キスカ撤退、ラバウル撤退 戻るだけでは勝てぬ
トラックで整備を行っていた【長波】でしたが、この間に第三十一駆逐隊には新たに【大波】と【清波】が加わり、ここで初めて定数4隻を達成しました。
ただ【巻波】も「ケ号作戦」で中破しているため、しばらくは新人2隻だけの行動となります。
3月8日にトラックを出発して本土帰還。
1ヶ月超の修理と整備を終えた後、一度【雲鷹】【冲鷹】の輸送のために日本とトラックを往復しています。
トラックから戻ってくると、今度は一転して北への派遣が決定しました。
「アッツ島の戦い」が始ったことで、北方部隊に編入された【長波】は幌筵へ向かい、補給の支援を行う予定でした。
ただ日本は「アッツ島沖海戦」の結果から補給継続が困難な状態であることから、アッツ島、キスカ島の徹底支援の必要性を感じておらず、アッツの放棄、キスカからの撤退という方針が固まったことで、【長波】達の出番はありませんでした。
国に見捨てられる形で「アッツ島の戦い」は守備隊玉砕により終結。
しかしアッツを犠牲にしたからには、何としてもキスカからの撤退を実行しなければなりません。
ここに「キスカ島撤退作戦(ケ号作戦)」が立案されることになります。
いったん舞鶴まで引き揚げていた(補給時に損傷があり整備)【長波】も、当然名を連ねました。
水上艦、潜水艦、空襲と、キスカ島に突入するには幾重にも障害があります。
しかしその障害をすべて排除してれる、この海域ならではの天候に作戦は全てが託されました。
冬はもちろん大荒れの天気になりますが、夏手前の気温差が大きい時期は、おとぎ話でもやりすぎなほどの深い霧に覆われます。
その霧を隠れ蓑として、コッソリ往復してキスカ島から撤退するというのがこの作戦でした。
ですが今と違い気象衛星もない時代、しかも日本周辺でも無い海域で、しかも1週間ほど先の霧発生の予想は簡単なことではありません。
まずは7月7日に部隊は幌筵を出撃。
ですが予想に反して霧は望んでいたとおりに展開されず、珍しく青空を拝むことすらありました。
このまま強行しても敵に見つかって被害を増やすだけだと判断され、部隊は苦渋の撤退を決断します。
次の出撃は22日。
これが最後のチャンス、ここで霧が出なければ守備隊の未来はない。
そして願いは通じ、出撃直後から霧が立ち込め、やがて行く手には一寸先は闇ならぬ一寸先は霧というほどの最悪で最高な視界となりました。
部隊は霧の中をゆっくりと、はぐれないように移動していたのですが、にしたって1km前後の距離ですでに相手のお尻を見失うぐらいなので、23日には【長波】【国後】【日本丸】が部隊からはぐれてしまいます。
当初から部隊の場所を把握するために時折【阿武隈】が高角砲を放っていて、この音と電話を頼りに【長波】と【日本丸】は無事に合流に成功したのですが、【国後】は電話もつながらないまま25日になっても現れず、心配されました。
それでも【国後】は大まかな進路は誤らず、ついに26日には艦隊と合流することができました。
ただ合流の仕方が非常にアグレッシブで、【国後】は霧の中でいきなり【阿武隈】の左舷に現れて、そのまま衝突してしまったのです。
どれだけ霧が濃かったかがわかる出来事ですが、超濃霧故にお互いが低速であったことは幸いでした。
2隻ともそのまま作戦を続行することができています。
しかしこの衝突が連鎖事故を引き起こし、【初霜】がすぐ前を行っていた【若葉】に衝突、さらに後進をかけたところで今度は後方の【長波】にもぶつかってしまいます。
【初霜】の艦尾が【長波】の左舷をこすり、【長波】は少々浸水するぐらいの衝撃を受けています。
【長波】の被害はその場での処置ができるものだったのですが、【初霜】の艦首が刺さった【若葉】はさすがに作戦続行が難しく、ここで無念の単艦撤退となりました。
残されたメンバーは29日にキスカ島に突入。
これぞ天恵と言いますか、突入寸前に青空が広がり、キスカ島に残された兵士たちはまさにその青く輝く空を目指して港に集合。
徹底した事前準備も功を奏し、計画通り1時間以内で全員の撤収が見事に完了すると、再び霧に閉ざされたキスカ島から撤退します。
帰り道では敵潜水艦に出くわしてヒヤヒヤしますが、これも軽巡の煙突を2本に見えるように偽装した成果があったのか、素通りすることができました。
人事を尽くし、天命もあった「キスカ島撤退作戦」は大成功。
舞鶴で衝突の修理を行った【長波】は、トラック経由で再びラバウルにまで戻ってきます。
ところが修理や北でわたわたやっていた半年以上の月日の間に、南はえらく前線が下がっていました。
作戦中の7月20日には僚艦の【清波】も空襲で沈められています。
【長波】は他の駆逐艦とともに飛行隊の輸送を行っていましたが、11月1日に「ブーゲンビル島の戦い」がはじまり、またタロキナへの逆上陸を狙った中で発生した「ブーゲンビル島沖海戦」でも日本は敗北。
【長波】は「ブーゲンビル島沖海戦」にも参加していますが、【長波】達はこの戦いでは何にもしなかった第二警戒隊なので、語ることもありません。
さらに翌日にはその「ブーゲンビル島沖海戦」を戦った船たちが戻ってきたラバウルが空襲され、これまでにもラバウルは空襲されていることから危険は目の前に迫っていました。
そして5日、ついに大規模な、いわゆる「ラバウル空襲」として代表的に扱われる空襲が行われます。
ちょうどこの日はたくさんの重巡が敵艦隊との海戦を狙ってラバウルに到着したばかりで、飛んで火に入る夏の虫とはまさにこのことでした。
空襲により重巡は多数が傷つき、何の意味もなさずに撤退。
【長波】の被害はありませんでしたが、この撤退には同行せず、まだラバウルに留まっていました。
駆逐艦の仕事はブーゲンビル島への輸送や船舶の護衛などまだ残されていたので、すぐに脱出はできなかったのです。
そんな中、アメリカはラバウルの息の根を止めるべく11日に再び航空部隊をラバウルに派遣。
その偵察情報を受けて在留艦船もスコールに紛れて脱出を図ったのですが、襲来に間に合わず次々に攻撃を受けてしまいました。
【長波】は艦尾に被弾し、この衝撃で舵とスクリューをいっぺんに失います。
もちろん動くことはできないので、あとはひたすら新たな被害を受けないことを願うしかありませんでした。
空襲では【涼波】が魚雷と爆撃、さらには誘爆で沈没し、【阿賀野】も魚雷を受けて艦尾を切断します。
この空襲でラバウルは日本の重要な前線基地としての機能を失い、トラックにすべてがのしかかるようになりました。
そしてそれがわかったからこそ、ラバウルに次なる空襲はもたらされませんでした。
いったん【巻波】の曳航でラバウルに引き返した【長波】でしたが、その後の空襲がなかったことは幸運でした。
応急修理も実施し、【水無月】に曳航されてラバウルを出撃したのは12月3日ですから、半月以上ラバウルに留まっていることがわかります。
もしこの間にまた空襲を受けていれば、【長波】の命はここで終わっていたかもしれません。
【夕張】と【文月】に護衛されてトラックに戻った【長波】は、翌昭和19年/1944年1月15日、【長良】の曳航、【卯月】【夕凪】の護衛でトラックを出発し、日本に戻っていきました。
【長波】がラバウルで空襲を受けた後、残された第三十一駆逐隊は11月25日に【大波、巻波】が「セント・ジョージ岬沖海戦」で闇討ちを受けて沈没。
なので修理中の2月10日に新たに【沖波】【岸波】【朝霜】の3隻が第三十一駆逐隊に加わっています。
【長波】の修理期間は長く、「マリアナ沖海戦」には間に合わず7月半ばにリンガに向かって戦線に復帰しました。
修理中には兵装強化も行われ、最終的に以下のような兵装になっています。
22号対水上電探は記録では1943年8月の訓令で装備が決められていたようなので、少なくともこの電探の搭載は1年近く前のようです。
昭和19年/1944年6月30日時点の兵装 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 3基6門 |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 2基8門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 4基12挺 |
25mm連装機銃 1基2挺 | |
25mm単装機銃 10基10挺 | |
単装機銃取付座 4基 | |
電 探 | 22号対水上電探 2基 |
13号対空電探 1基 |
出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年
7月復帰となると、残された戦いは僅かしかありません。
10月18日にリンガを出撃する大部隊がありました。
「捷一号作戦」実行に伴い栗田艦隊がレイテ島を目指して出撃したのです。
【長波】ら二水戦は栗田艦隊第一部隊に位置し、【長波】は左舷側に位置していました。
が、まず最初に栗田艦隊はパラワン水道で重要な戦力を一気に3隻失ってしまいます。
「パラワン水道の悲劇」と称される、【米ガトー級潜水艦 ダーター、デイス】による重巡狩りです。
そもそもパラワン水道は潜水艦の攻撃が最初から予測されていて、警戒はかなり厳しく行っていたはずです。
それでもあっさり接近されて、特に【ダーター】には至近距離までの接近を許しています。
その後の【デイス】の雷撃と合わせて、栗田艦隊旗艦【愛宕】と、対空装備をガチガチに増強させた【摩耶】が撃沈。
【高雄】もかなりの大ダメージを負って航行不能となり、自慢の「高雄型」は唯一未改修の【鳥海】だけが作戦を続行することができました。
【長波】は【愛宕】被雷後に爆撃を投下しますが、直接的なダメージを与えることはできませんでした。
しかしともに【高雄】の護衛を行っていた【朝霜】と【高雄】の水上偵察機とともに周辺の警戒を続け、【高雄】への再攻撃は許しませんでした。
やがて6ノットながらも【高雄】が航行可能となると、【高雄】は【長波、朝霜】とブルネイへの撤退を開始。
後に【鵯】【千振】と【特設駆潜艇 御津丸】が【高雄】達と合流します。
この後も【ダーター、デイス】は進路こそ異なるものの【高雄】の撃沈を諦めていませんでした。
ただ潜航し続けている間に自らの位置を見失ってしまった【ダーター】は、追撃を中止してもと来た道を戻り始めました。
ところが【ダーター】は突然ボンベイ礁で座礁してしまい、どう足掻いても抜け出せなくなってしまいました。
座礁は24日未明の出来事で、【ダーター】はすぐさま【デイス】に救援を要請。
【デイス】が駆け付けた後離礁を試みますが上手くいかず、長居をして日本に発見されることを恐れた【デイス】は【ダーター】を放棄するために翌日から乗員の移乗を開始しました。
乗員が【デイス】に乗り移った後、【デイス】は【ダーター】を沈めるためにダイナマイトを起爆させて撃沈させようとしますが、爆発はしたものの沈没はしませんでした。
続いて魚雷を発射しますが、魚雷は【ダーター】を捉えずに岩に命中するなどして、どの方法でも破壊することができませんでした。
そして砲撃の最中に日本機が現れたために、止むを得ず攻撃中断し潜航します。
そして【ダーター】の座礁を発見した陸攻からの通信筒を受けて、25日朝に【長波】と【鵯】が現場へ向かいました。
砲撃をしても無反応で、乗り込んでもすでに放棄された【ダーター】にはめぼしいものは何も残されていませんでした。
とりあえずもらえる物は可能な限り拝借し、13mm機銃も奪取して【長波】の新しい機銃として搭載されています。
ちなみにこの一部始終を近くに残っていた【デイス】が観察していたのですが、【ダーター】の撃沈のために魚雷を撃ち尽くしてしまったので攻撃することはできませんでした。
【長波】達はその後【ダーター】を破壊せずに現場から離脱。
【デイス】はこの後も砲撃で再度処分を試みるものの、謎の通信音を受信したことで諦めて撤退しています。
その後【長波】は【高雄】の護衛には戻らず、「シブヤン海海戦」で空襲を受けた【妙高】の離脱を護衛するように言われます。
【妙高】の行き先はコロンだったので、【長波】もコロンへ直行、その後ブルネイへと向かいました。
ブルネイには、あの船もいないしこの船もいない、歯抜けだらけの栗田艦隊がすでに到着していましたが、あの【武蔵】の姿もなく、「レイテ沖海戦」の完敗っぷりが一目でわかりました。