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阿武隈【長良型軽巡洋艦 六番艦】
【Nagara-class light cruiser sixth】

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①大正14年/1925年竣工時
②昭和9年/1934年(改装完了後)

起工日大正10年/1921年12月8日
進水日大正12年/1923年3月16日
竣工日大正14年/1925年5月26日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年10月26日
ネグロス島沖
建 造浦賀船渠
排水量① 常備排水量5,570t
② 公試排水量6,460t
全 長① 162.15m
水線下幅① 14.17m
最大速度① 36.0ノット
② 34.2ノット
航続距離① 14ノット:5,000海里
馬 力① 90,000馬力

装 備 一 覧

大正14年/1925年(竣工時)
主 砲50口径14cm単装砲 7基7門
備砲・機銃40口径7.6cm単装高角砲 2基2門
魚 雷61cm連装魚雷発射管 4基8門
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 混焼2基、重油10基
技本式ギアード・タービン 4基4軸
その他艦上偵察機 1機(滑走台)
昭和8年/1933年(改装時)
主 砲50口径14cm単装砲 7基7門
備砲・機銃13mm四連装機銃 1基4挺
13mm連装機銃 2基4挺
魚 雷61cm連装魚雷発射管 4基8門
⇒のち61cm四連装魚雷発射管 2基8門
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 混焼2基、重油10基
技本式ギアード・タービン 4基4軸
その他水上機 1機
「テキパキ」は設定上、前後の文脈や段落に違和感がある場合があります。

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開戦前は不幸の連続 長良型でひときわ若い阿武隈

「長良型軽巡洋艦」の最終艦、【阿武隈】
しかし【阿武隈】「長良型」という枠から外れ、ある種独立した存在として海軍の中枢を担う存在になっていきます。

【阿武隈】は浦賀船渠で起工。
五番艦【鬼怒】の起工から1ヶ月後と、特に問題なく建造は開始されます。
しかし問題は、【阿武隈】どころか日本そのものを文字通り揺るがします。
大正12年/1923年9月1日、【阿武隈】進水から半年後に関東大震災が発生し、【阿武隈】が建造されている浦賀も甚大な被害を受けました。

当然工事はストップ、神戸で建造されていた【鬼怒】への影響はごく僅かだったので、【鬼怒】【阿武隈】の工程はどんどん離れていきます。
幸い進水後だった【阿武隈】【天城】のように船体そのものに大ダメージがあったわけではありませんが、船体のチェックや艤装設備の復旧、予算の関係で工事は一時中止。

計画より1年半以上遅れてようやく【阿武隈】は完成しました。
【鬼怒】竣工からすでに2年半も経過していました。
さらにこの間にはすでに次級型の【川内型軽巡洋艦 川内】も完成しており、二番艦【神通】ですら竣工間近という状況でした。

しかしこれは【阿武隈】がより長く海上にあり続けるきっかけにもなっています。
やがて日本をはじめ巡洋艦の歴史は重巡洋艦へと流れていき、日本も「川内型」が竣工してからは軽巡はまったく新造されることがありませんでした。
そんな中、「ロンドン海軍軍縮条約」からの離脱もあり、日本は戦争が間近に迫る緊急事態に陥ります。
対策の中には当然竣工から20年前後の軽巡群も含まれており、これらの処遇が検討されました。
昭和14年/1939年の第四次海軍軍事充実計画」において日本は「阿賀野型」4隻、「大淀型」2隻の増備とともに「長良型」【夕張】などの旧型軽巡は第一線から外れることが決まっていました。

しかし1隻、この計画から例外的に外れていた軽巡が存在しました。
それこそが【阿武隈】です。
たった2年ではありますが、2年のうちに新設計、すなわち強化された新型の誕生は数知れません。
それに、いかに高性能でも耐久年数、すなわち戦争という酷使に耐えることができるかとは別問題です。
結果的にこの計画は廃されますが、その2点から、【阿武隈】はいずれにしても史実通りの第一水雷戦隊の旗艦や、それに比する責務を負ったことは間違いないでしょう。

さらに【阿武隈】には怪我の功名もありました。

昭和5年/1930年に【阿武隈】は夜間演習中、突如舵故障により自動航行ができなくなりました。
慌てて人力操舵に切り替えたのですが、この時すでに近くには【北上】が航行していました。
速度が出ていたのでこの切り替えは間に合わず、【阿武隈】の艦首は【北上】の左舷後部に突っ込んでしまいます。
当然艦首は完全に圧壊し、1番主砲の目の前までがなくなってしまいました。

この衝突事故により、【阿武隈】の修理が行われますが、その際スプーン・バウではなく、新たにダブルカーブド・バウへと更新。
このため【阿武隈】は艦首形状で非常に見分けがつきやすい船となっています。
もちろん凌波性も改善されており、構造上でも【阿武隈】は最も改良された「長良型」となりました。

【北上】との衝突跡

昭和8年/1933年には、「長良型」で初めて近代化改装を行い、カタパルトと水上偵察機(九五式、のち九四式へ)を搭載します。
また、開戦直前には酸素魚雷が発射できるように61cm四連装魚雷発射管へ換装。
これで、第一水雷戦隊の旗艦としての装備は全て整います。
【阿武隈】は、「長良型」の中で最も高い位から、太平洋戦争に挑みました。

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栄光の第一水雷戦隊 守り続けた旗艦の座

【阿武隈】は第一艦隊の第一水雷戦隊旗艦に就任し、そしてその解散直前まですべての編成で旗艦を務めたエリートです。
水雷戦隊の旗艦といえば、【神通】が筆頭に上がると思いますが、彼女は第二水雷戦隊の旗艦を長く務めていました。
一水戦と二水戦はそもそもの役割が違いますが、【阿武隈】【神通】並みに誇れる任についていたのです。

一水戦の役割は第一艦隊の護衛がメイン。
日本の第一艦隊の主力部隊は基本的に戦場に出ることはなく、それにともなって【阿武隈】が戦場で戦うこともしばらくはありませんでした。
緒戦は基本的には上陸支援に従事し、明確な砲撃戦はありません。
「ミッドウェー海戦」にも出撃しますが、やはり主力艦隊のお守りをするだけで支援、救援にも参加できていません。
その後も出撃はするものの砲撃戦はなく、栄誉ある役目とは裏腹に戦闘とは縁遠い存在となっていきました。

水雷戦隊の本領が発揮できたのは、開戦から1年少しが過ぎた昭和18年/1943年3月27日。
「アッツ島沖海戦」【阿武隈】は、【那智】らとともに【米ペンサコーラ級重巡洋艦 ソルトレイクシティ】を大破まで追い込んでいます。
しかしこの戦いそのものは不毛の一言で、ドンパチやり続けても全然命中しないし、さらにはもともとの輸送任務も達成できず。
海戦そのものは一応勝利していますが、最終的には「アッツ島の戦い」で敗北し、守備隊は全員玉砕という最悪の結末を迎えてしまいます。

そして7月29日、【阿武隈】は北の海に再び現れます。
目指すはキスカ島、アッツ島のすぐそばにある、もう1つの北方の制圧領土です。
そして今度の任務は、戦いとは全く逆。
「キスカ島撤退作戦」、戦史上類まれなる、損害ゼロでの撤退作戦です。
キスカ島に取り残されている兵士5,200人を全員無傷で救いだした奇跡の作戦、【阿武隈】木村昌福少将座乗のもと、その迅速かつ無駄のない作戦の指揮を行いました。
耐えて耐えて耐え忍び、深い霧が発生するその時を待ち続けた木村少将の決断は完璧な成果をもたらします。
【阿武隈】自身も1,202人の兵士を輸送、キスカ島をたった1時間でもぬけの殻にしてしまいました。

ちなみにこの「キスカ島撤退作戦」、実行前に1つ、歌が歌われています。

「一番が敵だ敵だとわめき立てあっと打ち出す二十万」

一番とは、見張り員のこと、そして当時の二十万は、現在で換算するとおよそ20億。

果たして歌の真意はというと、この作戦は夜に実施されたのですが、見張りが島全体を敵影だと勘違いし、「敵発見!」と叫び、あっという間に4発の魚雷が島に向けて一直線。
【島風】が放った15本の魚雷とともに、動かない島に4本の魚雷は見事命中しました。
魚雷は当時1本およそ5万円、つまり5億円ほど。
つまり、「見張りのちょっとした見間違えで20億がパーだ」という歌でした。
歌ったのは、【阿武隈】の水雷長です。

「キスカ島撤退作戦」は文句のつけようのない作戦だったのですが、その救出作戦直前、求めていた濃霧が思いの外濃く発生していたため、道中で【阿武隈】【海防艦 国後】が衝突するという事故も発生しています。
他にも【初霜】【若葉】【長波】が相次いで衝突し、【若葉】に至っては作戦続行不可能と判断され、残念ながら単艦で幌筵まで帰投しています。
木村少将はこの衝突事故に対して「これだけの事故が起こるほどだから霧の具合は申し分ないということだ」と言っています。
水雷屋、駆逐艦乗りはこの豪胆さが最大の武器です。

昭和19年/1944年8月10日時点の主砲・対空兵装
主 砲50口径14cm単装砲 5基5門
副砲・備砲40口径12.7cm連装高角砲 1基2門
機 銃25mm三連装機銃 4基12挺
25mm連装機銃 2基4挺
25mm単装機銃 14基14基
13mm連装機銃 1基2挺
13mm単装機銃 5基5挺
電 探21号対空電探 1基
22号対水上電探 1基

出典:[海軍艦艇史]2 巡洋艦 コルベット スループ 著:福井静夫 KKベストセラーズ 1980年

同年4月には対空兵装を強化、翌昭和19年/1944年にはカタパルトを撤去してさらに対空兵装を強化、電探も装備し、水雷戦隊ながらも空を意識せざるを得ない戦況になっていました。
そして【阿武隈】は第一水雷戦隊は第五艦隊へ編入され、日本の主力艦隊の護衛から解き放たれます。
しかしその初陣は10月25日の「レイテ沖海戦」
戦力が不足している何よりの証拠でした。

【阿武隈】志摩艦隊に所属し、「台湾沖航空戦」に駆り出されたことで合流が遅れたために、先行する西村艦隊の後を追って敵を殲滅する計画でした。
そして西村艦隊は先陣をきり、【扶桑】【山城】を中心に敵艦隊へ突撃してきます。

志摩艦隊も後に続きますが、その行く手をアメリカ軍の魚雷艇が遮ります。
スリガオ海峡付近に現れた魚雷艇が、駆逐艦が、志摩艦隊に向けて容赦なく魚雷を発射。
そのうちの1本が【阿武隈】の1番砲塔下付近に直撃し、艦内でも一酸化炭素が充満する被害が発生。
航行はできたものの、速度は低下、50人以上が死亡してしまいます。
この被害により、【阿武隈】は一水戦旗艦を【霞】に譲り、【潮】とともに戦線から離脱します。
その際、前方で燃え上がる炎が日本の戦果だと沸き立ちますが、やがてその炎が【扶桑】から上がっているものだと知ると、艦内は沈黙でうめつくされました。

【阿武隈】は空襲を逃れて鎮痛の思いでミンダナオ島に到着しますが、死期はすぐそこに迫ってきていました。
26日にミンダナオ島で応急処置を終え、コロンへ向かう【阿武隈】【潮】でしたが、【B-24】30機が2隻を襲います。
直撃弾3発、至近弾4発という致命傷を受け、艦上は死屍累々の様相を呈します。
やがて魚雷発射管に引火した炎が魚雷の誘爆を誘い、【阿武隈】の船体に亀裂を入れ、誘爆により船体切断。
船員は【潮】に救助されますが、【阿武隈】はここで沈みます。
そしてこの戦いからしばらくもしないうちに、第一水雷戦隊も解散することとなったのです。

第一水雷戦隊は、第二水雷戦隊と比べると決して派手なものではありません。
しかし一水戦は日本の主力艦隊を安全に送り、また危険を排除し、常に日本の威厳に傷をつけまいと神経をとがらせて任務にあたっていた、大変名誉な役割であったことを忘れないでほしいと思います。

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