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【松型駆逐艦 桑】
Kuwa【Matsu-class destroyer】

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起工日昭和18年/1943年12月20日
進水日昭和19年/1944年5月25日
竣工日昭和19年/1944年7月25日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年12月3日
第七次多号作戦
建 造藤永田造船所
基準排水量1,262t
垂線間長92.15m
全 幅9.35m
最大速度27.8ノット
航続距離18ノット:3,500海里
馬 力19,000馬力
主 砲40口径12.7cm連装高角砲 1基2門
40口径12.7cm単装高角砲 1基1門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 1基4門
機 銃25mm三連装機銃 4基12挺
25mm単装機銃 8基8挺
缶・主機ロ号艦本式缶 2基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸
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竹の大活躍の一方で、集中砲火で瞬殺された桑

「松型」五番艦として誕生した【桑】は、就役後すぐに旗艦を任されることになります。
当時は所属していた第十一水雷戦隊の旗艦は【長良】でしたが、【長良】は沖縄から疎開者を鹿児島へ輸送する輸送任務に就き、その留守を最初は【扶桑】が預かっていました。
しかしすぐに【桑】に変更になり、8月3日から30日に【多摩】に引き継ぐまでと、訓練を受ける側の船が1ヶ月近く旗艦に座っていました。

昭和19年/1944年9月15日時点の兵装
主 砲40口径12.7cm連装高角砲 1基2門
40口径12.7cm単装高角砲 1基1門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 1基4門
機 銃25mm三連装機銃 4基12挺
25mm単装機銃 12基12挺
電 探22号対水上電探 1基
13号対空電探 1基

出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年

20日には対潜機動部隊である第三十一戦隊が新編され、旗艦に【五十鈴】が据えられましたが、訓練中の【桑】はまだこの部隊には編入されません。
10月4日に第三十一戦隊の指揮下に入るのですが、これも指揮下に入るだけで、依然として所属は第十一水雷戦隊のままでした。
そしてその所属のまま、【桑】は最も過酷な戦場へと借り出されることになります。
「捷一号作戦」が発動され、多くの艦がフィリピンへ向かうことになったのです。

第三十一戦隊はこの中で囮となる機動部隊、通称小沢艦隊の一員として出撃することになりました。
本来はこの役割は第五艦隊が担うはずだったのですが、第五艦隊は事実誤認も甚だしい「台湾沖航空戦」の大勝利に合わせ、ヘロヘロになったはずの敵機動部隊を仕留めに行くために日本におらず、第三十一戦隊がその代役となったのです。
そして第三十一戦隊(この時旗艦は【大淀】)の【桑】は当然として、他にも【多摩】【秋月】なども機動部隊付きとして参加しています。
小沢艦隊は空母という御馳走を引き連れて、10月20日に豊後水道を出撃しました。

艦隊を構成する船はなかなか立派な小沢艦隊ですが、ちょっとだけ艦載機を載せているだけの全く怖くない空母たちですから、最初から勝てる、いや勝つつもりもなかった「エンガノ岬沖海戦」で、小沢艦隊は発見された後に目論見通り徹底的に殲滅されます。
【桑】【瑞鳳】護衛として猛攻を耐え凌ぎましたが、便利屋空母として表に裏に駆けずり回った【瑞鳳】もこの海戦で沈没。
847名もの【瑞鳳】乗員の命を救った【桑】でしたが、これでもまだ要救助者は多く海に取り残されており、食料や水を目一杯載せたカッターを置いていくのが精一杯。
「松型」の航続距離は短いです、満載の状態で長く留まると自分自身も燃料切れで立ち行かなくなります。
機動部隊は消失し、【桑】は本隊である栗田艦隊の勝利を願いながら30日に呉へ帰投しました。

「エンガノ岬沖海戦」の激戦では、【桑】は大怪我こそしなかったもののあちこち損傷をしていたため修理が行われました。
しかし対空兵器として重要な四式射撃装置は故障し、さらに1番砲も電気系統の故障により電気照準ができなくなっていました。
にもかかわらず、【桑】は全く修理を受けることなく、すぐに次の任務に引っ張り出されます。

11月5日に第三十一戦隊は、唯一大きな損傷のない戦艦姉妹【伊勢】【日向】らとともにH部隊を編成。
そしてこのH部隊には、第三十一戦隊の影響下にある【桑】【杉】も加入することになります。
マニラへの輸送を主眼に、【五十鈴】【霜月】「松型」5隻(他【梅】【桃】【桐】)はマニラを目指して出発しました。

しかし13、14日にマニラは大空襲を受けて数多くの艦船が沈没、損傷します。
この報告を受けて一行はマニラへの入港を延期し、いったん南沙諸島に入り時を過ごしました。

待機中の15日、【桑、杉】【樅】【樫】【檜】の5隻は第五十二駆逐隊を編成します。
ただ「松型」は駆逐隊としての行動は非常に稀で、訓練を終えた駆逐艦が順番に編入されていくだけのような感じです。

2日間に渡るマニラの空襲は相当酷く、多くの大破着底艦をはじめ大量の被害を出しました。
この結果を受けてマニラの機能は最小限に留め、各艦の撤退が決まります。
またブルネイにいた栗田艦隊も日本に引き揚げることになったため、H部隊も計画変更に合わせて分裂することになります。

しかし分裂したとは言え、マニラに行く船がゼロになるわけではありません。
最小限の機能とはすなわち、レイテへの輸送機能であり、つまり「多号作戦」を行う船だけはマニラに行かなければならないのです。
しかも【桑】は本来ならマニラ組ではなかったのですが、【桐】がH部隊として馬公に立ち寄った際、抜錨後に強風に煽られた結果触礁してしまっていて、その被害があまり芳しくなかったので【桑】は代役となったのです。

18日、【桑】【五十鈴、桃、杉】と一緒にマニラに到着しました。
(※着日は18日の他に15日の記録もある。南沙諸島~マニラは3日もかかる距離じゃないし、14日に避難した後当日~翌日に出撃するにしては、各部隊との調整や行き先変更の段取りが早すぎる。)
しかし輸送に参加するのは遅れてやってきた【竹】のほうが早く、【竹】は24日に第五次輸送部隊第二梯団としてマニラを出発。
【桑】が命令を受けたのがどのタイミングはわかりませんが、【桑】は第七次輸送部隊の一員となることが決まります。

やがて26日に【竹】が戻ってきましたが、その姿は人目でわかる大怪我ではないものの、至るところがズタズタで、血痕弾痕が無数に刻まれていました。
「多号作戦」の過酷さは無言でも伝わってきました。
そしてこの【竹】をもう一度オルモック湾へ向かわせるのですから、敵どころか味方も全く容赦のない作戦でした。
【竹】の相方になる【桑】も、気合を入れるとともに血の気が引くのを感じざるを得ません。

30日、【桑】は最低限の修理を受けた【竹】と、【第9号輸送艦】【第140号輸送艦、第159号輸送艦】とともに第七次輸送部隊第三、第四梯団としてオルモックへ向けて出発。
第一梯団は【SS艇】1隻が座礁したものの2隻がオルモック東のイビルで揚陸に成功し、護衛の【第20号駆潜艇】とともに空襲も振り切ってマニラへ無事に戻っていますが、第二梯団はマステバ島で【米フレッチャー級駆逐艦 コンウェイ、コニー、イートン、シゴーニー】に襲われて全滅しています。

一方アメリカは、最初は空襲メインでしたが何度もやってくる命知らずの日本軍に対して、夜間でも即応できるように魚雷艇や駆逐艦も配備するようになっていました。
第六次輸送部隊を攻撃したのは魚雷艇でしたし、そしてこの時オルモック湾周辺を警戒していたのは【米アレン・M・サムナー級駆逐艦 アレン・M・サムナー、モール、クーパー】の最新鋭駆逐艦3隻で、敵艦との殴り合いを想定していない「松型」にとっては天敵でした。

12月2日、上空に【B-24】が数機やってきました。
しかしこれまで遠慮のない空襲で何十隻の艦船が焼き尽くされてきたのにもかかわらず、この時の【B-24】は触接を続けるだけで、援軍が来ることもありませんでした。
ホッと胸をなでおろしますが、しかし発見されたことには違いありません。
今夜もオルモックは赤く染まるのか、【桑】は無言のまま進み続けます。
当然ですが、アメリカはこの触接による情報で3隻の駆逐艦を差し向けるわけです。

しかし3隻の駆逐艦は、オルモックへ向かう途中にセブ島から飛来した【月光】【瑞雲】の攻撃受けていました。
小規模とは言え、アメリカがしばらく経験することのなかった、敵機に上空から常に攻撃される苦しみを3隻は味わいました。
この攻撃で至近弾を浴びた【アレン・M・サムナー】は小破し、また銃撃によって【モール】は2名の戦死者と22名の負傷者を出しています。

2日22時過ぎ、輸送部隊は被害も受けずに無事オルモックへ到着。
【大発動艇】が物資を懸命に陸上へと送っている間、【竹】は輸送艦の手前に、【桑】【竹】からさらに南東側で湾口周辺で警戒を行っていました。
敵襲を受ける前に退散したいところですが、今や暗闇が身を隠してくれることはありません。
敵駆逐艦には高性能なレーダーがあります。
そして湾の出口付近にいた【桑】は、最初にレーダーに探知されてしまったのです。

空襲を受けながらも【アレン・M・サムナー】達はオルモックに接近。
そしてレーダーで【桑】【竹】を探知したことから、11,000mほどの距離より、まずは手前にいた【桑】への攻撃を始めました。
同時なのか少し早く察知できたのか、【桑】も3隻の駆逐艦の存在を見張員が報告しています。

【桑】はすかさず【竹】へ向けて発光信号を送りますが、敵駆逐艦の砲撃は次から次へと【桑】に襲いかかります。
対してこちらの1番砲は電気系統の故障が放置されたままだったので、正確性に欠ける砲側照準で抵抗するしかありません。
余りにも不利でした。

3隻の砲塔は全て【桑】を沈めんと火を噴きますが、【桑】は動けるうちに何としても魚雷を発射しなければなりませんでした。
【桑】【竹】も、水上艦と戦うには魚雷で黙らせるしかありません。
高角砲もありますけど、正面に指向できるのは1番単装砲の1基のみで、しかも前述していますが【桑】のそれは砲側照準なので半分感覚です。
連装砲2基を前方に砲撃できる駆逐艦が3隻ですから、12門の機械照準対1門の人力照準では勝負になりません。

どうやら【桑】の魚雷発射は行われたようで、後述するように発見された【桑】の魚雷発射管には魚雷はありませんでした。
その魚雷は【アレン・M・サムナー】が発見したようですが、命中することはありませんでした。
虎の子の魚雷が命中しなかった以上、【桑】の勝ち目はなくなります。

絶え間なく発射される砲弾が【桑】を貫き、わずか9~10分で【桑】は炎上沈没。
【桑】はまともに戦うことともできず、蹂躙されて沈んでいきました。
しかし【桑】は逃げるでもなくむしろ敵に向かって突撃しており、駆逐艦としての矜持が行動にも表れています。
1番砲があてにならないため、25mm三連装機銃も唸りを上げており、少しでも反撃をと最後の最後まで戦う姿勢を崩しませんでした。

結果として【桑】は超不利な戦況ですぐに沈んでしまったのですが、【竹】に戦いの準備をする余裕を与えることができました。
その後【桑】の乗員が海の中で見たのは、【竹】が孤軍奮闘して【クーパー】を撃沈、残り2隻を追い返すという番狂わせでした。
この時【桑】の漂流者が【クーパー】の漂流者の近くに流れたため、英語で会話したと軍事研究家のサミュエル・E・モリソン氏は著書で綴っています。

生還した他の艦による救助ですが、【竹】が浸水して傾斜しながらの片舷航行となっていること、そして海戦が終わった時は午前3時を回っていて、空襲から逃げる必要があったことから、残念ながら行われませんでした。
生存者は【第140号輸送艦】が撤退時に降ろしたカッターに8~10数名程度が乗り移ったほか、流された応急角材などに捕まって自力で島まで泳ぎ着いたごく僅かだと言われています。

時は過ぎ、沈没から60年余りの2005年、香港のマンダリン・ダイバーズがオルモック湾で静かに眠る艦艇を発見しました。
撮影された映像から、「松型」にしかない溶接痕と、魚雷が残っていない61cm四連装魚雷発射管が確認され、この船が【桑】であることが確定しました。

駆逐艦
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