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春雨【白露型駆逐艦 五番艦】

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起工日 昭和10年/1935年2月3日
進水日 昭和10年/1935年9月21日
竣工日 昭和12年/1937年8月26日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年6月8日
第二次渾作戦
建 造 舞鶴海軍工廠
基準排水量 1,685t
垂線間長 103.50m
全 幅 9.90m
最大速度 34.0ノット
航続距離 18ノット:4,000海里
馬 力 42,000馬力
主 砲 50口径12.7cm連装砲 2基4門
50口径12.7cm単装砲 1基1門
魚 雷 61cm四連装魚雷発射管 2基8門
次発装填装置
機 銃 40mm単装機銃 2基2挺
缶・主機 ロ号艦本式ボイラー 3基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸
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夕立とともに敵艦隊を真っ二つ 艦首も艦尾も真っ二つ 春雨

【春雨】【村雨】【夕立】【五月雨】とともに第二駆逐隊を編制し、竣工時は第一水雷戦隊、そして昭和15年/1940年11月15日からは第四水雷戦隊に所属となりました。
太平洋戦争ではまず南方海域の「ビガン攻略作戦、バリクパパン攻略作戦、スラバヤ沖海戦」など、開戦直後から多くの作戦に投入されることになります。
陸上部隊の上陸支援を中心に活躍しますが、「バリクパパン攻略作戦」の中では揚陸中の輸送船が狙われた「バリクパパン沖海戦」にも関わっています。
昭和17年/1942年1月24日、警戒網の隙間を通過して潜水艦と駆逐艦の襲撃を受けた「バリクパパン沖海戦」は、緒戦における連合軍の数少ない勝利と言えるもので、上陸には成功したもののこの砲撃で4隻の輸送船が沈没しています。

その後大きな目標であったジャワ島への上陸を目指し、2月27日、四水戦は東部ジャワ攻略部隊の護衛としてジャワ島を目指していました。
そこにスラバヤからやってきたABDA連合軍と遭遇し、まる2日に渡る「スラバヤ沖海戦」が勃発しました。
輸送船団の護衛を行っていたことから戦闘には遅れて参加することになりますが、第五戦隊、第二水雷戦隊の攻撃は距離が遠かったこともあり有効打がありませんでした。
そこに飛び込んできた四水戦は果敢に接近戦を挑み魚雷を発射しますが、残念ながら全艦合わせて27本という大量の魚雷は1本として命中することなく早爆もしくは通り過ぎていきました。

四水戦は魚雷を再装填するためにいったん戦場から離脱し、引き続き【那智】らの遠距離砲撃が続きました。
魚雷を装填し終えた四水戦は再び敵の懐に飛び込んで必殺の魚雷を叩き込むために突撃。
第二駆逐隊は7,500mの距離で、第九駆逐隊の【朝雲】【峯雲】に至っては5,000mにまで突っ込んで魚雷を発射しています。
ところがここまで接近しても魚雷は命中することがなく、ばらまきにばらまいた昼戦で命中した魚雷は【蘭アドミラーレン級駆逐艦 コルテノール】への1本だけです。

魚雷を打ち尽くした駆逐艦には、潜水艦相手でない限りは基本的には戦場での仕事がありません。
四水戦は船団護衛に戻り、その後ジャワ島での上陸支援を行いました。

ジャワ島の攻略が完了したことで日本の当面の目標は達成。
セブ島の攻略支援を最後に、5月6日に【春雨】【五月雨】とともに横須賀に戻ってきて整備に入りました。
そして6月に入り、今度はミッドウェー島攻略のための「MI作戦」で攻略部隊護衛として日本を出撃します。
ところが先行していた空母4隻が「ミッドウェー海戦」ですべて撃沈されてしまい、「MI作戦」は中止、当然攻略部隊も撤退することになりました。

ポートモレスビー攻略は失敗し、さらに日本の快進撃の象徴であった空母を4隻ゴッソリ失ったことで日本は戦略の練り直しを迫られます。
当面の任務としてインド洋での通商破壊を行うことになり、第二駆逐隊は第十五駆逐隊、第七戦隊の【鈴谷】【熊野】とともに7月31日にミャンマーのメルギー港に入港しました。
ところが作戦開始直前に、ガダルカナル島で整備されていたルンガ飛行場が急襲されて連合軍に奪われてしまい、連合軍の防波堤になるはずだったガダルカナル島がいきなり激戦地に様変わりしてしまいます。
これにより大方の戦力は南方海域に送られることになり、当然【春雨】も8月21日にトラックに到着して前線に迫りました。

到着してすぐに【春雨】「第二次ソロモン海戦」に参加する部隊とともにガダルカナル島を目指しましたが、敵機動部隊を追いかける巡洋艦や【比叡】【霧島】の速度に全くついていけない【陸奥】の護衛をすることになりました。
この戦いは【龍驤】の護衛に就いていた面々が対空戦闘を行ったぐらいなので、別に護衛に就いたから戦闘に参加できなかったというわけでもありませんが、足手まとい扱いされた戦艦のお守りというのは何とも言えない任務でしょう。

ここから【春雨】は鼠輸送を含めた輸送任務やヘンダーソン飛行場への攻撃にたびたび駆り出されることになります。
しかし10月25日はヘンダーソン飛行場への総攻撃のために出撃したところ、飛行場占領に失敗したことで敵艦隊を攻撃するために敵制空権内にいた【春雨】らは空襲を受けてしまいます。
この空襲で【由良】が沈没、四水戦旗艦の【秋月】が中破するなど散々な目にあわされました。

そして11月13日、「南太平洋海戦」で敵機動部隊も排除できたことから再び総攻撃が行われることになりました。
第十一戦隊の【比叡、霧島】の艦砲射撃でヘンダーソン飛行場を沈黙させ、その隙に陸軍が突撃するというこの作戦で四水戦は作戦に参加。
四水戦は11日にショートランドを出撃し、12日13時半にトラック島から来た部隊と合流。
【長良】【比叡、霧島】が縦に並び、その右舷前方に【夕立、春雨】の並びで警戒をしつつ艦隊は南下していきました。

ところが道中で猛烈なスコールに遭遇し、この雨の中では目標を正確に狙うこともできないと判断され、艦隊は反転北上します。
この時当然【春雨】らも引き返しているのですが、豪雨の中で左舷側の【朝雲、村雨、五月雨】も含めて第十一戦隊からは見えなくなってしまいました。
さらに雨に遮られて通信がうまくつながらなかったのか、スコールを抜けて再反転をするときに四水戦は軒並み反転が遅れ、前方で警戒をするはずの四水戦が実は後衛にあたる場所を航行することになってしまいます。
そんなことは露知らず、陸上からも四水戦からも敵の報告が無いことから、【比叡】らは予定通り艦砲射撃のために三式弾を装填して砲撃準備に入っていました。

そんな時、何故か前衛にいるはずの【春雨】らが戦艦の横を通過していき、どういうことだと考えている間に戦端が開かれました。
偵察機からの報告を受けて敵は第67任務部隊が出撃していました。
アメリカ側もレーダーの新旧の性能の違いなどで混乱があったのですが、そこにいきなり【夕立、春雨】が突っ込んで双方完全に隊列が崩壊した状態で「第三次ソロモン海戦」が始まりました。

【春雨】【夕立】とともに敵艦隊の中を一刀両断するかのように突っ走り、ぐちゃぐちゃになった敵艦隊には【比叡】【長良】からの砲撃も集中しました。
【比叡】も敵からの反撃を受けて火災が発生していましたが、【春雨、夕立】は砲雷撃で敵艦隊を脅かしました(魚雷3本発射?)。
夜間の大混戦で各艦の戦果がはっきりしない「第三次ソロモン海戦」ですが、【春雨】の戦果もやはり不明です。
砲撃による火災などを確認しつつ、艦隊を突き抜けたあとに【春雨】は北上。
【夕立】はさらに攻撃の為に反転再突撃をしたことで【春雨】とは分離してしまいますが、この後も【夕立】は敵艦隊の中で激しく戦い続けました。

この2隻の突撃のおかげで日本は大きな戦果をあげましたが、大将である【比叡】が舵故障の末に沈没。
戦力的には日本有利だったところでのこの敗北は大きく、さらにヘンダーソン飛行場も占領できなかったことから日本は窮地に立たされました。
【春雨】は第二夜の戦いには参加せず、トラック島に帰投。
15日に【霧島】も沈没したことで、この海戦のみならず「ガダルカナル島の戦い」そのものの勝敗ももはや決しました。

24日、連合軍がブナに上陸してきたことでニューギニア島への輸送が急務となり、【春雨】【白露】【早潮】【電】【磯波】とともにこちらへ輸送に向かっていました。
しかしやはり輸送には空襲がつきもので、この空襲では【早潮】が被弾し大きな炎を噴き上げてしまいます。
【春雨】が何とか横付けしようと試みるも、あまりの猛火にたじろいでしまい、さらにこの火の勢いではいつ魚雷に誘爆するかわかりません。
その時側にいれば当然【春雨】も無事ではすまず、結局少し離れたところからカッターや内火艇を使ってピストン救助を行うしかありませんでした。
幸い救助中に【早潮】が爆発を起こすことはなく、最期は【白露】の砲撃により自沈処分され、また生き残った4隻も輸送を断念して引き返していきました。

その【白露】は29日に再びブナを目指しましたが、今度は【白露】が被弾大破してしまいます。
この輸送には【春雨】は参加していませんが、【白露】大破の急報を受けてすぐさま出動。
ともに輸送に出ていた【夕雲】とともに【白露】を護衛してラバウルまで引き上げました。

ラバウル到着後、【春雨】は本土帰投が命じられました。
12月14日に横須賀に戻ってきた【春雨】は長く激しい戦いで傷付いた身体を癒し、またこの時に旧式の毘式40mm機銃が25mm単装機銃に更新され、その他に1番魚雷発射管用の次発装填装置を撤去するなどの工事も行われました。

明けて昭和18年/1943年1月5日、【春雨】【浅間丸】を護衛して横須賀を出港。
その後ウェワクへの輸送(丙一号輸送)の関連でニューギニア方面に移動した【春雨】は、24日に【隼鷹】の基地員を収容するためにウェワクへ向かっていました。
その行く手に現れたのが、【米ガトー級潜水艦 ワフー】です。

【ワフー】は13時45分に左舷後方から魚雷を発射しますが、【春雨】は接近する魚雷を発見してこれを見事に回避しました。
【春雨】は反撃のために踵を返し、魚雷が飛んできた方向に向かっていきます。
接近してくる【春雨】に対してさらに1本の魚雷が飛び込んできましたが、これも回避。
しかし次に突っ込んできた魚雷2本のうち1本がついに【春雨】に命中してしまいました。

右舷1番砲塔直下に命中した魚雷はそのまま貫通し左舷側で爆発。
衝撃で【春雨】は大振動を起こし、続いて大量の海水が流れ込んできました。
艦首がどんどん沈んでいきますが、それでも【春雨】は沈むことなく崖っぷちで踏ん張りながら撤退。
【ワフー】の追撃もなかったことから、4ノットという這う這うの体でウェワクまで到達しました。

雷撃をした【ワフー】から撮影された【春雨】

【救難船兼曳船 雄島】に応急修理を受けたのち、【春雨】【天津風】に艦尾から曳航、【浦風】【雄島】に護衛されて17日にウェワクを出港し、遠くトラック島を目指します。
しかし19日には曳航索が切れてしまい、曳航は【浦風】に変更。
よくないことは重なるもので、さらに荒れた海で痛めつけられた艦首はついに大きな亀裂が入り曲がってしまいます。
このままではまずいということで、止む無く【雄島】の手によって【春雨】の艦首は切断されました。
不格好な姿になってしまった【春雨】でしたが、これ以上の不幸はなく、無事23日にトラックに到着しています。

しかしここがゴールではありません、あくまで経由地、目指すは横須賀です。
ここでまずは【明石】から応急修理を受けたほか、仮艦首の装着が行われました。
【春雨】の仮艦首装着が完了するまで3ヶ月を擁し、工事が完了した時はもう5月になっていました。
【春雨】は輸送船やその護衛とともに5月21日にトラック島を出発し、30日にようやく横須賀に戻ってくることができました。

ここから本格的な工事が始まりますが、昨年に【夕立】が沈没しており、さらに3月5日は「ビラ・スタンモーア夜戦」【村雨】が沈没、第二駆逐隊は半壊していました。
さらに【春雨】もこの有様ですから、7月1日に第二駆逐隊は解隊、【五月雨】は第四水雷戦隊直属となり、【春雨】はいったん予備艦に引き下げられました。
この工事で艦橋も交換されることになり、「白露型」の形から付け根が広がる「夕雲型」の形に変更されています
2番砲塔は対空兵装強化の為に撤去され、代わりに25mm三連装機銃が設置されました。

修理中の【春雨】

【春雨】修理中の11月30日、予備艦だった【春雨】【白露】【時雨】のいる第二十七駆逐隊に編入されます。
【五月雨】も10月に編入されていて、これで第二十七駆逐隊は4隻定数を回復します。
とはいえ【春雨】の工事はもう少しかかり、復帰となったのは昭和19年/1944年になってからでした。
1月3日、【時雨】とともに【伊良湖】を護衛してトラック島へ進出。
11日にトラック島に到着後、【富士山丸】らを護衛してタラカンやバリクパパンを巡り、2月14日にトラック島に戻ってきました。
護衛中の2月13日、現れた【米ポーパス級潜水艦 パーミット】を発見した【春雨】【時雨】とともに爆雷でこれを追っ払っています。

この時トラック島は1ヶ月前とは打って変わってがらんどうとしていました。
主のように鎮座していた【大和】をはじめ、戦艦や巡洋艦がほとんどいなかったのです。
実は主力艦はこの時トラック島が近々空襲されることを察知して事前に撤退していました。
ところがこの情報はでかい船でしか共有されておらず、軽巡洋艦、駆逐艦、補助艦艇などは取り残されていました。
そしてここに留まっていた面々が、2月17日に地獄を見ることになります。

2月17日、アメリカの第50任務部隊による「トラック島空襲」が始まりました。
機動力に乏しい輸送船は当然、他にも【那珂】【舞風】など大量の艦船が一網打尽にされてしまいます。
【春雨】【時雨】は警報を聞くや否や一目散に逃げだしましたが、【時雨】が直撃弾を受けて速度が25ノットに低下、【春雨】も至近弾を受けてしまいました。
中破した【時雨】は一刻も早く戦場から離脱しなければならず、【春雨】は空襲から【秋津洲】を護衛してカロリン諸島のメレヨン島まで退避。
メレヨン島では【明石】やそれを護衛してきた【秋風】【藤波】【標的艦 波勝】と合流し、【秋津洲】とは分かれてパラオまで引き上げました。

しばらく月日は流れて5月、第二十七駆逐隊はタウイタウイにいました。
この時日本は「あ号作戦」の為に艦隊をタウイタウイに集結させていました。
ところがアメリカがビアク島に上陸してきたため、日本はビアク島支援のための「渾作戦」を急遽発動し、【春雨】たちも「渾作戦」の一員となりました。

6月2日、【扶桑】はじめ第一次渾作戦部隊がビアク島へむけて出撃。
しかしこの出撃後に連合艦隊が敵機動部隊出現という誤報を部隊に伝えてしまったことから、航空支援のない部隊はソロンへ撤退してしまいます。
確かに敵艦隊は存在していたのですが、その正体は空母はおろか戦艦もいない【豪オーストラリア級重巡洋艦 オーストラリア】旗艦の艦隊で、戦力的には【扶桑】【妙高】【羽黒】のいる日本のほうが断然有利でした。

チャンスをふいにしてしまった日本ですが、8日に今度はかつての鼠輸送のように機動性重視の駆逐艦編制に再編されて再び出撃。
6隻の駆逐艦はいずれも【大発動艇】を曳航しての出撃でした。
【春雨】は輸送隊の【敷波】【浦波】【時雨】を護衛する役目を負っていました。

しかし今度は艦隊ではなく空襲が部隊に襲い掛かってきました。
【B-25】が低空で【春雨】向かって一直線に向かってきます。
反跳爆撃により【春雨】は艦尾に強烈な一撃を受けてしまいました。
この1発の爆撃で艦尾が破壊され、バランスを失った【春雨】はやがて横転、そのまま徐々に沈んでいきました。
この空襲では【五月雨】も魚雷発射管の楯に爆撃を受けるという死を覚悟する被害があったのですが、幸運にもこれは魚雷に接触することなく、また爆発もせずに右舷側に飛んでいったため、【五月雨】は生き延びることができました。

空襲が終わった後、【白露】【五月雨】が生存者の救助を行い、1隻を欠いた部隊は今度は引き返すことなくビアクを目指して進撃。
ところが再び【オーストラリア】を中心とした艦隊が現れます。
前回なら有利対面ですが今回は全く敵いっこありません。
大事に曳航し続けた【大発】も切り捨てざるを得ず、みな散り散りになって撤退せざるを得ず、「第二次渾作戦」も失敗に終わってしまいました。
そして救助にあたってくれた【白露】は1週間後、【五月雨】も8月に沈没してしまっています。