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摩耶【高雄型重巡洋艦 三番艦】
Maya【Takao-class heavy cruiser Third】

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①昭和7年/1932年(竣工時)
②昭和19年/1944年(改装完了後)

起工日 昭和3年/1928年12月4日
進水日 昭和5年/1930年11月8日
竣工日 昭和7年/1932年6月30日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年10月23日
(レイテ沖海戦)
建 造 川崎造船所
基準排水量 ① 10,000t
② 13,350t
全 長 ① 203.76m
水線下幅 ① 19.00m
② 20.72m
最大速度 ① 35.5ノット
② 34.3ノット
航続距離 ① 14ノット:8,000海里
② 18ノット:5,000海里
馬 力 ① 130,000馬力

装 備 一 覧

昭和7年/1932年(竣工時)
主 砲 50口径20.3cm連装砲 5基10門
備砲・機銃 45口径12cm単装高角砲 4基4門
40mm連装機銃 2基4挺
魚 雷 61cm連装魚雷発射管 4基8門(水上)
缶・主機 ロ号艦本式ボイラー 重油12基
艦本式ギアード・タービン 8基4軸
その他 水上機 3機
昭和19年/1944年あ号作戦前(改装)
主 砲 50口径20.3cm連装砲 4基8門
備砲・機銃 40口径12.7cm連装高角砲 6基12門
25mm三連装機銃 13基39挺
25mm単装機銃 9基9挺
13mm単装機銃 36基36挺
魚 雷 61cm四連装魚雷発射管 4基16門(水上)
缶・主機 ロ号艦本式ボイラー 重油12基
艦本式ギアード・タービン 8基4軸
その他 水上機 2機
「テキパキ」は前後の文に違和感が残ることがあります。また全体を通して設計上不用意な改行となる場合があります。

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洋上の敵は空にあり 神戸生まれの対空要塞 摩耶

【摩耶】の進水式

【摩耶】の艦名由来は、神戸六甲山系に属する「摩耶山」から、そして建造は神戸川崎造船所、生粋の神戸っ子です。
実は【摩耶】、世界恐慌の煽りを受けて破綻寸前となった川崎造船所の救済を込めて建造を依頼されました。

【高雄】【愛宕】は太平洋戦争を目前にして改装を行っていますが、【摩耶】【鳥海】はその改装が行われる前に開戦してしまったため、「高雄型」特有のあの巨大な艦橋をそれぞれ有した状態で戦争に参加することになりました。
ですから魚雷発射管も連装管4基のままで、雷撃兵装も不足しています。

また、【摩耶】の主砲だけが仰角55度のE1型となっており、高角砲兼務も考えて搭載されていた【高雄】らの主砲とは異なっています。
これは仰角が大きいと逆に誤差が大きくなる問題があり、その誤差を軽減させる油圧式に変更した影響でした。
その分高角砲としての能力は落ちてしまいますが、結果的に主砲の高角砲兼務は現実的ではなかったので大した問題ではありませんでした。
そしてこの未改装部分の影響が、のちに【摩耶】が対空特化の重巡に変身することにつながります。

【摩耶】は馬公で開戦を迎え、その後は「フィリピンの戦い」「蘭印作戦」などの南方海域で作戦に従事しました。
この作戦中に第四戦隊の【高雄、愛宕】と合流しており、第二航空戦隊らと活動を共にしています。
2月19日には第一航空艦隊の空母4隻による「ポートダーウィン空襲」に参加し、3月2日には【嵐】【野分】と共に【英アドミラルティS級駆逐艦 ストロングホールド】を撃沈しています。
この際【高雄、愛宕】【米クレムソン級駆逐艦 ピルズバリー】を撃沈しています。
その後も輸送船団の攻撃や拿捕など、主力艦として大きな働きを見せました。

3月18日に一度整備のために本土横須賀へ帰投。
整備中だった4月18日には「ドーリットル空襲」に遭遇し、急ぎ【摩耶】【高雄】【愛宕】【妙高】【羽黒】【祥鳳】らが主力となって空母撃滅のために出撃をしました。
しかし大した手掛かりのない中【米ヨークタウン級航空母艦 エンタープライズ、ホーネット】を見つけることは難しく、取り逃がしてしまいます。
連戦連勝に浮かれていた日本にとって衝撃的な攻撃でした。

さらに5月2日は単独で横須賀から柱島へ向かっていた【瑞穂】【米ガトー級潜水艦 ドラム】の雷撃によって沈没。
時間を空けて同じく柱島へ向かっていた【摩耶、高雄】【瑞穂】の乗員を救助しています。

その後、北方部隊へ転属しアリューシャン方面攻略に参加、しかしそれが終わると再び南方へ、「ガダルカナル島の戦い」へと飛び込んでいきます。
【摩耶】は10月15日のヘンダーソン基地艦砲射撃作戦に参加。
この砲撃は【摩耶、妙高】が一番の大口径を備え、そのほかは【五十鈴】と駆逐艦でした。
13日の【金剛】【榛名】が出撃した時よりも攻撃力が低いのは否めませんが、とにかく定期的に破壊活動を行わなければ航空機を抑えて輸送ができません。
26日には「南太平洋海戦」にも第二艦隊の一員として参加し、【ホーネット】の止めはさせなかったものの行動不能にまで追い込んでいます。
最終的に【ホーネット】【巻雲】の雷撃によって撃沈されました。

11月13日「第三次ソロモン海戦」では第一夜の海戦で【比叡】らが沈没してしまうなど、ついに戦艦を1隻喪失してしまいました。
翌日、第一夜で失敗に終わったヘンダーソン基地艦砲射撃にもう一度挑むとし、【摩耶】【鈴谷】は警戒隊を率いて14日夜中にそれぞれ400発以上の砲撃を行いました。
しかしこの時の砲撃戦果は大したことがなく、夜が明けるとヘンダーソン基地から飛び立った航空機の空襲に晒されます。
この時【摩耶】らは第八艦隊と合流してショートランド泊地へ退避中だったのですが、この空襲によって第八艦隊の【衣笠】が沈没しています。
【摩耶】【鳥海、五十鈴】もこの空襲で被弾しており、【摩耶】は米航空機が突っ込んできて高角砲甲板に直撃した結果火災が発生、魚雷を放棄して延焼を防ぎましたが、結局修理のためにトラック泊地へ帰投しました。

修理が終わると、【摩耶】はまたもや北方海域へ進み、「アッツ島沖海戦」に参加するのですが、【摩耶】はこの戦いは思い出したくない海戦だったと思います。
接近する巡洋艦と離脱する巡洋艦を見間違える、高角砲の砲撃データを主砲砲術長に送る、残弾があるにも関わらず「残弾なし」と勘違いしてしまうなど、失態続きでした。
しかも戦果はゼロと、散々な結果に終わっています。
これを含めて「アッツ島沖海戦」は酷い戦いで、壊滅的な命中率、追跡方法、当初の目的の未達など、戦力的に優位であるにもかかわらず何も達成できませんでした。
この戦いの指揮を執った第五艦隊司令長官の細萱戊子郎中将はのちに更迭されます。

11月5日には【摩耶】所属の第二艦隊が停泊していたラバウルが大規模な空襲を受け、【摩耶】は左舷機関室付近のカタパルトに被弾し、火災が発生しました。
空襲には耐えきりましたが他の艦よりも被害が大きく航行不能状態だった【摩耶】は、皆がラバウルからトラック島へと避難する中すぐには脱出することができませんでした。
応急処置を急ぎ、何とか一軸運転が可能になった11日にようやく護衛を受けながらラバウルを出発しています。
そしてトラック島で【明石】の修復を受けてから、横須賀へ戻って本格的な修理に入ります。
ですがこの横須賀への航路でともに行動をしていた【冲鷹】【米サーゴ級潜水艦 セイルフィッシュ】によって撃沈されてしまい、小型とはいえまた貴重な空母が1隻散っていきました。

ラバウルでの空襲の被害

横須賀に戻った【摩耶】ですが、この修理を行う際、同時に本格的な改装工事も行われました。
【摩耶】が対空巡洋艦と変貌したのはこの時です。

3番砲塔を取り外し、12.7cm連装高角砲を2基増設、もともと装備されていた12cm単装高角砲も12.7cm連装高角砲へ換装し、合計6基12門となりました。
3番砲塔跡には25mm機銃を設置し、25mm三連装機銃13基、25mm単装機銃9挺、13mm単装機銃36挺にまで増加。
高射装置も八九式高角射撃盤から九四式高射装置へ換装され、防空指揮を執るために羅針艦橋上に新たに防空指揮所が設けられました。
もともと薄すぎた艦橋の防弾にも手が入ったのですが、防御力改善のために排水量が約200tも増えました。

この後【摩耶】「マリアナ沖海戦」で至近弾を受けて再び修理のために横須賀に戻っていますが、そこでも機銃が増備され、最終的には25mm単装機銃は合計66挺(内取付座のみが9基)にまで膨れ上がっています。
他にも魚雷がようやく四連装発射管4基となり、また電探も21号対空電探、22号対水上電探、13号対空電探が各1基ずつ搭載され、戦況に即した装備がようやくそろいました。

出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集』

昭和19年/1944年8月20日時点の主砲・対空兵装
主 砲 50口径20.3cm連装砲 4基8門
副砲・備砲 40口径12.7cm連装高角砲 6基12門
機 銃 25mm三連装機銃 13基39挺
25mm単装機銃 18基18挺
単装機銃取付座 9基
電 探 21号対空電探 1基
22号対水上電探 2基
13号対空電探 1基

出典:[海軍艦艇史]2 巡洋艦 コルベット スループ 著:福井静夫 KKベストセラーズ 1980年

防空兵装強化後の【摩耶】

しかし残念なことに、【摩耶】が生まれ変わった時の日本は窮地に陥っており、常に劣勢で戦っている状態でした。
「マリアナ沖海戦」はせっかく防空巡洋艦となったのに所属が【大和】ら戦艦のある第二艦隊であったために、空母を守るためには使われませんでした。
その結果【大鳳】【翔鶴】【飛鷹】が一気に沈没し、またも戦艦群は敵艦に対して何ら威力を示すことなく撤退をしたのです。

続く「レイテ沖海戦」では、【摩耶】「高雄型」4隻がそろって第四戦隊を編制し、この作戦の本隊である第一遊撃部隊として11月22日にブルネイを出撃しました。
しかし最初の難所として覚悟をしていたパラワン水道、ここで日本は想像していた通り、いや想像以上の大損害を負います。

【高雄、愛宕】が忍び寄る【米ガトー級潜水艦 ダーター】の雷撃を立て続けに受けてしまい、【高雄】大破行動不能、【愛宕】はたった20分で沈没してしまいました。
この時【ダーター】は艦隊から900mの距離まで接近しており、どちらかというと近すぎるぐらいの距離でした。
日本最強の重巡2隻が途端に戦力外となり、艦隊は混乱に陥ります。
しかしすぐさま駆逐艦が警戒にあたる中、それを掻い潜ってさらに追撃を仕掛けるものがいたのです。

【ダーター】とともに行動していた【米ガトー級潜水艦 デイス】が、近くにいる【摩耶】(この時【摩耶】を戦艦だと思っていたそうです)に対して魚雷を発射。
この時【摩耶】も当然潜水艦を警戒していたのですが、音波の発生源とは逆の方向から魚雷が飛んできて左舷に容赦なく4発が命中。
【摩耶】は雷跡には気づいて慌てて取舵が取られましたが間に合わず、被雷からわずか7分で沈没していきました。
弾が込められた機銃は冷たいままでした。

【摩耶】は沈没まで7分しかなかったものの、この時769名が【秋霜】に救助され、その後【武蔵】へ移乗しています。
この時救助された【摩耶】の主計長、航海長は【武蔵】の主計長から「本艦は絶対に沈まないから安心せよ」と励ましの声をかけられています。
「パラワン水道の悲劇」と呼ばれるこの被害はで、「高雄型」【鳥海】を残すのみとなってしまいます。

しかし不運なことに【武蔵】は翌日に目を覆いたくなるほどの集中攻撃を受け、ついに不沈艦【武蔵】は日本から遠くシブヤン海の底に沈むことになりました。
【摩耶】の乗員は、船が変わっても士気を下げることなく【武蔵】の乗員と共に最期まで応戦しました。
ここで救助された乗員は【島風】などに移乗し、苦難の道を再び突き進んでいます。

ポール・アレンが設立したチームが、沈没している【摩耶】を2019年4月19日に発見したと発表しました。
【摩耶】は水平ではあるものの喫水線より下がほとんど埋まっていて、まるでプラモデルのウォーターラインのようです。
主兵装は主砲、高角砲などがしっかりわかる状態で残されていて、また大きな艦橋も健在でした。

摩耶の写真を見る