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筑摩【利根型重巡洋艦 二番艦】
Chikuma【Tone-class heavy cruiser Second】

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起工日昭和10年/1935年10月1日
進水日昭和13年/1938年3月19日
竣工日昭和14年/1939年5月20日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年10月25日
サマール沖海戦
建 造三菱長崎造船所
基準排水量8,500t
全 長201.60m
垂線間幅18.50m
最大速度35.0ノット
航続距離18ノット:8,000海里
馬 力152,000馬力

装 備 一 覧

昭和13年/1938年(竣工時)
主 砲50口径20.3cm連装砲 4基8門
備砲・機銃40口径12.7cm連装高角砲 4基8門
25mm連装機銃 6基12挺
魚 雷61cm三連装魚雷発射管 4基12門(水上)
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 重油8基
艦本式ギアード・タービン 4基4軸
その他水上機 5機
「テキパキ」は設定上、前後の文脈や段落に違和感がある場合があります。

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事実上、最後の重巡洋艦 いつでも姉と一緒 筑摩

「最上型」の五番艦として建造予定だった【利根】が、「利根型」として独立した上で建造されるにあたって、新たに「利根型重巡洋艦」の建造が計画されました。
【筑摩】はその二番艦となります。

その後、「改鈴谷型重巡洋艦」とも言える「伊吹型重巡洋艦」の一番艦【伊吹】の建造が始まるのですが、戦況の変化により【伊吹】は空母へ改装されることになり(しかし空母にも改装されず建造途中で解体)、【筑摩】は帝国海軍最後の重巡洋艦となりました。
書類上の分類では【高雄型重巡洋艦 鳥海】が最後ですが、【筑摩】【利根】同様、書類上以外の全ては重巡そのものでした。
【筑摩】も姉と同じように、主砲を前部へ集中させ、後ろからは水上偵察機を発艦させる「偵察型巡洋艦」のスタイルを持ち、この2隻は参加したほぼすべての作戦を一緒に遂行しています。

【筑摩】の進水式

太平洋戦争開戦の号砲を鳴らした「真珠湾攻撃」では、その狼煙を上げたのは【利根、筑摩】と言ってもいいでしょう。
第八戦隊の2隻に搭載された水上偵察機はハワイ島の雲量であったり、戦力であったり情報をつぶさに報告し、あの大戦果に至ったわけです。

第二航空戦隊に所属していた第八戦隊は、その後も機動部隊と共に航空機による空襲の支援で多数の活躍を見せます。
しかし砲撃訓練を死に物狂いで行ってきた日本をあざ笑うかのような存在が現れました。
【米クレムソン級駆逐艦 エドサル】です。

【エドサル】とは3月1日にクリスマス島付近で遭遇。
この時の日本側の戦力は【比叡】【霧島】【利根、筑摩】の4隻で、駆逐艦1隻なんて赤子の手をひねるようなものだと思われました。
ところが、この時の双方の距離は不明ですが、【エドサル】は日本からの砲撃を巧みに回避し、1発は被弾しますがそれでもそれ以外の全ての砲撃は【エドサル】に読み切られてしまいます。
駆逐艦は砲撃力は乏しいですが、速度と小柄ゆえの操舵性の高さが魅力です。
そしてそれを見事に実演して見せた【エドサル】は、日本のこれまでの砲撃訓練をあざ笑うかのように、お尻を振って砲撃を交わしながら逃げ続けたのです。

最終的に【蒼龍】【九九式艦上爆撃機】の支援によって【エドサル】は命中弾を浴び、その後お情けで砲撃によって撃沈させられましたが、直前に発生している「スラバヤ沖海戦」といい、砲撃の壊滅的な命中率が非常に問題視されました。
この時はまだまだ水上決戦型の戦いが想定されていましたから、端的に言えばこんな命中率では負けるというわけです。

※【メイモットヨート】もしくは【モッドヨカード】撃沈については自信がないので省きます。

「ミッドウェー海戦」では、【利根】のカタパルトの不調によって計7機の発艦が完了するのが30分ほど遅れます。
かつてはこの30分の遅れが「ミッドウェー海戦」最大のミスだったと言われてきましたが、今は逆にこの30分の遅れがあったから、日本も周辺にアメリカの空母がいることを知ることができたと言われています。
ただ、一番知るべきタイミングで知れたのかというと、否です。

【筑摩】から発艦された1号機(都間信大尉機長)は海上を飛行し、眼下の様子をうかがいますが、どうやら敵艦らしきものは見当たらず、そのまま帰還します。
しかし実は、敵機動部隊は存在していました。
たまたま敵機動部隊の上には厚い雲があり、1号機はその雲に阻まれて敵機動部隊を視認できなかったのです。

ただ、水上にいるかも知れない艦隊を捜索するときに雲の上で「雲厚いなぁ、見えねぇなぁ、しゃーねぇなぁ」ってなってるのが大問題です。
普通なら雲の下に降りて様子をうかがうものです、偵察なんですから。
さらに、この都間機はその雲の上で【SBD】1機と軽い空戦を行っています。
空戦があれば、空母の存在も疑いますし、例え陸上基地からの飛行であっても敵側も索敵に入っていることを伝えるなどから絶対に報告しなければならない事案です。
その報告もなかったため、戦後「ミッドウェー海戦」の研究が進む上でこの都間機の犯した失態が戦況に与えた影響は計り知れないことが判明していきます。
あの艦隊運用では結局どうにもならなかった気がしますけど。

その後の「南太平洋海戦」では、【筑摩】は沈没寸前まで追い詰められます。
日本の機動部隊を追い求めて【米ヨークタウン級航空母艦 エンタープライズ】から発艦した航空機は、その機動部隊の前衛にいた第八戦隊や【比叡、霧島】と遭遇し、これらに空襲を行いました。
この時すでに第一波は【翔鶴】に襲い掛かっていて、【翔鶴】では決死の消火活動が続いており、また【瑞鶴】と共に退避中でした。
この後方に機動部隊がいるのはアメリカもわかっていたのですが、道中【零式艦上戦闘機】との空戦があって燃料をかなり消耗してしまったのです。
このまま発見できずに引き返すのか、と考えているうちに前衛部隊に出くわしたため、攻撃が始まりました。

この時【筑摩】には一斉に攻撃が始まり、爆撃が次々と命中、艦橋の両舷に被弾、さらに至近弾により右舷缶室が浸水します。
敵機の動きは不思議で、最初は緩降下爆撃をするのかというぐらい弱い角度で接近してきました。
当然【筑摩】は爆撃を避けるために面舵一杯を取ります。
しかし緩降下では当然針路を変えるのは容易ですから、この面舵に難なく対応できます。

ここが爆撃隊の戦略でした。
本来なら対空射撃を受ける時間を少しでも短くするために攻撃のタイミングを得るとすぐさま急降下しますが、急降下爆撃は方向を変えることがほぼ無理です。
なので狙われた艦は左右に身体を捻って爆撃をかわそうとするのですが、爆撃隊は日本の機銃掃射が大したことないことを見越し、命中率を上げるためにできるだけ船の転舵についていきながら徐々に角度をつけていき、捉えたところで急降下に移るという作戦だったのです。
危険と言えば危険ですが、日本航空機が敵空母に立ち向かっていくときの弾幕の嵐に比べると雲泥の差ですから、この策は【筑摩】の被害を見てもわかるように非常に効果的だったのです。

誘爆を恐れて魚雷を投棄しますが、この判断は【筑摩】の寿命をのばすことに成功します。
わずか3分後、右舷魚雷発射管と機械室直上から貫通して機械室にも爆弾が直撃しました。
魚雷が残っていれば、沈没は免れなかったでしょう。
さらに後部甲板にも命中弾を受け、艦載機が炎上、被害は沈没寸前のものでした。
しかし足が生きていたためなんとか【筑摩】【浦風】【谷風】の護衛を受けながら戦線から離脱しました。
この戦いでは【翔鶴】【瑞鳳】【熊野】も被害を受けており、各々トラック泊地で応急処置を行ったあと、【筑摩】は無事呉の地で修理を受けて戦線復帰を果たします。

南太平洋海戦の【筑摩】

昭和18年/1943年2月に【筑摩】の修理が完了。
昭和17年/1942年後半ごろから日本の艦船にもレーダーの搭載が徐々に始まっており、【筑摩】もこの修理の際に21号対空電探が設置されています。
この後【利根】と共にトラック島へと移動しますが、その後はしばらく本土との往来や哨戒、護衛などが続きました。

10月に入ると【利根】の機関で故障が発生し、【明石】での修復では完全に治らないということから本土への帰投が決まります。
【筑摩】は1隻でトラック島に残ることになりますが、11月1日に「ブーゲンビル島沖海戦」が勃発。
上陸が着々と進んでいる連合軍を抑え込むために【筑摩】らは急いでラバウルへと進出しました。

ところがこれを待っていたかのように、到着して僅か2時間後からこれまでに経験したことのない大規模な軍港空襲が始まったのです。
陸上に戦闘機は配備されていますが、艦船からの対空砲火はもう脅威ではないことがわかっていますから、アメリカも意を決して行った11月5日の「ラバウル空襲」
この空襲によって数々の船が大小さまざまな被害を受け、ブーゲンビル島支援のためにやってきた艦隊は、ズタボロにされた挙句なにも残さずにすごすごとトラック島へ引き返す羽目になってしまいました。
【筑摩】は直撃弾こそなかったものの至近弾4発という被害を受けています。

ラバウル空襲を受ける【筑摩】

呉での修理を終えた【筑摩】は、昭和19年/1944年1月1日に第八戦隊の解散に伴って第七戦隊に編入されます。
修理後はトラック島ではなく、船の調達のためにインド洋周辺で連合軍の商船を拿捕しようという「サ第一号作戦」に参加しました。
しかし日本の船をアメリカの巡洋艦に偽装して近づくというこの作戦は失敗に終わり、唯一接近できた【英商船 ビハール号】にも全く通用せずに逃げ出したため、結局砲撃、撃沈しています。
この時【筑摩】は砲撃には参加していなかったようです。
その後、救助された捕虜の多数が最終的に殺害されるという「ビハール号事件」が発生しています。

「マリアナ沖海戦」でも【筑摩】をはじめとした水上艦はほとんど何もできませんでした。
空母から飛び立った艦載機は帰ってこず、暗躍した潜水艦に空母は沈められると散々な有様で、大型空母もこの戦いで【瑞鶴】1隻を残すのみとなってしまいます。

昭和19年/1944年6月30日時点の主砲・対空兵装
主 砲50口径20.3cm連装砲 4基8門
副砲・備砲40口径12.7cm連装高角砲 4基8門
機 銃25mm三連装機銃 8基24挺
25mm連装機銃 4基8挺
25mm単装機銃 23基23基
電 探21号対空電探 1基
22号対水上電探 2基
13号対空電探 1基

出典:[海軍艦艇史]2 巡洋艦 コルベット スループ 著:福井静夫 KKベストセラーズ 1980年

そして「捷一号作戦」、すなわち「レイテ沖海戦」に突入します。
第七戦隊は第一遊撃部隊(栗田艦隊)に所属、【大和、武蔵】を据えた本隊としてレイテ島目指してブルネイから出撃しました。
この時【筑摩】の艦長則満宰次大佐「だいたい沈められることになる」と漏らしたそうですが、たぶん多くの乗員が口にしないだけでそう思ったでしょう。
敵制空権内に航空支援もない中で突っ込むわけですから、生きて帰れるなんて考えるのがおかしいぐらいです。

そして第一の難所であるパラワン水道では、潜んでいた【米ガトー級潜水艦 ダーター、デース】のあいさつ代わりの雷撃で早くも【愛宕】【摩耶】を失い、また【高雄】も大破撤退を余儀なくされます。
艦隊・戦隊旗艦として大変優秀だった「愛宕型」を突然3隻も欠いた栗田艦隊ですが、続く「シブヤン海海戦」でも連合軍の執拗かつ徹底した空襲によって不沈艦と称された【武蔵】が沈没。
主力を大きく失った栗田艦隊は、それでもなお前進を続けました。

そして出会ったのがタフィ3と呼ばれるアメリカの護衛空母とその護衛のための駆逐艦群。
これらは戦力ではなく輸送とその護衛という役割だったのですが、日本は飢えたように追い求めた水上戦の機会を得たことでこれらの艦隊を敵主力機動部隊だと勘違いします。
栗田艦隊はタフィ3に対して攻撃を開始、当然叶うわけがないタフィ3は必死に逃げ始めました。

この逃走を後押しするために駆逐艦が栗田艦隊の前に躍り出ます。
魚雷を発射したり、煙幕を展張したり、砲撃を行ったりとあまりにも強大な部隊に全くも怯むことなく戦いを挑んだ駆逐艦たちですが、【米フレッチャー級駆逐艦 ジョンストン、ホーエル】【米ジョン・C・バトラー級護衛駆逐艦 サミュエル・B・ロバーツ】が日本の砲撃によって沈没しました。
また、これらの妨害を掻い潜って【米カサブランカ級護衛空母 ガンビア・ベイ、セント・ロー】の撃沈にも成功しています。

【ガンビア・ベイ】は艦隊の最後尾にあって、戦艦重巡からの第一の攻撃目標になったために砲撃が集中します。
速度も遅く簡素な造りである「カサブランカ級護衛空母」はこれらの砲撃に耐えれるわけもなく(榴弾でも貫通するぐらいの軽装甲のため、爆発せずに逆に軽被害で済んだ被弾もあります)、機関室の浸水なども始まって最終的には2kmほどの距離から砲撃されるというオーバーキルっぷりでした。

しかし日本の被害はないどころかこれより酷いのです。
敵はなにもタフィ3だけではなく、レイテ島からの航空部隊の援護もあって栗田艦隊は猛追するもおびただしい妨害を受けました。
そして【鳥海】【鈴谷】【能代】【野分】が沈み、そしてこの【筑摩】もともに深い海で眠ることになりました。
栗田艦隊を封じ込めるために護衛空母からも出せるだけの艦載機を出して反撃に出ていました。
その1隻である【カサブランカ級護衛空母 ナトマ・ベイ】から発艦した【TBF】の雷撃が【筑摩】の艦尾に命中。
この被雷によって【筑摩】の速度は低下したため、【ガンビア・ベイ】を追い詰める各艦についていけなくなってしまいました。

艦隊から落伍した【筑摩】は、応急処置によって18ノットまでの速力を回復したのですが、この半減した速力は【筑摩】を大きく苦しめます。
単艦の日本艦なら遅るるに足らず、再び艦載機の空襲にあった【筑摩】は、演習弾すら使用して応戦しますが、複数の爆撃や魚雷によって左舷へ大きく傾きはじめます。
総員退艦命令が出され、乗員は救助に差し向けられた【野分】に移乗した後、【野分】の雷撃によって【筑摩】は沈んでいくことになりました。

しかしその【野分】も、同日夜にアメリカ軍の追撃によって撃沈されて全員が戦死。
結局【筑摩】の乗員で助かったのは、【野分】に唯一救助されず、3日間海を漂流し続けた1人の砲員だけでした(航空機搭乗者を除く)。

サマール沖海戦で戦闘中の【筑摩】

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