秋月【秋月型駆逐艦 一番艦】敵は空にあり 対空兵装最重視の防空駆逐艦 | 大日本帝国軍 主要兵器
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秋月【秋月型駆逐艦 一番艦】

起工日昭和15年/1940年7月30日
進水日昭和16年/1941年7月2日
竣工日昭和17年/1942年6月11日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年10月25日
エンガノ岬沖海戦
建 造舞鶴海軍工廠
基準排水量2,701t
垂線間長126.00m
全 幅11.60m
最大速度33.0ノット
航続距離18ノット:8,000海里
馬 力52,000馬力
主 砲65口径10cm連装高角砲 4基8門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 1基4門
次発装填装置
機 銃25mm連装機銃 2基4挺
缶・主機ロ号艦本式缶 3基
艦本式ギアードタービン 2基2軸


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防空性能を見せつけるも、不要な装備で命を落とした秋月

「秋月型」「マル4計画」で6隻、「マル急計画」で10隻、「マル5計画」で16隻、そして「改マル5計画」で23隻に増加しています。
「改マル5計画」「ミッドウェー海戦」後のものであり、この敗戦がいかに海軍にとって一大事だったかが伺えます。
最大で39隻の建造が計画された「秋月型」でしたが、結局完成したのは12隻。
防空意識は芽生えたものの、日本にはもう計画を完遂できるほどの時間が残されてなかったのです。
八番艦以降は工期短縮のために簡略化も推し進められ、かなり切羽詰まった状況でした。

魅力たっぷりの「秋月型」はこちらで詳しく案内しています。 ⇒ 『海戦の新時代 日本防空艦の裏側』

【秋月】は昭和17年/1942年6月11日に竣工。
実は竣工予定日は5月25日の予定だったのですが、直前の砲熕公試で不具合が発覚。
この影響で竣工予定日は6月10日に延期されました。
さらに俯仰制限装置にも問題があることがわかり、予定日はさらに19日まで伸びてしまいます。

ところが6月5日の「ミッドウェー海戦」で海軍は対米戦の展望が激変してしまい、慌てて試験を省略して11日に竣工させました。
そこで省略するんならそもそも機動部隊作戦の「ミッドウェー海戦」に合うように調整しろよと思いますが、これでも建造サイドはこれまでとは大きく異なる機構・構造の「秋月型」に対して多くのトラブルを抱えながら乗り越えてきていたので、無理からぬことでした。

14日、アリューシャン列島方面で敵の反攻の気配があったため、当時唯一無傷だった正規空母の【瑞鶴】を送り出してこれに対処することになりました。
【秋月】【瑞鶴】【浦風】【朧】とともに柱島を出発。
【秋月】【朧】はあくまで途中までの護衛だったため、大湊まで送り届けた後はそのまま横須賀に戻っていきました。

25日は【鎌倉丸】をマカッサルまで護衛する任務を受けて横須賀を出港。
竣工まもない輸送船護衛だったため、乗員の練度と近海に潜む潜水艦のことを考えて慎重な行動をとります。
潜水艦の活動には浮き沈みがあったため、その低調になるタイミングまで浦賀水道で数日待ち、29日にそーっと日本近海を通過していきます。
見事敵潜の警戒を掻い潜り、マカッサルまでの護衛を果たしました。

その後も輸送船の護衛を行い、8月21日にラバウルへ到着。
ここでようやく機動部隊主隊に編入されました。
しかし編入といってもあくまで書類上のことですから、機動部隊に実際に合流したわけではありません。
そして【秋月】はまたも一歩遅れた到着となってしまい、24日の「第二次ソロモン海戦」には間に合わなかったのです。
25日に到着したところで、沈んだ【龍驤】は帰ってきません。

その後トラックに移動し、【秋月】は第十戦隊に編入されました。
早速前線に出ることになり、【秋月】【朝雲】【夏雲】【峯雲】とともに外南洋部隊としてショートランド泊地を目指して出発しました。
9月29日、その道中で上空に複数の航空機が現れました。
【秋月】ではこの航空機を「九七式艦上攻撃機」と思っていました。
確かにショートランド泊地周辺はラバウルからの航空機が飛んできてもおかしくないし、ブインの飛行場も完成間近だったので、そこからの航空機かもしれません。

しかし唐突に近くに一発、また一発と大きな水柱が上がりました。
上空から爆弾が投下されてきたのです。
航空機の正体は「B-17」
3もしくは7機の爆撃機が4隻の駆逐艦を発見し、水平爆撃を仕掛けてきたのです。

撮影した「B-17」から奇襲を受けた【秋月】。砲塔はいずれも定位置のままである。

慌てて【秋月】は戦闘態勢に入りましたが、竣工後も訓練抜きで送り込まれたため、まともに砲撃をしたのは実はこれが初めてだったようです。
グネグネと爆弾を回避しながら、他艦の高角砲とは全く違う音と速度で、ドンドンドンと上空に長10cm砲が火を噴きます。
そして次の瞬間、一機の「B-17」が突如バランスを崩して燃え始めました。
見事長10cm砲の一撃が「B-17」に命中し、撃墜に成功したのです。

この時分火、つまり前後2基ずつバラバラに目標に対して射撃し、2機同時に撃墜したという証言がありますが、実際の記録は1機ですし、また分火するために必要な九四式高射装置も1基しか搭載されていないことから、この証言は誤りだと思います。
これが【秋月】の初の戦闘であり初の戦果、そしてアメリカにとっても初めて「秋月型」を確認した瞬間でした。

さぁこれから機動部隊に就いて「秋月型」の真価を、と言いたいところでしたが、海軍は数が少なくなった機動部隊の出撃に尻込みしてしまい、【秋月】は船団護衛や鼠輸送の任務が与えられました。
本来の役割とは少し異なりますが、しかし船団護衛でもやることは同じです。
ちゃんと撃墜も記録しながら【秋月】は輸送成功に尽力します。

10月7日、【秋月】【照月】と第六一駆逐隊を編成します。
「秋月型」は逐次投入だったため、相方が現れるまで駆逐隊を編成しないケースが多くありました。
しかしせっかく誕生した第六一駆逐隊は、【照月】が早期に沈没してしまったため一度も顔合わせをすることがありませんでした。

10月12日には第四水雷戦隊の旗艦に就任。
本来ならここは軽巡などが任され、実際この時は【由良】が旗艦だったのですが、防空力の高い船はいくらいても困りません。
多少大型の【秋月】は旗艦もできなくはなかったので(余分なスペースがあるわけではない)、輸送強化の陣頭指揮をとるようになりました。

しかし25日には「南太平洋海戦」の直前のヘンダーソン飛行場への艦砲射撃+陸軍支援のために出撃したところ、反撃の空襲に合ってしまいます。
艦砲射撃を行っていた【暁】【雷】【白露】は逃げ切って被害はなかったのですが、この支援に向かっていた【秋月】達が逆に標的にされてしまいました。
午前11時ごろに5機の「SBD ドーントレス」「F4F ワイルドキャット」がやってきて、この爆撃によって【由良】が2発被弾し、【秋月】も2発至近弾を受けました。
この至近弾で【秋月】は右舷軸室が浸水し、片舷航行、最大23ノットとなってしまいます。

この時の被害で【由良】は浸水が進み、沈没の危険性がどんどん高くなります。
【秋月】らは避難を急ぎましたが、午後3時ごろに今度は「B-17」がやってきて、更に【由良】に一発爆弾が命中し、【由良】は最期は雷撃処分されました。
【秋月】もこの時被弾してしまい、今度は第一缶室が浸水しました。
他にも【五月雨】が至近弾を受けています。

それでも進化した機関配列のおかげで【秋月】は航行を続行することができました。
【秋月】【由良】の乗員救助を手伝った後、ラバウルまで撤退して応急修理をし、その後横須賀で本格的な修理を受けることになりました。
そしてこの時同時に訓令により第一煙突両側に25mm三連装機銃が1基ずつ増設されています。

昭和18年/1943年1月4日、【秋月】【瑞鶴】らと共にトラック島へ戻ってきました。
今度こそ機動部隊護衛か、と言いたいところですが、もう「秋月型」は機動部隊を守る防空艦ではなく対空兵装が強い駆逐艦でした。
「ガダルカナル島の戦い」は大量の駆逐艦を擦り切れるまで使い倒しており、特に性能の高い駆逐艦を遊ばせておく余裕は微塵もありませんでした。
すぐに【秋月】は輸送に投入されます。
同時に15日には沈没した【照月】が第六一駆逐隊から除籍され、代わりに【涼月】【初月】が加わりました。

19日、【秋月】【米サーゴ級潜水艦 ソードフィッシュ】の雷撃を受けて沈没した【輸送船 妙法丸】の救助のためにショートランド泊地を出発しました。
到着したのは21時45分ごろで、【秋月】は警戒しながら【妙法丸】に近づきました。
そこに見張員が突如「左30、距離4,000、潜水艦らしきもの」と報告をしました。
司令塔まで出しているということは相手はギリギリまで【秋月】に気付いていなかったのでしょう。
一方見張員は司令塔の形状から敵潜であることを確信しており、続いて砲撃準備もすべて整いました。
あとは「打ち方始め」の一言で、敵艦撃沈一丁上がりです。

ところが、不幸なことにこの時【秋月】は第十戦隊旗艦であり、艦長の他に戦隊司令官や参謀も同席していました。
指揮系統が一本道でない中、そして砲術参謀の一言が、全く立場を逆転させてしまったのです。
「味方かもしれないから照射してみては」
司令官が同調したかどうかは定かではありませんが、艦長は結局この意見を受け入れざるを得なくなり、探照灯がその姿をはっきり映す前に潜水艦は潜航していきました。

【秋月】は慌てて速度を上げて爆雷戦を準備しますが、時機を完全に逸してしまいます。
次の瞬間、獲物となったのは【秋月】でした。
絶体絶命のピンチを相手のポカミスで切り抜けた【米ナーワル級潜水艦 ノーチラス】でしたが、こちらは見事にチャンスをものにします。
6発中1発は不発でしたが(突き刺さった状態)、残りの1発の魚雷が【秋月】の右舷艦橋下の第一缶室に命中して8mほどの大穴をあけました。

【秋月】にとって幸いだったのは、不意の遭遇のため【ノーチラス】も最良の射点から攻撃ができなかったことです。
これがもし3~4,000mの絶好の位置だと、もう1発ぐらい命中していてもおかしくない距離でした。
またこの後【ノーチラス】は止めを刺すことなく退散したため、【秋月】は重症ではあるもののなんとか生き残ることができました。

幸い第二缶室への浸水はなかったため、【秋月】はこれでも20ノット程での自力航行が可能でした。
【妙法丸】の救助がどこまでできたか不明ですが、恐らくほとんどなされないままショートランドまで戻ったと思われます。
応急修理を受けた後はトラックまで移動し、そこで【明石】によってさらに応急修理を受けました。

3月11日、応急修理を終えた【秋月】は本格的な修理のために佐世保を目指してトラックを出発します。
しかし14日、サイパンを出港した後に艦底のキールが切断されてしまい、【秋月】は艦橋部分で少しくの字に折れ曲がってしまいました。
慌てて【秋月】はサイパンに引き返し、対策を考えますが、船底のキールを接合してなおかつ長距離航行に耐えうる強度を持たせることは難しいとなり、結局【秋月】は艦首と艦橋を切断し、だいたい3分の2ほどの長さで日本に戻ることになりました。

サイパンにて修理中の【秋月】。艦橋がないことと、艦首艦尾が反り上がっているのがわかる。

切断された艦首は曳航して持ち帰ることも検討されましたが結局沈められ、【秋月】【神光丸】に曳航されて7月5日に長崎に到着。
ここから修理が始まるわけですが、現場からはすでに数々の実績と信頼を積み重ねている【秋月】の早期復帰を求める声が後を絶ちません。
予定では【秋月】復帰は約半年後の1月末で、ここが縮まらなければそれだけ日本の不利は加速するし戦死者も増えていきます。

そこで海軍は大胆な方法で短縮を達成させます。
艦首を造ってから接合するから時間がかかるのであって、じゃあ完成品をくっつければもっと早く復帰できるじゃんということです。
この時三菱重工業長崎造船所には同型艦の【霜月】が艤装工事中でしたが、主機と缶が完成していなかったため工事が一時中断していました。
この【霜月】の艦首をバッサリ切り取り、【秋月】に接合することで見事に工期短縮を達成し、11月半ばには残工事含めてすべての工事が完了しました。

この時【秋月】は修理のほかに機銃などの増備が進められました。
後部高射装置の箱は撤去されて25mm三連装機銃に、当初から装備されていた連装機銃を三連装に、また13mm単装機銃が艦橋横と防空指揮所に2基ずつ増設されました。
そしてこの時ようやく21号対空電探が前檣に装備されました。
他に九三式水中聴音機、爆雷は投下台6基が全部外されて代わりに投下軌条が両側に設置されました。

復帰した【秋月】は12月1日にトラックに到着。
この時初めて【涼月、初月】と対面しました。
第六一駆逐隊が新編されてから約11ヶ月も経っていました。

12月31日にトラック島からカビエンへ向かう戊三号輸送部隊の一員として【秋月】はトラックを出撃します。
昭和19年/1944年1月1日、元旦の初日の出を見る前に戊三号輸送部隊はカビエンに到着。
しかし揚陸完了直後に新年祝いの空襲がお見舞いされ、各艦対空戦闘のために抜錨し、また「零式艦上戦闘機」も50機ほどが迎撃に出ます。
回想では敵機は100~200機(第二波含む?)ほどという規模の空襲だったようです。

この空襲で【秋月】【大淀】とともに対空戦闘を行います。
さすがに相手の数も多いため長10cm砲の餌食となった機がパラパラと火を噴き始めます。
これに脅威を感じたからなのか、【秋月、大淀】組には遠くから爆弾を落としては引き返す機が目立ち、結局機銃の射程にまで入り込まれたことはほとんどなかったようです。

一方で【能代】【山雲】組は苦戦を強いられます。
対空兵装が【秋月、大淀】と比べると全然少ないわけですから、接近されても対応には限界があります。 
結局【能代】は至近弾5発に直撃弾1発、【山雲】も至近弾を受けるという被害を負いました。
また【大淀】も煙突付近に不発でしたが50kg爆弾を受けています。
唯一【秋月】だけ爆撃による被害はありませんでした(機銃の被害は各艦負っています)。

【秋月】はその後しばらくは艦隊護衛に従事。
戦艦や空母、特に【大鳳】の完成に応じて各艦は拠点を変更しながら作戦の立案にあたっていました。

ところがそんなことをしているうちにアメリカはマリアナ諸島に対して進軍を開始。
海軍の予想よりはるかに早い上陸で、日本は「あ号作戦」を追い立てられる形で発令。
これにより勃発した6月19日の「マリアナ沖海戦」は、【秋月】も当然機動部隊の護衛として参加しています。
これが【秋月】「秋月型」の本懐を果たした初めての戦いとなりました。

しかしこちらの艦載機はまるで何かの壁に衝突したかのように、懐に飛び込む前に見事に撃墜されていきます。
一方日本側には空だけではなく海からも刺客が迫っていました。
【米ガトー級潜水艦 アルバコア、カヴァラ】です。
この時【アルバコア】は5,000mほどの距離からの雷撃でしたが、【カヴァラ】はわずか1,000mにまで接近されていて、日本の潜水艦探知がいかにお粗末かがここでもはっきりわかります。
【アルバコア】【大鳳】に1発の魚雷を、【カヴァラ】【翔鶴】に4本の魚雷を命中させ、特に【翔鶴】はたちまち煙突から白い蒸気を吐き出してしまいます。

やがて【翔鶴】は大爆発を起こして沈没。
そして当初は大丈夫だろうと思われていた【大鳳】も気化した燃料への引火をきっかけに大爆発を起こし、これもまた沈没。
装甲空母も内側の爆発は防げません、これで2隻の空母を一気に失ってしまいました。

【秋月】【カヴァラ】の魚雷を発見後に爆雷を投げ込みますが、【カヴァラ】そのものを見つけているわけではないので威嚇程度にしかなりません。
その後機動部隊は撤退を始めますが、そこに襲い掛かる敵機に対して【秋月】らは必死に対空砲をぶっ放します。
それでも【瑞鶴】には1発の命中弾と6発の至近弾、さらに【隼鷹】中破、【飛鷹】沈没と無事に逃げ切ることはできず、甚大な被害を負って日本に逃げ帰ってきました。

呉に戻った【秋月】は、三度目の機銃の増強にとりかかります。
結果、【秋月】の機銃は計32挺(+銃座7基)にまで膨れ上がり、さらに13号対空電探も装備されました。
機銃を乗せるスペースを確保するため、艦載艇4つのうち3つも降ろさざるを得ませんでした。
この改装は他の艦でも実施されていて、とにかく機銃を載せることが最優先とされました。

昭和19年/1944年6月30日時点の兵装
主 砲65口径10cm連装高角砲 4基8門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 1基4門
機 銃25mm三連装機銃 5基15挺
25mm単装機銃 7基7挺
単装機銃取付座 7基
電 探21号対空電探 1基
13号対空電探 1基
爆 雷

出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年

「マリアナ沖海戦」の敗北とサイパンの喪失は、日本の事実上の敗北と言ってもいいほどのショックでした。
八方塞がりとなった日本はもはや一点突破にかけるしかなく、連合艦隊は残存艦を結集してレイテ島目指して突撃しました。
「捷一号作戦」です。

【秋月】【若月】【初月】【霜月】とともに小沢機動部隊の護衛として参加。
機動部隊とは言うものの、実態はほとんど中身空っぽの空母を捨て駒にするという無茶苦茶なものでした。
作戦そのものは悲観的でしたが、こちらは天下の「秋月型」でしたから、自分たちが沈没するかもという不安は全くなかったと言います。

24日の日没後、小沢艦隊は水上艦を偵察に出して南下させます。
この作戦ではいつ見つかってもこちら側が不利なのは変わりませんが、夜となると反撃も困難になります。
結局この偵察で敵機や敵艦を発見することはできませんでしたが、しかし実は敵の偵察機がすぐそばまで接近していたようで、場合によっては夜間空襲を受けていた可能性もあったのです。

明けて25日午前8時15分、いよいよ敵さんの艦載機がぞろぞろと現れました。
「エンガノ岬沖海戦」の始まりです。
【秋月】は自慢の長10cm砲と大量に増備された機銃を遮二無二発射します。
さすがにこれだけの装備であれば1機、また1機と自身の攻撃によって撃墜されていく機体が目に留まります。
しかしその防空網を数の勢いで突破して果敢に急降下爆撃を仕掛けてきた「SB2C ヘルダイバー」の爆撃の1発が、艦中央部の魚雷発射管付近に直撃しました。
8時50分ごろと言います。

【秋月】被弾の瞬間をとらえた写真

この爆弾は機関室と缶室の真上になるため、衝撃でボイラーの350度に上る蒸気が一瞬で缶室を覆いつくしました。
煙突からは白煙が吹き出す一方で缶室は焦熱地獄と化し、脱出する間もなく肌は爛れ、息をすれば喉が潰れ、一歩二歩は進んでもついに三歩目を踏み出せず大量の戦死者が出てしまいます。
最終的には機関科員は第一缶室の3人を除いて全員が戦死し、当然【秋月】も航行不能となります。

煙突付近には機銃も多く、そのためつい数秒前まで機銃を撃ち続けていた人だったものが散乱していました。
56分には予備魚雷が誘爆して【秋月】は大爆発を起こし、吹き飛ばされた跡は波に洗われるぐらい破壊されていました。
被弾により電源を喪失した今、自慢の長10cm砲も虚しく空を見上げるだけです。
【秋月】はもう何一つできることがありませんでした。

艦は徐々に傾斜しつつ、また中央部から沈み始め艦首艦尾共にせり上がりつつあります。
艦長の緒方友兄中佐は総員退去命令を出し、皆最初は沈むのを嫌ってせり上がっていくてっぺんに向かって登り始めたのですが、一人が飛び込んだのを見ると皆次々と海に飛び込み、そして【秋月】から離れていきました。
艦長は当初は艦と運命を共にするつもりだったようですが、部下の必死の説得に応じて脱出し、その後無事生還しています。

しかし空襲が激しい中、【秋月】の乗員の救助は自らの沈没にもつながりかねない危険な行為でした。
この時【秋月】は救助艇などを降ろす暇もなかったため全員が海に浮かんでいる状態でした(艦長談)。
火災防止のため可燃物も陸揚げしてからの出撃だったため木材などもなく、頼れるのは自分の体力と精神力だけでした。

やがて【槇】が救助に訪れましたが、海戦は始まったばかりですから低速になる駆逐艦も当然標的になります。
救助の専念は難しく、最初は浮力のある樽などを投げ込むだけで精一杯。
最終的に150名ほどの乗員の救助に成功しましたが、他の救助艦はなく、またまだまだ生き残っている、特に艦後部側の乗員はついに多くを取り残したまま脱出してしまいました。
【槇】もこの戦いで3発もの直撃弾を受けたほか戦死者31名を出すほどの被害を出していますから、【槇】を責めることは決してできません。
また若干名が【霜月】にも救助されているようです。

8時59分頃、最期の爆発とともに【秋月】沈没。
被弾から6~9分で沈没したと言われていますが、最後の瞬間まで艦隊防衛、敵機撃墜に貢献し、この戦いでも13機の撃墜が報告されています。

【秋月】沈没の原因として、かつては【米ガトー級潜水艦 ハリバット】の雷撃が止めだったという説が唱えられていました。
しかしこの説はアメリカ軍の主張であり、また【秋月】の沈没時間と【ハリバット】の雷撃記録の時間の差が10時間ほどありました。
他にも「魚雷は確かに接近してきたが艦尾をかすめて通過していった」という証言、また「あれは魚雷の衝撃や損傷とは異なる」という乗員の証言も多く、雷撃が沈没の直接の原因という説は今ではかなり下火になっています。
同時に【瑞鳳】を庇って魚雷を受けた」という【瑞鳳】乗員の証言も、そもそも魚雷が命中していないはずなのでこれも否定されます。
魚雷に関しては艦攻が右舷から航空魚雷を投下したと言われています。

誘爆の原因が命中弾によるものか、艦長の証言である対空砲火の断片が魚雷を貫いたものなのか、はたまたいずれでもないのかいまだに確定はしていませんが、【秋月】の生存者や遺族会は【秋月】の沈没要因を爆弾の命中によるものと結論付けています。
特に艦中央部の悲惨な被弾跡の目撃証言が多数あること、また戦後の米軍撮影の写真から見ても被害箇所が一致することが決め手となったようです。
この沈没に至るまでの証言や検証は下記の書籍で多く記録されているので、興味がありましたらご一読ください。

2021年05月09日 加筆修正