起工日 | 昭和18年/1943年1月21日 |
進水日 | 昭和18年/1943年7月18日 |
竣工日 | 昭和18年/1943年11月27日 |
退役日 (沈没) | 昭和20年/1945年4月7日 |
坊ノ岬沖海戦 | |
建 造 | 藤永田造船所 |
基準排水量 | 2,077t |
垂線間長 | 111.00m |
全 幅 | 10.80m |
最大速度 | 35.0ノット |
航続距離 | 18ノット:5,000海里 |
馬 力 | 52,000馬力 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 3基6門 |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 2基8門 |
次発装填装置 | |
機 銃 | 25mm連装機銃 2基4挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式缶 3基 |
艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
トラウト覚悟 生きて帰すか朝霜の執念
【朝霜】は起工から竣工までの期間は310日と「夕雲型」の中で最も短く、【沖波】らよりも遅い起工ですが先に竣工しています。
竣工後は【沖波】【岸波】とともに第十一水雷戦隊で訓練に励むこととなり、翌年2月10日には3隻揃って【長波】1隻となっていた第二水雷戦隊所属の第三十一駆逐隊に編入されました。
ただこの時【長波】は「ラバウル空襲」による被害で修理を受けている最中でした。
2月26日、【朝霜】は【沖波、岸波】とともに【安芸丸、東山丸、崎戸丸】を護衛することになりました。
宇品からグアム、サイパンへ向かうこの輸送は絶対国防圏を維持するための防衛強化のためのもので、やがて行われる松輸送の先駆けとも言えます。
29日未明、第三十一駆逐隊は初めての作戦で早速試練に遭遇しています。
「夕雲型」は後期型から建造と同時に22号対水上電探を装備していたのですが、これが性能通りに反応を示しました。
船団には【米ガトー級潜水艦 ロック】が迫ってきていたのです。
【ロック】の存在を察知した【朝霜】でしたが、【ロック】は気付かれたことを知ると遮二無二魚雷を発射。
しかし狙いが正確でない魚雷は【朝霜】の脅威にはならず、【朝霜】はその方向に探照灯を照射します。
するとそこには案の定潜望鏡と司令塔がひょっこりと顔を出していて、次の瞬間には【朝霜】の主砲が火を噴きました。
放った砲弾15発のうち2発が【ロック】の潜望鏡と司令塔に見事命中。
慌てて【ロック】は潜航します。
頭を押さえた【朝霜】は続いて爆雷を9個次々と投下していきます。
こうなると【ロック】はひたすら深く潜り、根比べをするしかありません。
【朝霜】もじっくりと九三式水中聴音機で反応を確認し、隙を見せることはありませんでした。
しかし4時間に及ぶ我慢対決に勝利したのは残念ながら【ロック】で、【ロック】は被弾により作戦続行こそできなかったものの、【朝霜】の執拗な攻撃を耐えて離脱に成功しました。
【朝霜】は聴音機の反応から【ロック】を見事仕留めたと判断していたのですが、これは誤りでした。
それでも輸送船団を潜水艦から守ったことには変わりなく、【朝霜】は初陣で手柄を立てたのです。
ですがこれでチャンチャンとはならないわけで、【ロック】は戦場離脱後に僚艦【米タンバー級潜水艦 トラウト】に状況を報告。
新たな刺客として【トラウト】が差し向けられたのです。
同日夕方、【朝霜】はまた謎の電波を捉えていました。
これは電話通信のもので、恐らく再び潜水艦が船団を狙ってくるのだろうと、第三十一駆逐隊は再度兜の緒を締めます。
間もなく日が暮れる、そうなるとますます危険は大きくなる。
【朝霜】は先の戦果に酔いしれることなく警戒を強めました。
ところが今度は【トラウト】が【朝霜】達の目を掻い潜り、17時53分、3本の魚雷を発射します。
【朝霜】が雷跡を目撃しましたが、もう間に合いませんでした。
2発被雷した【崎戸丸】から爆発音と火の手が、【安芸丸】も艦首被雷により急速に速度を落としてしまいます。
【朝霜】の目はその瞬間に360度をグルグル見渡します。
敵はどこだ、絶対逃がさん。
そして被雷から僅か2分、【朝霜】から1,200mの距離で潜望鏡を出していた【トラウト】を発見しました。
【沖波】は2隻の護衛救援を、【朝霜】は【岸波】とともに【トラウト】に飛び掛かりました。
【朝霜】は再び敵の頭を押さえて爆雷を12個投下。
【トラウト】は急いで潜航しますが、それを見越して【朝霜】は深度調整をしながら追加の爆雷7個を落としていきます。
そしてしばらくすると、明らかに爆雷の爆発とは違う規模の爆発音を聴音機が捉えました。
その後は聴音機がピタリと反応しなくなりました。
最後に念のためにもう1つ爆雷を投下しましたが、【朝霜】は【ロック】に続いて【トラウト】も撃沈を報告します。
【ロック】は前述のとおり逃げおおせたのですが【トラウト】は報告通り撃沈に成功しており、日本海軍史でも稀な1日2隻の潜水艦撃沈撃破を記録したのです。
しかしこちらの被害は【トラウト】1隻とはまるで釣り合わないもので、【崎戸丸】は機関部の浸水や火災により復旧不可とされて全員の脱出が決定しました。
【安芸丸】は幸い艦首の被雷による多少の沈下だけで済んだために航行が再開できましたが、【崎戸丸】は結局1,720名が生還したもののそれ以上の2,300名以上が戦死。
【沖波】は【安芸丸、東山丸】と一緒に一足先に戦場を離脱し、輸送後に戻ってきましたが、【朝霜】と【岸波】はあたりが真っ暗になる中でも救助を続けます。
とはいえ相手は大きな輸送船に対してこちらはちっちゃい駆逐艦たった2隻です。
救えるのなら何人でも救いたいのですが、乗せすぎると駆逐艦が重さで動けなくなってしまいます。
そのため現場にはパラオから【藤波】と【早波】が応援に駆け付け、生存者の救助はこの2隻が引き継ぐことになりました。
【藤波、早波】が救助した人数は1,720名に含まれているのかどうかは定かではありませんが、【朝霜】と【岸波】はその後1週間かけてすし詰め状態のままサイパンまでの過酷な輸送を達成しました。
その後2隻は日本に帰国し、再びマリアナ防衛のための輸送に向かいます。
これは正式な松輸送作戦の一部であり、【朝霜】達は【浅香丸、山陽丸、さんとす丸】とともに東松三号特船団を構成して3月20日に館山を出港。
一路トラックを目指していました。
その後の動きについては諸説あり、揃って28日にトラックに到着したというもののほかに、途中で【山陽丸】だけ?が分離してサイパンへ向かったという説もあります。
分離なし説で進めると、トラック到着後に【山陽丸】は【沖波、岸波】に護衛され、【浅香丸、さんとす丸】は【朝霜、第30号駆潜艇】に護衛されてそれぞれサイパンへ向かっています。
【朝霜】組は第4401船団と名付けられていますが、【沖波】組の船団名はわからなかったです。
第4401船団は4月1日に出港し4日にサイパンに到着。
その後【朝霜】はリンガ、バリクパパン、タウイタウイへと移動しますが、この後も一時的に【沖波、岸波】とは別行動をとっています。
この時シンガポールからバリクパパンへ向けて【電】【響】が【日栄丸、建川丸、あづさ丸】という3隻のタンカーを輸送していました。
ところが14日に【電】が【米ガトー級潜水艦 ボーンフィッシュ】の雷撃で沈没してしまい、護衛不足となっていたのです。
【朝霜】は【浜風】【五月雨】とともに追加護衛に選ばれて、急いでバリクパパンに向かいました。
タウイタウイへの部隊の補給のために3隻のタンカーは命綱で、3隻はこのあと19日に無事にタウイタウイへ到着しています。
タウイタウイに戻ってからは、「あ号作戦」へ向けて各艦急いで訓練に取り掛かります。
と言いたいところですが、タウイタウイ周辺は潜水艦が各所で睨みを利かせていて、無警戒に沖合に出ると途端に魚雷をお見舞いされてしまいます。
そのため空母は湾内に押し込められてまともな発着艦訓練もできず、一方で駆逐艦は日々沈められる危険と向き合いながら哨戒任務を続けるしかありませんでした。
息苦しい環境の中で決戦の時を待っていた面々ですが、その士気を削ぐかのように日本には連日被害が及びます。
6月5日は【水無月】、6日はそれを探しに出た【早波】、そして9日には哨戒中の【谷風】が、揃って【米ガトー級潜水艦 ハーダー】の手によって撃沈されたのです。
さらには同時期に行われていた「渾作戦」の3回目の出撃に際してダバオから集合地点のハルマヘラへ向かっていた【風雲】までもが8日に【米ガトー級潜水艦 ヘイク】の雷撃で沈められてしまいました。
輸送船と並んで貴重な駆逐艦を立て続けに失った日本に追い撃ちをかけるように、日本の西カロリン侵攻という予測を裏切って連合軍はマリアナ諸島へ攻撃開始。
これをきっかけに19日から「マリアナ沖海戦」が始まります。
第三十一駆逐隊をはじめとした二水戦は前衛部隊についていて、軽空母の護衛を任されていました。
前衛部隊は攻撃こそ多少受けたものの、海戦の一部始終から見ても貢献できる部隊ではありませんでした。
航空戦かと思いきや潜水艦により【大鳳】と【翔鶴】が沈み、翌日には追撃で【飛鷹】が沈没。
対してこちらの撃沈はゼロ、与えた損傷も軽度なもので、また航空機損耗率も敵の3倍強と、完敗でした。
昭和19年/1944年6月30日時点の兵装 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 3基6門 |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 2基8門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 4基12挺 |
25mm連装機銃 1基2挺 | |
25mm単装機銃 7基7挺 | |
単装機銃取付座 7基 | |
電 探 | 22号対水上電探 1基 |
13号対空電探 1基 |
出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年
レイテへ向かう大艦隊 続く潜水艦との睨み合い
海戦後、【朝霜】は呉へ向かい、そこで整備と補強を行いました。
「マリアナ沖海戦」の時に欲しかった、でも間に合っても意味はなかったであろう13号対空電探がこの時新設されたほか、25mm三連装機銃と単装機銃が増備されました。
【朝霜】だけでなく、整備が終わった船はその後続々とリンガへ移動し、訓練や警戒、輸送護衛などを行いながら次の命令を待っていました。
そして10月18日、「捷一号作戦」が発動され、連合艦隊は行動を開始します。
大きく4つの部隊に分かれて各々役目を与えられるですが、第三十一駆逐隊は本隊である第一遊撃部隊、いわゆる栗田艦隊に所属し、レイテ島を目指すことになります。
ブルネイへ移動した栗田艦隊は、22日に同地を出撃し、最後の大決戦に挑むのです。
ちなみにリンガからブルネイへ移動する際、【朝霜】は缶の故障により出港が1時間ほど遅れています。
最期を想起させる出来事だったかもしれません。
最初の関門であったパラワン水道付近ですが、23日に栗田艦隊は2隻の潜水艦にきっちりお仕事をされてしまいます。
もともとめちゃめちゃ警戒していて、潜水艦だ!と思ったら間違いだったの繰り返しながらの航行でした。
それでも肝心の本物の潜水艦には至近距離まで接近を許していて、【米ガトー級潜水艦 ダーター、デイス】が【愛宕】を撃沈させ、【高雄】を大破させたのです。
【愛宕】は連合艦隊旗艦だったためにその損失の影響は大きく、司令部は【大和】に移ったものの、旗艦適性を高める構造の「高雄型」が相次いで被雷したのは強烈な戦力ダウンでした。
【朝霜】が爆雷をばら撒き、【岸波】とともに【愛宕】乗員の救助にあたるのですが、怒涛の浸水で傾斜がどんどん増すために接舷することができません。
海に浮かぶ兵士達を次々に引き揚げますが、【愛宕】は被雷から20分ほどで沈没してしまいました。
【愛宕】の姿が完全になくなってすぐ、今度は【摩耶】から耳をつんざく爆発音が轟き、次の犠牲が出てしまいます。
【摩耶】に至っては被雷から僅か8分で沈没し、ラバウル空襲で大破した後に補強された大量の対空機銃がその威力を発揮することはありませんでした。
やがて【岸波】が士官たちを乗せて【大和】へ移動し、救助は【朝霜】が継続。
492名の救助を終えると、すぐさま【高雄】の護衛に回りました。
幸い【高雄】はすぐに沈没するような様子はなく、修理を急ぐ一方で【長波】がすでに護衛についている状態でした。
くたばり損ないの【高雄】の息の根を止めるために、【ダーター】は付近をウロチョロしながら隙を窺っていました。
ちなみに【デイス】は潜航中に自身の座標を見失ってしまい、【ダーター】と協力することができませんでした。
【朝霜】と【長波】、さらに【高雄】の水上偵察機による目がギラリと光っていて、そう簡単には【ダーター】の接近を許しません。
怪しい反応に対しては即座に爆雷で制圧をし、【ダーター】は結局5時間にわたって粘ったものの止めの魚雷を放つことはできませんでした。
1対2だったため、【デイス】が離脱していたのはかなり日本にとってありがたい状況でした。
【朝霜、長波】が粘っている一方で、【高雄】も粘り勝ちをつかみ取っています。
6ノットという低速ではあるものの、【高雄】は1つだけ残っていた缶の修理が完了し、自力航行を回復したのです。
これにより【高雄】は【朝霜、長波】の護衛でブルネイまで撤退することが可能になりました。
またのちに【鵯】と【特設駆潜艇 御津丸】が追加の護衛として派遣されています。
翌朝、【朝霜】達に陸上攻撃から通信筒が落とされました。
見ると近くのボンベイ礁で潜水艦が座礁していたというのです。
この正体は昨日しつこく【高雄】を狙っていた【ダーター】で、【ダーター】は【高雄】を追跡していたところで座礁してしまったのです。
脱線するので詳しくは【長波】の頁をご覧いただきたいのですが、【長波】と【鵯】がその座礁していた潜水艦の下へ向かいます。
【朝霜】達はしばらくそこで待機し、引き続き潜水艦の接近がないかと注意を怠りませんでした。
やがて【長波】は「シブヤン海海戦」で損傷した【妙高】の護衛につくことになり、【鵯】だけが【朝霜】達に合流し、ブルネイへの移動を再開しています。
ブルネイまで【高雄】を送り届けた【朝霜】ですが、なんとその後反転してレイテに向かおうとしました。
さすがに今からでは間に合わんと【愛宕】艦長の荒木伝大佐、【高雄】艦長の小野田捨次郎大佐に説得されて元来たた道を戻ることはしませんでしたが、使命感に溢れる一面でした。
一説には無理を通して西村艦隊ルートを目標にスールー海まで出たとも言われていますが、ただ例え反対を振り切ったところで栗田艦隊の反転の通信もあったので無意味ではありました。
「捷一号作戦」までもが失敗に終わったため、陸軍への支援はかつての「ガダルカナル島の戦い」よろしく駆逐艦による輸送を実施せざるを得なくなります。
辛うじて当時と状況が違うとすれば、海軍直属の【一等輸送艦】【二等輸送艦】、そして海防艦が存在したことです。
当然これに輸送船が加わって、マニラからレイテのオルモック湾への輸送を行う「多号作戦」が始まりました。
参考資料(把握しているものに限る)
Wikipedia
東江戸川工廠
艦隊これくしょん -艦これ- 攻略 Wiki
[1]第二水雷戦隊突入す 著:木俣滋郎 光人社