能代【阿賀野型軽巡洋艦 二番艦】

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起工日昭和16年/1941年9月4日
進水日昭和17年/1942年7月19日
竣工日昭和18年/1943年6月30日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年10月26日
レイテ沖海戦
建 造横須賀海軍工廠
基準排水量6,625t
全 長174.50m
水線下幅15.20m
最大速度35.0ノット
航続距離18ノット:6,000海里
馬 力100,000馬力

装 備 一 覧

昭和18年/1943年(竣工時)
主 砲50口径15.2cm連装砲 3基6門
備砲・機銃65口径7.6cm連装高角砲 2基4門
25mm三連装機銃 2基6挺
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 2基8門
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 6基
艦本式ギアード・タービン 4基4軸
その他
水上機 2機
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偉大なる先代の後を継いで二水戦旗艦 能代

【能代】が竣工したのは【阿賀野】から8ヶ月後。
【阿賀野】ですら「ミッドウェー海戦」後の登場でしたが、【能代】は同じく非常に重要な戦いであった「ガダルカナル島での戦い」すら知らず、山本五十六連合艦隊司令長官が殉職してからの竣工でした。

「阿賀野型」が時代遅れであることは【阿賀野】の項でも述べていますが、その中でも【能代】は意地を見せています。
【能代】は竣工直後に「コロンバンガラ島沖海戦」で華々しく散っていった【神通】の後を継ぎ、8月15日に第二水雷戦隊旗艦を拝命するのです。
【神通】沈没後、一時的に【長良】が二水戦旗艦だったため、引き継ぎは【長良】からです。)

航空機が主力の戦争とはいえ、二水戦が不要ということはありません。
まず【能代】はトラック島へ移動、その後はしばらく訓練が続きます。
そして11月1日、「ブーゲンビル島の戦い」が始まったことで、【能代】ら第二水雷戦隊と多くの重巡部隊がラバウルへと進出します。
当然、「ブーゲンビル島の戦い」を支援するためです。

ところがこのタイミングが最悪で、11月5日、ラバウルに到着した直後にラバウルは機動部隊による空襲に晒されます。
【能代】は被害僅少でしたが、【最上】【摩耶】など多くの船が被害を受け、ラバウルは精鋭部隊の集結地点から被害艦の野戦病院となってしまいました。
結局重巡は大破した【摩耶】を除いてトラック島へと帰っていきました。
一方で【能代】は、【早波】【長波】と共に予定通り「ブーゲンビル島の戦い」の支援のためにラバウルに残り、【阿賀野】と輸送部隊と協力して「タロキナ逆上陸作戦」を実施、成功させています。

しかしアメリカはこの機に一気にラバウルを壊滅させてやるという意気込みで、11日には再び大規模な空襲が行われました。
この空襲でも【阿賀野】が艦尾亡失という被害を受けるなど被害を積み重ねてしまい、ついに第二水雷戦隊もラバウルから逃げ出すことになってしまいました。
【能代】は大破している【摩耶】の護衛としてトラックを出撃します。

その道中で、艦尾がなくなったために舵がない【阿賀野】と、それを引っ張って舵役を担っていた【浦風】に魔の手が忍び寄ります。
【米ガトー級潜水艦 スキャンプ】【阿賀野】の右舷から魚雷を発射し、うち1本が【阿賀野】の艦橋下に大穴を空けたのです。
この被害で【阿賀野】は航行不能となり、曳航するために【能代】が支援に向かいました。
【能代】【阿賀野】を曳航索でつないで引っ張っていきます。
ところがその曳航索が途中で切れてしまい、この後トラック島にいた【長良】による曳航で【阿賀野】はなんとかトラック島まで避難することができています。

12月末、ラバウル防衛のためにはラバウルがあるニューブリテン島の向こう側にあるニューアイルランド島を死守する必要があると考えた日本は、ニューアイルランド島の北にあるカビエンへ向けての輸送をすることにします。
これが「戊号輸送」で、カビエンには呉からとトラック島からの二手に分かれます。
また、この輸送に際してトラック島へ向けての輸送部隊として戊一号輸送部隊が横須賀からトラックへと向かっています。
【能代】はトラック島からカビエンへ向かう戊三号輸送部隊に所属していました。

昭和19年/1944年1月1日、元旦の初日の出を見る前に戊三号輸送部隊はカビエンに到着。
しかし揚陸完了直後に新年祝いの空襲がお見舞いされ、【能代】は至近弾5発に直撃弾1発という被害を負いました。
中破したものの航行には支障なく、【能代】は1月4日にカビエンからトラックへと戻っていきました。

【明石】によって応急修理を行った後、18日に横須賀へ向けて出港。
ところが19日には同行していた【雲鷹】【米ガトー級潜水艦 ハダック】の雷撃によって落伍したため、【能代】は駆逐艦と共に【雲鷹】を護衛してサイパンへと立ち寄りました。

6月19日、「マリアナ沖海戦」には前衛部隊として参加します。
が、言うまでもなく水上艦の出番なんて全くなく、空母3隻の沈没というとんでもない被害を引っ提げて帰投。
日本はいよいよ窮地に立たされました。

昭和19年/1944年6月30日 あ号作戦後と竣工時の対空兵装比較
高角砲65口径7.6cm連装高角砲 2基4門(±0)
機 銃25mm三連装機銃 10基30挺(+8基)
25mm連装機銃 2基4挺(+2基)
25mm単装機銃 18基18挺(+18基)
25mm単装機銃取付座 4基(+4基)
電 探21号対空電探 1基(+1基)
22号水上電探 2基(+2基)
13号対空電探 1基(+1基)

そしてついに、【能代】は敵と相まみえる機会を得ます。
しかし不幸にもその戦いは「レイテ沖海戦」でした。
「シブヤン海海戦」ではまず【能代】のレーダーが敵機襲来を報告。
その20分後にはついに第一波の空襲が始まり、ここから栗田艦隊は断続的な空襲に終始翻弄されます。
この戦いで世界一の戦艦の一翼を担った【武蔵】が無数の爆撃と雷撃を受けてついに沈没。
艦隊は【武蔵】の沈没に衝撃を受けながらも、レイテ島を目指して歯を食いしばりながら航行を続けました。
この戦いで【能代】は主砲も使って対空砲火を放っているのですが、肝心の8cm連装高角砲が故障を起こしてずいぶん苦労したそうです。

翌日の「サマール沖海戦」では、ついに栗田艦隊は敵機動部隊を発見。
本当なら見つけることなくレイテ島に一直線で迎えればよかったのですが、幸か不幸か獲物を見つけた栗田艦隊はこれまでの鬱憤を晴らすかの如く砲撃の嵐を敵機動部隊に降らせ始めました。

ところが敵の正体は機動部隊ではなく輸送部隊であり、空母も低速小型の護衛空母群でした。
「タフィー3」と呼ばれた輸送部隊は、戦艦や巡洋艦を率いた艦隊に遭遇したわけですから一目散に逃げだしました。
しかし一方で空母からは攻撃のために艦載機が飛び立ち、護衛の駆逐艦が栗田艦隊の前に立ち塞がりました。
駆逐艦は煙幕を炊いたり魚雷を放ったりして栗田艦隊の接近を妨害し、実際この妨害によって栗田艦隊は接近ができない状況が長く続きました。

そんな中でも特に巡洋艦は果敢に攻め入り、煙幕から抜け出した空母に向けた砲撃、また前でちょこまか動き回る駆逐艦への砲撃を止めません。
しかし【熊野】【米フレッチャー級駆逐艦 ジョンストン】の魚雷を艦首に受けて落伍、また【鈴谷】も空襲を受けて艦隊から引き離されてしまいます。
【能代】始め巡洋艦群はそんな中でも追撃を続け、ついに【米フレッチャー級駆逐艦 ホーエル】に命中弾を記録します。
【ホーエル】はこの被弾の前に【金剛】の砲撃も受けていて、すでに危険な状態にもかかわらず退避することなく護衛任務を必死に果たそうとしていました。
しかし再びの被弾があった【ホーエル】は速度が低下し、最終的には【大和】からの砲撃も浴びて沈没しました。

このように戦果はありましたが、しかし日本は数的有利にあったこの戦いでも敗北しています。
【鈴谷】【筑摩】【鳥海】【野分】沈没、【熊野】大破、そして、この【能代】の撃沈です。

【能代】【ホーエル】の撃沈を確認した後、空襲によって至近弾を受け、スクリュー1つが機能停止して速度が最大32ノットに低下します。
なんとか航行はできましたが、翌26日にも空襲を受けて【能代】は左舷中央に魚雷を受けてしまいます。
この付近には第一、第三缶室があり、ここが完全に浸水してしまいます。
これによって傾斜が最大26度となり、航行不能となった【能代】ですが、なんとか傾斜8度までは回復することができました。

ですが浸水が激しいため傾斜注水にも限界があること、また缶室の浸水ということで【能代】の航行能力は復旧しませんでした。
そのため【能代】は曳航されて戦場を退避するしか方法がありませんでした。
ところがその時、米軍の容赦ない第二波の空襲が始まります。
航行不能で海に浮かぶ的であった【能代】はその攻撃を回避することができず、右舷に魚雷を受けてしまいます。
やがて【能代】は艦首から徐々にその身を海へと預けていくことになります。

【能代】の敵はもはや空中を席巻する無数の飛行機で、【能代】は他の多くの軍艦と同じく、その要求とは縁遠い戦いの場で沈んでいきました。
そして【能代】【阿賀野】と同じく、末っ子である【酒匂】の誕生を見る前に退役してしまいます。

2020年12月05日 加筆修正

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