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不知火【陽炎型駆逐艦 二番艦】
Shiranui【Kagero-class destroyer】

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起工日昭和12年/1937年8月30日
進水日昭和13年/1938年6月28日
竣工日昭和14年/1939年12月20日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年10月27日
シブヤン海
建 造浦賀船渠
基準排水量2,033t
垂線間長111.00m
全 幅10.80m
最大速度35.0ノット
航続距離18ノット:5,000海里
馬 力52,000馬力
主 砲50口径12.7cm連装砲 3基6門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 2基8門
次発装填装置
機 銃25mm連装機銃 2基4挺
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 3基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸
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1年以上の修理を乗り越え、危険を顧みず救助に向かった不知火

【不知火】【霞】【霰】【陽炎】とともに第十八駆逐隊を編成し、第二水雷戦隊に配属となりましたが、開戦から4月までは第一航空艦隊に所属しています。
「真珠湾攻撃」では9隻しかいない駆逐艦の一角(第十八駆逐隊と第十七駆逐隊、そして【秋雲】)として出陣し、不要物をできるだけ下ろして広い太平洋の波に揺られてアメリカの要衝ハワイ島の奇襲に加わりました。
その後も機動部隊の大活躍を支える仕事を発揮し、ラバウル攻略やポートダーウィン空襲などに参加しています。
ポートダーウィン空襲後の2月21日、22日に潜水艦らしきものを発見して爆雷を投下していますが、ここでは手ごたえはありませんでした。

3月1日のチラチャップへの空襲の際には国籍不明の商船を発見し、要求をしても国籍を明らかにしなかったために【陽炎】【磯風】【有明】【夕暮】とともに集中砲撃をします。
船の正体はオランダ商船の【モッドヨカード】だったのですが、5隻の駆逐艦で戦闘力を持たない敵船を攻撃し、最後は【不知火】の砲撃で撃沈させました。
ただ結構距離があるうちから砲撃をした結果非命中弾が多かったようです。
国籍を示さないということは自軍の脅威である、後ろめたい存在であるということから、こういうケースで沈没に至ることもあります。

快進撃を進める日本は、続いて「インド洋作戦」の一環としてセイロン島の攻撃を目指します。
太平洋戦争は、ボケーっとしていると東のアメリカと西のイギリスから挟み撃ちにされますから、「マレー沖海戦」もそうですがイギリスの東洋艦隊の戦意を挫くことはかなり重要でした。
敵戦艦撃沈とはなりませんでしたが、「セイロン沖海戦」では【航空母艦 ハーミーズ】【英カウンティー級重巡洋艦 コーンウォール、ドーセットシャー】などの撃沈を含め、コロンボやトリンコマリーの空襲を行って大勝利をおさめます。

ですが日本の連戦ムードに冷や水を浴びせたのが「ドーリットル空襲」です。
4月18日にまさかまさかの双発陸上爆撃機【B-25】を空母に乗せるという荒業で日本が空襲され、「インド洋作戦」から帰投中だった【不知火】達はたちまち【米ヨークタウン級航空母艦 ホーネット】をとっ捕まえろとマラッカ海峡から太平洋方面に駆り出されます。
ですがどう考えても捕まえられるわけがなく、命令は撤回、【不知火】は呉に戻ってきました。

多忙の疲れを癒した【不知火】でしたが、日本は「MI作戦」「AL作戦」でアメリカに次の大ダメージを与えるための準備を進めていました。
この作戦の実施には紆余曲折がありましたが、結局強行することになり、【不知火】も攻撃部隊護衛隊として輸送船を護衛することになり、大艦隊とともに遠路ミッドウェー島を目指しました。
しかし6月5日は多くの仲間の命日となり、そして大日本帝国崩壊の兆しとなりました。
「ミッドウェー海戦」で日本はここまで【不知火】が付き従った【赤城】ら機動部隊を4隻失う大失態。
第十八駆逐隊は【朝潮】【荒潮】が護衛してきた【最上】の護衛に後から加わり、トラック島まで引き揚げました。

「MI作戦」と並行して行われた「AL作戦」ですが、こちらはアメリカの北方諸島を狙ったもので、そこに含まれていたのがアッツ島、キスカ島の占領でした。
大した守備兵力もなかったためにこの2島の占領は非常にスムーズでしたが、「MI作戦」の失敗によって「AL作戦」も頓挫。
日本はこの2島を北の最前線として防衛線を張ることになりました。

とはいえ日本の戦力は海も陸も貧弱で、直ちに破壊されるほどの威力ではないものの、アメリカの反撃もあったことから強化が急がれます。
管轄の第五艦隊に加えて哨戒や輸送のために駆逐艦が派遣され、第十八駆逐隊も【陽炎】を除いて6月28日に横須賀を出港。
【千代田】【あるぜんちな丸】を護衛してキスカ島を目指しました。
ちなみに【陽炎】は行方不明になってしまった【山風】【米ナワール級潜水艦 ノーチラス】により撃沈)の代役として東京湾周辺の哨戒活動を行うことになりました。

道中では潜水艦に襲われることもなく、5隻は7月4日夕方にキスカ島沖まで到着。
しかしこの時期は物凄い霧が発生するため、一寸先は闇ならぬ一寸先は霧、迂闊な行動はできません。
結局揚陸のために【千代田】【あるぜんちな丸】だけがキスカ湾に入港し、「MI作戦」のための出撃から不休の働きを強いられてきた乗員にも一時の休息を与えようと、駆逐隊司令の宮坂義登大佐は3隻の洋上待機を決定。
この濃霧は自分たちを覆い隠す役割も果たすため、霧が晴れない限りは襲撃される危険性も少ないという判断でした。
ですがこの思いやりが、とんでもない悲劇を引き起こします。

もちろん全員ぐっすり寝ていたわけではなく、見張りもちゃんと残っていて、また午前3時には転錨を行う予定も立てていました。
しかしその午前3時よりも前に霧が徐々に晴れ始め、この機を逃さなかった敵は3つの大きな影を発見。
3隻が行動を開始する前に【米ガトー級潜水艦 グロウラー】はすぐさま攻撃態勢に入りました。

次の瞬間、眠気も吹き飛ぶ大爆発音が静寂の海に轟きます。
飛び起きて周囲を見てみると、【霰】が無残な姿で火災を起こしていました。
急いで戦闘配置についているうちに【霞】でも爆発、そしてついに【不知火】にもその衝撃が襲い掛かりました。
【グロウラー】が放った4本中3本の魚雷が1本ずつ各艦に見事に命中したのです。
外れた1本は【不知火】の付近を通り過ぎたとも、【霰】の近くをかすめていったとも言われています。

【霰】は苦し紛れに主砲を視界に入った潜望鏡に向けて砲撃を開始。
ですが【グロウラー】がさらに放ったと言われている魚雷を受けて、【霰】は船体を2つに割って沈没。
追撃はありませんでしたが、【霞】は艦首に被雷、【不知火】は右舷第一缶室付近に被雷したことで3つあるうちの第一、第二缶室が浸水。
さらにこの衝撃で艦尾も屈曲して竜骨も断裂し、2隻とも一時航行不能に陥りました。

【グロウラー】はこの後去っていきましたが、沈没して海に投げ出された【霰】の乗員を救助することができませんでした。
2隻とも全く動けないし、安易にサーチライトなどで周辺を照らして要救助者を探し出すのも危険です。
結局【霰】は104名の戦死者も出してしまいました。
一方で【霞】は10名、【不知火】は3名と、いかにボロボロっであっても船が浮いていることが重要かがよくわかります。

身動きが取れなかった2隻でしたが、【霞】は浸水を食い止めることができて船は安定、【不知火】も浸水していなかった第三缶室の再始動ができたことで、【霞】は後進、【不知火】は前進でキスカ湾を目指しました。
ですがキスカ島の資材だけではとても修理できる被害ではなかったため、本土から修理のための機材と人材の派遣が行われることになります。
修理物資や工員については【長波】が27日にキスカ島まで運んできてくれて、2隻は空襲で大破着底していた【日産丸】の残骸に隠れて修理が急ピッチで進められました。
また1隻任務から外れていた【陽炎】は7月9日に【菊川丸】を護衛してキスカ島まで向かっていて、この時修理物資などを積んでいたかどうかはわかりませんが、【陽炎】はこの後第十八駆逐隊の解隊に伴って第十五駆逐隊に異動となっています。

この修理期間中、事件が起こります。
この襲撃の発端となる命令を下した宮坂大佐が、自責の念に堪え切れずに割腹自殺を試みたのです。
本人の思いは当然、やはり一瞬にして潜水艦のやりたいようにされたことで軍からの非難も多く、生き残っている自分を許すことができなかったのでしょう。
夜間の報告にやってきた将校が、ノックに応対しないことでマスターキーでドアを開けると、そこには腹部から大量に出血し、かつ首を落とすようにか細い声で要求をする宮坂大佐の姿がありました。
発見された宮坂大佐はすぐに【千代田】まで担ぎ込まれて手術が行われ、無事一命をとりとめることができました。

しかし本人の責任の取り方は別として、海軍としてはやはりこの悲惨な結末を迎えた責任者である宮坂大佐をお咎めなしとするわけにはいきません。
1943年3月20日、宮坂大佐は予備役へ編入。
一緒に予備役となったのが阿部弘毅少将西田正雄大佐でしたから、まぁそういうことです。

宮坂大佐の命は救われて、また【霞】の応急修理が終わったことで【霞】【雷】【電】【富士山丸】の曳航リレーで舞鶴に到着。
しかし【不知火】の修理は難航しました。
魚雷の衝撃で破孔は直径約10m、さらにヒビが甲板付近まで伝わっていて、実は【不知火】の船体はその甲板でつながっているだけ、つまり【霰】のようにくの字に折れ曲がりかねない非常に危ない状態でした。
この状態のまま亀裂を再結合することは到底不可能のため、【不知火】はこの亀裂部分で真っ二つに切断し、後部だけで本土に戻る算段となります。
また前部も主砲があることから活用できるとされたのですが、浮力タンクを取り付けたにもかかわらずに切断後に前部は沈没してしまいます。
結局浮き砲台としての12.7cm連装砲は幻に終わり、【不知火】は艦尾から75mと全長の半分少しの長さの状態で曳航されることになりました。

当初は横須賀へ向かう予定でしたが、最終的に【霞】と同じく舞鶴へ向かうことが決定。
また舞鶴への移動手段も、【霞】同様曳航リレーとなりました。
8月15日、【不知火】【電】に曳航されてキスカ島を出港、占守島の片岡湾で曳航は【神津丸】に引き継がれ、遠く舞鶴を目指します。
片岡湾までは護衛として【第26号駆潜艇】も同行しています。

この姿の原因となった潜水艦であったり、空襲を受けることはなかった【不知火】ですが、天候には苦しめられました。
片岡湾を出港した【不知火】【神津丸】でしたが、行く手に現れた台風により波は高くなり、沈没を避けるために2隻は小樽湾に避難することになりました。
ただ波が高い中で曳航しながらの入港は危険だということで、あろうことか【不知火】は曳索を外して単独後進で小樽湾への入港に成功しています。
この見事な操艦に小樽湾では拍手が起こったと言いますが、やってきた存在が船である、ましてや駆逐艦であることを目撃した人はわかったんでしょうかね、だいたい1/3ほどない状態だし。
台風も乗り越えて2隻は9月3日にようやく舞鶴に到着し、ここから1年以上にわたる修理が始まりました。

【グロウラー】から雷撃を受け、修理中の【不知火】

【不知火】の修理が終わったのは昭和18年/1943年11月15日。
ここから短期集中の訓練を行って、翌昭和19年/1944年1月5日に呉を発ちます。
修理の間に電探や機銃増備などの戦訓に基いた強化も受けていて(第三砲塔が25mm三連装機銃2基に換装されています)、まずはパラオなどの輸送任務で復帰しました。
3月1日には【薄雲】【白雲】【霞】のいる第九駆逐隊に編入されたのですが、31日にこれが第十八駆逐隊に改称、【不知火】【霞】はかつての配属に戻ることができました。
ただ残念ながら【白雲】は16日に【米タンバー級潜水艦 トートグ】の雷撃で沈没してしまい、3隻編成となってしまいます。
ちなみに第十八駆逐隊は第五艦隊第一水雷戦隊所属です。

【不知火】達の任務はこの後も輸送や哨戒、護衛といった裏方が続きました。
「あ号作戦」の際にはサイパン島への強襲揚陸が立案されて横須賀に各艦が集まったのですが、6月19日の「マリアナ沖海戦」で日本は完全敗北し、サイパン島は放棄が決定されて作戦も中止。
【不知火】はこの後大湊へ行ったり父島へ行ったりと多忙な任務をこなしますが、7月7日には【薄雲】【米バラオ級潜水艦 スケート】の魚雷を受けて沈没、第十八駆逐隊は2隻だけになってしまいました。

昭和19年/1944年9月2日時点の兵装
主 砲50口径12.7cm連装砲 2基4門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 2基8門
機 銃25mm三連装機銃 4基12挺
25mm連装機銃 1基2挺
25mm単装機銃 12基12挺
13mm単装機銃 4基4挺
電 探22号対水上電探 1基
13号対空電探 1基

出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年

あとがなくなった日本は「捷号作戦」を発動し、フィリピン防衛のための最後の戦いを仕掛ける準備に入ります。
ただ準備はともかく戦況の冷静な分析はもはや誰も行っておらず、10月14日の「台湾沖航空戦」では最大で敵空母11隻を撃沈という、発表する大本営もやりすぎだしその報告を受けた連合艦隊もさすがに疑えよという馬鹿みたいな戦果が数えられます。
そしてこれに気をよくした連合艦隊は、【不知火】ら第五艦隊を要する志摩艦隊に残党処理に向かわせますが、結局後で連合艦隊が大本営の嘘に気づいて命令を撤回。
これは司令長官である志摩清英中将が通信畑出身の少し毛色の違う指揮官であったことから、冷静な敵情分析を行って連合艦隊に報告した賜物のようです。
このまま意気揚々と突っ込んでいけば沈んだ11隻の空母と変わってこちらが海の藻屑になるところでした。
命令では馬公への移動が告げられましたが、志摩艦隊はいったん奄美大島を経由してから馬公に到着しています。

さて、「レイテ沖海戦」ではいいとこなしの志摩艦隊ですが、志摩艦隊は連合艦隊でも色んな意味で扱いに困った存在でした。
連合艦隊は奄美にいた志摩艦隊にマニラへ向かうように連絡し、夕方にまた馬公へ行けと命令を変更していて、この「捷一号作戦」における志摩艦隊の役割を見いだせずにいました。
しかもこの作戦前には志摩艦隊小沢艦隊と訓練を行っていて、もともとは機動部隊の護衛が役目になるはずでした。

第五艦隊はもともと艦隊に強力な戦力がある艦隊とは言えず、途中から加わった【那智】らを含めても戦果戦歴は芳しくない艦隊でした。
「動艦隊(うごかんたい)」とも言われた第五艦隊は、例えば「アッツ島沖海戦」のような消極的な戦闘(司令長官は細萱戊子郎中将)、そして志摩中将自身の慎重な性格など、運用側はこの一大決戦においてなかなか信用できない第五艦隊をどう動かすか決まっていなかったのです。

結局バタバタした末に志摩艦隊からは【初春】【若葉】【初霜】が輸送のために引き抜かれて、また西村艦隊と合流してスリガオ海峡を突破することになりました。
が、そもそも「捷一号作戦」の全体の連携が不十分な状態で各艦隊が行動したので、後付けで作戦に合流する形となった志摩艦隊西村艦隊の連動は無理がありました。

とはいえ仕事は決まりました、志摩艦隊はマニラへの偽装針路をとりながらコロン経由でスリガオ海峡を目指します。
「捷一号作戦」志摩艦隊は出撃の遅れ、栗田艦隊は空襲を受けて反転し、かと思えば「突撃」の命令があったりと前述の通り予定の狂いを調整することができませんでした。
しかし単純な艦隊の速力があったため、志摩艦隊はなんやかんやで西村艦隊まで20海里という距離まで迫っていました。
ところが西村艦隊志摩艦隊の到着を待たず、闇夜の地獄回廊を進み始めたのです。

志摩艦隊が戦場に到着したころ、すでに暗い世界に松明のような大きな炎が上がっていました。
一瞬【山城】らの砲撃で敵が炎上しているのかと思いましたが、それは皆我が方の成れの果てでした。
水雷艇が西村艦隊の時と同じように志摩艦隊にも襲い掛かり、この中で【阿武隈】が被雷。
それでも到達した西村艦隊の決戦の地は、戦場ではなく処刑場となっていました。

さらに【那智】が辛うじて撤退をしていた【最上】と衝突し、艦隊はますます混乱します。
この時【那智】【最上】の正体がわかっておらず、また動いていることにも気づいていませんでした。
後続の【足柄】はそれに気づいていたため、見張りの不備は否めません。

【不知火】達駆逐艦はそんな混乱を尻目に北へ突進し、魚雷を発射。
志摩艦隊もここにきてなお突撃の命令を出し続けたと言います。
しかし乗艦する【那智】が衝突により速力が最大18ノットにまで低下し、さらに眼前に広がるのは一縷の望みもない獄炎です。
士官からの説得もあり、志摩艦隊は撤退を決意。
志摩艦隊はついに敵主力をこの目で見ることなく、地獄門から離れていきました。

しかし海峡から離脱しても制空権から脱したわけではありません。
夜が明けると艦隊は敵機の空襲を浴びます。
【不知火】【那智】らはこの空襲も耐え忍んで逃げ切ることができましたが、砲撃の嵐でかつての姿を思い起こすことができないほどの姿となった【最上】、そして魚雷を受けて這う這うの体だった【阿武隈】が沈没。
生き残り組はコロン湾に集まり、生き残ったものの傷を癒し、死を遂げたものを弔います。

ところが【不知火】にはそのような暇はありませんでした。
レイテ島への輸送を行った【鬼怒】【浦波】が空襲を受け、うち【鬼怒】はまだ航行不能ながらも生存中ということで救助命令が出されたのです。
【不知火】はこの命令を受けて26日夜に出撃しますが、残念ながら指定場所周辺を4時間にわたって捜索したものの、艦影はおろか人っ子一人見つかりませんでした。
夜が明け、【不知火】は捜索を終了、コロンに戻ることになります。

ところがこの後、【不知火】は新たに救わなければならない命を発見します。
栗田艦隊に所属し、損傷のため単艦でコロンを目指していたところで空襲を受け、セミララ島に座礁した【早霜】です。
【不知火】【早霜】の乗員を救助するためにセミララ島へ接近しますが、【早霜】が空襲を受けたということはここは敵制空権の真っ只中。
【不知火】はその大きな網の中に突っ込んでしまい、瞬く間に敵機の爆撃を浴びてしまいます。

実は【早霜】【不知火】の前に、沖合10kmでコロンを目指して航行していた【藤波】が同じような目にあって沈没しているのを目撃していました。
なので【早霜】「ワレ早霜、敵襲ノ恐レアリ、来ルナ」との信号を発し、【不知火】に撤退を求めました。
しかし【不知火】はそれに構わず【早霜】救助のため、沖合1,000m付近から救助カッターを降ろして救助を行おうとしていたのです。

この空襲で【不知火】は猛烈な対空射撃で応戦しましたが、救助のために【不知火】はほとんど停止状態だったために機敏な動きはできませんでした。
速度が上がる前に【不知火】には艦中央部付近に爆弾が命中、その破壊力は凄まじく、次の瞬間には大きな火柱が上がります。
若干の時間差で爆発音が【早霜】にまで届き、その炎の中に映る【不知火】の姿は2つに割れ、徐々に海に没していきました。
【不知火】轟沈、総員戦死。
【不知火】は「レイテ沖海戦」最後の喪失艦となり、そしてこの後も日本は空襲と戦いながらレイテ島へ向けて再び駆逐艦の酷使で戦争を続けていくのです。