救いの船秋雲 不意の魚雷で艦長とともに沈む
【秋雲】がソロモン海に戻ってきたのは翌年1月下旬。
他の第十駆逐隊とともにショートランドで「ガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)」が始まるまで待機していました。
そして2月1日、いよいよ20隻の駆逐艦がショートランドを出撃し、ガダルカナル島へ向かいます。
しかし第一次撤収作戦は道中で本作戦旗艦の【巻波】が空襲を受けて航行不能となり、【文月】に曳航されて撤退。
第十駆逐隊から【夕雲】と【巻雲】が輸送隊から警戒隊に変更されました。
さらにその【巻雲】が、エスペランス岬付近にアメリカが敷設した機雷に触れて大破してしまいました。
【夕雲】が曳航して【巻雲】の救助を試みたものの、【巻雲】の被害は相当酷く、浸水が全く止まりません。
残念ながら【巻雲】は海に引きずり込まれてしまい、この作戦唯一の喪失艦となってしまいました。
僚艦を失ったものの、被害は覚悟の上の大輸送作戦です、涙を流す暇はありません。
【秋雲】は身も心もすっかり瘦せこけた兵士達を救出し、第一次作戦をやり遂げました。
そして4日の第二次、7日の第三次作戦にも【秋雲】は参加し、ガダルカナル島からの撤収は想定をはるかに下回る被害で達成。
【秋雲】自身にも被害はなく、撤退とはいうものの次の道筋を作るための作戦を終えました。
ガダルカナルを脱出した日本が次に戦力を投入したのはニューギニア島でした。
ここも連合軍との死闘が繰り広げられていて、日本軍の上陸からもうすぐ1年という長丁場の戦いとなっていました。
ラエやウェワクと言った地点への輸送は重要で、すでに日本は丙一号輸送でウェワクへの輸送を達成していました。
しかし継続的な輸送が必要なのは言うまでもなく、さらに丙二号作戦は中止となっており、丙三号輸送を含めた「八十一号作戦」が設定されました。
【秋雲】は【磯波】【長月】とともに、第四十一師団を乗せて青島からやってきた【聖川丸、靖国丸、浮島丸】とパラオで合流、その後ウェワクまでの輸送を無事に成し遂げました(【磯波】は輸送船とともに青島出発の資料もあり)。
「八十一号作戦」というと「ビスマルク海海戦」が直感的に出てくるでしょうが、あれはダンピール海峡を通過するのが危険なだけで、ウェワクやマダンと言ったエリアはそっちに比べるとまだ安全でした。
【秋雲】にとって幸運だったのは、そのダンピール海峡を通過するラエ輸送ではなく丙三号輸送側の任務を帯びたことでした。
3月3日、そのダンピール海峡で「ビスマルク海海戦」という名の一方的な破壊活動が行われ、輸送船全滅、護衛の駆逐艦は半減という大打撃を受けました。
もともとこうなる未来を予想した上での作戦だったわけですが、船団壊滅ということは人命的にも物資的にもべらぼうな損失を出しています。
おかげで「マダンからラエは遠いから無茶でもラエ輸送」の失敗により、逆にマダンへの輸送すら尻込みする羽目になり、マダン輸送はさらに直線距離で北西150kmのハンサ輸送に変更することになりました、えぐい。
その第一次ハンサ輸送に第十駆逐隊は参加しています。
3月6日にパラオ出撃した輸送隊は、12日にハンサに到着。
ここからまずは150km先のマダンを目指し、さらにそこから340km先のラエまでジャングルの中を装備品持ちながら歩けってんですから、身体が持ちません。
第十駆逐隊と【皐月】【五月雨】が6隻の輸送船を護衛して行われたこの第一次ハンサ輸送は、到着後に【夕雲、風雲、皐月】がラバウルへ向かい、パラオへの帰路は【秋雲】と【五月雨】だけで行うことになりました。
が、そのパラオへ向かう道のりの中で【秋雲】達は空襲を受けてしまいます。
この空襲で【桃山丸】が複数の被弾と至近弾を浴び、沈没してしまいました。
船の沈没まで数時間あったことと、輸送後の被害だったこともあって戦死者は僅かでした。
【秋雲】は91名の生存者を収容しています。
この時救助した船員の1人が虫垂炎を発症したのですが、空襲後の海域で停止して手術をするというめちゃめちゃ危険な綱渡りを行っています。
そのクソ度胸を神が見てくれていたのか、敵機にも潜水艦に襲われることもなく手術は無事に成功しました。
パラオ到着後、数度の輸送を経て【秋雲】は第十戦隊とともに5月に日本へ帰投。
【風雲】だけがブインでの機雷接触があって一足先に日本に戻っていました。
その後【武蔵】が「海軍甲事件」で戦死した山本五十六連合艦隊司令長官の遺骨を乗せて木更津湾に到着し、【秋雲】はその遺骨を引き受けて横須賀まで送り届けています。
整備を終えた【秋雲】に次の任務が届きました。
今度の行き先は打って変わって北、北方部隊への編入でした。
第十戦隊が向かう北方海域と言えば、ちょうど1年ほど前に「ミッドウェー海戦」の裏で占領したものの、使い道もはっきりしないし、環境も最悪だし、さらには2週間ほど前に守備隊が玉砕したアッツ島と、その隣のキスカ島がある海域です。
そう、彼女たちの次の任務は「キスカ島撤退作戦(ケ号作戦)」でした。
この一大作戦の指揮を務める木村昌福少将の希望で、駆逐艦が多く集められます。
7月7日に水上艦が出撃し、濃霧の発生を待ちわびながらキスカ島突入のチャンスを伺いましたが、その千載一遇の機会は訪れず、部隊は覚悟の撤退を余儀なくされました。
しかし7月22日の背水の陣ではついに互いの位置がわからなくなるほどの霧のベールに包まれて、キスカ島への突入を達成します。
事前の撤退準備も申し分なく、1時間ほどで部隊はキスカ島から脱出。
帰り道で敵潜水艦に至近距離で発見されたときは肝を冷やしましたが、参加していた【阿武隈】と【木曾】の煙突を1本白く塗りつぶして2本煙突に欺瞞させたことも功を奏したようで、「ガダルカナル島撤収作戦」を凌ぐ、完全無欠の100%大成功を収めることができました。
2度目の撤退作戦を終えた【秋雲】達ですが、この後も撤退作戦が第十駆逐隊を離してくれませんでした。
ラバウルまで戻ってきた第十駆逐隊は、この間に事態が様変わりしており、今度はコロンバンガラ島やベララベラ島からの撤退にも加わることになったのです。
駆逐艦と舟艇による脱出だったことから、作戦を指揮する第三水雷戦隊の旗艦は【川内】から【秋雲】にバトンが渡されています。
まずコロンバンガラからの撤退である「セ号作戦」がはじまります。
この作戦は全部駆逐艦でラバウルなどに輸送するというものだけでなく、【大発動艇】をはじめとした上陸用舟艇で近くのチョイスル島まで向かってそこからの救出も行うというものでした。
なので2回行われたコロンバンガラからの撤退は【大発】の扱いが非常に大切でした。
結果的に【大発】は多くが破壊されてしまったものの、駆逐艦と【大発】によって12,000人以上の兵士達がコロンバンガラを脱出。
駆逐艦の被害も砲撃を受けた【水無月】の被弾のみで、またまた撤退作戦は成功をおさめます。
この流れで次はベララベラからの撤退が始まります。
ここでも将旗は【秋雲】に掲げられ、【夕雲、風雲、五月雨】【磯風】【時雨】が10月5日にラバウルを出撃。
この少し前には輸送部隊として【松風】【夕凪】【文月】と舟艇も出撃していて、【秋雲】達は敵艦との戦闘に備えた夜襲部隊となります。
出撃して間もなく発見されたものの、その行き先までは悟られず、偽装航路などを駆使して一行は着実にベララベラに近づきました。
一方で夜襲部隊にも敵部隊の出現が報告されます。
事実とは異なりますがその内容は「巡洋艦4、駆逐艦3」と言うもので、もし報告どおりだった場合は、遭遇すると激しい戦闘になることは間違いありませんでした。
ただ日本にとって幸運だったのは、まず巡洋艦ではなく駆逐艦3隻であったこと、そしてもう1つは、この2部隊の間には相当距離があったことです。
【五月雨、時雨】は小型舟艇護衛のために【秋雲】達とは分離していましたが、敵艦接近を受けて夜襲部隊に合流するために速度を上げました。
そして20時40分頃から、夜襲部隊の目には艦影が映るようになりました。
しかしこの時三水戦司令官の伊集院松治大佐はこの艦影を味方のものだと考えていて、攻撃態勢には入りませんでした。
これに対して相馬艦長は部下からの報告を聞いても敵の可能性が高いと再度進言したところ、答え合わせとして砲撃が【秋雲】を襲いました。
「第二次ベララベラ海戦」が始まったのです。
【米ポーター級駆逐艦 セルフリッジ、フレッチャー級駆逐艦 シャヴァリア、オバノン】の3隻に先制を許してしまった【秋雲】達は、魚雷を発射して反撃に入ります。
ですが【夕雲】に砲弾が命中し、弱った【夕雲】にはここからさらに集中砲火を受けてしまいます。
ところが【夕雲】も負けておらず、初手で放っていた魚雷が【シャヴァリア】に命中し、【シャヴァリア】も大破、航行不能になりました。
【夕雲】が大火災に巻き込まれる中、敵側はさらに【シャヴァリア】の後ろにいた【オバノン】が【シャヴァリア】をよけきれずに衝突し、戦場は混沌とします。
そこに【五月雨】と【時雨】が到着。
【秋雲】達はこの時先手を取られたことや【夕雲】の炎上もあったからか、少し敵との距離があったようです。
なので今度はこの2隻の攻撃が始まり、【セルフリッジ】が標的となりました。
2対1の不利な状況でも【セルフリッジ】は果敢に砲撃を繰り出しましたが、交戦前に放っていた魚雷の波が到達。
【セルフリッジ】に命中した魚雷は艦首をぐちゃぐちゃにしてしまい、艦橋のすぐ前が一瞬でスクラップになってしまいました。
それでも【セルフリッジ】には逃げられてしまい、止めを刺すことはできませんでした。
戻ってきた【秋雲】達が放った魚雷も全てはずれ、戦闘はここで終結。
最終的に【シャヴァリア】は自沈処分となりましたが、炎上する【夕雲】も被害が大きくその後沈没。
【夕雲】を失ったものの、1隻沈没2隻大破という戦果、またその後の脱出作戦も無事に達成されたことから、「第二次ベララベラ海戦」は日本の勝利となりました。
2隻となってしまった第十駆逐隊は、月末に【朝雲】が加入して3隻体制へ、さらに翌月には艦長が入戸野焉生少佐に交代と、変化が立て続けに起こりました。
撤退作戦続きだった【秋雲】は「第二次ベララベラ海戦」の後は再び輸送任務に入りますが、11月25日にトラックからクェゼリン環礁へ向かう【東亜丸】を護衛中に【米サーゴ級潜水艦 シーレイブン】の襲撃を受けてしまいます。
【シーレイブン】が放った魚雷4本のうち1本ないし2本が【東亜丸】に命中し、【東亜丸】が沈没。
【秋雲】が爆撃を投下するものの【シーレイブン】はそそくさと退散し、ここで日本は貴重な10,000t級の高速タンカーをまた1隻喪失してしまいました。
【大和】や【翔鶴】とともに年末に日本に戻ってきた【秋雲】は、整備や訓練の傍ら【瑞鶴】の護衛を行うなど、第十戦隊らしい任務もこなしていました。
昭和19年/1944年はこのような輸送護衛が多く、潜水艦との戦いもなく幾らか平穏な毎日を送ることができていました。
4月に入り、【秋雲】は【風雲】【利根】【筑摩】とともに第六〇一航空隊を乗せてシンガポールからダバオへ向けてします。
ですが途中で作戦が中止となったことで、4隻はシンガポールにとんぼ返りします。
戻ってきた4隻ですが、【秋雲】だけが別物件の輸送でもう一度シンガポールからダバオへ向けて出発することになりました。
ただ駆逐艦1隻でのシンガポール出撃が4月5日で、ダバオ到着が4月9日ってのは絶対おかしいと思います、かかりすぎなのでなんかあるはず。
とりあえずダバオを出撃したのは4月10日のようです。
ダバオを発った【秋雲】はリンガへ向かうことになっていたのですが、この時バリクパパンからダバオへ、そしてダバオから同じフィリピンのサンボアンガへ向かう航路となっていた【聖川丸】を護衛をするように命令が下ります。
このご時世で【聖川丸】はセレベス海を通るルートを単独航行していました、危険すぎる。
【秋雲】は【聖川丸】と合流すべく、北上していた進路をUターンし、ダバオ方面まで戻りました。
しかし行きでは出会わなかった敵に、帰りに見つかってしまいます。
ここにはつい3ヶ月前に【天津風】を瀕死に追いやった【米ガトー級潜水艦 レッドフィン】が潜んでいたのです。
【秋雲】は潜水艦警戒のために之字運動をしながら中速で航行していましたが、【レッドフィン】に気付いた様子はありません。
【レッドフィン】は【秋雲】の予測進路へ向かって魚雷4本を発射し、その時を待ちました。
【秋雲】が魚雷に気付いたときにはもう間に合いませんでした。
2本の魚雷が確実に【秋雲】に命中し、さらにもう1本命中した可能性があります。
激震を感じるや否や、次の瞬間には足元から沈んでいき、死が近づいてくる感覚が乗員に襲いかかります。
全く抗う余地もなく、【秋雲】は左舷側にどんどん傾斜し、数分後には【秋雲】は横転転覆してしまいました。
入戸野艦長は総員退去命令を下したものの自身は脱出を拒み、また他の士官も含めて130名あまりが戦死。
【聖川丸】は幸か不幸か無事にダバオまで到着しましたが、護衛するはずだった【秋雲】のほうが不意を突かれて沈んでしまいました。
これで第十駆逐隊初期メンバーは【風雲】だけとなりますが、その【風雲】も2ヶ月後には同じダバオ近海で潜水艦の雷撃により沈没。
そのすぐ後には第十戦隊としてこれまで護衛してきた機動部隊が崩壊する「マリアナ沖海戦」もあり、戦況は最悪の結果を迎えてしまいます。