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【松型駆逐艦 桐】その2
Kiri【Matsu-class destroyer】

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最後の多号作戦に参加 ソ連での生活が長い桐

11月9日、日本は残された戦力をマニラやシンガポールにかき集めるため、悲しいかな随分と空きスペースがある【伊勢】【日向】を使って輸送を行うことになりました。
輸送部隊はH部隊と呼ばれ、護衛には第三十一戦隊が参加することになります。
もちろん【桐】も同行し、「松型」は計5隻が参加しています。

しかし11日、部隊が馬公で給油を受けた後に出撃する際、【桐】は強風に煽られてしまい触礁してしまいます。
航海には影響がないと判断されて【桐】は護衛を続けることになりますが、この被害が後の【桐】の運命を左右します。

さてH部隊が目指していたマニラですが、現在進行系で「多号作戦」が行われていて、マニラはすでに何度も激しい空襲を受けていました。
そして13日と14日に行われた空襲は、マニラ放棄を決断せざるを得ないほどの被害でした。
この空襲の被害もあってH部隊はマニラへの輸送を中断。
命令を待つために、いったん南沙諸島で待機することになりました。

やがてマニラは「多号作戦」のためだけに必要な戦力だけを抱え、残りの船は撤退することが決まります。
このころ「レイテ沖海戦」から引き揚げてブルネイに停泊していた栗田艦隊の本土帰還も決定され、H部隊は解隊の上、各方面へ移動する部隊にそれぞれ合流することになりました。
【桐】【梅】とともに栗田艦隊の撤退の護衛に加わることになります。
ちなみにこの撤退組に【桐】が選ばれた理由が、先ごろの座礁の被害であり、被害がなければ【桑】が撤退側で【桐】はマニラへ向かうはずだったようです。
その後【桑】は第七次多号作戦の中で沈没してしまっていたので、ここが【桐】が戦争を生き抜いた1つのターニングポイントではありました。

17日に南沙諸島を出発した【桐】【梅】は、その日のうちに栗田艦隊と合流して日本を目指していました。
ところが行く手には嵐が待ち構えており、大波に煽られながら各艦は北上します。
一際小柄な【桐】【梅】は高波に隠れることもしばしばで、【大和】からも随分心配されたそうですが、「第四艦隊事件」を受けて波に負けない設計となっている駆逐艦は、煽られはしますが転覆するかもというほどの危険はなかったようです。

【桐】【梅】は20日に護衛任務が解かれ、台湾に向かうように命令されます。
傍から見るとヒヤヒヤする航海だったので、嵐も敵潜水艦を邪魔してくれるし、台湾までくれば大丈夫だろうという判断でしょうか。
しかしこの判断は完全に裏目に出てしまい、2隻が離脱した翌日の21日に栗田艦隊【金剛】【浦風】【米バラオ級潜水艦 シーライオン】の雷撃を受けて沈没してしまったのです。
2隻がいれば防げたとは言えませんが、後悔先に立たず、【桐】【梅】はまさかそんな事になっているとは思いもよらず、基隆で補給を受けました。

この後の2隻の動きですが、栗田艦隊からの命令は「原隊復帰」であったため、第三十一戦隊の動きに連動することになります。
ですが【桐】は座礁の修理が必要だったために原隊復帰とはならず、【梅】だけがマニラへ向かいました。
その後の行動から【桐】は日本に戻らず台湾で修理を行っていると思われますが、確証が持てません。

12月3日、馬公には【隼鷹】【涼月】【冬月】【槇】がやってきました。
この4隻は日本からマニラへ向けての輸送を実施し、その帰りでした。
さらに5日には【榛名】【初霜】【霞】が馬公に到着。
【榛名】は「レイテ沖海戦」の被害で高速航行ができなくなっていました。

ここから【初霜、霞】が分離し、さらに【桐】がこの2隻とともに出港。
【桐】達は日本へは戻らず、再び前線に戻っていきますが、【初霜】【霞】はカムラン湾へ、【桐】はこれまで2回回避してきたマニラに今度こそ向かわなければならないので、この3隻も洋上で分離しています(他に輸送船がいた?)。

マニラには問題なく到着した【桐】ですが、マニラに来たということは否応なく「多号作戦」に参加することになります。
そしてマニラに残っている船の姿は、筆舌に尽く難い有様でした。
12月9日、最後の作戦となる第九次多号作戦に参加した【桐】は、他に【卯月】【夕月】【第9号輸送艦】【第140号輸送艦、第159号輸送艦】、そして【空知丸、美濃丸、たすまにあ丸】の輸送船3隻と【第17号駆潜艇、第37号哨戒艇】の計11隻でレイテへと出発します。

【卯月、夕月】「睦月型」の中で生き残っているたった2隻の駆逐艦でした。
ただ第八次多号作戦の時点でオルモックにアメリカ軍が上陸していたのはわかっていたので、やがて揚陸地はパロンポンに変更することになります。

何回も行っている輸送ですから、言うまでもなく前途は多難です。
翌10日には早くも【B-24】に発見され、11日11時ごろには遂に敵機がやってきました。
ですがこの時の空襲は露払いだったのか、船団の直掩機との戦闘が終われば艦船への攻撃もそこそこに立ち去っていきました。
こちらの被害は大したことはありませんでしたが、しかし直掩機は次々に撃墜されていきました。

敵機が去った後、セブ島に向かうために【第9号輸送艦】が単艦離脱。
【第9号輸送艦】はこの輸送を完遂してマニラへ帰投しています。
これで【第9号輸送艦】は6度参加した「多号作戦」を全て沈まず達成するという偉業を成し遂げました。

一方【桐】達は昼過ぎに再度空襲を受けました。
直掩機がこのときに残っていたのかは定かではありませんが、攻撃は船団に集中。
【桐】25mm機銃が増設されていることもあって最大10機の撃墜証言が残っていますが、輸送船には容赦のない反跳爆撃が飛び込んできて、この空襲で【たすまにあ丸】【美濃丸】が炎上、沈没。
【空知丸】と輸送艦は無事でしたが、輸送船の沈没となると大量の乗員が海に投げ出されます。
【桐】の艦内は兵員でパンパンになり、足の踏み場もないほど人で溢れ返りました。

空襲は乗り切ったものの、2隻の輸送船が沈んで、人も物も失った上に揚陸手段も減少。
ところがこんな状態の船団に対して、【桐、夕月、第140号輸送艦、第159号輸送艦】の4隻はオルモック湾に向かうように命令がありました。
これはずっと窮地で戦い続けている陸軍からの苦しい叫びだったらしいのですが、オルモックはもう敵陣営になったに等しい場所でした。
にもかかわらず、誤解なのか納得させるための嘘なのか、この後輸送部隊の中には「オルモックは維持している」という伝達が入り、【桐】達はオルモックに向かう羽目になったのです。

オルモックへ向かうのは【桐、夕月、第140号輸送艦、第159号輸送艦】の4隻で、【空知丸】【卯月】らはパロンポンへ向かいます。
まぁ実際【空知丸】だけが低速の船となったため、【空知丸】を無理矢理オルモックに突入させるより、足と揚陸機能が秀でている輸送艦だけをオルモックに向かわせる方が理に適っていると思います。

さて、オルモック行きとなってしまった【桐、夕月】【第140号輸送艦、第159号輸送艦】は、22時ごろにオルモック付近に到着。
【桐、夕月】は沖合で警戒を行います。
すでに「多号作戦」では夜間の魚雷艇や駆逐艦との戦闘経験があるため、昼は空、夜は海への警戒が欠かせません。

しかしこの時、実はアメリカも数キロ東のイビルで揚陸を行っていたのです。
恐らく山がレーダーの波長を乱し、すぐには【桐】達の存在に気付かなかったのだと思われます。

輸送艦が揚陸をせっせと行っていましたが、突然【桐】の22号対水上電探に反応がありました。
どうやら数隻の船がこちらに向かってきていたようです。
その正体はアメリカの補給部隊で、電探が反応したのはその護衛の駆逐艦だと思われます。
【桐】【夕月】とともに急いで戦闘態勢に入りました。

ここからの戦闘については時系列や描写の誤りがあるかもしれません。
しばらくすると1隻の駆逐艦が見えてきました。
この船が【米ベンソン級駆逐艦 コグラン】【コールドウェイ】かはっきりしませんが、ともかく敵側は【桐】達に気付いた様子もなくオルモック湾にやってきました。
これに対して【桐、夕月】も慌てて砲撃し、いきなり戦闘が始まりました。

お互いバタバタしながらの砲撃戦が繰り広げられ、【桐】は魚雷も発射しています。
しかし双方のどの攻撃も命中することはなく、【コグラン】は煙幕を展張して撤退。
仕留めることはできませんでしたが、直面する危機は去りました。
ですがこのまま敵が見過ごしてくれるとは思えません、揚陸を急がせ、【桐】【夕月】は警戒を続けました。

それから2時間ほど経過すると、またもや何かしらの姿が湾口に見え始め、続いて照明弾が打ち上げられました。
先程は1隻でしたが、今度は5隻の駆逐艦です。
2隻は湾外へ脱出したとよく表記されるのですが、どの脱出のタイミングが掴めていません。
戦闘前に脱出してそこで交戦をしたのか、交戦の最中に隙を突いて湾外に脱出したのか。
どちらにしても、2対5の海戦は圧倒的不利ではあったので、2隻はひたすら逃げて、敵もしつこく追いかけることなく引き揚げていったようです。

このあたりの時系列がはっきりしないものの、揚陸中の2隻の輸送艦には攻撃が加えられています。
【第159号輸送艦】がすべての揚陸を済ませた後、突如陸上から砲弾が飛んできました。
やはりオルモックは日本が確保しているわけではなく(実際には要請通り日本の部隊がいたけれど、優勢ではありませんでした)、輸送を妨害するために陸上から砲撃されたのです。

オルモックが維持されていると勘違いしていたのは、次の出来事からもわかります。
砲撃を受けた【第159号輸送艦】からは「撃つな!」「味方だ!」という叫び声が聞こえており、【第159号輸送艦】はその味方に殺されるという無念の中で大破着底。
【第140号輸送艦】はその様子を見て揚陸を途中で切り上げて急いで離脱。
陸軍としてみればオルモックを失いかねないから是が非でも増援が必要だったのでしょうが、これが仇となってしまいました。
パロンポンからオルモックは直線距離で18kmほど。
サン・イシドロとは比較にならないほど近いので、結果論ですが拙速だったかもしれません。

話を戻して、2度の戦いでも被害を受けずに済んだ2隻ですが、息をつく間もなく次の行動に出ます。
【桐】には【美濃丸、たすまにあ丸】の兵士達が600名ほど乗っていました。
敵と戦うにしても人が多すぎますし、もし攻撃を受ければ被害も膨れ上がります。
そしてなによりも彼らは重要な戦力ですから、船に乗せ続けても何の意味もありません。
そのため【桐】もパロンポンに向かって彼らを上陸させ、【夕月】が残って輸送艦を護衛することになりました。

パロンポンは静かなもので、上陸はスムーズに進みました。
この時はすでに【空知丸】と哨戒艇は撤退していたようです。
しかし実は【空知丸】の揚陸後、【卯月】はオルモックに向かっている途中(揚陸中?)に魚雷艇の奇襲にあってしまい、雷撃で轟沈していました。
【桐】も一歩間違えれば同じ末路だったかもしれません。
【卯月】から脱出した乗員が【桐】に気付き、大声で【桐】を呼んだのですが、残念ながら【桐】はそれに気付かずにパロンポンを去ってしまいました。

無事に揚陸を終えた【桐】は、まずは【空知丸】らと合流しますが、その後反転してオルモックから来た【夕月】【第140号輸送艦】とも合流。
ここまで空襲、水上戦、陸上からの砲撃と凌ぎに凌いできた彼女達でしたが、最後の関門が待ち受けます。
12日16時ごろ、【P-38】【F4U】が3隻に襲いかかり、次々と爆撃を受けてしまいます。

この空襲で【夕月】は直撃した2発の爆撃がともに機関室付近に命中し、あっという間に航行不能となってしまいました。
【桐】も右舷側の至近弾で後部機械室が被害を受けます。
煙突から白煙が吹き出し、電源が落ちてしまいますが、前部機械室が無事だったので何とか復旧しました。
「松型」の機関配置が功を奏した瞬間でした。

無数の穴だらけとなり、12名の戦死者を出した【桐】でしたが、一方で【夕月】の被害状況はあまりに悪く、もはや復旧は絶望的でした。
【桐】【夕月】の乗員214名を救助して、【夕月】を砲撃で処分。
「睦月型」を最後まで牽引してきた2隻は、第九次多号作戦でこの世を去りました。

マニラへ到着した【桐】達でしたが、その後「多号作戦」は中止が決まります。
【桐】は日本に戻り、呉で昭和20年/1945年3月まで修理を受けました。
その後「坊ノ岬沖海戦」を経て編成は大きく代わり、第三十一戦隊は連合艦隊所属となります。
そして5月20日には、第三十一戦隊と「松型」が中心となり、「回天」を使った特攻のための海軍挺進部隊が編成されます。
「回天」搭載ための工事が施されたのは一部の船だけですが、修理を受けたばかりの【桐】は身体が元気だということから、改装対象となります。
とは言え回天搭載艦の出番はなく、訓練はしたものの終戦まで柳井で身をすくめて隠れ続けていました。

終戦後は復員輸送艦として各地を往来し、昭和22年/1947年7月29日、戦後賠償艦として【桐】はソ連へと引き渡されました。
新たに『ヴォズロジュジョーンヌイ』という名を与えられた【桐】でしたが、昭和24年/1949年3月には武装解除、その後は標的艦として扱われました。
名は『TsL-25』と改められ、さらに昭和32年/1957年3月には工作艦として『PM-65』に再び改称。
昭和44年/1969年の解体まで、ひっそりとした余生を過ごすことになりました。

最後に、これはネット上の情報以外何にも手元にないのでちょっとだけの紹介になりますが、【桐】はどういうわけか自らを「狸部隊」と称しており、【桐】の歌にも「狸一旒」と歌われるほど狸まみれでした(一旒は1つの旗のこと。狸八幡大菩薩の旗が掲げられていたらしい)。
そもそも狸って弱いし臆病し目も悪いし、とても戦でご利益に預かろうという動物ではありません。
なんで狸?
いつかもっと詳しく調べたい。

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参考資料(把握しているものに限る)

Wikipedia
[1]空母瑞鶴 日米機動部隊最後の戦い 著:神野正美 光人社

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