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萩風【陽炎型駆逐艦 十七番艦】
Hagikaze【Kagero-class destroyer】

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起工日昭和14年/1939年5月23日
進水日昭和15年/1940年6月18日
竣工日昭和16年/1941年3月31日
退役日
(沈没)
昭和18年/1943年8月6日
ベラ湾夜戦
建 造浦賀船渠
基準排水量2,033t
垂線間長111.00m
全 幅10.80m
最大速度35.0ノット
航続距離18ノット:5,000海里
馬 力52,000馬力
主 砲50口径12.7cm連装砲 3基6門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 2基8門
次発装填装置
機 銃25mm連装機銃 2基4挺
缶、主機ロ号艦本式缶 3基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸
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嵐とともに輸送に明け暮れた萩風

【萩風】【野分】【嵐】【舞風】とともに第四駆逐隊を編成、第四水雷戦隊に所属することになります。
ただ太平洋戦争において、第四駆逐隊は南方部隊に編入された関係で四水戦とは行動を行わず、まずは「マレー作戦」の支援を行いました。

【萩風】【舞風】とともに第二小隊を組み、開戦当日の12月8日には【諾(ノルウェー)商船 ヘリウス】を臨検、直ちに拿捕しております。
ノルウェーはドイツに占領されて亡命政府が成立していた関係上、この時日本とは立場上敵対する国になっていました。
【ヘリウス】は名前を【雪山丸(せつざんまる)】と改められて、日本の貨客船として以後活躍します。

その後「リンガエン湾上陸作戦」やジャワ島攻略に向けた各作戦や空襲など、「蘭印作戦」のど真ん中で支援を実施。
機動部隊の大活躍を肌で感じながら、日本の快進撃を支えました。

そして極めつきが4月5日からの「セイロン沖海戦」です。
この海戦は第四駆逐隊の【萩風、舞風】、つまり第二小隊だけが参加しており、イギリスの東洋艦隊をアジアから追い出すためのものでした。
コロンボ、トロンコマリーの両基地を攻撃し【英空母 ハーミーズ】を撃沈するなど、機動部隊はここでも八面六臂の大活躍を見せます。
しかしこの戦闘の中で反撃をしてきた英空軍の爆撃が【赤城】を襲い、あわや命中という危機に遭遇しています。
【赤城】は爆撃機の接近に全く気付かず、【零式艦上戦闘機】の活躍によって事なきを得たのですが、この時【萩風】も対空射撃を行ったことが記録されています。

「セイロン沖海戦」によって東洋艦隊は当面の間脅威ではなくなりました。
ですがイギリスも尻尾を巻いてヨーロッパに逃げ帰ったわけではなく、ひとまずアフリカまで引き返しただけでした。
これに対して日本はまた出てこないか睨みを利かせる必要があったわけですが、今後は主作戦が対アメリカとなった関係上、東洋艦隊を壊滅させるような動きは今度も見られませんでした。
なのでドイツとイタリアはこの東洋艦隊を放置するような対応の日本に不満を持っていました。
そりゃ日本が追い出した結果ヨーロッパに帰って来られたら溜まったもんじゃないわけです。
でも日本みたいな小国が二正面作戦できるわけないので、このあたりでも枢軸国の連携はグダグダしてます。

第五航空戦隊を護衛して台湾に向かい、そこから日本に帰ってきた【萩風】
次は東だとターゲットをミッドウェー島に定め、第四駆逐隊は南雲機動部隊警戒隊の指揮下に入り「MI作戦」が始まりました。

ただこの前は運よく【赤城】をビックリさせるだけだった空襲は、今度は3隻の空母に次々に襲いかかりました。
いつも通り【零戦】が上空の敵をバタバタ仕留めていたのですが、雲の隙間から突っ込んできた爆撃隊への対応が遅れてしまいます。
この結果、「ミッドウェー海戦」で初めて敵に自由に爆撃投下を許してしまい、そしてそれが見事に飛行甲板を火の海に変えたのです。

【萩風、舞風】が護衛していたのは【加賀】ですが、【加賀】には最も多くの爆弾が降り注ぎました。
回避にも限界があり、【加賀】からは大きな衝撃に続いて真っ赤な炎、そして黒煙が立ち昇ります。
爆弾や魚雷の誘爆もすさまじく、艦の側面をぶち破って炎が噴き出し、生存者がいるだけでも奇跡だと思えるほどの惨状でした。

それでも生き残った乗員は、炎の浸食が及んでいなかった艦前後の先端部に集まり、【萩風】【舞風】が賢明な救助を開始。
【加賀】はこの後沈没するわけですが、これまで見たこともない帝国海軍の悲劇を目の当たりにしながらも、一人ひとり駆逐艦に引き揚げて行きました。

そこに現れたのが、すでに日本の艦隊にちょっかいをかけて反撃を受けていた【米ナワール級潜水艦 ノーチラス】です。
【ノーチラス】は午前中に【霧島】を狙って魚雷を放っていたのですが、【嵐】が反撃をして【ノーチラス】は潜ることで攻撃を回避していました。
そうこうしているうちに日本がぼっこぼこにされたので、再び【ノーチラス】が顔を出してきたのです。

ただ【ノーチラス】の攻撃は今回もうまくいかず、1本が発射失敗、1本が【加賀】に命中したものの不発に終わりました。
【萩風】【舞風】【ノーチラス】に向けて爆雷を投下しますが、爆雷は海面に大きな水柱を上げますから、生存者の近くでは投下することができません。
攻撃には限界があり、追い払うことはできましたが状況的に深追いはできませんでした。
この攻撃こそ失敗に終わったものの、この後太平洋戦争では【ノーチラス】にはさんざん暴れられるので、逃がした魚は大きかったわけです。

【加賀】【蒼龍】が沈んだのちも、旗艦の意地なのか、【赤城】だけはまだその巨大な姿を真っ赤に染めながらも浮かび続けていました(【加賀】【萩風】の雷撃による処分説もあり)。
【萩風、舞風】【赤城】に付き従う【嵐、野分】と合流し、【赤城】の監視を続けました。
灼熱地獄となりながらも未だ沈没する気配のない【赤城】に対する処遇は決まらず、また海戦そのものも【飛龍】が孤軍奮闘しており、4隻は命令を待つしかありませんでした。

その後【飛龍】も攻撃に耐えきれずに力尽き、連合艦隊は「ミッドウェー海戦」の敗北、とんでもない大敗北を受け入れます。
そして【赤城】も敵に囚われることを避けるために自沈処分が決定しました。
4隻が【赤城】を沈めるために魚雷を放ちます。
これまで煌々と輝き続け、日の丸そのものと言っても決して過言ではなかった【赤城】
その【赤城】を、皇軍自らの手で沈めることは、どれほど辛かったことでしょう。
【赤城】の死を機に、日本を照らしていた太陽も傾き始めました。

帰路につく中、4隻の空母から救助した大量の生存者は小さな小さな駆逐艦4隻にすし詰め、しかも傷だらけという状態から、戦艦への移乗を要請。
それを受けて【長門】【陸奥】が生存者を受け入れました。
その後第四駆逐隊はもう1つの作戦である「AL作戦」の支援に向かう部隊に編入され、帰国の前に北へ向かいました。
しかしこちらへの敵の即応がなかったことから、作戦もアッツ島、キスカ島の占領を最後に中止となり、部隊も日本に引き揚げることになりました。

帰国後、第四駆逐隊は第十戦隊に編入されます。
その後、「MI作戦」の中でミッドウェー島に上陸する予定だった一木支隊がグアムにほったらかしになっていることから、それを引き揚げる必要がありました。
その引き揚げ任務に【萩風】【嵐】が選ばれ、2隻は【ぼすとん丸、大福丸】とともにグアムに向かい、部隊を乗せて8月7日に日本へ向けて出発しました。

が、ここまでグアムに残されていることが一木支隊の運命を大きく変えることになります。
ちょうど「ガダルカナル島の戦い」が始まってしまい、日本は奪われたヘンダーソン飛行場を取り返さなければならなくなったのです。
ただこの時はアメリカの戦力は大したことはないと高を括っていて、日本はこの一木支隊でヘンダーソン飛行場にいるアメリカ軍を駆逐することにしました。
これに伴い【萩風】達の進路もトラック島に変更、そこで先遣隊900名が選ばれ、【萩風、嵐】【陽炎】【谷風】【浜風】【浦風】の6隻は18日にガダルカナルに到着、一木支隊が続々と上陸していたました。

ところが彼らは「イル川渡河戦」によって壊滅させられ、ここから日米の激しい消耗戦が半年にわたって続くことになります。
一方輸送を終えた6隻ですが、第十七駆逐隊の3隻は「ラビの戦い」に参加するために退却、残り3隻は周辺の敵部隊や舟艇を破壊するために同海域に止まりました。
【萩風】達は魚雷艇や陸上への砲撃を行い、敵戦力のそぎ落としを図ります。
しかしアメリカ側もすぐさま反撃を実施、日が昇ると【B-17】が2機上空に現れたのです。

へなちょこ機銃で【B-17】の撃墜を狙いますが、結局【B-17】に爆撃を許してしまい、しかもそのうちの1発が【萩風】は3番砲塔付近に直撃。
弾薬庫が浸水したのは誘爆や火災が起こらないという面では運がよかったのですが、被弾の衝撃で【萩風】の舵は故障し、また速度は6ノットとかなりの低速になってしまいました。
被弾により戦死者も33名を数えています。
幸い追撃を受けなかったことから【萩風】がこれ以上の被害を受けることはなく、【萩風】は舵を中央に固定させることには成功し、その後【嵐】の護衛を受けてトラックまで引き揚げていきました。
曳航されていないということは、進路変更は恐らくスクリューの調整で行っていたのでしょう。

5日後の24日、ようやく【萩風】はトラックに到着。
調べてみると左舷推進軸にも損傷があり、ずいぶん無茶をしてトラックまで戻ってきたことがわかりました。
【嵐】【萩風】を送り届けてから再度南へ進路をとっていきましたが、【萩風】は当然それに続くことはできず、応急処置を受けた上で日本に戻ることになりました。

その後応急処置に1ヶ月半ほどかかり、11月1日にようやくトラックを出発。
この時【山雲】の護衛を受けて日本に帰っていたのですが、【山雲】が日本から来たのか別の場所から来たのか、またトラックから一緒なのか途中から合流したのか、このあたりが全然わかりませんでした。
【山雲】は9月1日から横須賀鎮守府警備駆逐艦になっていたので、ついでにトラックに向かってその帰りに護衛をすることになったか、護衛のために横須賀から出向いたのかのどちらかだとは思います。

ただこの【山雲】の護衛があったことは非常に大事で、実は【萩風】が痛めていたのは左舷推進軸だけではなく、右舷にも問題を抱えていたのです。
7日、【萩風】の動きが急に止まります。
なんと動かせるほうの右舷スクリューが脱落してしまったのです。
左舷軸は動かせないし右舷はスクリューがそもそもなくなったことで、【萩風】は航行不能となってしまいました。
ですがこれは【山雲】がしっかり護衛していたので本当に助かりました、【萩風】【山雲】の曳航でちゃんと翌日には日本に帰ることができたのです。

こうして日本に無事戻ることができた【萩風】は、浦賀船渠にて修理を開始。
ガダルカナル海域で僚艦が昼夜問わず激しい任務に耐え続ける中、【萩風】は忸怩たる思いであったことでしょう。
修理が終わったのは翌年1月22日。
「南太平洋海戦」も終わってるし、「第三次ソロモン海戦」も終わってるし、「ルンガ沖夜戦」も終わってるし、そして「ガダルカナル島の戦い」そのものも実質終わっていました。
作戦はすでにガダルカナルからの撤退に移っていました。

その最後の作戦である「ガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)」ですが、この作戦では【舞風】が空襲による至近弾を受けてリタイア。
残り2隻も【嵐】が1月に、【野分】が前年12月にそれぞれ至近弾により戦線離脱を余儀なくされ、第四駆逐隊は一時全艦が戦闘不能状態となってしまいました。
なので【萩風】が復帰してからも、【萩風】は第四駆逐隊としての活動はできなかったのです。

2月28日、【萩風】【大波】とともに【冲鷹】を護衛してトラックへ向けて出発。
その後日本に戻ったりラバウルなどの中部ソロモン海域への輸送を任されます。

衝撃的だったのは5月8日でしょう。
この時【萩風】【海風】と行動を共にし、別のグループの【陽炎】【黒潮】【親潮】とともにコロンバンガラ島への輸送を交代で行っていました。
ただ往復路が毎回同じことだったことからアメリカに機雷を仕掛けられ、8日にこの3隻が次々に機雷に触れて、足掻いているところ空襲されて沈没してしまったのです。
唐突な悲劇の報告を受けて【萩風】【海風】は現場に急行、島の周辺を捜索しましたが、発見できたのは内火艇一艘のみ。
そこに姉たちの姿はどこにもありませんでした。
島が近かったので、内火艇以外にも生存者は島からの救助の舟艇で助かっているという報告もあり、そこだけが救いだったことでしょう。

ちょうどこのころ【嵐】が戦列に復帰。
すぐに一緒の行動とはなりませんでしたが、7月10日、横須賀からトラックへ向かう第三艦隊を護衛する任務で久しぶりに第四駆逐隊としての任務を実施。
護衛するのは【翔鶴】ら空母4隻を始め「利根型」、さらには【日進】といった、今や戦艦よりも圧倒的に重要な船ばかりでした。
途中潜水艦に接近されて魚雷の発射を許すという超危険な場面もあったのですが、幸い被害もなく15日にトラックに到着しました。

ただ任務はここからが重要です。
この時大型艦は支援部隊や物資を満載しており、トラックはあくまで通過点。
ここから戦地へ向けてさらなる輸送を行わなければなりません。
空母を除いた船はラバウルへ向かい、さらに【萩風】【嵐】【磯風】とともに【日進】を護衛してブーゲンビル島のブインを目指していました。

この輸送には護衛としてブイン基地から【零戦】も派遣されていましたが、空襲の危険性が高い輸送でした。
そしてその懸念は現実のものとなり、ブインまであと2時間程度という距離で、【萩風】らは敵機の大波に飲み込まれてしまいます。
アメリカはちゃんとこの輸送を暗号解読により把握しており、自分たちの好きなタイミングで攻撃を繰り出してきたのです。

攻撃が集中するのは、当然一番大きく、また輪形陣の中心にいた【日進】でした。
護衛の【零戦】は16機だったようですが、それに対してアメリカがヘンダーソン飛行場からよこした航空機の数は記録では134機となっていて、当然その中に戦闘機もいたわけで、どうやったって【零戦】や自衛だけでは無理がありました。
【日進】は夥しい被害を受けて沈没し、さらにその救助を行おうとする3隻にも容赦なく爆撃雷撃が襲いかかりました。

分が悪すぎる戦いだったため、3隻は救助を切り上げ、まずは輸送を達成させようと急いでブインに向かいました。
ブインで乗員を急いで下ろしたら、身軽になった3隻は取って返して救助活動を再開します。
が、救助中にまたまた敵機が現れて再度3隻に襲いかかりました。
【日進】の二の舞いは避けなければならず、夜間の救助活動は断念されて3隻は撤退します。
結局【日進】から救助できたのは、陸海軍合わせて170名程度で、1,000名以上が戦死してしまいました。
当然貴重な火砲や車輌も海の底、そして何より海軍最速の輸送艦とも言える【日進】の喪失は、何物にも代えがたい痛手でした。

【日進】の沈没と並行し、「ニュージョージア島の戦い」「クラ湾夜戦」「コロンバンガラ島沖海戦」などの激しい戦闘で、日本は第二水雷戦隊司令部と第三水雷戦隊司令部、また多くの船を損失しました。
この影響で外南洋部隊への戦力補填が必要となり、編成としては第四水雷戦隊が第二水雷戦隊に鞍替え、補強の一員として【萩風、嵐】も加わることになりました。
駆逐艦達の指揮は三水戦旗艦となった【川内】が執ります。

7月25日、【萩風】【嵐】、そして【時雨】とともにサンタイサベル島への輸送を実施。
ラバウルに戻ると、今度は【天霧】も加えてブイン経由でコロンバンガラ島への輸送を行います。
この時魚雷艇との戦いが発生したのですが、これを退けて再度輸送に成功します。
しかし帰り道で、不意に現れた【魚雷艇 PT-109】に対して、【天霧】の回避が間に合わずそのまま【PT-109】を轢き潰してしまいました。
航行には問題がなかったものの損傷はあり、結局【天霧】はいったん修理のために離脱することになりました。

その代わりとして加わったのが【江風】です。
コロンバンガラへの輸送は「ニュージョージア島の戦い」の支援のために必要でしたが、守勢に回ってきた影響でコロンバンガラそのものの防衛も重要になりはじめました。
ただ一方で、輸送のスケジュールがかなりパターン化されている現状に不満が出はじめ、輸送の見直しを求める声が噴出。
しかしこういったケースは大体現場の状況を知らない人間が現場の声を握りつぶす典型的なもので、結局上の命令通りに事が進むことになります。
速度差の関係から、護衛として就けられた旗艦の【川内】を早めに隊から離すということだけが、妥協された結果でした。

8月5日に日付が変わると、5隻はラバウルを出撃します。
いったんは偽裁航路をとったものの、【川内】と別れたのちに4隻の駆逐艦は敵機に発見されてしまいました。
この報告を受けて、ツラギから第31.2任務部隊が腰を上げました。
第31.2任務部隊は、異動していった前任のアーレイ・バーク大佐の戦術を試す機会だとして、念入りな準備の下、【萩風】達を迎え撃ちます。

一方の【萩風】達も、呑気な船旅を楽しんでいたわけではありません。
敵機に発見されたことはわかっていたし敵発見の報告もあり、今夜は魚雷の出番があるだろうと高い確証を持っていました。
あとはやるかやられるか、2つに1つです。

日が暮れるとベラ湾付近はスコールに見舞われました。
スコールは雨のカーテンで姿を隠してくれますが、このおかげで偵察機の支援が中止。
頼みの綱は雨間をかいくぐる各艦の監視員の鋭い目でした。

一方第31.2任務部隊ですが、こちらには伝家の宝刀として今後も日本をバッタバッタとなぎ倒すレーダーが活躍します。
レーダーが完璧な性能とは言いませんが、普通の雨ぐらいなら貫通しますし、何よりも先制できる可能性が上がるアドバンテージが強すぎます。
加えて第31.2任務部隊はどれだけ敵に見つからないようにするかを周到に準備しており、わずかな光も漏れないように対策を徹底した上で、絶好の位置から魚雷を次々に発射しました。
第12駆逐群3隻24本の魚雷が、【萩風】らの横から面で襲いかかります。

【萩風】達がこの第31.2任務部隊を発見した時は、もう魚雷はすぐそこまで迫っていました。
魚雷は前から突っ込んでくる場合は回避のしようがありますが、横から扇状に撒かれると回避はかなり困難です。
【萩風、嵐、江風】が、次々に爆音を闇夜に轟かせ、「ベラ湾夜戦」が始まりました。
この時【時雨】だけが、魚雷の深度が深すぎたこと、またのちに1本が命中していたが不発だったことがわかるなど、豪運を発揮して死を免れています。

【江風】は被雷により轟沈、【萩風、嵐】は航行不能となり真っ暗な海に火柱が上がりました。
そしてそこに向けて、魚雷命中前に発見していた第15駆逐群が襲いかかってきたのです。
当然これも作戦通りで、まずは魚雷で足を封じた後に砲撃で敵を破壊するという、極めてシンプルなものでした。
ただこれは常に相手の動向を一方的に把握できる環境でなければ困難で、つまりレーダーをうまく活用できたからこその一方的な盤面となったわけです。

【萩風】【米マハン級駆逐艦 ダンラップ】【米グリッドレイ級駆逐艦 クレイヴン】が放った魚雷1本の命中後、輸送中の弾薬や魚雷に誘爆したことで、さらなる爆発を引き起こして沈没。
【時雨】が魚雷を放ったものの命中はなく、次発装填後も1対6という明らかな不利戦況であることから撤退します。
【萩風】とほぼ同時に【嵐】も沈没し、完膚なきまでに日本の駆逐艦は打ちのめされました。

【萩風】には三水戦先任参謀の二反田三郎中佐が乗艦していましたが、彼はこの戦いで戦死。
第四駆逐隊司令の杉浦嘉十大佐と艦長の馬越正博少佐はベララベラ島まで泳ぎ切り、他にも自力で泳ぎきったり、アメリカの救助で助かった者が合わせて200名以上います。
しかし増援部隊を含めて【萩風】乗員では170名が戦死し、全体でも増援部隊の9割弱が戦死するという有様でした。