大淀【大淀型軽巡洋艦 一番艦】

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起工日昭和16年/1941年2月14日
進水日昭和17年/1942年4月2日
竣工日昭和18年/1943年2月28日
退役日
(解体)
昭和23年/1948年8月1日

建 造呉海軍工廠
基準排水量8,164t
全 長192.00m
水線下幅16.60m
最大速度35.0ノット
航続距離18ノット:8,700海里
馬 力110,000馬力

装 備 一 覧

昭和18年/1943年(竣工時)
主 砲60口径15.5cm三連装砲 2基6門
備砲・機銃65口径10cm連装高角砲 4基8門
25mm三連装機銃 6基18挺
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 6基
艦本式ギアードタービン 4基4軸
その他
水上機 6機
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巨大な船体は偵察機のため 潜水艦隊旗艦 大淀

潜水艦。太平洋戦争にて日本が煮え湯を飲まされた主要因でした。
その隠密性は世界各国が認めており、海戦では海に浮かんでいないものが強くなりつつありました。
日本も当然、その潜水艦の運用能力の向上に努めます。
しかし潜水艦最大の弱点は、その索敵能力。
潜望鏡だけで海上をくまなく見渡することもできませんし、加えて舞台は終わりの見えない太平洋です。
潜水艦で米艦隊の漸減を目論む帝国海軍としては、索敵能力の飛躍が欠かせませんでした。

潜水艦の目の役割を果たす兵器としては、やはり航空機が求められました。
当時はレーダーもないですから、高速の索敵機によって得られた情報を潜水艦に伝えて攻撃態勢を取るという連携が考えられたのです。
そこで計画されたのが、潜水艦隊を束ねる旗艦としての役割と、索敵機の搭載発着を行える艦の建造でした。

当時は【迅鯨、長鯨、大鯨】という3隻の潜水母艦が海軍には存在していました。
しかし【迅鯨、長鯨】はかなり古い上に「ワシントン海軍軍縮条約」の煽りを受けてかなり小型、そして低速の船でした。
さらには潜水艦の性能向上によって2隻のキャパシティでは潜水艦隊の統括ができなくなってきたこともあり、【迅鯨、長鯨】は小型の二等潜水艦と連携した活動しかできなくなってしまいます。

昭和8年/1933年から建造がスタートした【大鯨】はこの問題を踏まえて大型化し、また建造技術の向上を目指して電気溶接の多様化やディーゼルエンジンの搭載などが盛り込まれました。
しかしこの意欲的な挑戦は失敗に終わり、溶接は歪みを多発させ、またディーゼルエンジンも故障が続いて結局諸元通りの性能を発揮させることができませんでした。
更にはもともと計画の段階から【大鯨】は将来的な空母化構想があったため、有事の際に【大鯨】が潜水母艦である可能性は低かったのです。

となると、結局は潜水艦隊の旗艦は戦争になると存在しないことになり、潜水艦の目となる索敵機を潜水母艦から発艦させることすらできません。
このような理由で新たに巡洋艦を建造するに至り、「丙型巡洋艦」すなわち「大淀型軽巡洋艦」が誕生することになるのです
計画された「マル4計画」では、「乙型巡洋艦」である「阿賀野型」が4隻、「大淀型」【大淀、仁淀】の2隻の建造が決定しています。
1隻で潜水戦隊2隊を統率する計画でした。
実は「大淀型」は完成した案の他に2つの建造案がありましたが、それは後述します。

「大淀型」は日本が建造した最後の大型巡洋艦です。
「利根型」も非常に特徴的な巡洋艦ではありますが、この「大淀型」も負けず劣らず、全部が強いを信条にしてきた海軍にとっては珍しく性能特化型の船となっています。

まずは「大淀型」のアイデンティティーと言ってもいい航空機関係です。
わざわざ「大淀型」のために海軍では専用の水上偵察機の開発に着手していました。
その名は「紫雲」、水上機最速のスピードで強行偵察するための機体でした。
索敵は隊列を組んで行うわけではないため、個々の機体の性能は重要です。
しかしも今回の偵察はどのような状況でも、つまり敵の制空権内にも飛び込んでいける性能が求められたため、ちょっとやそっとの速さではダメなのです。
敵に見つかっても逃げ切れる速度が何よりも重要でした。

「紫雲」川西航空機が開発を指示され、最大速度は468km/hと「零式水上偵察機」の385km/hに比べると80km/hも違います。
機体そのものはそれほど大きいわけではありませんが、重量も「零式水上偵察機」よりも500kgほど重くなりました。

機体の性能は「紫雲」の項目に譲るとして、「大淀型」もこの「紫雲」を迎え入れる環境を整えなければいけません。
「大淀型」「紫雲」搭載を前提とした設計であり、煙突より後ろは全部航空設備です。
日本の水上艦は水上機を露天繋止させるのが一般的でしたが、「大淀型」「紫雲」を最大6機搭載させるために大型の格納庫も搭載しました。
横から見ればひときわ目立ちます。
格納庫には5機収容し、1機はカタパルト上に繋止されていました。

「紫雲」そのものが特注であると同時に、「紫雲」を射出するカタパルトもまた特注でした。
これまでいくつかの種類のカタパルトが搭載されてきましたが、開戦時の巡洋艦の標準装備だった呉式2号5型の全長19.4mに対して、「紫雲」専用カタパルトである二式1号10型は全長が44mという凄い長さを誇ります。
これは「大淀型」全体の1/4近くを占める長さです(全長192m)。

更に射出時の速度を高めるために射出重量も4tから5tへ増し、射出速度は150km/hという優れものでした。
「紫雲」は高速単フロートであることもあって低速での安定性がよくないため、この射出速度も重要な要目でした。
さらには4分間隔で次の「紫雲」を発射させることも可能だったため、索敵が開始されれば即座に対応できるのもいいところでした。
収容用のクレーンも「紫雲」の自重3,100kgに対応可能なタイプとなっています。

艦後部については全部航空設備で埋まっていますから、当然主砲は搭載できません。
「大淀型」は当初は索敵能力と旗艦≒通信設備をできるだけ充実させたいという思惑で建造が始まっていますが、計画の中では主砲すら載せないという案もありました(第一案 後述)。
ですがさすがに主砲なしは自衛ができませんし、また「最上型」20.3cm連装砲への換装によって惜しまれつつも降ろされた15.5cm三連装砲があったことから、「大淀型」には艦橋前にオーソドックスな背負い式で2基搭載されることになりました。
つまり、艦後方への砲撃方法は艦をある程度傾けなければできない仕様です。
これは「利根型」と共通していますが、「利根型」は4砲塔8門で、「大淀型」よりかは後方砲撃はしやすい配置でした。

兵装軽減といえば、「大淀型」には魚雷が搭載されていません。
これまででしたら無理やりにでも魚雷は搭載してきましたが、「大淀型」はどう考えても運用計画上雷撃戦を行う可能性は低く、また艦内空間も旗艦・通信設備や後部の航空兵装でかなり場所をとっていることから魚雷は搭載しないことになったのです。
その代わり初期から爆雷(たった)6個と投下台2基が搭載されています。

対空兵装は巡洋艦の歴史でもトップクラスで、まず当時は15.5cm三連装砲がある程度対空砲としての役割も担わせる想定でした(最大仰角55度)。
15.5cm三連装砲は12秒ごとに射撃が可能でしたが、まぁ高角砲としてはかなり遅いです。
結局先行して採用されている「最上型」では対空砲として運用することは結局断念されており、「大淀型」も積極的な対空射撃は行うつもりはなかったと思います。
さらに「秋月型」の主砲となった長10cm連装高角砲を砲架化した「A型改一」を4基8門、25mm三連装機銃が6基とかなり充実していました。
その対空火力は重巡をも凌ぎ、かつて構想された防空巡洋艦を彷彿とさせるものでした。

また、「翔鶴型航空母艦」で採用された高温高圧缶を6基搭載し、最大速度は35ノットに達します。
39ノットほどの速度を出すことも可能という記述もありますが、これはさすがにちょっと過剰な気がします。
機関の能力はかなり優秀だったようで、航続距離は公試成績では10,200~10,300海里ほどを発揮し、また舵も非常にスムーズで旋回半径は600mほどと小回りもききました。

通信設備も艦隊旗艦として非常に充実していて、また竣工直後から21号対空電探が搭載されています。
通信設備に関しては対比できる資料がないためあまり意味がないかもしれませんが、発信機9組、受信機27組、無線電話8組を備えていました。

防御面に関してはさすがに対重巡を想定していた「最上型、利根型」とは違って普段通り搭載砲相当の砲撃に耐えうるものとなっています。
機械室には60mmのCNC鋼で守られていました。
艦首には「阿賀野型」同様わずかなバルバス・バウが採用されています。

こうして「大淀型」は、「紫雲」で偵察し、その結果を潜水艦に伝えて襲撃をサポート、また15.5cm三連装砲を含めた充実した対空火力を持ち、最大速度35.5ノットという快速性を発揮する基準排水量8,100tの新型軽巡洋艦として建造が始まります。

ちらっとほのめかした「大淀型」の別の姿ですが、まず軍令部がさいしょに「大淀型」に求めた姿はこの姿とは全く似ても似つかないものでした。
なにせ基準排水量はたった5,000t(のち6,600t)しかありません。
主砲はゼロ、12.7cm高角砲8門だけ。
機銃は25mm機銃18挺と防空巡洋艦構想や「松型」などに近い兵装です。

「紫雲」6機は現実と同じですが、カタパルトは2基搭載するという思惑があったようです。
5,000t~6,600級に44mのカタパルト2基搭載、さらに4機収容可能な格納庫を搭載するわけですから、艦橋・高角砲は艦首側にかなり寄ることになると思います。

ですがこの案はカタパルト2基が使いこなせないという問題で断念されます。
カタパルト2基は普通両舷に1基ずつ搭載されます。
しかし44mもの長さになると、2基を同時運用しようとして旋回させると接触してしまいかねません。
接触を避けるとなるとかなり旋回範囲を狭める必要があり、危険だと同時運用を避けると何のための2基搭載かわかりません。

また12.7cm高角砲だけでは駆逐艦に抵抗するのが精一杯で、こっちは駆逐艦の砲撃は耐え切れますが向こうもそう簡単には致命傷を負いませんから、接近されて魚雷を放たれると一大事です。
駆逐艦はまず近寄らせないことが大切ですが、追い払う威力が12.7cm高角砲にはないのです。
そして当然ながら巡洋艦と遭遇すると逃げるしかありません。

もう1つの案は、航空巡洋艦化構想でした。
これも「紫雲」をどれだけ有効に活用するという思案の元で誕生した考え方です。
ですが「利根型」【最上】のような水上機を多数運用するための巡洋艦ではなく、「紫雲」を車輪付きの艦載機へ変更するという、巡洋艦の航空機運用ではなく巡洋艦の空母化を狙った本格的なものでした。

射出は当然カタパルトからですが、船はフラッシュデッキ型として艦橋は甲板の下に潜るという構造でした。
飛行甲板は全長の3/4ほどになる150mとされ、その先に2基の主砲を搭載するというものでした。
まるで黎明期の空母設計案を見ているかのようです。

排水量は16,000t、主砲と対空兵装は実際のものと同じでとされました。
搭載機は「紫雲」16機の他に、「九七式艦上偵察機」(未成)17機、「九六式艦上戦闘機」16機ということも考えられていました。
ただ「紫雲」全幅14.0m、「九七式艦偵」全幅13.95m、「九六式艦戦」全幅11.0mなのにこの搭載数となるのは謎です。
あと2つの艦載機の搭載予定があったのであれば、少し速度が落ちるもののわざわざ「大淀型」のために「紫雲」を造るのではなく、435km/hの「九六式艦戦」に絞ったほうがよっぽど効率的な気がします。
なお計画は途中で飛行甲板の長さが170mになり、艦載機搭載数もいずれでも20機になるように改められています。
ちなみに混載の予定はありませんでした。

ですがこの航空巡洋艦案も、空母としてはかなり実験要素も多いし、【鳳翔】ほどの飛行甲板での運用効果、艦載機の大型に対応できない将来性の低さ、一方で巡洋艦以下の防御力などの性能不足があったため、専門性を高めた第二案、つまり実際の「大淀型」の設計が採用されたわけです。

このような経緯もあって【大淀】は歴史通りの姿となるわけですが、当時は太平洋戦争開戦直前。
この時はまだ対米戦争の戦い方がどのようなものになるのか、日本はもアメリカもまだ知らなかったのです。
そして【大淀】の生涯は波乱の一言に尽きるのです。

紫雲開発失敗と連合艦隊旗艦 帯に短し襷に長し

【大淀】の建造が着々と進む中、【大淀】の存在意義は大きく変わろうとしていました。
「紫雲」の開発が失敗、断念されてしまうのです。
目指す頂があまりにも高く、不具合や故障が頻発。
その間に日本はついに太平洋戦争に突入し、「紫雲」の開発に固執する余裕がなくなります。

【大淀】は一気に窮地に立たされます。
その存在は「紫雲」あってこそのもの、「紫雲」がない中では、【大淀】が真価を発揮することは到底できません。
潜水艦隊の編成もまた、その「紫雲」の目と足が頼りだったため、一気に現実味が失われました。
加えて2番艦【仁淀】の建造中止も決定され、【大淀】は想定された運用の相棒も失うことになります。

もし「紫雲」が誕生していたとしても、潜水艦による漸減作戦そのものが現実的ではなくなり、特に「ガダルカナル島の戦い」から通商破壊がメインとなってきたこと、連合軍の対潜装備が劇的に進化したことから、潜水艦は索敵に加えて自衛力、つまりは非常に慎重な行動をとる必要が出てきました。
そのため「紫雲」が誕生していたとしても、予想していない戦況に突き進んだ太平洋戦争でどれだけ【大淀】が活躍できたかは不明です。

【大淀】はたちまち使いどころのない軽巡の烙印を押されてしまいます。
なにせ主砲は15.5cm三連装砲2基のみ、魚雷は発射すらできない。
水雷戦隊に組み込んでも戦える火力はあるにはありましたが、水雷戦隊の構想とは外れる上に1隻だけの存在なので、運用の問題が残りました。
幸か不幸か、防空能力のみは軽巡随一のものではありましたが、とても攻撃部隊に組み込める装備ではありません。

【大淀】はその巨体をもって輸送任務に就くという、皮肉な運用を任されることになります。
とは言え昭和18年/1943年は多くの巡洋艦は輸送や護衛任務を担っていますから、【大淀】だけがはじき出されたわけではないのですけれども。

しかし、【大淀】の乗員の練度は非常に高いものでした。
それもそのはず、【大淀】の乗員の多くはかつて【比叡】でバリバリ働いていた、規律に訓練と厳しい日々を耐え抜いてきた優秀な人ばかりでした。
戦艦から軽巡、しかも輸送や警備ばかりの任務の中でも黙々とその役割を果たしていきました。

輸送任務が続く中、連合艦隊は12月から1月にかけて本土~トラック島、カビエンへの輸送を行う「戊号輸送作戦」を開始します。
【大淀】はこの作戦では戊三号輸送部隊第二部隊に編成され、12月30日にトラック島を出発、翌々日の昭和19年/1944年1月1日にカビエンへと到着しました。
ちなみに第一部隊は前日の大みそかにカビエンへと到着し輸送を成功させています。

しかし第二部隊は特に大型の【大淀】に搭載されていた大型の火砲などの揚陸に時間がかかってしまい、出発は予定より2時間ほど遅れたといいます。
そんな中で【大淀】21号対空電探がカビエンへ向かってくる数十の機影を捉えました。
第二部隊は急いで港を離れ、対空戦に備えます。
部隊は【能代、山雲】【大淀、秋月】に分かれ、【大淀】【秋月】と共に自慢の対空砲火を存分に敵機に浴びせました。
その勢いはすさまじく、【大淀】は40分で主砲の残弾が空っぽになってしまい、徹甲弾や演習弾も使って交戦しています。
【秋月】長10cm連装高角砲が真価を発揮し、【秋月】は被害らしい被害なく、【大淀】も至近弾や機銃掃射はありましたが問題ありませんでした。
一発直撃弾を受けてはいるものの、幸いにもこれは不発だったため大事には至りませんでした。

この戦いの後、【大淀、秋月】【米バラオ級潜水艦 バラオ】に雷撃されて航行不能となっていた【特設巡洋艦 清澄丸】を曳航するために現地へ向かいました。
この時【清澄丸】は3発も魚雷を受けたのに健在でした。
この支援には護衛として元々随伴していた【夕凪】に加えて、【那珂、谷風、第22号掃海艇】も向かっています。

やがて、【大淀】にまたとない機会が突如訪れます。
それは本来、軽巡洋艦には似ても似つかない、まさに驚天動地な大役の任命でした。
それは、連合艦隊旗艦です。

連合艦隊旗艦とは、海軍の作戦の総司令部が存在する艦のことを指し、言わば全艦隊のトップです。
当然トップはトップたる資格や力、威厳等々を持ち合わせているもので、その任は初代連合艦隊旗艦の【防護巡洋艦 松島】を除いて全て戦艦が務めてきました。
当時の連合艦隊旗艦は【武蔵】、誰が見ても文句の一つも出ない、大変立派な戦艦です。
その座をなぜ軽巡洋艦である【大淀】が引き継ぐのでしょうか。

そこには、プライドだけでは戦えない事情があったのです。

戦艦は当然燃費を食います。
特に「大和型」2隻の消費量は破格で、いくら世界最強とはいえ、燃料を自国で調達できない日本ではそうやすやすと運用することができませんでした。
そしていざ運用してみれば、「戦艦」は出撃も稀でトラックとか柱島とかで錨を降ろしっぱなし、出撃しても特に戦うわけでもなく、勝敗にかかわらず後ろで見ているだけ。
これでは「戦艦」の役割を果たさず、ただいたずらに燃料を浪費するだけです。
前線で海戦があった後は司令部は文句を言うだけですし、何のための戦艦なのかわかったものではありません。

加えて戦線はどんどん拡大、太平洋のアジア圏内からインド洋まで広がってしまい、この広さを戦艦が管轄するなんて、あまりにも非現実的でした。
また、戦況の悪化から戦艦も前線に出て攻撃部隊に参加することが提言され、いよいよ戦艦での旗艦運用が厳しくなっていました。

そこで白羽の矢が立ったのが、

・戦闘能力に乏しい
・高速性に富む
・索敵能力が高い
・通信設備が充実
・レーダーがある
・比較的大型
・戦艦よりはるかに燃費がいい

【大淀】でした。
この時は陸上に司令部を置くということも検討されています。

しかし、いくら大型とはいえ今まで戦艦にあったものが軽巡に移設されるのです、改造は結構無茶なものでした。
そのお陰で船体のバランスが崩れ、最大戦速時の転舵の際の傾斜が非常に大きくなってしまいました。
それに司令部はどこに置くかというと、これまでのように艦橋に入れるスペースがないためになんと船の後部にあたる格納庫を改装するということでした。
ただこれもマシなほうで、後部じゃなくて前部の主砲をどかしてそこに司令部などの新しい構造物を置こうという案もありました。
もうこの船じゃ戦わないという割り切りは潔いのかもしれませんが、そうなると遠洋に出ることはできませんから、じゃあ陸上でいいのではと思ってしまいます。

この結果【大淀】の長所とも言えた6機の水上機搭載というメリットもなくなってしまい、完全に司令部があるだけの船になってしまいました。
また、旗艦が軽巡にあることそのものに不満を抱く声も少なくなく、当時の司令長官であった豊田副武大将「戦死するなら、武蔵か大和のデッキで死にたい。こんな船の上ではいやだ」と吐き捨てています。
まぁ、「海軍乙事件」によって古賀峯一連合艦隊司令長官が死亡し、就任したばかりの豊田大将が初めて司令長官として乗る船が軽巡っていうのは愚痴の一つも吐きたくはなるでしょう。

カタパルトは二式1号10型が撤去されて新たに一般的な呉式2号5型が装備され、「零式水上偵察機」2機が搭載されました。
最初は「瑞雲」を搭載したかったようですが、知っての通り「瑞雲」の配備は遅れたため、航空兵装に関しては完全に特徴がなくなりました。
またこの改装では同時に25mm三連装機銃が12基、単装機銃11基まで機銃が増備されています。

ゴタゴタの末に、【大淀】は3月6日に工事が始まり、5月1日に工事が完了しました。
旗艦となった【大淀】の出番はすぐにやってきました。
翌月の「マリアナ沖海戦」です。

しかし、【大淀】は木更津沖および柱島にて指揮を行っていました。
戦艦だと旗艦にしにくいから【大淀】にしたというのに、マリアナは電波の状況が悪いということから、通信設備が整っている本土のほうが適しているということでした。
しかも本土で通信をするのなら船よりも陸のほうがいいので、日本にいても万全な旗艦体勢が整っているとも言い難い状況でした。
結局戦場の後方から旗艦としての役割を果たさず、日本にいながら陸上よりも設備が少ない泊地内で戦う艦隊たちを動かしていたのです。

これでは船に司令部を置く意味がありません。
いろいろ議論がありながらも、結局は【大淀】案の他にもう一つ存在していた、「陸上司令部案」に圧され、たった4ヶ月で、たった1つの作戦のみに従事し、連合艦隊旗艦の座から退きます。
このおかげで【大淀】は、ちょっと対空力のあるだけの大きな軽巡になってしまいました。

戦闘力の弱い軽巡 奇跡の連続で終戦まで生き延びる

再び単なる軽巡に戻った【大淀】ですが、単なる軽巡としての【大淀】は、はっきり言って貧弱でした。
ですが、【大淀】で光るものはその対空火力と高速性です。
主砲こそ頼りないですが、無数の艦載機から自身を、ひいては艦隊を守るためには【大淀】の兵装は信頼に足るものでした。

「レイテ沖海戦」では壮大な囮作戦を完遂すべく編成された小沢艦隊に所属して戦闘に参加。
最初は艦隊旗艦の予定でしたが、【瑞鶴】最期の戦いになることを覚悟していたことから、最終的には【瑞鶴】旗艦、【大淀】は第三十一戦隊旗艦として出撃しました。

この戦いでは【瑞鶴】だけではなく、出撃したすべての空母が沈没。
更に退避中にも単艦で敵艦隊に攻め入った【初月】を援護するために【伊勢、日向】らとともに再び南下しましたが見つけることができず、結局奄美黄島まで逃げ延びました。
その後しばらくは満足な補給を受けることもままならず点々とフィリピン方面をめぐることになります。
ブルネイに寄港した際、【大和】と合流してようやく砲弾などの補充を受けることができました。

やがて「礼号作戦」に招集され、【大淀】【霞、足柄】らとともにこの作戦に挑みます。
「礼号作戦」前、【大淀】はまたも計画当初では想定すらされなかった第二水雷戦隊旗艦に任命されます。
ですが最終的には司令官の木村昌福少将の判断によって旗艦は【霞】が務めることになりました。
昭和19年/1944年12月24日、【大淀】ら挺身部隊はカムラン湾を出撃し、ミンドロ島を目指します。

しかし道中はすっかり晴れ渡っており、夜間でも空襲が続発しました。
この空襲で【清霜】が機関部まで貫通した爆撃を受けて航行不能、後に沈没してしまいます。
【大淀】にも2発の直撃弾があったのですが、どういうわけか信管が付いておらず、つまりは爆発することなく命拾いしています。
これは第二水雷戦隊の奇襲に対して満足な準備ができなかったためとも言われています。
1発は【清霜】同様機関部にまで貫通しており、本当に九死に一生を得ました。

【清霜】が沈没するも目標まであとわずか、艦隊は【清霜】の本格的な救助を後回しとし、ミンドロ島の輸送妨害のための艦砲射撃を実施します。
この作戦の影響は大きくなかったものの、「礼号作戦」は帝国海軍最後の勝利と言われており、輸送船1隻撃沈、多数の敵航空機を撃墜し、また揚陸した物資にも火を放って一定の成果を得ました。

翌年2月には「キスカ島撤退作戦」と並ぶほどの奇跡的な生還を遂げた「北号作戦」にも参加。
敵制空権下を強行突破するというこの命がけの輸送作戦を実施するにあたり、【大淀】は無用の長物となった司令部を物資保管庫に改造。
また【伊勢、日向】も使わなくなった航空機格納庫を燃料の保管場所として作戦にあたりました。
被弾すれば瞬く間に引火する恐れのある超危険な任務なので、【大淀】の保管庫には防弾用の天然ゴムが配備されていました。
半分戻れば御の字のこの作戦で、これまでも豪運ぶりを発揮していた【伊勢、日向】とともに【大淀】はなんと無傷でこの輸送任務を完遂しています。

しかし以後は燃料が底をつき、呉の地で練習艦に格下げとなります。
その後、呉は国内でも最も危険な海域となり、常に空襲の危険と隣り合わせでした。
3月19日、呉上空に突如プロペラ音が鳴り響きました。
【大淀】は当初これは日本の航空機のものだと思ったそうですが、近くにいた【利根】がいきなり対空射撃を開始。
これを受けて【大淀】も慌てて出港、戦闘態勢に移りました。

しかしこの空襲で【大淀】は機関室と缶室に直撃弾を受けてしまい、6つのうち4つの缶が使用不可能となりました。
ほとんど足を奪われてしまった【大淀】はこの地で浮き砲台となる運命となります。
そしてこれから連日日本の一大軍港であった呉はアメリカの重要なターゲットとして空襲に見舞われることになるのです。

この空襲によって【大淀】はやがて着底してしまいますが、それでも生き残った機銃で必死に戦い抜きます。
また、近隣住民も伴って懸命な修復、回復作業が行われました。
それを良しとしないアメリカはさらに軍港に残る艦船に対して空襲を行い、【大淀】の被害はどんどん蓄積されていきます。
そして7月28日の「呉軍港空襲」によってついに【大淀】は艦橋付近の被弾によって浸水横転、大破。
これまでの戦闘で【大淀】は対空火器も故障や破壊によって稼働率が低下していて、この空襲によって【大淀】は戦う術を完全に失ってしまいました。


転覆寸前で着底した【大淀】
それからおよそ半月後、日本は敗戦します。
【大淀】は大破こそすれ、その地が浅い呉港内だったため、沈没は免れたのです。

やがて昭和22年/1947年、【大淀】も解体が決定しますが、通常ならその現場で解体されるところを、「1隻ぐらい、故郷で解体してやりたい」という解体業者の思いから、【大淀】は自身を生み出した呉海軍工廠まで曳航され、そこで丁寧に解体されました。

誕生の経緯からは想像もつかない歴史を辿った【大淀】は、最後は軍艦らしく、敗戦の直前まで、その機銃をもって空と戦い続けました。


解体作業中の【大淀】

大淀の写真を見る