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山雲【朝潮型駆逐艦 六番艦】

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起工日 昭和11年/1936年11月4日
進水日 昭和12年/1937年7月24日
竣工日 昭和13年/1938年1月15日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年10月25日
スリガオ海峡海戦
建 造 藤永田造船所
基準排水量 1,961t
垂線間長 111.00m
全 幅 10.35m
最大速度 35.0ノット
航続距離 18ノット:3,800海里
馬 力 50,000馬力
主 砲 50口径12.7cm連装砲 3基6門
魚 雷 61cm四連装魚雷発射管 2基8門
次発装填装置
機 銃 25mm連装機銃 2基4挺
缶・主機 ロ号艦本式ボイラー 3基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸
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出鼻をくじかれ、対潜に明け暮れ、スリガオに沈んだ山雲

【山雲】は第四十一駆逐隊の一員として藤永田造船所で建造されます。
メンバーは【朝雲】【夏雲】【峯雲】で、翌年に第四十一駆逐隊は第九駆逐隊に改称されました。
第九駆逐隊は第四水雷戦隊に所属して太平洋戦争を迎えています。

台湾の高雄で太平洋戦争の開戦を迎えた【山雲】は、開戦直前に高雄を出港、バタン諸島の飛行場の無血制圧に成功します。
その後「リンガエン湾上陸作戦」の支援を行い、フィリピンの攻略は着々と進行していきました。

12月27日に四水戦は蘭印部隊に転属することになるのですが、31日に【山雲】は大きな失態を犯してしまいます。
なんと31日にリンガエン湾のサン・フェルナンド灯台沖で、日本が敷設した機雷に誤って接触し、機械室が浸水して航行不能になってしまったのです。
とんだ元旦を迎えてしまった【山雲】は、【特設砲艦 南浦丸】に曳航されてセント・トーマス島へ入港。
【山彦丸】の応急修理を受けますが被害は甚大だったため、その後香港でさらに修理を受けて、4月6日にようやく日本に戻ってくることができました。

横須賀に戻ってくるまででも4ヶ月かかっているのですが、そこからの修理ではさらに半年を擁します。
「蘭印作戦」は日本に帰る前に終結していて、さらに「ミッドウェー海戦」「ガダルカナル島の戦い」と、太平洋戦争は激動に次ぐ激動の真っ只中にいました。
また5月には長期離脱の影響で第九駆逐隊からも除籍されていて、修理が終わる前には横須賀鎮守府警備駆逐艦となっていました。

10月からようやく職務に復帰した【山雲】は、まずはトラック島から帰ってきている【萩風】を護衛することになりました。
【萩風】は空襲により左舷推進軸が故障しており、応急修理を受けたのち日本に戻るところでした。
その【萩風】と合流した後(最初からだったかも?)、11月7日に【萩風】は故障とは逆の右舷のスクリューが脱落するという一大事に見舞われます。
被弾の衝撃で右舷のスクリューにもそれなりの被害があったのでしょう、これでは【萩風】は航行することができません。
しかし幸いにも今は【山雲】が隣にいますので、【萩風】【山雲】に曳航されて無事に翌日横須賀に到着することができました。

年内は【山雲】は警備駆逐艦として引き続き日本近海での活動が続きました。
翌年2月8日、【山雲】はトラック島へ向けて【輸送船 龍田丸】を護衛して横須賀を出発します。
12月にもトラック行きの輸送船護衛を行っていますが、これは途中で【追風】と交代しているので、これが復帰後初の外地への移動でした。
ところがその【龍田丸】が当日夜に【米ポーパス級潜水艦 ターポン】の雷撃を受けて沈没してしまいました。
当時は風速20mの大時化で、【龍田丸】の前を航行していた【山雲】が引き返したときにはすでに【龍田丸】の痕跡はどこにもありませんでした。
必死に捜索しましたが、救助された人はゼロもしくは非常に少数で、かつて北米航路を行き来する大型客船だった【龍田丸】に乗っていた1000人をゆうに超える命が一瞬のうちに海に飲み込まれてしまいました。

【龍田丸】の沈没後、【山雲】は比較的新しいほうの駆逐艦にも関わらず、警備駆逐艦の座から異動することなく再び日本近海の護衛活動に戻りました。
【山雲】の転機は9月15日。
この日ようやく【山雲】【舞風】【野風】の2隻となっていた第四駆逐隊への編入が行われ、また同時に丁2号輸送部隊に所属し、ここから活動の幅が徐々に広がり始めます。
翌16日に【秋津洲】【平安丸、護国丸、清澄丸】を護衛して横須賀を出港。
ただこの時は【山雲】単独の護衛で、第四駆逐隊としての任務ではありませんでした。
一行はまずは上海を目指し、その後【響】【巻波】が加わってトラック、さらにラバウルと重要航路の護衛を務めあげました。

到着後に丁4号輸送部隊に異動しますが、仕事が輸送であることに変わりはありません。
トラックとラバウルという日本の輸送の大黒柱を軸に活動を続けた【山雲】でしたが、11月19日、この日は【若月】とともにトラックから【鹿島】【長鯨】【護国丸】を日本まで護衛しているところでした。
出発は真夜中でしたが、7時前に【山雲】らは浮上して待ち伏せていた【米サーゴ級潜水艦 スカルピン】を発見します。
発見された【スカルピン】は急速潜航しましたが、【山雲】はソナーで的確に【スカルピン】の潜航エリアに爆雷を投下しました。
次々に降り注ぐ爆雷に【スカルピン】は被害が増幅し、ついに浮上を余儀なくされます。

潜れない潜水艦を恐れることはありません、敵も唯一の3インチ砲で抵抗してきますが、これで【山雲】が怯むはずもなく、【スカルピン】【山雲】の砲撃と機銃掃射によって炎上、やがて沈没していきました。
その後【山雲】は41名の生存者を救出し、単独でトラックまで引き返して捕虜たちを上陸させています。
そのうちの21名が11月に【冲鷹】によってトラック泊地から日本へと輸送されました。
ところがその【冲鷹】【米サーゴ級潜水艦 セイルフィシュ】の雷撃によって沈没、【スカルピン】の乗員も1名しか生き残りませんでした。

【山雲】の対潜水艦の活躍はこれに留まりません。
12月5日、今度は【秋雲】とともに【給油艦 佐多、南邦丸、西安丸】を護衛してパラオへと向かっていましたが、ここでも【山雲】はソナーで潜水艦を探知。
【スカルピン】の時と同様に爆雷を投下すると、しばらくしてソナーの反応は消え、また重油の臭気も確認されました。
被害を受けたと思われる潜水艦に目星はついていませんが、これにより【山雲】は2隻目の潜水艦撃沈確実の戦果を認められています。

パラオからトラックに戻ってきた【山雲】は、今度は【大和】【翔鶴】といった超大物の本土帰還の護衛を任されます。
【秋雲】【風雲】とともに2隻を無事に日本に送り届けましたが、この時連合艦隊は「戊号輸送作戦」を発動させていました。
ニューアイルランド島への輸送が主眼とされたこの作戦は戊一号から戊三号にわかれていて、そのうち【山雲】は横須賀からトラックへ向かう戊一号輸送部隊に配属されます。
そして戊一号輸送部隊の中心に立つのは、世界最大の戦艦【大和】でした。
【大和】すら輸送船扱いせざるを得ないほど、事態は逼迫していたのです。

20日に【谷風】とともに【大和】を護衛して横須賀を出発。
今回は潜水艦の脅威もなく、平穏にトラックにつくのではないか、そう思われていました。
しかしトラックを目前にした25日、やはりそうは問屋が卸さぬと、事前に情報を得ていた【米バラオ級潜水艦 スケート】が待ち伏せしていました。
クリスマスプレゼントとして【スケート】から魚雷が一方的に送り付けられてきますが、そのうち1本が【大和】に命中。
【大和】は蚊に刺された程度の反応しか示さずにすたこらさっさと逃げ出しますが、【山雲】は黙っていません、すぐさま【スケート】に対して反撃を行いました。
ですが今回の攻撃は【スケート】に被害がなかったようで、【スケート】は被害は乏しかったものの初めて【大和】を傷つけた記念すべき戦果をあげたのです。

到着後すぐに【山雲】は戊三号輸送部隊に回され、今度はトラックからカビエンへ向かう輸送に加わります。
26日にすぐさま出港しましたが、25日にカビエンが空襲を受けたことから危険と判断されて船団はいったん引き換えします。
そして第一部隊は29日に、【山雲】【能代】【大淀】【秋月】の第二部隊は30日にトラックを再び出撃し、カビエンへ向かいました。

第一部隊は31日に揚陸に成功したのですが、第二部隊は打って変わって猛烈な洗礼を受けました。
昭和19年/1944年1月1日早朝にカビエンに入港し、とっとと揚陸を済ませた4隻でしたが陸上レーダーが大量の航空機がカビエンに迫ってきていることを探知します。
急いで4隻は港を離れ、【山雲】【能代】【秋月】【大淀】の2隻に分かれました。
カビエンに現れたのは【米エセックス級航空母艦 バンカー・ヒル】【米インディペンデンス級航空母艦 モンテレー】の艦載機で、4隻は100機前後の空襲に晒されました。

護衛の【零式艦上戦闘機】とともに、圧倒的不利な状況でも4隻は遮二無二機銃を浴びせかけます。
数にものを言わせて四方八方から攻撃を繰り出してきますが、【秋月】はさすが防空駆逐艦、貫録を見せて被害ゼロ。
【大淀】は不発弾1発、【能代】は直撃弾1発と至近弾数発の被害があり、被害の度合いでは【能代】が最もダメージを受けてしまいます。
【山雲】も至近弾を受けたほか、機銃掃射の跡がそこかしこにあり、その穴から浸水するなどの被害を出しています。
しかし全体的に30分間の猛攻を受けた割には被害は死傷者含めてかなり軽微であり、【山雲】は5機の撃墜を記録するなど大健闘しています。

被害といっても小孔ばかりだったこともあって応急修理でも間に合った【山雲】は、間をあけずに次の輸送に取り掛かります。
もしここでそこそこの被害を受けていると、【山雲】はトラック島に留まっていたかもしれません。
そうなると2月17日の「トラック島空襲」に巻き込まれていた可能性もありますが、幸いこの時も【山雲】は元気に船団護衛を行っていたため、空襲からは逃れることができました。
しかしこの空襲で【舞風】が沈没してしまったため、第四駆逐隊は3月31日に新たに【満潮】を編入しています。

2月24日に横須賀に戻ってきた【山雲】は、修理を受けて1ヶ月弱で復帰。
【瑞鳳】【龍鳳】のグアムへの護衛を経て、「あ号作戦」実施のため連合艦隊が5月にタウイタウイ泊地に入港しました。
アメリカのビアク上陸を受けた「渾作戦」の第三次に参加、その後の「マリアナ沖海戦」も乙部隊(第二航空戦隊護衛)として出撃しますが、その顛末は語るまでもありません。
二航戦からは【飛鷹】が沈没し、これで日本の機動部隊は事実上壊滅しました。

昭和19年/1944年8月20日時点の兵装
主 砲 50口径12.7cm連装砲 2基4門
魚 雷 61cm四連装魚雷発射管 2基8門
機 銃 25mm三連装機銃 4基12挺
25mm連装機銃 1基2挺
25mm単装機銃 12基12挺
電 探 22号対水上電探 1基
13号対空電探 1基

出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年

7月、せっかく「あ号作戦」のために出撃したのに肝心の「マリアナ沖海戦」にも不参加となった【扶桑】はダバオにポツンと残されていました。
これを引き揚げさせるために、ダバオまでタンカー3隻を輸送してきた【山雲、野分、満潮】【扶桑】を護衛することになりました。
タラカンへ向かう道中、実は【米ガトー級潜水艦 セロ】がこの4隻を狙って接近していたのですが、速度が速かったために期せずして危機を脱していました。
タラカンで補給などにより7日滞在した後、4隻は本土へ向けて出発。
この時今度は【米バラオ級潜水艦 ポンフレット】が4隻に狙いを定めて待ち伏せていたのですが、浮上していた【ポンフレット】【扶桑】が発見し、照射砲撃を浴びせます。
【ポンフレット】は慌てて魚雷を6本放ちますがすべて命中せず、4隻はまたまた潜水艦の脅威をはねのけることに成功しました。

7月10日、第四駆逐隊に新たな仲間が加わりました。
それは第九駆逐隊時代の僚艦であった【朝雲】でした。
その第九駆逐隊も、同年3月に第十八駆逐隊に改称されたことですでにありません。

しかしこの再会も、今生の別れになる前の最後の再会でした。
日本は「捷号作戦」に全てを賭け、海軍は4つの艦隊で編制された戦力をレイテ島に集中させるつもりでした。
第四駆逐隊は西村艦隊に所属し、【扶桑】【山城】を中心にスリガオ海峡を突破するルートを進むことになったのですが、直前で【野分】栗田艦隊側に引っこ抜かれたので、この穴は後で地獄の生き証人となる【時雨】が埋めることになります。
10月22日、西村艦隊はブルネイを出撃。
のちに志摩艦隊と合流し、あの狭いスリガオ海峡を強引に突っ切るという、最も難易度の高いルートの踏破を目指します。

この作戦は各艦隊の連携が必要不可欠だったのですが、栗田艦隊の反転と志摩艦隊の合流の遅れ、そして逆に西村艦隊は当初の予定より早くスリガオ海峡目前に到達。
さらに連合艦隊からは栗田艦隊の反転を知ってなお、スリガオ海峡を突破したとしても栗田艦隊との合流ができないのに全軍突撃を強行させる命令。
事ここに至って、西村艦隊は命令に忠実に従い、地獄の門をくぐったのです。

スリガオ海峡では魚雷艇、駆逐艦、巡洋艦、戦艦が整然と配置されていました。
作戦は至極単純、魚雷を浴びせて隊列を崩し、巡洋艦と戦艦の砲撃で一網打尽にする。
もちろん西村艦隊もそんなことは百も承知だったでしょうが、それに対する答えはただ一つ、「受けて立つ」のみ。

【扶桑】が魚雷を受けます。
【山城】は火柱を上げてなお北上します。
そして駆逐艦にも魚雷が次々と飛び込んできました。
【山雲】は魚雷を受けるや否や、抵抗する間もなく轟沈。
彼女がここまでどれほどの労苦を費やし、日本国に貢献し、幾多の人命を救ってきたか。
彼女の一生を振り返る時間は、僅かも残されていませんでした。

その後も【満潮】が沈み、【朝雲】は艦首を失います。
【最上】【時雨】が離脱しますが、戦艦2隻を亡き者にした今、次は小さな駆逐艦よりも大きな巡洋艦です。
【最上】もまた集中砲火を受けて、やがてこの地に身を沈めました。

【山雲】乗員、全員戦死。