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漣【綾波型駆逐艦 九番艦】

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起工日 昭和5年/1930年2月21日
進水日 昭和6年/1931年6月6日
竣工日 昭和7年/1932年5月19日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年1月14日
ヤップ島南東
建 造 舞鶴海軍工廠
基準排水量 1,680t
垂線間長 112.00m
全 幅 10.36m
最大速度 38.0ノット
馬 力 50,000馬力
主 砲 50口径12.7cm連装砲 3基6門
魚 雷 61cm三連装魚雷発射管 3基9門
機 銃 7.7mm単装機銃 2基2挺
缶・主機 ロ号艦本式ボイラー 4基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸

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潮とともにミッドウェー島を砲撃した漣 裏方中心の艦生

【漣】は、【朧】から行われた煙突の長さの短縮に加え、改良された新型缶も実験として搭載されています。
この缶の試験結果は上々で、早速以後の「暁型」4隻に採用されています。
搭載された「暁型」は缶を1つ減らすことができるほどの省エネだったため、1番煙突が明らかに細くなっており、また内部構造も大きく変化しました。

【漣】は竣工後に第七駆逐隊に入ることはなく、飛び飛びで【狭霧】【暁】と第十駆逐隊を編制しています。
「日華事変」や北部仏印進駐では第四水雷戦隊の隷下で活動しますが、昭和13年/1938年4月19日に第四水雷戦隊は一度解隊。
その後第十駆逐隊も解散となり、【漣】は他の駆逐隊に入るのではなく予備駆逐艦や練習艦として日々を過ごしました。

【漣】が第七駆逐隊に編入されたのは昭和15年/1940年4月15日。
第七駆逐隊に編入される前に決まっていたことなのだと思いますが、最後の観艦式となった10月11日の「紀元二千六百年特別観艦式」に第七駆逐隊から唯一参加しています。
昭和16年/1941年9月1日~24日のほんの少しだけ第五航空戦隊に編入されますが、【秋雲】竣工後はその任を【秋雲】が引き継ぎ、すぐに【漣】は第七駆逐隊に復帰。
ですが同じく五航戦に編入された【朧】はそのまま五航戦所属であり続けたため、第七駆逐隊は3隻のままで太平洋戦争に突入しています。
第七駆逐隊の任務は一航戦の護衛となりました。

そんな名誉ある役割を任された第七駆逐隊でしたが、奇襲となる「真珠湾攻撃」に参加することはありませんでした。
あまりにも遠すぎて、航続距離が短い古い艦艇は往復できなかったのです。
空母護衛には「甲型駆逐艦」が就くことになり、【漣】【潮】には別の仕事が与えられました。
ただ、その仕事も結構突飛なものでした。

「ミッドウェー島を砲撃せよ」

半年後には到達できなかった因縁の島に、開戦と同時に駆逐艦だけで砲撃をするというのです。
ミッドウェーもハワイも存在意義は同じであり、アメリカも「ワシントン海軍軍縮条約」失効後に航空基地の計画、整備を進めていました。
日本は駆逐艦でミッドウェーを砲撃するだけでなく、「真珠湾攻撃」後にミッドウェーを空襲することも一緒に考えていて、完成したばかりのミッドウェー航空基地を放置するつもりはないと思い知らせるつもりでした。
海では小さな12.7cm砲も、陸上相手だと戦車ですら持っていない超強力な火砲ですから、砲撃効果は十分あります。

とは言えミッドウェーも補給なしで行ける距離ではありません(片道約4,200km)。
なので行き帰りともに【油槽船 尻矢】に補給を受けながら進むことになり、また当然ながら極限までに省エネを厳命されていました。
11月28日、こっそり2隻は館山を出港し、ひたすら東へ、日付変更線の先にある小さな島、ミッドウェー島を目指しました。

2日に【尻矢】が見つからないのでちょっと慌てましたが、合流後は補給を受けながら予定通り砲撃準備が整います。
そして12月8日18時半ごろ、小さな駆逐艦による艦砲射撃が始まりました。
移動しながら小気味よく砲撃を続ける2隻に対して、アメリカはハワイ同様消火などでてんやわんやでした。
しかもこっちは夜でかつ海上からの砲撃ですから、ハワイのように機銃で反撃することもできません。

一方的に砲撃を行った【漣】【潮】は、約1時間後に攻撃を切り上げて反転、一路日本を目指しました。
実はこの砲撃の際に2隻は【米潜水艦 アルゴノート】に発見されているのですが、2隻は気づかずに素通りしています。
【アルゴノート】は機雷敷設潜水艦であったことから積極的な攻撃行動をとらなかったため、2隻は幸運にも被雷の危機を突破しました。

「マレー作戦」、「真珠湾攻撃」の裏で行われていたミッドウェー島への砲撃を終え、【漣、潮】は第七駆逐隊としての任務に戻り、「蘭印作戦」に参加します。
輸送、掃海、哨戒と駆逐艦の仕事は多く、特にアンボン入港の際は敷設された機雷除去に手を焼いており、第七駆逐隊の掃海活動はありがたいものでした。

昭和17年/1942年2月27日から始まった「スラバヤ沖海戦」は、中心となった第五戦隊のおつきとして船団護衛を行っていたために最初から登場しています。
敵影を発見した際に【漣、潮】【山風】【江風】とともに先行する第二水雷戦隊に合流し、第一次昼戦、第二次昼戦に参加。
とは言うものの第一次昼戦は駆逐艦の出番はほとんどなく、【那智】【羽黒】【神通】の砲撃が大半でした。
第二次昼戦では参戦した第四水雷戦隊とともに敵に肉薄して雷撃を行いますが、編隊の回頭によって全部外れ。
この後四水戦の駆逐艦が突撃戦を行いましたが、【漣】ら二水戦組は雷撃後の退避によって砲撃戦はほとんど行われず、結局燃料不足の影響で【漣、潮】はここで離脱することになりました。
この戦いの中で【漣】は1発だけ被弾しています。

彼女らの活躍はむしろこの後で、海戦で撃沈した【英ヨーク級重巡洋艦 エクセター】の生存者と哨戒活動を行っていた2隻は、浮上している潜水艦を発見します。
【米ポーパス級潜水艦 パーチ】は日本の船団を探しているところだったのですが、現れた駆逐艦を見てすぐさま潜航を開始。
もちろん【漣】らも爆雷でどんどん攻撃をし、この影響で【パーチ】は浸水。
ダメージを負った潜水艦は途端に脆くなり、被害の状況によっては、黙って沈んでいくか顔を出して撃沈されるか、死か死の二択を強いられます。
手ごたえがあった場合、駆逐艦が圧倒的に有利になります。

2隻は粘り強く待ち続け、耐え切れずに浮上してきた【パーチ】に対して今度こそ上がってこれなくするために再度砲撃と爆雷をお見舞いします。
その後再び潜航した【パーチ】からは、燃料と気泡が漏れ出しているのが海上から確認できました。
だいたい潜水艦の撃沈の証拠になりそうなものが目に付いたことから、2隻は【パーチ】の撃沈を確信し、撤退していきました。

この時実は【パーチ】は辛うじて生き残っていたのですが、潜航深度は浅いしエンジンも1基しか使えない状態で満身創痍でした。
結局翌日早朝に再び【潮】らに発見されたことで、【パーチ】は自沈処分されています。

4月に入って2隻は整備入渠。
その間に第七駆逐隊は新たに第一航空艦隊第一〇戦隊に配属されました。
入渠明けの翌日に、快勝ムードの日本に水を差すように、むしろ水を差すために行われた「ドーリットル空襲」に遭遇します。
アメリカの思い切った行動に対して日本は空母を探すように、慌てて【漣】ら近くにいる船を搔き集めて出撃させますが、当然見つかるわけがなく空振りに終わっています。

連合軍の反撃を受けた日本は、米豪遮断の重要な拠点としてポートモレスビーの攻略を目指してしました。
そのために各空母が派遣され、【漣】【祥鳳】を護衛してトラック島を目指し、そこから南下して攻略作戦に参加することになっていました。
5月6日、【祥鳳】は第六戦隊と【漣】に護衛されてショートランドを出撃。
しかしこの時日本は敵機動部隊の動向を正確に把握できておらず、そんな中で7日、先に【祥鳳】【米ヨークタウン級航空母艦 ヨークタウン】【レキシントン】に発見されてしまいます。
小型空母の【祥鳳】に対して敵は巨大なアメリカの主力空母。
圧倒的に不利な対面の為、【祥鳳】はすぐさま撤退を開始します。

ここに「珊瑚海海戦」が勃発したわけですが、初日は海戦というより逃げの一手です。
第一波、第二波と攻撃を回避した【祥鳳】でしたが、休む間もなく次々と敵機が飛んできます。
【祥鳳】搭載の【零式艦上戦闘機】はたった9機で、いくらまだ【零戦】無敵時代とは言え数の差はそう簡単には覆りません。
しかも護衛の艦は護衛とは言うもののそれにふさわしい能力を保持しておらず、小さくて少ない機銃をパンパン撃つことしかできません。
結局多勢に無勢で【祥鳳】は一方的に攻撃され、沈没してしまいました。

【祥鳳】の乗員の救助に駆けつけるも、我先にと元気に泳いできたものほど、到着した途端に沈んでいく様子が次々と発生したことで、救助する側もされる側もとにかく忍耐が求められる困難な救助作業となりました。
【漣】は翌日の戦いで大破した【翔鶴】を護衛しながら日本に帰っていきました。

その後打って変わって北方のダッチハーバー空襲に参加しますが、「ミッドウェー海戦」で大敗北を喫した後は再び南に戻り、まずは【大和】【八幡丸】を護衛してトラック島へ向かうことになりました。
ですが途中で【曙】【八幡丸】がラバウルへ向かったあと、8月28日に【大和】【米ガトー級潜水艦 フライングフィッシュ】から発射された魚雷を1本受けてしまいます。
【大和】が魚雷1本程度で沈むわけないので無事にトラック島に入港できましたが(当たり所はかなり悪く、めちゃくちゃ浸水した)、【漣、潮】らの爆雷で【フライングフィッシュ】を沈めることはできませんでした。

ここから外南洋部隊に配属となって数度鼠輸送を実施しますが、23日から鼠輸送に使われる駆逐艦が入れ替えになり、【漣】【潮、曙】とともに【大鷹】を護衛してトラック島を目指してしました。
ところが28日にトラック島を目前にしてまたも潜水艦の襲撃を受けてしまいます。
【米タンバー級潜水艦 トラウト】の魚雷が【大鷹】に命中しましたが、幸い14ノットとほどほどの速度がまだ出せましたから、なんとかトラック島まで逃げ切りました。
応急修理を行った後、【漣】は今度は【時津風】とともに【大鷹】を護衛して日本に戻っています。

その後【漣】「大鷹型」3隻の護衛任務や船団輸送を数々こなし、日本からトラック、カビエンを何度も往復します。
昭和18年/1943年4月11日にトラック島付近で触礁してしまいスクリューを損傷してしまいますが、ちゃっちゃと日本で修理して任務に復帰。
ですが護衛ばかりの任務にも終わりの時が近づいていました。
6月30日から始まった「ニュージョージア島の戦い」で日本は劣勢の中奮闘していましたが、アメリカはニュージョージア島のすぐ北西にあるコロンバンガラ島の守備隊を直接叩くのではなく、さらにその奥にあるベララベラ島を制圧し、挟み撃ちにして無力化することを目論んでいました。
ベララベラ島制圧は、加えてショートランドやブインのあるブーゲンビル島にも近く、日本にとってもコロンバンガラ島とあわせて絶対落とせない場所でした。
しかし8月15日に連合軍が上陸を開始したことで、日本は慌ててベララベラ島へ戦力を送る必要に駆られました。

この輸送作戦の旗艦に【漣】が選ばれ、【浜風】【磯風】【時雨】とともに上陸用舟艇を護衛して17日にラバウルからベララベラ島を目指して出撃。
しかし同日夜に連合軍の上陸部隊を護衛していた4隻の「フレッチャー級駆逐艦」と遭遇し、砲雷撃戦に突入します。
この「第一次ベララベラ海戦」では日米とも戦闘艦への戦果は薄く、舟艇が数隻沈没した程度で輸送は概ね成功します。
ところがこの後の輸送が悉く妨害され、敵の数は増えるのにこっちの数は全然増えないから勝ち目なんてありません。
実は輸送前からニュージョージア島もコロンバンガラ島も放棄することが決まっており、これは敵の進軍遅延のための輸送だったので、ブーゲンビル島の守備強化のため撤退作戦が次々と始まりました。

9月に入ると【漣】は、途中入れ替わりはありましたが何隻かの船を護衛して日本に回航されて修理。
24日、修理が完了してすぐに、【米バラオ級潜水艦 カブリラ】の雷撃を受けて航行不能になった【大鷹】の救援の為に出撃します。
この時【冲鷹】【大鷹】を曳航して日本を目指しており、もともと護衛をしていた【島風】と、同じく派遣された【白露】に守られて【大鷹】は横須賀まで逃げ延びました。
【大鷹】は3本の被雷の他にも複数の不発魚雷痕が残されており、まさに九死に一生を得た生還でした。

12月3日、荒天の中八丈島東方を【瑞鳳】【雲鷹】【冲鷹】ら輸送隊が進んでいました。
しかしその姿をレーダーで発見した【米サーゴ級潜水艦 セイルフィッシュ】の雷撃が【冲鷹】に命中し、【冲鷹】は落伍してしまいます。
そこにさらに複数の魚雷が命中し、【冲鷹】は沈没。
これに対して【曙】が爆雷攻撃を行いますが【セイルフィッシュ】を追い払うに留まり、【漣】【浦風】により救助が始まりました。
ところが真夜中で荒れた波の中では救助も困難を極め、甲板上で漂流者を引き揚げる乗員も命綱を締めなければならないほどの状況でした。
当然短艇なども降下させることができず、戦死者は1,250名にのぼると言われています。

その潜水艦は、【漣】にも牙を剥きます。
昭和19年/1944年1月12日、【漣】【曙】とともにラバウルを出港し、パラオからトラックへ向かう輸送船の護衛に加わることになりました。
この船団はすでに【早波】【島風】【日本丸、建洋丸】を護衛していて、途中で【国洋丸】とこの4隻と合流する予定でした。

ところが【国洋丸】との合流予定日だった14日、合流地点に差し掛かったところで【漣】左舷側から1本の白い波が一直線にこちらに向かっていることに気付きます。
間違いなく魚雷です。
慌てて「面舵一杯」が叫ばれますが、目に映った計5本の魚雷のうち3発(2発?)が【漣】の左舷に命中。
艦橋の直前がぶった切られ、また2番砲塔付近でも同様に断裂し、あっという間に【漣】は頭尾を失います。
艦首艦尾は早々に転覆し、そして残された胴体部分も後方から沈み始めました。

【漣】の命を奪ったのは、【天龍】【大潮】【大鳳】を撃沈した【米ガトー級潜水艦 アルバコア】でした。
ここでは【スキャンプ、ガードフィッシュ】を含む3隻のウルフパックが待ち伏せしており、【漣】は最初の餌食になってしまったのです。

たった2分半ほどで【漣】は沈没。
同行していた【曙】により救助が行われましたが、154もしくは160名が救助、80~90名ほどが戦死しました。
しかし船団の危機は当然これで留まらず、 【日本丸、建洋丸】も撃沈され、結局3隻を失って輸送船は【国洋丸】だけになってしまいました。