
起工日 | 昭和11年/1936年12月23日 |
進水日 | 昭和12年/1937年11月5日 |
竣工日 | 昭和13年/1938年3月31日 |
退役日 (沈没) | 昭和19年/1944年10月25日 スリガオ海峡海戦 |
建 造 | 川崎造船所 |
基準排水量 | 1,961t |
垂線間長 | 111.00m |
全 幅 | 10.35m |
最大速度 | 35.0ノット |
航続距離 | 18ノット:3,800海里 |
馬 力 | 50,000馬力 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 3基6門 |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 2基8門 次発装填装置 |
機 銃 | 25mm連装機銃 2基4挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式缶 3基 艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
悪夢と奇跡と地獄を体験した朝雲
【朝雲】は【山雲・夏雲・峯雲】とともに第九駆逐隊を編成し、第四水雷戦隊に所属して太平洋戦争を迎えています。
12月10日に早速「リンガエン湾上陸作戦」に参加しますが、下旬には僚艦の【山雲】が触雷によって損傷、第九駆逐隊はいきなり3隻での活動を余儀なくされました。
昭和17年/1942年2月、「スラバヤ沖海戦」には第九駆逐隊から【朝雲、峯雲】が参加。
この「スラバヤ沖海戦」はあまりにも遠距離からの攻撃であったため、勝利は収めるものの命中率が非常に悪い戦いでした。
魚雷発射の際、他の多くの僚艦が10,000mほどの距離から魚雷を発射して退避する中、第九駆逐隊司令の佐藤康夫大佐は【朝雲、峯雲】を引き連れてどんどん敵艦隊に肉薄します。
岩橋透艦長(当時中佐)が反転を促すも、「もうちっと、もうちっと」と聞かず、結局6,000mまで詰め寄ってようやく発射しました。
ところが【朝雲】はそこで反転せず、さらに突っ込んでいきました。
そして【朝雲】は距離3,000mで駆逐艦3隻と真っ向からやりあい、【英駆逐艦 エレクトラ】の砲撃を受けて電源が落ちてしまいます。
しかし【朝雲】は人力で砲撃を続け、逆に【峯雲】とともにこれを返り討ちにし、撃沈させています。
12ノット、やがて24ノットまで速度を回復させた【朝雲】はバリクパパンへ回航されました。
後日行われた戦果検討の席上では、第九駆逐隊の戦果は「軽巡1隻撃沈」(実際は駆逐艦1隻)と報告、それに対して異論が飛ぶと、佐藤司令は「遠くへ逃げてばかりいた奴になにがわかるか!」と一喝したというエピソードもありました。
修理を終え、6月には【朝雲】は「ミッドウェー海戦」に参加。
その後は7月中旬まで北方部隊へ転属となり、アリューシャン方面の侵攻にも加わっています。
8月には「ガダルカナル島の戦い」で「第二次ソロモン海戦」にも参加、その後は輸送任務を頻繁に行いますが、「サボ島沖海戦」では【叢雲】の救援に向かった【夏雲】が逆に【叢雲】共々沈没。
第九駆逐隊はその救助にあたります。
10月25日にはヘンダーソン飛行場の砲撃を行うために向かった【由良】が沈没、第四水雷戦隊旗艦【秋月】も中破し、10月31日付で四水戦の旗艦は【朝雲】に引き継がれることになりました。
「第三次ソロモン海戦」では第一夜、第二夜ともに参加し、戦果報告もしていますが実際はゼロ。
第二夜では【霧島】の乗員を救助し、その最期を間近で見届けています。
昭和18年/1943年2月からは「ガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)」に参加、最初は支援部隊でしたが、駆逐艦の相次ぐ離脱によって本隊へと配属された【朝雲】は、ウェワク輸送船団の護衛などを務めました。
そして3月、悪夢のような「ビスマルク海海戦」で生き延びた駆逐艦のうちの1隻が【朝雲】です。
輸送船8隻、駆逐艦4隻が為す術なく沈没したこの海戦で、【朝雲】は反跳爆撃の恐怖と戦い、撃破された艦艇の乗員の救助にあたっています。
ボロボロになっても生き続けた乗員たちを乗せて【朝雲】はカビエンへ帰投するのですが、同日、【峯雲】が【村雨】とともに奇襲を受けて沈没してしまい、第九駆逐隊は【朝雲】1隻だけとなってしまいました。
その後、【峯雲】の意思を受け継ぎ「コロンバンガラ島輸送作戦」を行った【朝雲】は、第一水雷戦隊に編入され、5月から北方海域へと向かいました。
そして7月29日、【朝雲】は霧に乗じて無傷で完全撤退を果たした奇跡の作戦である「キスカ島撤退作戦」にも参加し、貢献しています。
米軍がこの撤退には全く気づかなかったこの作戦は、「ビスマルク海海戦」で艦隊指揮を執っていた木村昌福少将のもとで行われました。
10月31日、【朝雲】は【風雲・秋雲】のいる第十駆逐隊へ編入されますが、翌年2月には【秋雲】が沈没。
第十駆逐隊は2隻編成となってしまいます。
しかし【風雲】も6月に潜水艦の魚雷を受けて沈没してしまい、【朝雲】は1年持たずに再び1隻で取り残されてしまいます。
そして7月、再び組み換えが行われ、【朝雲】は第四駆逐隊に編入されます。
開戦当初に僚艦だった【山雲】と久々に行動をともにすることになり、第四駆逐隊は寄せ集めですが【野分、満潮、朝雲、山雲】で編成されました。
昭和19年/1944年6月30日時点の兵装 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 2基4門 |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 2基8門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 4基12挺 25mm連装機銃 1基2挺 25mm単装機銃 8基8挺 単装機銃取付座 4基 |
電 探 | 22号水上電探 1基 13号対空電探 1基 |
爆 雷 |
出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年
10月、第四駆逐隊は「レイテ沖海戦 スリガオ海峡海戦」に突入。
【野分】は別働隊に連れていかれ、その代わりに【時雨】が臨時で参加、【扶桑、山城、最上、時雨】、そして「朝潮型」3隻の第四駆逐隊で西村艦隊が編成されました。
25日、西村艦隊はスリガオ海峡へと突入、決死の砲撃戦を覚悟して挑んだこの戦いは、地獄絵図でした。
無数の魚雷艇と駆逐艦を配備した米軍は、一斉に魚雷を西村艦隊へ向けて発射。
旗艦【扶桑】はこの魚雷によっていきなり航行不能、やがて分断されて沈没してしまいます。
続く【山城、最上】も真っ赤に燃え上がり、そして【山雲】は轟沈、【満潮】も大破してしまいます。
【朝雲】は1番砲塔付近に被雷し、艦首が吹き飛ばされる大損害を負いました。
急いで反転離脱をするのですが、当然速度はほとんど出ません。
同じく離脱する【最上、時雨】を追いかけることができず、やがて【朝雲】は1隻だけ取り残されてしまいました。
【朝雲】は蹂躙されますが、沈むその瞬間まで絶対に砲撃をやめず、艦首が水没してからも3番砲塔からは砲弾が発射されたそうです。
また、別行動の【野分】も【筑摩】の救助中に沈没し、第四駆逐隊は一夜にして壊滅してしまいました。