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藤波【夕雲型駆逐艦 十一番艦】

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起工日 昭和17年/1942年8月25日
進水日 昭和18年/1943年4月20日
竣工日 昭和18年/1943年7月31日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年10月26ないし27日
サマール沖海戦
建 造 藤永田造船所
基準排水量 2,077t
垂線間長 111.00m
全 幅 10.80m
最大速度 35.0ノット
航続距離 18ノット:5,000海里
馬 力 52,000馬力
主 砲 50口径12.7cm連装砲 3基6門
魚 雷 61cm四連装魚雷発射管 2基8門
次発装填装置
機 銃 25mm連装機銃 2基4挺
缶・主機 ロ号艦本式缶 3基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸

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護衛・救助の日々 苦しい一生を背負った藤波

【藤波】は十二番艦の【早波】とともに竣工し、第十一水雷戦隊で研鑽を積みます。
8月には【涼波・早波】と第三十二駆逐隊を編制し、9月に所属が第二水雷戦隊と決まりました。

10月、ようやく【藤波】は丁三号輸送部隊の【山城・伊勢・龍田】とトラックへ向かいます。
到着後は輸送任務に就き、11月にはラバウルへと向かいます。
しかしそこで2度のラバウル空襲を受け、相当な被害を受けてしまいます。
僚艦の【涼波】も沈んでしまい、【藤波】も不発ではありますが魚雷を1発受けています。

生き延びた艦はトラック島へ避難することになるのですが、【藤波】は先に脱出していた【阿賀野】が潜水艦の雷撃を受けたという報を受けると、【能代・早波】とともに【阿賀野】の元へ向かいます。
しかし【能代】の曳航索が切れるなどなかなかうまくいかず、最後は【長良】の曳航によって【阿賀野】はトラックまで導かれました。

トラックへ戻った【藤波】ですが、米軍の反攻が始まった影響であちこちでの輸送や護衛任務に就き、年が明けるまで働き詰めとなります。
そして昭和19年/1944年に入ると、【藤波】は呉でつかの間の休息を得ることになりました。
2月に【藤波】は「3206船団」を護衛してトラック島へ戻ります。
輸送船5隻に対して駆逐艦は【藤波】のみ、残りは【海防艦 天草】【澤風】【第三十一号駆潜艇】でしたが、なんとかトラック島付近まで無傷でたどり着くことができました。

しかしあと1日というところで【米バラオ級潜水艦 タング】の魚雷を受けて【暁天丸】が、そして【藤波】らが【暁天丸】の乗員を救助していた中、先行していた【辰羽丸、瑞海丸】が空襲で沈没。
空襲は不幸にもトラック島空襲の余波によるものでした。

【藤波】はラバウルに続きトラックでも大空襲の被害から逃れることができました。
しかしトラックの阿鼻叫喚の光景を目の当たりにした【藤波】の心境は如何程のものだったでしょうか。
【藤波】は損傷した【明石】【春雨】とともに護衛してパラオへ避難。
パラオには他にも難を逃れた艦艇が数多く訪れていました。

到着後、【藤波】はしばし対潜哨戒や護衛任務などに就きますが、そんな日々も長くは続かず、パラオにも空襲の危険が迫っていることがわかります。
【武蔵・高雄】らは一時パラオからダバオへ退避することになり、【藤波】も他の7隻の駆逐艦とともにこれの護衛にあたります。
果たして予見は的中し、パラオを発った翌日に3月30日、31日にパラオは空襲を受けます。
この空襲によってまだ脱出できていなかった【明石】が沈み、米軍がある種最も破壊に重点を置いていた【明石】の歴史はここで幕を下ろすことになりました。
他にもトラック島同様多くの輸送船が沈むことになり、今後の運営や作戦の立案に大きな影響をおよぼすことになります。

一方【藤波】らは、脱出後に【武蔵】が潜水艦の魚雷を受けて小破したため行き先を本土へ変更。
【藤波】も呉で補給を受け、そして貴重となった輸送船の護衛のために再び日本から離れます。
しかし減少が止まらない輸送船と駆逐艦、その補充となるのは敷設艦や海防艦で、戦闘能力の劣化は避けられませんでした。
さらに海中には至るところで潜水艦がはびこり、もはやどの海域も安全に航行できる場所なんて無いようなものでした。
実際【藤波】が護衛していた船団も何隻も輸送船が沈んでおり、そして乗員の救助を優先するために敵潜水艦を減らしにかかることもできませんでした。

6月には思い出したかのように【藤波】が戦闘部隊に任命され、二水戦の一員として「マリアナ沖海戦」に参戦。
しかし結果は大惨敗で、【翔鶴・大鳳・飛鷹】を喪失。
さらに7月には【玉波】が潜水艦の雷撃を受けて沈没。
【藤波】【玉波】の通信が途絶えたであろう場所まで急行しますが、そこには手がかり1つ残されておらず、【玉波】は誰にも看取られずに散っていきました。

【藤波】にとっては貴重な体験となった海戦が終わり、再び主任務になってしまった輸送任務が彼女を待っていました。
8月10日、【藤波】は「ヒ71船団」を護衛。
これは大小合わせて20隻もの船舶を8隻の護衛艦で守るという、これまでも幾度か大規模な船団の護衛を務めてきた【藤波】でも経験したことのない大きさでした。

【大鷹】が先導し、船団はシンガポールを目指します。
しかし道中、荒天により【吉備津丸】が脱落、輸送船は19隻となります。

船団はまず最初の目的地である台湾・馬公に入港。
ここでは船団の再編が行われ、輸送船3隻、給糧艦1隻が馬公に残ることに、逆に護衛部隊には【藤波・夕凪】に加えて【朝風】が編入、さらに海防艦も3隻同行することになり、15隻に対して12隻の護衛艦が就くことになります。

8月17日に馬公を出発、船団はいよいよ潜水艦が跳梁跋扈するバシー海峡に突入します。
しかし案の定潜水艦は船団を標的としており、18日に早速【油槽船 永洋丸】が被雷、【夕凪】に護衛されて台湾へ引き返します。
ともに1隻減少し、14隻と11隻。
ところがこの被害は、序章にすぎませんでした。

18日の夜、天気は悪く、海は時化ていました。
そんな中、大型で対潜哨戒機を飛ばせる【大鷹】が真っ先に狙われます。
これまで輸送船としても対潜哨戒空母としても大きな活躍を見せてきた【大鷹】はこの海域で力尽き、そしてここからうようよと現れた潜水艦が輸送船を食い散らかしていきました。
もはや船団の体は成さず、各々が連携もなくただひたすらに危機から脱しようと遁走します。
しかし輸送船の速度は遅く、そして当然対潜能力は皆無です。
散り散りばらばらになってしまえば、対潜能力のある駆逐艦や海防艦の護衛が行き届きません。
潜水艦にとってこれほど安全に、確実に猟れる獲物はありませんでした。


【輸送船 帝亜丸・玉津丸】
【給油艦 速吸】【油槽船 帝洋丸】が沈み、【輸送船 阿波丸・能代丸】が損傷。
船団が崩壊した今、改めて集結してリンガへ向かうよりも救助が先であり、【藤波】は1日中海上に投げ出された多くの人達を助けに回りました。
やがて無事だった船は皆マニラへ到着。
出発時から半壊した船団は再び編制にメスが入ります。

【阿波丸】は損傷軽微だったため航行続行、無傷の4隻の輸送船に【旭邦丸】が加わります。
護衛には【藤波】と海防艦4隻、駆潜艇1隻の計6隻。
船団はついにマンツーマン護衛となりました。
幸い次なる襲撃はなく、多くの犠牲が出ながらも【藤波】は無事シンガポールへと辿り着くことができました。

一仕事終えた【藤波】ですが、10月には再び大規模海戦が【藤波】を引きずり込みます。
ついに沖縄も台湾も空襲を受けるようになり、日本は決死の覚悟で「レイテ沖海戦」に挑むことになりました。
【藤波】栗田艦隊に属し、【愛宕】や二水戦の僚艦とともにシブヤン海へ突入。
しかしその茨の道はやはり日本に牙を剥き、数多くの艦艇が損傷し、そして沈んでいきます。

【藤波】
も最後の第五次空襲によって損傷しています。

続く「サマール沖海戦」で米軍の小規模な護衛空母艦隊を倒した栗田艦隊でしたが、【藤波】はそこで砲撃を受けて航行不能となっている【鳥海】の救助に向かうことになりました。
【鳥海】の近くには撃沈させた【米カサブランカ級護衛空母 ガンビア・ベイ】の乗員も漂流していましたが、【藤波】は彼らを救うことはできなかったものの、彼らと【鳥海】のまわりを周回し、彼らに向けて敬礼をしています。

【藤波】【鳥海】の乗員を救助し、最後に【鳥海】を雷撃処分してその場を去っています。
【ガンビア・ベイ】の乗員はのちに米軍に救助されますが、この一部始終が今日判明しているのは、誰あろうこの【ガンビア・ベイ】の乗員の証言があるからです。
なぜなら、【藤波・鳥海】の乗員は誰一人として生きて帰ることはなかったからです。

【鳥海】を雷撃処分したあと、【藤波】はさらにセミララ島付近で【早霜】が擱座しているとの情報を得、今度はそちらへ救援に向かいます。
ところがこのか弱い駆逐艦を発見した航空機が【藤波】に群がり、たった1隻で空襲を受けた【藤波】は、奮闘むなしくシブヤン海で最期を迎えます。
【藤波・鳥海】の乗員は、この空襲により全員が戦死してしまったのです。

駆逐艦
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※1 当HPは全て敬称略としております(氏をつけるとテンポが悪いので)。

※2 各項に表記している参考文献は当方が把握しているものに限ります。
参考文献、引用文献などの情報を取りまとめる前にHPが肥大化したため、各項ごとにそれらを明記することができなくなってしまいました。
勝手ながら今は各項の参考文献、引用文献をすべて【参考書籍・サイト】にてまとめております。
ご理解くださいますようお願いいたします。