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秋霜【夕雲型駆逐艦 十八番艦】

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起工日 昭和18年/1943年5月3日
進水日 昭和18年/1943年12月5日
竣工日 昭和19年/1944年3月11日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年11月13日
マニラ空襲
建 造 藤永田造船所
基準排水量 2,077t
垂線間長 111.00m
全 幅 10.80m
最大速度 35.0ノット
航続距離 18ノット:5,000海里
馬 力 52,000馬力
主 砲 50口径12.7cm連装砲 3基6門
魚 雷 61cm四連装魚雷発射管 2基8門
次発装填装置
機 銃 25mm連装機銃 2基4挺
缶・主機 ロ号艦本式缶 3基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸

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半年の激戦を戦い続けた秋霜

【秋霜】は竣工から即第十一水雷戦隊にて訓練を積むことになりますが、戦況はすでに日本が明らかに劣勢となっていました。
そのため、悠長に訓練に時間を割いている余裕はなく、5月には早速【武蔵・隼鷹】らを護衛して佐伯からタウイタウイへと出発します。
到着後は機動部隊第二補給部隊をダバオまで護衛、そしてダバオ到着後は【響】とともに周辺の警戒にあたっていました。
6月8日には姉妹艦の【風雲】が潜水艦によって沈没させられてしまい、【秋霜】は彼女の乗員の救助をしています。

6月17日に【秋霜】「マリアナ沖海戦」における乙部隊として出撃。
第二航空戦隊などの護衛を務めてこの大決戦に挑んだ【秋霜】でしたが、低い練度と圧倒的な数の差に為す術もなく敗北。
二航戦からも【飛鷹】が失われ、【秋霜】【早霜】らとともに乗員の救助にあたりました。
海戦終結後、中城湾に落ち延びた【秋霜】は、その後重巡4隻とともに本土へ帰投しました。

8月に【秋霜】【早霜・清霜】とともに二代目の第二駆逐隊を編制。
初代第二駆逐隊は「白露型」で編制されていましたが、【夕立・村雨】が沈没したことにより解散されていました。
また同時に、第二水雷戦隊所属となりました。

10月には「レイテ沖海戦」に向け、【秋霜】栗田艦隊に所属することになります。
22日に【秋霜】栗田艦隊とともにブルネイを出発。
栗田艦隊はシブヤン海を突き進む事になりますが、翌23日に【愛宕・摩耶】が沈没、【高雄】が大破と、重要な戦力とされていた重巡洋艦がいきなり3隻失われることになります。
3隻の「高雄型」を仕留めた【米ガトー級潜水艦 ダーター・デース】への反撃もままならず、【秋霜】【摩耶】の救助に向かいました。
700人超の乗員を救い出した【秋霜】でしたが、この人数は当然駆逐艦では抱えきれず、やがて【武蔵】へと移乗しています。

さらに翌日の24日には【妙高】が大破、そして【秋霜】も対空戦で12人の死者を出すなど、どんどん戦力は低下していきました。
そしてあの【武蔵】も、途切れることのない空襲を7時間も耐え抜きましたが、ついに沈没。
不沈艦とされた世界最強の戦艦が、その姿を海の中へと沈めていったのです。

25日の「サマール沖海戦」開始の少し前、【秋霜】【島風】と小規模の衝突をしてしまいます。
若干の損傷はあったもの航行に支障があるものではなく、引き続き進軍し、そして「サマール沖海戦」に突入します。
しかし戦闘による激しい航行に、少しずつその損傷は大きくなっていったのです。
空襲を受けるなど被害が膨らむ中、【秋霜】は浸水していることに気が付きます。
それは先ほど【島風】と衝突した箇所からでした。
幸いその浸水自体は食い止めることはできましたが、僚艦の【早霜】の損傷、さらに翌日には 二水戦旗艦【能代】が沈没するなど、いたるところで僚艦が傷つき、そして倒れていきました。

海戦終了後も、【秋霜】【能代】救援に向かったために単艦でセミララ島へ離脱していた【早霜】が大破着底、さらにそれの救助に向かった【不知火・藤波】の沈没と、耳をふさぎたくなるほどの数の訃報が続出。
【秋霜】はともに【能代】の救助を行った【浜波】とともにコロン湾へと向かいました。

その数日後、マニラに到着した【秋霜】「多号作戦」に参加することになります。
オルモック湾への輸送作戦となる本作戦ですが、11月5日に発生したマニラ大空襲によってやはり参加艦や出撃日程等に計画変更が多く発生。
【秋霜】はこの空襲で航行不能となった【曙】の代役として第四次輸送部隊に参加することになりました。

幸い、第四次輸送部隊に所属する輸送船は高速であったため、護衛する側からしても幾分楽でした。
輸送中もスコールに守られたりするなど、被害は最小限にとどめながらオルモック湾を目指します。
しかしいざオルモック湾に到着してみれば、物資を受け取るはずの【大発動艇】の数がどう見ても足りません。
これは悪天候や空襲によって損傷が多発したためで、これではせっかく物資を持ってきたのにこれでは荷揚げに莫大な時間がかかってしまいます。
しかたなく海防艦を使っての陸揚げが成されましたが、オルモック湾は浅瀬だったため、海防艦でも桟橋にしっかりつけることはできませんでした。
これにより、司令の木村昌福少将は物資の荷揚げを断念。
人員のみの輸送完了後は、撤退することにしました。

しかし、その輸送完了直後に空襲が第四次輸送部隊を襲います。
この空襲によって【輸送船 高津丸・香椎丸】が沈没し、【霞・朝霜・長波】が乗員を救助する一方、【秋霜】は残った【金華丸】を必死に護衛してマニラを目指しました。
しかし11日に再び空襲を受けた【秋霜】は、命中弾を受けた艦首が断裂するなど大きな被害を負ってしまいます。
それでも追いついた【霞】らと合同で、最後に残った【金華丸】を守りぬき、辛うじてマニラまで戻ることができました。

戦場から離脱できたとはいえ、艦首断裂の大怪我をしている【秋霜】です。
当然航行は無茶であり、マニラの地で【秋霜】は修理のために係留されていました。

11月12日、緊急輸送作戦が発令されて【隼鷹・利根・卯月・夕月・時雨】がマニラを出港。
実はここが生死の境になることになるのです。

翌13日、マニラをまたもや空襲が襲います。
12日に出港した面々はこの危機を回避することができましたが、この時湾内にいたのは多くが航行に不安が残る艦ばかりでした。
【秋霜】もそのうちの1隻であることは言うまでもありません。
【秋霜】は1番砲塔付近と後部甲板に計3発の爆弾を受けると、その炎は弾薬庫にまで及び、やがて炎上します。
燃え盛る炎を鎮火させることができなかった【秋霜】は、14日早朝にやがて転覆、着底。
ここで【秋霜】は他の多くの艦とともに一生を終えることになりました。

駆逐艦
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