起工日 | 昭和16年/1941年11月11日 |
進水日 | 昭和17年/1942年9月25日 |
竣工日 | 昭和18年/1943年12月29日 |
退役日 (沈没) | 昭和20年/1945年4月7日 |
坊ノ岬沖海戦 | |
建 造 | 佐世保海軍工廠 |
基準排水量 | 6,625t |
全 長 | 174.50m |
水線下幅 | 15.20m |
最大速度 | 35.0ノット |
航続距離 | 18ノット:6,000海里 |
馬 力 | 100,000馬力 |
装 備 一 覧
昭和18年/1943年(竣工時) |
主 砲 | 50口径15.2cm連装砲 3基6門 |
備砲・機銃 | 65口径7.6cm連装高角砲 2基4門 |
25mm三連装機銃 2基6挺 | |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 2基8門 |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 6基 |
艦本式ギアード・タービン 4基4軸 | |
その他 | 水上機 2機 |
二水戦最後の旗艦として、大和とともに散る
【矢矧】は不遇の「阿賀野型」の中では最も戦闘に参加した軽巡でした。
竣工からわずか2ヶ月後に【阿賀野】は撃沈、【能代】とともに【矢矧】は敗北の続く帝国海軍を支えるべく奮闘します。
出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ
【矢矧】は竣工早々、第十戦隊の旗艦に就任し、まずはシンガポールとリンガ泊地を拠点として訓練に励みました。
この時はすでに水上艦隊戦も沈静化しており、制空権を軒並み失っている日本としては陸軍への輸送などの支援に従事するしかない状態でした。
しかしそんな中で、日本の太平洋方面の一大拠点であったトラック島が大規模な空襲にあって崩壊。
【阿賀野】はこの空襲の直前に【米バラオ級潜水艦 スケート】の雷撃によって沈没しており、【矢矧】は【阿賀野】の姿を見ることはありませんでした。
昭和19年/1944年5月15日、【矢矧】ら第十戦隊は【大鳳】【翔鶴】【瑞鶴】の第一航空戦隊とともにタウイタウイ泊地へと到着。
久々の機動部隊の出番が刻一刻と迫っていました。
そして20日、ついに「あ号作戦」が発令されます。
サイパン島を巡る上で必ず現れるアメリカ艦隊を機動部隊で叩き潰すという、久々の大規模な決戦が予想されました。
しかし「あ号作戦」は「トラック島空襲」の際に原案である「新Z号作戦」の書類が丸々流出していたことや、潜水艦による索敵などで完全に主導権を握られており、結局アメリカがサイパンに上陸してきたことで、アメリカを引っ張り出すつもりが引っ張り出されてしまいました。
さらに潜水艦の天敵でもある駆逐艦が逆に潜水艦に撃沈させられるケースが立て続けに4回も発生。
完全に劣勢に立たされたなか、ついに6月19日、「マリアナ沖海戦」が勃発します。
【矢矧】は【大鳳、翔鶴】の護衛として出撃していましたが、日本の艦載機はアメリカ機動部隊を前にして鉄壁の防空網に一網打尽にされてしまいます。
そんな中、虎の子の空母には絶命の危機が迫っていました。
午前8時10分、【米ガトー級潜水艦 アルバコア】の魚雷が1発【大鳳】に命中。
幸い強固な造りだった【大鳳】はこの段階では十分回復可能な被害に留まっていて、【矢矧】でも少し安堵の空気が漂いました。
しかし【大鳳】の艦内ではガソリンが気化してしまい、まだ沈みはしなかったものの、細心の注意と徹底した喚起が行われ、少しの火花が致命傷になりかねない危険な状態でした。
続いて11時20分、今度は【翔鶴】が【米ガトー級潜水艦 カヴァラ】の雷撃を受けてしまいます。
艦の右舷たった1kmからという完璧な位置取りで放たれた魚雷3~4本が【翔鶴】右舷に命中し、【翔鶴】は一気に右舷に傾斜し始めました。
緊急に左舷への傾斜注水が行われますが、【翔鶴】は退避のためか速度を落とさずに航行を続けていました。
【矢矧】からは【翔鶴】から隔壁が破れる大きな音、煙突から排煙だけではなく白い蒸気も交じって出ていたことがよく伝わっており、【矢矧】は【翔鶴】に停止するように進言しています。
そんな中、【翔鶴】艦内ではガソリンが漏れ出したことから【大鳳】同様に火気厳禁の状況となってしまいます。
傾斜は注水しすぎて逆に左に傾き始め、さらに艦首付近に命中した魚雷の影響で【翔鶴】の艦首は沈下し始めていました。
そして14時前後、【翔鶴】ではその気化したガソリンへ引火して突如大爆発が発生。
この爆発と同時に艦首の沈下はさらに速度を増し、【翔鶴】は海面にずぶずぶと沈み始めました。
甲板にいた多くの兵士はいきなり傾き始めた床に抗うことができず、そして彼らの前には地獄への入り口である、火炎が吹き上げるエレベーターの大穴がありました。
【矢矧】からは、兵士たちが甲板からその地獄へ吸い込まれていく姿と、その絶叫、甲板を滑り落ちる音が、【矢矧】すら地獄へ招き入れるかのように鮮明に目に移り、そして響きました。
さらには【大鳳】も同じく気化したガソリンへの引火によって大爆発を起こし、【大鳳】も【翔鶴】の後を追うように沈んでいきました。
新生一航戦として日本の危機を救うはずだった【大鳳】の、初陣にして最期でした。
両空母の乗員の救助を【磯風】とともに行い、【矢矧】は生き延びた【瑞鶴】を護衛しながら、辛くも戦場から離脱します。
そして呉に帰投すると、【矢矧】は新たに電探と機銃を増備。
少ない対空兵装を補い、10月25日の「レイテ沖海戦」へと出陣します。
【矢矧】は第一遊撃部隊(栗田艦隊)に所属し、起死回生の戦いに挑みました。
しかし「パラワン水道の悲劇」によって【鳥海】を除いた「高雄型」が沈没、離脱。
さらに「シブヤン海海戦」では集中攻撃を受けた【武蔵】は6時間の猛攻に耐え切れず、遂に沈没。
この戦いでは【矢矧】も2発の至近弾によって損傷し、速度が一気に22ノットまで低下してしまいます。
応急処置によって、その速度は28ノットまで回復しますが、しかしこのまま30ノット以上の速度を出すと、破孔が広がって浸水の危険が広がる状態でした。
しかし、翌日の「サマール沖海戦」で【矢矧】は32ノットの速度を発揮し、決死の覚悟で戦いに臨んでいます。
【矢矧】は第十戦隊と共同でタフィ3の空母1隻撃沈等の大戦果をあげたはずでしたが、これは残念ながら誤認であり、【米フレッチャー級駆逐艦 ジョンストン、ホーエル】を共同で沈めたに留まりました。
他の魚雷は早発や直撃までに破壊されていたのですが、遠方からの魚雷発射だったため、その水柱を直撃と勘違いしたと思われます。
いくら高威力の酸素魚雷とは言え、後ろから簡単に追いつけるほどの速度はありません。
圧倒的劣勢の中タフィ3は空襲や駆逐艦による煙幕や雷撃などで必死に応戦。
結果的には戦艦4隻がいる大艦隊に対してより多くの戦果を挙げたのです。
「サマール沖海戦」では【矢矧】も至近弾を受け損傷、26日には姉の【能代】が追撃してきた機動部隊の空襲によって沈没。
【矢矧】は一時ながら、「阿賀野型」唯一の軽巡となってしまいます(【酒匂】竣工は昭和19年/1944年11月30日)。
海戦後、【大和】【金剛】らとともにレイテ沖から撤退し、栗田艦隊の出発地点であったブルネイへと寄港します。
そして16日、傷ついた体を少しでも安ませた艦隊はブルネイを出港しました。
しかし21日、こんなところにまでにらみを利かせていたアメリカの静かなる目が艦隊に襲い掛かります。
突如【金剛】に激震が走りました。
【米バラオ級潜水艦 シーライオン】の魚雷が【金剛】に2本命中したのです。
最初は大丈夫だと思われたこの被雷ですが、【金剛】もすでに齢30年以上という老齢艦であったことから予想以上に被害が広がってしまい、対処の甲斐なくついに沈没してしまいました。
さらにこの時流れ魚雷に命中していた【浦風】も、艦隊に全く気付かれることもなく轟沈しており、【浦風】は総員が戦死してしまいます。
この連合艦隊崩壊によって、日本の残存艦はもはや数えるほどとなってしまいました。
このため残存する水雷戦隊はすべて第二水雷戦隊に編入されることになります。
12月5日に【矢矧】は旗艦へ就任をするものの、しかし司令部はこの時ブルネイに置かれており、司令部継承のためだけにわざわざブルネイまで出る、もしくはブルネイから日本へ戻ってくるのは非常に危険でした。
そのため【矢矧】の旗艦は名ばかりのもので、結局この後「礼号作戦」が実施されるに伴って旗艦は【大淀】、さらには【霞】が担っています。
昭和19年/1944年12月8日時点の主砲・対空兵装 |
主 砲 | 50口径15.2cm連装砲 3基6門 |
副砲・備砲 | 65口径7.6cm連装高角砲 2基4門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 10基30挺 |
25mm単装機銃 18基18基 | |
電 探 | 21号対空電探 1基 |
22号対水上電探 2基 | |
13号対空電探 1基 |
出典:[海軍艦艇史]2 巡洋艦 コルベット スループ 著:福井静夫 KKベストセラーズ 1980年
また、【矢矧】には他の船の沈没によって補充された乗員も多く、訓練不足によって本土帰投後は任務につくことができませんでした。
年末の「ヒ87船団」の護衛につくはずだった【矢矧】ですが、これも結局は訓練不足を理由に不参加を打診せざるを得ず、結果的には命拾いをしています。
しかし要請通り出撃した海軍きっての幸運艦【時雨】が、この船団護衛の際についに命を落としてしまっています。
もはや日本は本土決戦を強いられるほどの窮地に追いやられており、帝国海軍も崖っぷちに立たされていました。
そこで発令された、「天一号作戦」。
沖縄に迫り来るアメリカ軍を、その身を持って食い止めるという、特攻とも言える作戦でした。
あの超エリートが選りすぐられた【天津風】の初代艦長にして、【矢矧】最後の艦長となる原為一艦長(当時大佐)はこの作戦をよしとせず、若い兵士を艦から下ろしたり、大量の角材を艦内に保管し、漂流してもその角材で身を助けることができるよう、死を防ぐ対策を講じて出陣しています。
また、燃料も本当なら片道分しか用意されなかったのですが、ここも裏で手を回してちゃんと往復分の燃料を搭載しています。
【大和】だけではなく、数々の武勲艦が敗れていった「坊ノ岬沖海戦」。
航行中は「第三次多号作戦」で唯一生き残った【朝霜】が突然の機関故障によって停止。
何と残酷なことか、最後の最後の戦いで【朝霜】は全くの無力となり、空襲によって慟哭を上げながら沈没してしまいました。
【矢矧】は【大和】の護衛についていたものの、空襲が始まると早々にその被害に合います。
【TBF】より投下された2本の魚雷を右舷に受け、【矢矧】は機関部に被害を受けて航行不能。
最後の出陣となった第二水雷戦隊は、いきなり首長を失うこととなります。
しかし動けなくなった【矢矧】は、ここから無類の強靭さを発揮します。
砲塔も機銃も健在である【矢矧】は必死に応戦します。
誘爆の危険を迅速に排除し、また強固な【矢矧】は軽巡とは思えないほどの攻撃を受け続けます。
沈没までの被害は、魚雷7本、爆弾12発。
艦尾はちぎれ飛び、対空機銃もレーダーも破壊され、それでも【矢矧】は戦い続けました。
重巡でも遠に沈んでいる被害を受け続け、【矢矧】乗員からは、その猛火にさらされる姿を見るに見かね、「もう早く沈んでくれ」と願ったほどでした。
空襲の最中、二水戦司令部移乗のために接舷を試みた【磯風】も攻撃の標的とされて航行不能となってしまいました。
やがて【矢矧】は右舷へと傾きはじめ、そして艦尾から沈んでいきました。
【大和】が沈む、10分前でした。
「坊ノ岬沖海戦」では、他にも【霞、磯風、朝霜】【浜風】が沈没。
沈没した船の乗員は【雪風】【初霜】【冬月】の3隻によって可能な限り救助され、また【涼月】が奇跡的な後進帰投によって生還しています。
そしてこの海戦をもって、「華の二水戦」こと第二水雷戦隊は解散。
ついに日本の強さの象徴であった二水戦の歴史に幕が降ろされました。
【矢矧】は、日本が劣勢に立たされた後に竣工し、挑んだ海戦は軒並み敗北。
それでも【能代】とともに二水戦の旗艦を務め、最期は【大和】の護衛を任されるなど、劣勢の中でも期待され続けた軽巡洋艦でした。