
起工日 | 昭和5年/1930年3月7日 |
進水日 | 昭和7年/1932年2月25日 |
竣工日 | 昭和7年/1932年11月15日 |
退役日 (沈没) | 昭和19年/1944年5月14日 シブツ海峡 |
建 造 | 藤永田造船所 |
基準排水量 | 1,680t |
垂線間長 | 112.00m |
全 幅 | 10.36m |
最大速度 | 38.0ノット |
馬 力 | 50,000馬力 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 3基6門 |
魚 雷 | 61cm三連装魚雷発射管 3基9門 |
機 銃 | 12.7mm単装機銃 2基2挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式缶 3基 艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
衝突ぐせのある電は姉を守って沈没
【電】は「ロンドン海軍軍縮条約」によって排水量1,500t以上の艦艇の数を制限されてしまったため、「特型駆逐艦」24隻の末っ子となりました。
以後、帝国海軍は「初春型駆逐艦」へと舵を切ることになります。
【電】は竣工していきなりやらかします。
昭和9年/1934年6月、演習中だった【電】は【深雪】と盛大に衝突し、これによって【深雪】は沈没、【電】も大破するという大事故が発生してしまいます。
【電】は【那珂】に曳航されて呉で修理を行います。
が、8年後、【電】は再び味方と激突します。
開戦直後の昭和17年/1942年1月、今度は【特務運送船 仙台丸】と激突、至急【工作艦 明石】によって応急処置が行われ、その後馬公で修理に入るのですが、完全に修復する前に【電】は「スラバヤ沖海戦」へと出動します。
そしてそこで、【英ヨーク級重巡洋艦 エクセター】、【英駆逐艦 エンカウンター】、【米クレムソン級駆逐艦 ポープ】らの撃沈に貢献しています。
翌日、【電】は【雷】ともに海上に投げ出されたままの両国兵士を救助のために同海上へ戻り、それぞれの駆逐艦の乗員数をはるかに超える400人以上の兵士を救出しました(詳しくは【雷】を)。
「スラバヤ沖海戦」が集結すると、【電】は残った修理箇所の完治のために再び入渠します。
7月にはキスカ島攻略の際に【米ガトー級潜水艦 グロウラー】の魚雷の被害を受けた【不知火】を曳航し、その後は活動拠点を南方へ移します。
「第三次ソロモン海戦」では【暁】が撃沈、【雷】が大破、【響】不参加の中、【電】のみが大きな被害を負うことなく、第一夜、第二夜ともに戦い抜きました。
その後は激務なほど輸送を行い、ガダルカナル島やキスカ島、トラック泊地、そして日本との往復が絶えませんでした。
昭和19年/1944年4月には2番砲塔の撤去、そして25mm単装機銃と連装機銃をそれぞれ2基搭載したとされています。
呉での修復・メンテナンスを終えると、【電】は【響】とともに「ヒ61船団」の護衛を行います。
道中で3隻の輸送船は第一機動部隊への補給のため、【電・響】はその3隻を護衛し、マニラ湾へと寄港することになりました。
マニラを出港後、【電・響】と輸送船3隻はバリクパパンへ向かいます。
編成は先頭に【響】、続いて【電】という並びでした。
一方、その船団を狙う影がありました。
【米ガトー級潜水艦 ボーンフィッシュ】です。
【ボーンフィッシュ】はその狙いを3隻目の輸送船へ定め、5本の魚雷を発射(6本目は故障により発射できず)。
その時、【電】は【響】と先頭を交代することになり、【電】、【響】の並びとなっていました。
【ボーンフィッシュ】の魔の手が忍び寄る、わずか30分前のことでした。
突如、【電】に激震が走ります。
艦中部、後部に1本ずつの魚雷を受けた【電】は急速に右舷に傾き、そして二つに分断され、たった2分後には沈没してしまいました。
あっという間のことで、【響】も【ボーンフィッシュ】を見つけることができず、【電】乗員の半分以上である169名が亡くなりました。