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若葉【初春型駆逐艦 三番艦】

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起工日 昭和6年/1931年12月12日
進水日 昭和9年/1934年3月18日
竣工日 昭和9年/1934年10月31日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年10月24日
レイテ沖海戦
建 造 佐世保海軍工廠
基準排水量 1,400t→約1,700t
垂線間長 103.00m
全 幅 10.00m
最大速度 36.5ノット→33.27ノット
航続距離 18ノット:4,000海里
馬 力 42,000馬力
主 砲 50口径12.7cm連装砲 2基4門
50口径12.7cm単装砲 1基1門
魚 雷 61cm三連装魚雷発射管 2基6門
次発装填装置
機 銃 40mm単装機銃 2基2挺
缶・主機 ロ号艦本式ボイラー 3基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸
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衝突されやすい若葉 裏方業務の貢献度高し

ほぼほぼ完成してから改装された【初春】【子日】とは違い、【若葉】【初霜】は姉2隻のヤバさを見ていったん工事を中断。
問題だったのは復原性の不足だったことから、手っ取り早く復原性を稼ぐために両舷に幅300mmのバルジの増設をすることが決まります。
それで改めて公試を行うと、ひとまず傾斜70度までなら復原できるということでOKが出たため、同様の措置を【若葉】【初霜】にも施して建造再開となりました。

とはいえ、根本的な問題の発覚は昭和9年/1934年4月の「友鶴事件」ですからこれで終わりではありません。
進水後に発生したこの事件で、「初春型」は小手先のやりくりではどうにもならないぐらい歪な設計であることが発覚。
【初春、子日】はすぐさまドックに突っ込まれ、大規模な改装工事が始まります。
詳しくは「求めすぎた結果、大損した初春型」をご覧ください。
【若葉、初霜】にも建造工事をストップして同様の改装が始まり、またこの時船台上だった【有明】【夕暮】はより無理のない形で設計変更がなされています。

【若葉】【初霜】が竣工したのは10月と9月。
いじる場所は多かったのですが、作り直すというよりかは削る、どかす、減らすということがメインだった改装なので、意外とすぐに終わっています。
ただ、翌年には「第四艦隊事件」が発生し、今度はより広い対象で強度不足が発覚します。
【若葉】も当然ドックに逆戻りし、ここで船体補強工事を受けますが、この結果最高速度が約3ノット低下してしまい、非常に鈍足な33ノットにまでなってしまいました。

昭和11年/1936年5月にようやく工事が完了し、ここから第二十一駆逐隊は第一水雷戦隊の一員としてようやく本格的な活動が始まります。
太平洋戦争の火蓋となった「真珠湾攻撃」の日、すなわち昭和16年/1941年12月8日は第一水雷戦隊は連合艦隊の護衛として柱島より出撃。
この隊は別に敵陣に乗り込むためのものではなく、機動部隊が手負いだった時に護衛に向かうためのものでした。
「真珠湾攻撃」は見事な大戦果を残したことで連合艦隊は13日に柱島へと戻っています。
その後第二十一駆逐隊と第二十七駆逐隊は戻ってくる機動部隊を護衛するために18日に再び日本を出撃しています。

南方部隊として【若葉】は島々へ向かう船団の護衛を中心に活動。
しかし昭和17年/1942年1月25日に【初春】【長良】と衝突してしまい離脱。
3隻で蘭印作戦の支援を継続していきます。

【若葉】は海戦に恵まれなかったものの蘭印作戦は見事に成功。
連合軍も次々降伏したことで、日本は次の作戦のために戦力の再編を行います。
それに伴い第二十一駆逐隊もいったん日本に戻ることになりました。
そして次に与えられた任務は「AL作戦」、つまりアリューシャン方面部隊に所属し北方のアメリカ領土を手中に収めるというものでした。
この作戦は「MI作戦」すなわちミッドウェー島攻略と並行して行うことになっていて、戦略的価値としては敵機動部隊の通路を塞ぐ意味があるとはいえ「AL作戦」はサブと言わざるを得ませんでした。
結果的に「AL作戦」は「MI作戦」のための陽動みたいな扱いになっていきます。

とは言え作戦は作戦ですから、【若葉】【子日】とともに5月22日に呉を出港し、24日に大湊に到着します。
そして「ミッドウェー海戦」日本がボッコボコにされている間にアッツ島、キスカ島の占領を達成。
両島とも守備隊はおらず、あっさりしたものでした。

ここからは守備隊への補給が中心の活動となります。
「ミッドウェー海戦」で大逆転を達成したアメリカが、奪われっぱなしの2島を放ってはおかないだろうということから、潜水艦や第一水雷戦隊がメインで哨戒、護衛を行うことになりました。
しかし案の定潜水艦が近海をウロウロし始め、7月5日はアガッツ島付近で【子日】が、キスカ付近で【霞】【霰】【不知火】が魚雷を受けてしまい、うち【子日、霰】が沈没、【霞、不知火】がこれも沈没スレスレの大破をしてしまいます。

そして翌6日には自身も【米ガトー級潜水艦 フィンバック】からと思われる魚雷が【若葉】に襲い掛かってきました。
幸い魚雷は回避できましたが、前日僚艦の命を奪った、霧に紛れた雷撃の恐ろしさを身をもって体感します。

8月8日にはついにアメリカ艦隊がやってきてキスカを砲撃。
この時【若葉】【帝洋丸】を護衛して横須賀に着いてからそこに留まっていて、この砲撃を受けて再び北方に帰還。
引き続き輸送護衛や哨戒活動を行いますが、言ってもこちらは駆逐艦ですから艦隊と遭遇したら敵いません。
報告によっては無理せず引き返したりしながら、短い夏を越すと視界劣悪の寒い寒い海域を行ったり来たりしました。

【若葉】は幸いその後も被害を受けることなく任務を続行していたのですが、10月17日には【初春】【朧】【B-26】の空襲を受けてしまい、【朧】が被弾、その後輸送用の弾薬に引火して沈没。
【初春】も被弾誘爆があったものの、艦後部への被弾だったことから航行には支障なく、【朧】の生存者を救助したあとに幌筵島まで引き上げようとします。
ところが推進軸に被弾の名残があったようで、さらに道中に巻き込まれた嵐の影響で推進軸が2本とも断裂し航行不能となってしまいました。
これを受けて【若葉】が急遽救援に駆け付け、幌筵島まで【初春】を曳航しています。

この後も過酷な環境でひたすらアッツ、キスカへの輸送を繰り返します。
補給が絶えれば島は捨てなければなりませんから、地味ですけどこの活動が命綱なのです。
アメリカも送り込む兵士の数を増やし始め、極寒のアリューシャン列島に見えない火花が散り始めました。
そして同海域で日本にとって初めての本格的な冬を迎えることから、12月12日に【若葉】【阿武隈】とともに佐世保入り、整備とともに防寒工事を行います。
この時旧式の毘式40mm単装機銃が25mm連装機銃に換装されています。
幸いこの工事のおかげで【若葉】は年越しを日本で迎えることができました。

さて、昭和18年/1943年1月9日に佐世保を出発して再び北へ。
ところが2月前後からアメリカ艦隊の動きも大きくなりはじめ、通商破壊に乗り出してきました。
これまでの艦隊は艦砲射撃を行うために出てくることが多く、船団に襲い掛かるのは潜水艦や空襲でした。
しかし重巡以下を抱える艦隊が出てくるとなると、一世代前の軽巡ばかりの日本では太刀打ちできません。
そこで日本もやむを得ず第五艦隊の主軸である【那智】【摩耶】が船団護衛に出撃することになり、いよいよ衝突も目前に迫ってきました。

そして3月27日、ついに両軍は衝突。
「アッツ島沖海戦」が始まりました。
今日も出てこないんじゃないかと気を抜いていたところに最後尾の【電】などから後方に敵影ありとの報告が入り、輸送船3隻は【電】に任せて護衛隊は反転突入しますが、攻撃準備が整っておらずバタバタしながらの会敵となりました。
しかも霧の中で攻撃はなかなか命中しないし、敵のしっぽを掴んでも先回りする航路をとらなかったり、【摩耶】は勘違いして砲弾なくなったと報告したりと、自ら価値を遠のかせていく行動が目立ち、結局事実上の敗北となりました。
敵の損害軽微、輸送失敗、反省点山盛りということで第五艦隊司令長官の細萱戊子郎中将は更迭されています。
【若葉】はこの戦いで魚雷6本を放ちましたが砲撃はしていないようです。

3月30日には【若葉】は嵐の中で【雷】に衝突される事故も起こしていて、不運が重なりました。
この事故で【雷】は艦首を、【若葉】は船体に大穴が開いてしまったことでともに修理の為に本土に戻ることになります。

この間にアメリカはアッツ、キスカ両島の奪還のために本格的に戦力を整え始めます。
これまでとは違い、ついに奪還のための上陸部隊の編制に取り掛かったのです。
【若葉】は4月25日に青森に戻ってきましたが、5月12日から「アッツ島の戦い」がはじまり、守備隊はその少ない人数と不利な装備の中非常によく戦いましたが、29日に玉砕。
これでキスカは両側をアメリカに挟まれる絶体絶命の危機に陥ります。
そこで実施されたのが、「キスカ島撤退作戦(ケ号作戦)」です。

最初は道中の危険を考慮して少人数でも隠蔽性に長けた潜水艦での撤退を実施しましたが、全然成果は上がらない上に被害が大きいことで中止。
こうなったら水上艦隊で一気にゴッソリ引き上げるしかないとなり、【若葉】をはじめとした第一水雷戦隊の他に、本作戦遂行の為に新たにやってきた駆逐艦で編制された水上部隊が7月7日に幌筵を出撃しました。
しかし最初の出撃は天運に見放されて到着前に霧が晴れてしまい撤退。
今回は一発の砲撃もせずに、霧の中で静かに迅速に全員を救出するという作戦だったため、霧が頼みの綱でした。

そして7月22日、舞台は再度出撃。
今度は予測通り分厚い霧が部隊を包み込んでくれました。
ところが今度は逆に視界がほとんどない航海となってしまい、途中で【国後】【長波】【日本丸】が味方とはぐれてしまいます。
捜索しようにも別行動をとるとさらにバラバラになるため、予定針路で合流できることを望みながら部隊は進撃を続行。
24日には合図のために放った高角砲の音と電話をを頼りに、【長波】【日本丸】が合流。
そして翌26日、電話が通じていなかった【国後】も無事部隊に合流することができました。

が、その合流が出会い頭のものだったため、突然現れた【国後】【阿武隈】に衝突してしまいます。
さらにこの混乱の中で【初霜】【若葉】に衝突し、【初霜】が後進したところで艦尾がさらに【長波】にも接触。
【若葉】はこの衝突により最大速度が14ノットになるなど看過できない損傷を負ってしまいました。
足が遅いのはこの作戦にとって致命的だったため、やむを得ず【若葉】【国後】とともに撤退することになります。
【若葉】は第二十一駆逐隊の旗艦だったため、司令官などは【島風】に移乗して指揮を続行しています。

単艦で幌筵まで戻ってきた【若葉】は、その後完全無傷で帰還した仲間たちを労い、9月9日に佐世保に入って修理を開始。
この修理の際に2番砲塔が撤去され、代わって25mm連装機銃が2基装備されました。
修理完了後も【若葉】は北へ向かいます。
すでに第二十一駆逐隊が北で仕事を始めて1年半ほどですから、彼女らの経験というのも重宝されていたはずです。
しかし駆逐艦の数不足も影響して拠点を、北に残しながらも南側の仕事も受けるようになり始めました。
11月に一度第二航空戦隊をトラック島まで護衛する任務を受けていますが、逆に11月でも暑いという感覚に乗員は戸惑ったかもしれません。
昭和19年/1944年に連合艦隊に配属された第二十一駆逐隊は、早速トラック島に向かう【愛宕】【瑞鳳】などを護衛する任務も受けています。

5月12日、この時期でも北は流氷に気を付けながら航行をしなければなりませんが、護衛していた【紅海丸】とともに【若葉】はその流氷の中に閉じ込められてしまいました。
普通の船や駆逐艦の強度では氷をぶち破るなんてことはできません、逆に船が先に傷みます。
急いで【大泊】が派遣され、2日後の14日には無事氷を割って脱出に成功します。

そんな危険もある北の海ですが、ついに別れの時がやってきました。
主戦場の戦況は悪化の一途を辿り、輸送リソースを南に集中しなければならなくなったのです。
6月末には【初春】とともに父島へ向かい、その後硫黄島へも輸送を実施。
その後も北に戻ることはなく、日本に留まったり台湾へ輸送したりと、南側の行動が続きました。
10月中旬の「台湾沖航空戦」の際は、大本営の詐欺発表に合わせて工事を切り上げて無理くり出撃しますが、途中で沈めたはずの空母からの艦載機に発見されたことで引き返しています。
それは賢明な判断で、当然ですが戦果なんてないも同然の航空戦でしたから、命令だからと突っ込んでいれば確実に沈んでいたでしょう。

やがて日本は一点突破にかけて「捷一号作戦」を発動。
有力艦をほぼすべて突っ込む背水の陣でレイテ島を目指して各隊が出撃しました。

昭和19年/1944年8月15日時点の兵装
主 砲 50口径12.7cm連装砲 2基4門
魚 雷 61cm三連装魚雷発射管 2基6門
機 銃 25mm三連装機銃 3基9挺
25mm連装機銃 1基2挺
25mm単装機銃 11基11挺
13mm単装機銃 6基6挺
電 探 22号対水上電探 1基
13号対空電探 1基

出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年

第二十一駆逐隊は第二遊撃部隊、いわゆる志摩艦隊に所属。
志摩艦隊は第五艦隊を中心に編制されていますから、【若葉】にとっては馴染みのある面々での作戦でした。
しかし志摩艦隊は全体の中でも扱いが中途半端で、さらに「台湾沖航空戦」で幻の大勝利を収めたことから追撃に出されていました。
そんな事があって、出撃が遅れる志摩艦隊にどういう役割を与えるかがなかなか決まりませんでした。
そんな中で第二十一駆逐隊は第二航空戦隊から高雄からマニラへ向けての兵員輸送を頼まれました。
これを受託したため、第二十一駆逐隊はマニラ経由で志摩艦隊を追いかけることになります。

10月23日に無事にマニラに到着した後、第二十一駆逐隊は24日の合流を目指してミンダナオ島へ向かいました。
ところが24日7時55分ごろに一行は【米エセックス級航空母艦 フランクリン】の艦載機に発見されてしまいます。
早速爆撃が始まり、3隻は対空射撃を行いながら爆撃を回避しようと必死に動き回りますが、至近弾1発、続いて【若葉】の右舷後部に爆弾が命中します。
爆弾は甲板上や艦内ではなく、艦底突き破ったかどうかぐらいの位置で爆発したようで、これで艦底に大穴が開いてしまいます。
艦底の浸水はどんな大型艦でも致命傷で、機械室が一気に浸水して【若葉】は急速に浮力を失っていきます。

もはや助かる見込みがない被害を受けた【若葉】は、約30分後に沈没。
空襲後に生存者の救助が行われましたが、その後にも再び空襲が【初春】【初霜】に襲い掛かり、さらに【初霜】が2番砲塔左舷に被弾。
【初霜】の被害は軽微だったものの、このまま無理をして志摩艦隊との合流を目指すのは危険と判断され、生き残った2隻はマニラへの撤退を決断しますが、撤退先のマニラでものちに【初春】が空襲で沈没。
【初霜】だけが再び日本の土を踏むことができました。