起工日 | 昭和10年/1935年11月5日 |
進水日 | 昭和12年/1937年3月15日 |
竣工日 | 昭和12年/1937年10月31日 |
退役日 (沈没) | 昭和19年/1944年10月25日 |
スリガオ海峡海戦 | |
建 造 | 藤永田造船所 |
基準排水量 | 1,961t |
垂線間長 | 111.00m |
全 幅 | 10.35m |
最大速度 | 35.0ノット |
航続距離 | 18ノット:3,800海里 |
馬 力 | 50,000馬力 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 3基6門 |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 2基8門 |
次発装填装置 | |
機 銃 | 25mm連装機銃 2基4挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 3基 |
艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
怪我多く、常に友を失い続けた非業の駆逐艦 満潮
【満潮】は【朝潮】【大潮】【荒潮】とともに、まずは第二十五駆逐隊を編成。
第八駆逐隊となるのは昭和14年/1939年11月に横須賀鎮守府に異動してからで、この編成で太平洋戦争に挑みます。
開戦からは「マレー作戦、リンガエン湾上陸作戦」に参加し、昭和17年/1942年2月20日には「バリ島沖海戦」が発生しました。
この時4隻は【笹子丸、相模丸】を護衛してバリ島への揚陸支援を行っていましたが、空襲を受けたことで被弾した【相模丸】を護衛して【満潮】と【荒潮】が撤退、【朝潮、大潮】は【笹子丸】を護衛しながらいったんロンボク海峡まで避難していました。
夜になって【朝潮、大潮、笹子丸】が揚陸を再開したのですが、そこにABDA連合軍が現れて「バリ島沖海戦」となったのです。
最初の戦闘で第一小隊の【朝潮、大潮】は【蘭アドミラーレン級駆逐艦 ピート・ハイン】を大破に追い込み、数に劣りながらも主導権を握りました。
そして午前3時ごろ、先ほどとは別の艦隊が再びバリ島に姿を現しました。
3隻の駆逐艦と交戦になりましたが(会敵前に1隻が離脱)、ここでは双方命中はなく、第一小隊も敵を見失ってしまいます。
ところが少しすると単艦で移動している【蘭トロンプ級軽巡洋艦 トロンプ】を発見。
同航戦で距離3,000mという近距離で砲撃戦が始まりました。
砲戦で【大潮】も【トロンプ】も被弾し、鬼気迫る戦いが繰り広げられているところに、【相模丸】を護衛していた第二小隊の【満潮、荒潮】が戻ってきてくれました。
第一小隊は【トロンプ】の右舷、第二小隊は【トロンプ】の左舷に位置したため、これで2隻ずつの駆逐艦で挟み撃ちという最高のシチュエーションとなります。
これで一気に【トロンプ】に止めを!
と言いたいところですが、挟み撃ちにしていたのは日本だけではありません。
その第二小隊のさらに左舷には、【トロンプ】との会敵前に砲戦を繰り広げた3隻の駆逐艦【米クレムソン級駆逐艦 ジョン・D・エドワーズ、パロット、スチュアート】が迫ってきていたのです。
また【トロンプ】の後方にも【米クレムソン級駆逐艦 ピルスバリー】が(結果的に)援護に入ってきて、第二小隊は一気にピンチに陥ります。
挟み撃ちをしたと同時に自らも挟み撃ちにされた【満潮、荒潮】ですが、砲撃は【満潮】に集中します。
この戦いの中で【満潮】は右舷機械室付近に砲撃を受け、主蒸気両舷共通弁が破壊されます。
これで全ての缶室の蒸気が行き場を失い、缶室は蒸気があっという間に充満します。
高熱の蒸気に襲い掛かられた機関兵は残念ながら全員戦死し、艦を操作することができなくなったので航行不能となってしまいます。
【満潮】は死傷者64名という大きな被害を出してしまいました。
その後海戦は終結し、日本はバリ島への揚陸を阻止する勢力を排除。
しかし【満潮】は【荒潮】が曳航しなければならないほどの状態であり、さらには夜明け後の空襲により曳航索が切れたりピンチの連続でした。
それでも空襲の被害は幸い甲板や艦底と一部外板の損傷で済み、浸水も発生しましたが大事には至りませんでした。
12日にはその共通弁の応急修理が完了したため、ようやく自力航行を回復してマカッサルまで逃げ切ります。
しかし この空襲では【大潮】も浸水を起こしており、「バリ島沖海戦」で勝利を手にしたものの第八駆逐隊は半壊してしまいた。
マカッサルでの応急修理を経て、【満潮】は5月12日に呉に到着、ここからようやく本格的な修理に入りました。
海戦での被害は【満潮】が断トツで大きいものでしたが、空襲での浸水被害は【大潮】のほうが酷く、【満潮】は【大潮】よりも早く10月20日に修理を完了させます。
そして大激戦となっているソロモン諸島へ向けてすぐに出発しました。
ショートランド泊地に到着後、すぐさま【満潮】は駆逐艦の酷使の象徴とも言える鼠輸送に参加。
荒波を乗り越えて敵の懐に一太刀を入れる駆逐艦の姿はそこにはなく、隠密に徹し、どうか敵との戦いが発生しないようにと願う任務となりました。
しかし一方でこの時期はいよいよもって大一番を仕掛けなければならない窮地であり、ついに11月12日夜、大規模な「第三次ソロモン海戦」が勃発します。
この海戦に【満潮】は参加していませんが、ガダルカナル島奪還のための最後の突撃となったため、たとえ【比叡】を失おうとも勢いを捨てるわけにはいかず、13日に【満潮】達は輸送の準備を行っていました。
ところが出撃前にショートランドが空襲を受けてしまい、【満潮】はまたもや至近弾を受けて大破浸水してしまいます。
結局【満潮】は1ヶ月も経たないうちに再び戦線離脱となってしまい、しばらくはショートランドで待機、戦況が敗北決定的となってあとの12月22日に、【朝潮】に曳航されてトラック島まで引き揚げていきました。
そして応急修理を受けている間の昭和18年/1943年2月21日に【大潮】が、3月3日には【朝潮、荒潮】がともに沈没してしまい、あっという間に第八駆逐隊は【満潮】ただ1隻だけとなってしまいます。
姉妹を誰一人看取ることができなかった【満潮】は、その悲報を受けた後の3月6日にトラック島を出発、横須賀へと帰っていきました。
4月1日、第八駆逐隊は解隊となります。
【満潮】の復帰には、損傷艦の増大や資材不足などが祟って半年かかりました。
11月14日に修理が完了し、またその少し前に【満潮】は新たに第二十四駆逐隊の一員となっていました。
第二十四駆逐隊は【江風】【山風】を欠いた【海風】【涼風】の2隻編成となっており、【満潮】を加えて3隻編成となりました。
しかし最初の任務はこの2隻とは別行動で、【瑞鳳】【雲鷹】を護衛してトラック島へ向かうというものでした。
トラックへの護送は無事に完了、続いて【満潮】は20日もしくは21日に船団を護衛してサイパンへ向かう任務を受けて出撃しました。
しかし21日、一行は【米バラオ級潜水艦 スケート】の網にとらわれてしまいます。
標的を発見した【スケート】は魚雷を発射し、うち2本が【照川丸】に命中。
【照川丸】は搭載していた爆雷が誘爆したことで沈没してしまいました。
年が明けて昭和19年1月、【大和】らを護衛して【満潮】は日本に帰投。
そして今度は3隻の輸送艦を護衛してトラックへと向かうことになりましたが、またしても通商破壊によって被害が出てしまいました。
1月31日、護衛していた【靖国丸】が【米ガトー級潜水艦 トリガー】の雷撃2本を受けて沈没。
最初の雷撃を回避した船団は、【白露】が反撃に出ましたが、【トリガー】はこれをかいくぐって【靖国丸】を仕留めたのです。
貴重な輸送船をまた1隻失った船団は、そのままトラック島へと向かいました。
実はこれと前後して、第二十四駆逐隊にも悲劇がありました。
1月25日に【涼風】が、そして【満潮】がトラック島に到着した2月1日には【海風】もそれぞれ潜水艦の雷撃により沈没しており、またしても【満潮】は一人ぼっちになってしまったのです。
第二十四駆逐隊に配属されたのはわずか3ヶ月前。
潜水艦で沈む日本の船がどんどん増える中、僚艦もまたその餌食になってしまいました。
3月29日、パラオまで護衛してきた【武蔵】が雷撃を受けたことによって日本に帰投することになり、【満潮】は【白露】【藤波】とともにこれを護衛。
帰投中の31日に【満潮】は今度は第四駆逐隊に所属することになりました。
第四駆逐隊は【山雲】【野分】の2隻でしたが、7月には【朝雲】が加わることで4隻体制となります。
その後日本は「あ号作戦」に向けての準備が本格化し、艦隊はタウイタウイ泊地に集結します。
【満潮】もその一行を護衛して訓練に励んでいましたが、タウイタウイでも潜水艦の脅威はぬぐえず、【水無月】【谷風】【風雲】【早波】が相次いで沈没。
さらに「マリアナ沖海戦」では鉄壁の防空網を突破できずに日本の航空機は次々と撃墜され、さらに【大鳳】【翔鶴】【飛鷹】を失う完全敗北を喫します。
【満潮】は「飛鷹型」2隻の乙部隊所属だったのですが、沈みゆく【飛鷹】の乗員の救助にあたっています。
昭和19年/1944年8月20日時点の兵装 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 2基4門 |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 2基8門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 4基12挺 |
25mm連装機銃 1基2挺 | |
25mm単装機銃 12基12挺 | |
13mm連装機銃 2基4挺 | |
単装機銃取付座 2基 | |
電 探 | 22号対水上電探 1基 |
13号対空電探 1基 |
出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年
太平洋戦争の行く末は絶望的なものとなりました。
絶対国防圏は突破され、かつてアメリカから奪ったフィリピンも再びアメリカの手が伸びようとしていました。
そしてついに総力を結集させてフィリピンに突入し、アメリカ軍を駆逐するという「捷一号作戦」が実施されることになりました。
第四駆逐隊は当初は4隻全てがスリガオ海峡を突破する西村艦隊に所属して出撃する予定でしたが、【野分】が栗田艦隊に配属になったことで4隻揃っての作戦とはなりませんでした。
代わって西村艦隊には1隻だけとなり解隊されていた第二十七駆逐隊の【時雨】が加わっています。
西村艦隊の行く末は一筋の光も見えない闇でした。
スリガオ海峡は文字通り島と島に挟まれた海峡であって、つまりまっすぐ進むか引き返すかの2つに1つしか道がありません。
加えて戦艦はこれまで温存に温存を重ねてきた「扶桑型」2隻であり、囮であることが最初からわかっている小沢艦隊よりも過酷な状態でした。
しかも支援の志摩艦隊は出発前からゴタゴタしていて、さらに本隊である栗田艦隊の一時撤退もあって各隊の連携は崩壊。
結局10月24日夜、西村艦隊は覚悟と一抹の諦念をもって海峡に突入しました。
果たして西村艦隊は敵が敷いたレールを突き進むことになり、魚雷艇の襲撃と駆逐艦の雷撃、そしてT字戦法による圧倒的火力の前にひれ伏すことになります。
【扶桑】が被雷し、【山城】が燃え、四方からの魚雷が西村艦隊に襲い掛かりました。
【山雲】は魚雷を受けるや否や瞬く間に轟沈、【朝雲】も魚雷により艦首が破断し、航行不能となりました。
そして【満潮】も【山雲】に続いて魚雷を受け、耐え凌ぐ力もなく【満潮】は沈没。
約230名が死亡、そして別働隊の【野分】含め、第4駆逐隊は一夜にして全滅してしまいました。
ほぼ自殺行為であった「スリガオ海峡海戦」は、反撃の暇もなく決着がつき、【時雨】だけが離脱に成功。
【最上】もやがて力尽き、またあとから追いかけてきた志摩艦隊も【阿武隈】を失うなど散々な有様で、不幸の連続であった【満潮】の太平洋戦争はここで終わりを告げました。