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霜月【秋月型駆逐艦 七番艦】

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起工日 昭和17年/1942年7月6日
進水日 昭和18年/1943年4月7日
竣工日 昭和19年/1944年3月31日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年11月25日
シンガポール東方
建 造 三菱長崎造船所
基準排水量 2,701t
垂線間長 126.00m
全 幅 11.60m
最大速度 33.0ノット
航続距離 18ノット:8,000海里
馬 力 52,000馬力
主 砲 65口径10cm連装高角砲 4基8門
魚 雷 61cm四連装魚雷発射管 1基4門
次発装填装置
機 銃 25mm連装機銃 2基4挺
缶・主機 ロ号艦本式ボイラー 3基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸

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姉のために艦首を譲渡 エンガノ岬での奮戦と救助 霜月

【霜月】は起工・進水ともに滞り無く進んでいましたが、進水後に搭載する予定だった機関の製造が遅れ、竣工までの予定が狂い始めていました。
そんな中、【米ナーワル級潜水艦 ノーチラス】の雷撃を受け、その影響でキールが折れてしまい、艦首を切断した【秋月】が長崎造船所にやってきました。
一方は機関の製造が遅れており、また一方は艦首新造が必要と、工期が長くなることは必至でした。

そこで、1つの妙案が出されます。
【霜月】の艦首をもう一度切断し、【秋月】に接合してはどうか。
もしこれがうまくいけば、少なくとも艦首新造の時間がなくなるために大幅な工期短縮につながります。
しかし【霜月】は長崎造船所出身ですが、【秋月】は舞鶴海軍工廠出身。
設計図が同じとはいえ、別のドックで誕生している船の艦首が果たしてうまくくっつくものか。
そこが最大の不安要素でした。
翌年1月までかかる工期を受け入れるか、リスクを負ってできるだけ早く戦列復帰できる道を選ぶか。
海軍は、後者を選択しました。

そしてその選択は見事大当たり。
ほぼ狂いなく【霜月】の艦首は【秋月】の船体に一致し、このおかげで【秋月】は兵装強化をした上で10月31日に復帰することができました。

しかし【霜月】は当然もう一度艦首を製造しなければなりません。
【霜月】が竣工したのは、進水から1年近く経ってからとなりました。

竣工後は瀬戸内海へ向かい、第十一水雷戦隊に所属して訓練に励むのですが、どうも砲塔の旋回が通常の「秋月型」に比べ重いため、4月4日に呉海軍工廠にて修正工事が施されました。
また、当時は戦死者増による訓練兵・練度不足が深刻で、この【霜月】に乗船していた訓練兵の練度も非常に低いという報告が残されています。

6月10日に第十戦隊所属が決定しますが、その初陣は「マリアナ沖海戦」
空母3隻と数多のパイロットが失われたあの海戦で、【霜月】はなんとか航空機2機を撃墜、自身も大きな損傷なく切り抜けています。

昭和19年/1944年8月20日時点の兵装
主 砲 65口径10cm連装高角砲 4基8門
魚 雷 61cm四連装魚雷発射管 1基4門
機 銃 25mm三連装機銃 5基15挺
25mm単装機銃 14基14挺
電 探 21号対空電探 1基
13号対空電探 1基

出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年

海戦終結後、柱島泊地へ、そして【大淀】を護衛して横須賀へ戻ると、【霜月】は新たに機銃と13号対空電探の増備工事を受けることになりました。
工事は1週間ほどで終わり、その後すぐに【若月】とともに【長門、金剛、最上】を護衛してリンガ泊地へと向かいます。
7月15日には【冬月】と第四十一駆逐隊を編制することになりました。
しかし戦況の悪化に比例し、【霜月、冬月】の出番はあまり用意されることはありませんでした。
8月1日、防空駆逐艦である【霜月、冬月】は、完成が近づいている【雲龍】と防空巡洋艦への改装が施されている【五十鈴】とともに第七基地航空部隊急襲部隊に編入されました。
ところが8月4日には「ヒ70船団」を護衛するためにシンガポールを出発、編入先の任務の前に、【霜月】は日本へと帰投することになります。
その後は、横須賀や呉へと本土回航が時々発生する程度でした。

そして10月12日、【大淀】を護衛した【霜月、冬月】は大分へと回航されます。
ところが出港から間もなく、【米バラオ級潜水艦 トレパン】【冬月】に襲いかかり、魚雷は【冬月】の艦首に直撃。
断裂こそしなかったもの、垂下した【冬月】に任務遂行能力はありません。
【冬月】は呉海軍工廠まで自力で航行し、その後修理に入ることになりました。

一方、無事だった【霜月】はいよいよ帝国海軍最大の海戦となる「レイテ沖海戦」に挑むことになります。
【霜月】は囮となる小沢艦隊に所属し、4隻の空母の護衛を任されることになりました。
しかしこの海戦は全てにおいて圧倒的な数に屈するものであり、個々の能力云々が通用する規模ではありませんでした。
「エンガノ岬沖海戦」では【霜月】【千代田】の後方で護衛にあたりましたが、まず姉妹艦の【千歳】が空襲に耐え切れずに沈没。
【霜月】は猛攻をかいくぐりこれの救助を行おうとしますが、米軍の第二波空襲によってその救助作業は断念せざるを得ず、【日向】とともに【千代田】の護衛に戻ることになります。
しかし救助を諦めたわけではありません、第三波攻撃を受ける一方で再び【千歳】の救助を開始。
なんとか121名の命を救い出しています。

この非業の戦いでは【武蔵、瑞鶴】らが沈み、【霜月】の長10cm高角砲からは595発もの砲弾が敵機に向かって放たれたました。
幸い【霜月】の損害は軽微で、軽傷者2名という人的被害でこの戦いを乗り切りました。
海戦後、奄美大島へ向かい、そこでマニラへと進出する【大淀、若月】へ弾薬を譲渡、【霜月】は呉へ戻って修理に入ることになります。

11月9日、【五十鈴、涼月】とともに【伊勢、日向】を護衛して南沙諸島長島、さらに他の艦艇と合流し、11月22日にリンガ泊地に到着しました。
しかし道中で【五十鈴】が潜水艦の魚雷を受けて撤退、第三一戦隊旗艦が空席となってしまったため、【霜月】は新たに第三一戦隊旗艦に就任することになります。

ところが就任翌日の11月25日、【桃】とともにブルネイ湾へ向かう途中で【米バラオ級潜水艦 カヴァラ】の魚雷が2発命中。
【霜月】は轟沈し、【桃】に救助されたのはたったの46人でした。
この時、【カヴァラ】は浮上攻撃だったのにもかかわらず【霜月】「妙高型重巡洋艦」だと認識したとされ、いかに「秋月型」が通常の駆逐艦よりも大型、堅牢な躯体だったかが伺えます。

駆逐艦
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※1 当HPは全て敬称略としております(氏をつけるとテンポが悪いので)。

※2 各項における参考文献、引用文献などの情報を取りまとめる前にHPが肥大化したため、各項ごとにそれらを明記することができなくなってしまいました。
わかっている範囲のみ、各項に参考文献を表記しておりますが、勝手ながら今は各項の参考文献、引用文献をすべて【参考書籍・サイト】にてまとめております。
ご理解くださいますようお願いいたします。

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