追いつかれ、みな沈められてしまいます。

量産型で、戦闘向けに造られていない【松】は、ここで駆逐艦としての覚悟を決めます。
第二護衛船団司令部の高橋少将は、【第4号海防艦】へ向けて、「4号海防艦は利根川丸を護衛し戦場を離脱せよ 」と命令。
【松】は反転します。
主砲も魚雷も見劣りし、速度は遅く、そしてすでに疲労困憊。
それでも、【松】は11隻の艦隊へ向かって突進していきました。

19時15分、「巡洋艦および駆逐艦10隻と交戦中」と入電。
19時40分頃、「われ、敵巡洋艦と交戦中。これより反転、突撃す」という電文が【第4号海防艦】に届きます。
そして、それが【松】の最期の声となりました。
この直後、砲声の後に真っ赤な炎を身にまとった【松】が敵艦隊に突っ込んでいく姿が目撃されています。
たった4人の生存者の証言によると、【松】は反転したものの未だに敵艦影は見えず、襲いかかる砲弾が発射された際に砲身で発生する光を目標に砲撃をしたとのことでした。
(以前、「生存者はゼロ」と表記しておりましたが、4名の生存を記す資料がありました。申し訳ございません。)

残念ながら【松】が身を挺して逃がそうとした【利根川丸】も21時頃に沈没。
航行中に【B-24】が接近してきたため、【第4号海防艦】はやり過ごそうとして沈黙を貫きましたが、【利根川丸】は黒煙を上げて動き始めてしまい、この動きが見つかってしまいます。
その後、後方より追撃をやめていなかった米艦隊の照明弾によって【利根川丸】の姿は暴かれてしまい、最終的には【B-24】の爆撃か、後方からの砲撃か、そのどちらかによって沈没させられました。
【第4号海防艦】だけが九死に一生を得ていますが、これにより「四八○四船団」の輸送船は全滅してしまいました。

【松】は短期間ではありますが輸送、護衛任務を確実にこなし、そして最後まで駆逐艦の矜持を忘れなかった、立派な駆逐艦でした。

沈没時の兵装
主 砲 40口径12.7cm連装高角砲 1基2門
40口径12.7cm単装高角砲 1基1門
魚 雷 61cm四連装魚雷発射管 1基4門
機 銃 25mm三連装機銃 4基12挺
25mm単装機銃 12基12挺
13mm単装機銃 6基6挺
機銃取付座 1基
電 探 22号対水上電探 1基

出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年

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駆逐艦
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※1 当HPは全て敬称略としております(氏をつけるとテンポが悪いので)。

※2 各項における参考文献、引用文献などの情報を取りまとめる前にHPが肥大化したため、各項ごとにそれらを明記することができなくなってしまいました。
わかっている範囲のみ、各項に参考文献を表記しておりますが、勝手ながら今は各項の参考文献、引用文献をすべて【参考書籍・サイト】にてまとめております。
ご理解くださいますようお願いいたします。

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