駆逐艦の歴史を変えた特型駆逐艦のすごさとは

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日本は「江風型」を区切りに独自の駆逐艦設計へ大きく踏み出しました。
そこから「峯風型」「神風型」「睦月型」と着実に能力を向上させ、「睦月型」では12cm単装砲4基に加えて61cm三連装魚雷発射管を2基搭載し、世界最強クラスの武装を持った駆逐艦にまで成長していました。

基地近海に攻め込んでくる大型艦に魚雷をお見舞いする水雷艇を祖とし、それを駆逐する艦として駆逐艦が誕生。
かつては戦艦と巡洋艦が艦隊を編成して出陣、駆逐艦は大波などの荒天に弱いために随伴できるエリアに限りがありましたが、凌波性などの改善で徐々に活動範囲を広げていました。
「睦月型」はこの活動範囲を広げることにある程度成功していましたが、「八八艦隊計画」の断念によって駆逐艦と巡洋艦にかかる期待はこれまでにないものとなっていきます。

大正5年/1916年に「ユトランド沖海戦」、戦争終結から6年後の大正11年/1922年に「ワシントン海軍軍縮条約」が締結。
世界はこの6年の間に様々な戦訓を取り入れた軍艦の設計、建造に当たりますが、戦争の当事者となっていた欧米諸国は戦争の傷跡を癒すのが先決でスピードが落ちるのは止むを得ません。
一方で漁夫の利を得た日本はこの機を逃さずに積極的な増強を行いました。
その最たる例が「長門型」であり、そしてその防御力を「ユトランド沖海戦」の戦訓を元にさらに合理的なものへ仕上げた「土佐型」であります。

駆逐艦に関しては「ワシントン海軍軍縮条約」締結前に「神風型」の建造がスタート。
「神風型」の次の駆逐艦には「12cm連装砲2基、三連装魚雷2基、40ノット」という要望があったのですが、取り急ぎ61cm三連装魚雷を搭載させた「神風型」の発展型となる「睦月型」が誕生。
一方で「睦月型」をはるかに上回る駆逐艦が必要であることは、「睦月型」起工と同時進行で議論となっていました。

「特型」の建造にあたっては、過去の建造計画の刷新や予算配分などもあって特に隻数の変更がややこしいながらも興味深いです。
大正11年/1922年の「特型」計画以前の建造計画では、駆逐艦の編成は850t=21隻、1,350t=15隻、1,400t=24隻となっていました。
このうち主力である1,350t級というのは【矢風】からの15隻であり、1,400t級というのは【追風】以降の24隻を指します。
24隻ということですから、この段階では「睦月型」を大所帯とする予定でした。

大正13年/1924年4月の次代の駆逐艦に関する発議の内容は以下のものです(意訳)。
「東日本大震災によって駆逐艦の建造計画は2年ほどの延期を余儀なくされた。一方でフランスでは大型駆逐艦の建造が始まり、やがては英米にも波及するだろう。個艦優越は日本海軍の宿命で、特に駆逐艦においては対米を意識する上で必要である。それに伴い、大型駆逐艦36隻の建造を求める。建造延期を好機と捉えて次の性能の駆逐艦の建造が適当だと思われる。」

基準排水量約1,900t
最大速度39ノット
航続距離14ノット:4,000海里
主 砲13cm砲 4門以上
魚 雷61cm三連装魚雷発射管 3基
高角砲8cm高角砲 1門
その他75cm探照灯・45センチ探照灯 各1基
一号機雷、爆雷兵装、掃海具、水中聴音機

予算のやりくりと現存艦との置き換え、他国よりもさらに大型の61cm三連装魚雷発射管を搭載した艦だけで二個水雷戦隊を編成するという目論見などがあり、「睦月型」の建造は12隻でストップ、新たに「特型駆逐艦」の建造が決まったという経緯があります。
予算の承認には時間がかかりましたが、その結果「特型」が誕生するわけですから、急いては事を仕損じるということです。

36隻の「特型」というのは、「睦月型」の12隻も加えた48隻で二個水雷戦隊を編成したいという大きな野望でした。
しかし現時点での予算だけではそこには達し得ません。
まずは現行の予算内で計画を改定し、「特型」建造への舵取りをする必要があります。

まず現行の計画では16隻で一隊、12隻で一隊の二個水雷戦隊を編成するために28隻の新造が求められました。
16隻と12隻というのは数のバラつきがありますが、これは当然ながら魚雷発射管の数が影響していて、16隻というのは「特型」より前の駆逐艦で、12隻は新造の1,700t級(当時は前述の1,900t級)でまとめるつもりでした。
なお、やがて「特型」の水雷戦隊は3隻一隊となりますが、この段階では「特型」も4隻一隊として水雷戦隊を編成する計画でした。
28隻とは言っていますが、大型化するし数も増えるしだと当然予算は通らないので、既存の1,400t型を中止してその予算で6隻の「特型」を新造するから、追加予算は22隻分でいいと説明しています。

しかし「睦月型」は12隻しかいません。
16隻を集める方法として、海軍は【追風】以降の「神風型」を融通するという手段を取るつもりだったようです。
ですが「神風型」53cm連装魚雷発射管ですから、これでは数合わせにしかならず要望する性能には至りません。

ならどうするか、魚雷換装してしまえばいいという、なかなか強引な考え方です。
実は【追風】以降は機関が艦本式ギアード・タービンとなっていて、機関の面では「睦月型」と同等でした。
上部構造物は連装と三連装の違いと魚雷1本のサイズの変化もあるため、どれだけの規模の改造になるかはわかりませんが、少なくとも内部をいじらなくて済むというのはまだ許容できる改装だったのでしょう。

「ワシントン海軍軍縮条約」のおかげで世界は戦艦以外の研究がより進むことになりました。
しかし駆逐艦に関しては、アメリカは第一次世界大戦で小型で量産が利く駆逐艦を大量に建造し、これらを一気に解体して新設計の駆逐艦を建造するまでの大鉈を振るうことはできず、また欧州各国はまずは戦後の海軍の立て直しを優先されたため、結果的に日本だけが「ワシントン海軍軍縮条約」後に積極的な駆逐艦強化に動くことができました。

新しい駆逐艦に課せられた使命は、前述の通り敵駆逐艦(大型駆逐艦は除く)に対して確実な優位性を保ち、かつ敵戦艦に対しても世界最強の魚雷をぶち込める威力とそこに至るまでの航洋性を持つというものでした。
日本はこの「ワシントン海軍軍縮条約」によって「古鷹型」を始めとする巡洋艦の強化、そして最新の駆逐艦を配備することで戦艦に代わる巨大な戦力を確保しようと考えました。

しかしこれは大変な作業です、今回建造するのは巡洋艦でもなければ嚮導駆逐艦でもありません。
大型化すると言っても最小限、そうでなければ予算、量産性、軽快性などありとあらゆる問題がのしかかってきます(すでに関東大震災と昭和恐慌の煽りを受けて予算は逼迫)。
兵装の重量は「睦月型」から3倍にもなるとの試算もあるこの無茶苦茶な要望を前にして真剣に取り組んだのが、「特型駆逐艦対策委員会」のメンバーです。
平賀譲氏と並び、日本の艦艇設計において多大な功績を残した藤本喜久雄造船中佐を基本計画主任におき、「特型駆逐艦」の設計が立てられることになりました。

まず火力ですが、これは「睦月型」で採用されていた12cm単装砲4基から大きく飛躍して12.7cm連装砲(A型)が3基6門となります。
12.7cmとなった理由として、アメリカの戦艦の多くで副砲に12.7cm砲が採用されていたことから、駆逐艦への流用が容易に想像できたからです。
重要なのはこの口径ではなく連装式となったことです。
当時世界でも中小口径の連装砲の実験が進んでおり、例えば日本では【夕張】14cm連装砲を搭載しておりますが、それ以前は14cm単装砲が巡洋艦の主砲でした。
連装砲のメリットは当然スペースの確保につながることであり、また弾薬庫の分散を減らせることも重要なことでした。

12.7cm連装砲の登場は恐るべき改革で、駆逐艦として最大の口径であることをはじめ、門数が2門増え、射程3km増(18,269m)、仰角7度増(最大40度)と交戦範囲が大幅に改良されたのです。
形状は変わっていくものの、12.7cm砲は日本駆逐艦の標準砲としてD型まで発展していきます。
「特型」に搭載されたのはA型で、最大仰角40度、10発/分の発射速度です。
仏駆や独駆、ソ駆はこれよりも大きな口径の主砲を搭載していますが、海軍第一の仮想敵国であるアメリカとイギリスは口径の大型化に踏み切れず、随分停滞しています。

「睦月型」までの12cm単装砲は全面が覆われて防護策が講じられていたわけではなく、後部は開放されていました。
故に波浪の波や戦闘中に飛び散る破片が特に後方から襲いかかり、砲撃に集中ができませんでした。
それに加えて砲だけが旋回する構造だったため、砲を回すたびに足元の用具や砲弾も動かしたりする手間がありました。

しかしA型からはこれを砲塔化し、全面を防盾で覆い砲室式としました。
これにより砲手は無意味な妨げを受けることがなくなり、砲旋回の際は砲室そのものが回りますから人や物をいちいち動かす必要もありません。
ですが厚みはたった3.2mmで弾片や銃撃に耐えれるほどの防御力はなく、あくまで波よけなどの役割でした。
前部に1基、後部に2基配置され、2番、3番砲塔は背負式を採用しました。

出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ

続いて雷装ですが、これは上記のように砲を1基削減したことと船そのものの大型化により、発射管を設置するスペースを確保することができたため、61cm三連装魚雷発射管をさらに1基増備し、計3基となりました。
次発装填装置はまだ搭載はされませんでしたが、予備魚雷も同数の9本を確保。
当初は開放状態で砲弾が直撃したら即誘爆だった魚雷発射管ですが、「暁型」で初めて盾(覆い)が取り付けられました。

同方向に一斉に放てる数が9本であるのは、【島風】に次いで日本駆逐艦では2位の数字です。
魚雷は当初は八年式魚雷で、のちに九○式魚雷へと変更されることになります。
ちなみに魚雷発射管そのものの改造も必要であることから、ごく一部の艦を除いて「特型」には酸素魚雷は搭載されていません(搭載したのは【薄雲】【白雲】【浦波】【夕霧】【曙】【潮】【響】のようです。)。

駆逐艦に三連装魚雷発射管を3基、つまり9射線の発射能力を持たせることはかねてからの要望でした。
大正8年/1919年の意見においては、「いずれ一等駆逐艦が大型化するのは止むを得ないが、速力の優越、発射管の多数、高い魚雷威力は襲撃を容易確実にすることは間違いない。魚雷に関しては昼戦(一等駆逐艦)においては9射線、夜戦(小型で隠蔽性に優れる二等駆逐艦)においては6射線を標準とするべきだ。」と述べられています。

魚雷の装填にはスキッド・ビーム式のクレーンが使用されました。
スキッド・ビーム式についてはそのまま検索してもらった方がどういうものかすぐにわかると思います、特にプラモデルを造ってる方。
これによって甲板軌道を使った装填よりも時間短縮ができ、魚雷装填中は戦場から離脱することもある駆逐艦にとっては大きな進歩でした。

そして、速度。
もちろん兵装が増えれば排水量も増え、その結果速度低下も起きてしまいます。
速度を高めるにはタービンや缶の性能を高めるのが一般的な考え方ですが、当時の艦本式タービン・ロ号艦本式缶はともに十分高性能な存在となっていました。
となれば、残された手段は軽量化です。
「特型」は建造の際、当時まだ技術力が未熟だった電気溶接なども積極的に採用し、排水量の削減に務めました。
【夕張】と同じく1kg1gの削減に心血を注いだのです。

その通り、【夕張】「特型」誕生にも多大な貢献をしています。
徹底された軽量化の成果は、「睦月型」と排水量を比較すれば一目瞭然です。
「睦月型」は兵装関係の総トン数が151.1tに対し、「吹雪型」(特Ⅱ・特Ⅲではない)は266.6tと176%も重くなります。
機関重量も621t対794tと128%増なのですが、以下のように10mも長大化しているのに船殻重量は495t対585tと120%しか増えていません。
計画ではない公試排水量で比しても125%しか排水量は増えておらず、性能から見ても軽量化は凄まじい結果を残しているのです。

また船体全体の設計も、「睦月型」よりも極力大きくならないように設計されていますが、10mほどの肥大化は免れませんでした。
それでも、凌波性の格段の向上によって、最高速度は39ノット。
設計段階では38ノットと記されていた「特型」ですが、公試では39ノット前後の速度を出す事例が多くあり、「特型」は設計・建造者の予想をも覆すほどの力を発揮しました。

この速度に大きく関係してくるのが、実は「特型」が当時圧倒的世界一の駆逐艦になった最大の理由である、外洋航行能力です。
外洋航行能力は読んで字の如く、近海ではなく、外洋でしっかり航行できるかどうかというものです。
冒頭でも述べたとおり、駆逐艦には外洋で発生する荒波に対処できるほどの凌波性は持っていませんでした。
とにかく小さいですし、あらゆる方向から襲ってくる波によって速度低下どころかまともな航行すら困難になります。
軽巡洋艦ほどの大きさだと、多少凌波性が犠牲になっていても安定感があるため航行は可能になりますが、船体の小さな駆逐艦では、凌波性を向上させるしかありませんでした。

「特型」はこの最大の課題も見事克服します。
「特型」は艦首の上甲板を反らす「艦首シアー」を大きくし、乾舷を高めています。
艦首の一番高い乾舷の高さは6.6mにまでなりました。
この高くなったシアーを利用して士官寝室や兵員室の大型化、冷蔵庫、治療室の設置も可能となり、居住性も良くなりました。

さらにシアーの幅を広くする「フレア」も強化し、波に突っ込んでも左右へ波が逃げるように設計されました。
このフレアは他国の艦艇でも見られましたが、「特型」ではこれを甲板中央部付近まで広げる徹底ぶりでした。
結果、多少トップヘビーにはなってしまいますが、「特型」はその活躍の場が世界中のあらゆる海へと変貌することになります。
そしてその凌波性は、旧式のスプーンバウを採用し、シアーもフレアも「睦月型」に近い艦首形状である5,500t級軽巡洋艦を軽く上回るほどの素晴らしさでした。

出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ

機関には駆逐艦として初めて巡航タービンを採用。
ただ機関は船全体の軽量化が求められる中で全然削減ができず、のちに造機部長が懲罰を受けるほどです。

缶室吸気口は「吹雪型」では背の高いキセル型となりました。
吸気口は前に向けると波が入り込んでしまうため、後ろ向きに備え付けられました。
煙突にできるだけ密着するように海面から距離を取るように努力をしていましたが、これまでよりも荒波を行くことになる「特型」にとってはこの対策では不十分でした。
そのため「特改Ⅰ型」とも称される【浦波】以降では、吸気口がひっくり返したお椀のような形で煙突を取り囲むような形に変更されています。

艦尾の対潜兵装は機雷投射機と八一式爆雷投射機、爆雷投下軌条がいずれも2基ずつ搭載されています。
爆雷投下軌条は機雷の敷設にも使えるように配慮されていました。

艦首と艦橋も「睦月型」までとは大幅に変化しています。
まず艦橋を波浪から守るために採用されていた「ウェルデッキ」が消失。
これは艦首形状の大改良によって艦橋に波を受ける心配がかなり軽減されたことが影響しています。
魚雷を艦中央部に集中させることも射撃運用上理に適っていました。
これによって艦橋は船首楼甲板上に搭載され、艦橋の高さが必然的に高くなり視界が広くなりました。
さらに艦橋も露天艦橋からエンクローズ型になったことでやはり波浪などの影響を受ける心配がなくなります。
ちなみにイギリスの駆逐艦は第二次世界大戦にも登場する最新の駆逐艦でも露天艦橋で、なかなか珍しい構造となっています。

戦訓と兵装の進化に対応すべく艦橋には様々な装備・設備が必要とされました。
正に艦隊型駆逐艦と言える装備であり、多くの情報や分析、指示がこの艦橋で行われるようになります。
また艦橋には大型化したことによる重量増を軽減するためにジュラルミンなどの軽合金が採用されました。
ですが軽合金は海水による腐食が激しく、のちにアルミに変更されたようです。

「特型」誕生によって世界は2,000t以下で圧倒的最強の駆逐艦の存在に恐怖しました。
同時期のフランスの「シャカル級大型駆逐艦」は搭載砲が13cm単装砲5基、55cm三連装魚雷発射管2基、35ノットと、主砲で若干見劣りはあるものの総合力では「特型」が勝るほどの性能だったのです(航続距離は活動海域の違いがあるので)。
更に凌波性も良いということは、場合によって相手の艦隊には駆逐艦はいないけど味方には駆逐艦がいるというケースもあり得るわけです。

欠点を上げるとすれば、航続距離が14ノット:5,000海里という目標を達成できなかった点が最もわかりやすいのですが、他にも軽量化が計画値に達しなかったことも見逃せません。
これは技術が足りないのではなく計画に無理があったことはのちの「第四艦隊事件」でも明白ですが、ここで【浦波(改特Ⅰ型)】の重量比較を見てみましょう

項 目新造計画トン実際完成トン
船体及び艤装722.70717.98
機 関 部685.00805.59
兵装(砲・水・電・航)222.12287.80
人員・糧食・真水・需品50.9056.05
調理用石炭2.003.00
基準排水量1680.721870.42

引用:『駆逐艦 その技術的回顧』 著:堀 元美 原書房

計画を上回ることはままあるとはいえ、過剰な要求というのは清濁併せ吞む覚悟が必要ということです。
特に120tもの重量超過を出してしまった機関部については、責任を取らされる形で、艦政本部第五部長が懲罰を受けています。
しかし一方でこれだけ機関部が重かったから「特Ⅰ型」「友鶴事件」の影響は比較的薄く、逆に上部構造の重量比率がより高くなった「特Ⅲ型」「初春型」がもろに影響を受けたことを考えると、過ぎたるは猶及ばざるが如しという言葉を肝に銘じなければなりません。
それでもその他の要求をほぼ全て叶えてしまった「特型」は、完璧ではなくても完成された存在でした。

この化物のような駆逐艦を見たアメリカは、「うちの駆逐艦300隻と特型駆逐艦50隻を交換してくれ」と口にしたそうです(隻数は諸説あります)。
アメリカは結局「フレッチャー級」まで単装砲を貫く一方で対空対潜兵装に比重を置き、かつ53.3cmではあったものの最大五連装を2基という兵装に進歩していきます。
「ファラガット級」より駆逐艦の価値を艦隊護衛に求めたアメリカと、敵艦隊に襲い掛かる主戦力としての立ち位置を「甲型・丙型」まで追い求めた日本との差がはっきりわかります。

このように、「特型」は一躍世界の大スターとなり、「ロンドン海軍軍縮会議」は重巡・軽巡の分類とともに、駆逐艦クラスの制限にも言及されることとなったのです。
それほど「特型」は世界に驚異的なインパクトを与えた存在でした。
「特型」は大きく「特Ⅰ型・吹雪型」「特Ⅱ型・綾波型」「特Ⅲ型・暁型」と分類され、それぞれで主砲や性能が向上しています。

出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集』

しかし「綾波型、暁型」と進化していくうちに「特型」は当初から懸念されていたトップヘビーがより顕著になっていきます。
もともと「吹雪型」「吹雪型」として完成しており、それをより強めるというのは無理強いなのです。

「綾波型、暁型」
の詳細については各ネームシップで紹介していきますが、「綾波型」では艦橋の設備増強に伴って艦橋が大型化し、また搭載砲が仰角75度にまで到達する高角砲兼用のB型へと更新。
A型25.4tに対してB型は31tの重量のため、主砲だけでも16.8t増となっています。
「暁型」「吹雪型」の射撃指揮所に位置する羅針艦橋の上部が魚雷発射指揮所となり更にそれが大型化、そしてその上に露天構造の射撃指揮所が設けられます。
測距儀は3mに伸び、艦橋のサイズは駆逐艦のものとは思えないものとなりました。
さらに機関に空気予熱器が取り付けられたことでボイラーが3基に軽減したことから艦底部の重量が軽くなり、よりトップヘビーとなりました。

性能向上と引き換えに失われていった復原性は、昭和9年/1934年の「友鶴事件」によってその弊害が露呈することになりました。
最も影響を受けたのが「初春型」であることは言うまでもありませんが、「特型」も特に「暁型」は明らかにトップヘビーであったことから改善工事を行わざるを得ませんでした。
当然艦橋の縮小が図られ、また方位盤照準装置と測距儀は新たに3m測距儀付きの九四式方位盤射撃塔へと置き換えられました。
重心を下げるためにバラストも搭載されています。
「綾波型」も艦橋の一部縮小が行われ、また「特型」全艦で伝声管が撤去されました。

ですが帝国海軍は翌年にも重大事件に直面します。
昭和10年/1935年の「第四艦隊事件」です。
「第四艦隊事件」は新鋭艦の強度不足が明らかになった事件で、これまでの設計で想定されていないほどの大嵐の中で行われた演習によって多くの艦に損傷が発生しました。

この事件で【初雪】【夕霧】は波浪によって艦首を断裂するというとんでもない被害を負っています。
【初雪】から切り離された艦首は被害後も浮かんでおり、【那智】が曳航を試みるも未だ高波が巡洋艦すら飲み込まんとする勢いで荒れ狂っており、諦めざるを得ませんでした。
艦首には前述の通り兵員室をはじめ乗員が活動するエリアが多数あり、当然艦首にはまだ誰か残されている可能性がありました。
しかし一方で艦首には暗号解読表などを扱う電信室もあり、このまま万が一漂流して海外に渡ってしまうと大変なことになってしまいます。
苦渋の決断として、状況的に浸水が始まっている艦首部分に生存者はいないであろうと判断。
救出もままならないため、生死を確認する術がない状態で砲撃処分を下しています。

原因は軽量化を重視したための強度不足であり、「特型」以降軽量化のために多く採用されていた電気溶接の技術不足もはっきりしました。
度重なる波浪によるピッチングが徐々に前甲板の鋼板に屈折を起こし、それがやがて亀裂となって最終的にはボッキリいってしまったのです。
実は事件の2ヶ月前の7月に牧野茂造船少佐「特型」の強度不足について提言を行っているのですが、受け入れてもらえなかったという背景もあります。

この被害を受けて多くの艦艇が一斉に強度強化のための改修工事に入りました。
「特型」もこの事件で多くの船が損傷していて、電気溶接の多くは見直されることになってしまいます。
軽量化のための電気溶接をリベット打ちに戻すということはそれだけ重量が増えるということですから、速度低下は止むを得ませんでした。
船首楼甲鈑や3番砲塔から艦尾にかけての上甲板を厚板に張り替え(軽量化のために全体的に薄かった)、梁やデッキガータの補強(軽量化のために組み方を変えて数を減らす)、船首楼甲板の舷側は丸みを持たせて応力を分散させるようにしています。
他にも補強した結果損なわれる復原性保持のためにバラストやバラストキールを搭載しています。

また、これを機にB型を搭載している艦は楯(外観)がほぼC型と同じものへ交換されています。
B型の楯は再三強度不足の報告があり、特に波をよく被る1番砲塔は変形事故が起こっていました。
楯交換の理由はこの強度不足の解消と重量軽減の可能性が考えられます。
注意しなければならないのは、楯がC型に変わっただけで砲はB型のままですので、使うことはなかったでしょうけど仰角は75度のままです(55度に改修したという表記もあったり)。

強度補強によって排水量が増大した「特型」ですが、速度は落ちたものの安定性は確保されたことから、強力な雷撃力を武器に太平洋戦争で大いに暴れまわったのは言うまでもありません。
欠陥があったものの世界に先駆けて艦隊型駆逐艦を配備した日本の功績は大きく、そしてこの「特型」の建造実績が「甲型」にまで継承されていくのです。