野分【陽炎型駆逐艦 十五番艦】 | 大日本帝国軍 主要兵器
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野分【陽炎型駆逐艦 十五番艦】

起工日昭和14年/1939年11月8日
進水日昭和15年/1940年9月17日
竣工日昭和16年/1941年4月28日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年10月25日
サマール沖海戦
建 造舞鶴海軍工廠
基準排水量2,033t
垂線間長111.00m
全 幅10.80m
最大速度35.0ノット
航続距離18ノット:5,000海里
馬 力52,000馬力
主 砲50口径12.7cm連装砲 3基6門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 2基8門
次発装填装置
機 銃25mm連装機銃 2基4挺
缶・主機ロ号艦本式缶 3基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸

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拿捕第1号 最新戦艦と2度やりあった野分

【野分】はマル3計画で建造が計画された「陽炎型駆逐艦」15隻のうちの最終艦です。
後のマル4計画によって「陽炎型」はさらに4隻の追加建造が決定しています。

【野分】【嵐、萩風、舞風】と第四駆逐隊を編成し、第四水雷戦隊の所属となりました。
太平洋戦争開戦と同時に南方作戦に従事。
開戦日の昭和16年/1941年12月8日には【諾(ノルウェー)商船 ヘリウス】を拿捕し、帝国海軍の拿捕第1号となりました。

昭和17年/1942年3月には【嵐】と組み、重巡の指揮のもとでオーストラリアへ逃亡を図る連合国軍の通商破壊を行います。
4日間に渡る「チラチャップ沖海戦」の勃発です。
1日は商船3隻、油槽船2隻を沈め、さらに【蘭商船 ビントエーハン】を拿捕します。
2日には【摩耶、嵐】とともに【英駆逐艦 ストロングホールド】を撃沈、さらに3日には【米砲艦 アッシュビル】を沈めています。
そして4日、【愛宕、高雄】ら通商破壊作戦の参加艦が勢揃いで【豪護衛艦 ヤラ】、掃海艇1隻、油槽船1隻、輸送船1隻を撃沈、【蘭商船 チャーシローア】を拿捕。
見事に敵艦艇の退路を断っています。

6月、【野分】ら第四駆逐隊は四水戦から離れ、南雲機動部隊警戒隊に編入され、きたる「ミッドウェー海戦」への準備を着々と進めていました。
しかし情報の錯綜や偵察の不備も重なり、南雲機動部隊は一気に壊滅。
護衛していた【赤城】の乗員を救出し、最後には【赤城】の雷撃処分を任されます(【嵐、萩風】の魚雷によって沈没)。

「ミッドウェー海戦」後は、警戒隊という臨時編成から正式に第十戦隊に編入されることになります。
そして8月からはじまった「ガダルカナル島の戦い」では、「第二次ソロモン海戦」に参加。
【比叡、霧島】の直衛として戦闘を行った【野分】でしたが、戦果を挙げることは叶わず、【龍驤】【輸送船 金龍丸】を失った日本は敗北。
「第一次ソロモン海戦」で大勝した勢いは減退します。

その後も「南太平洋海戦」に参加した以外は、終始輸送任務に徹していた【野分】でしたが、12月に空襲を受けて大きく損傷してしまいます。
至近弾とはいえ、直撃すれすれだったため外板に大穴が空き、機械室が崩壊・浸水してしまい航行不能に陥りました。
【野分】【嵐】に曳航され、【長波】の護衛のもとでトラック泊地まで避難することになるのですが、その最中にも敵襲があり、電源が落ちている【野分】は小銃で対空戦を行うという状態でした。

なんとかトラック島へ到着した【野分】ですが、応急処置には2ヶ月を要しました。
さらに【野分】がようやく内地への回航まで回復した時に今度は1月に【嵐】が空襲によって航行不能。
その【嵐】を曳航した【舞風】も翌月に被弾するなど、第四駆逐隊は【萩風】を除く3隻が戦線を離脱することになりました。

【野分】は同じく損傷し、応急処置を終えた【白露】とともに日本を目指します。
しかしその航路で遭遇した悪天候で【白露】は処置を施した箇所から再び浸水が始まり、急遽サイパンへと避難。
結局【野分】は単艦で本土に戻ることになりました。

5ヶ月近くの修理を終え、ようやく戦列に復帰した【野分】【武蔵】を護衛しながら大勢の艦艇でトラック島を目指し、8月5日に到着します。
ところがその翌日、僚艦であった【萩風、嵐】「ベラ湾夜戦」で米軍の奇襲を受けて為す術なく沈没。
第四駆逐隊は2隻となってしまったため、【山雲】が新たに編入されることになりました。

しかしその新生第四駆逐隊も、半年ほどで崩壊することになります。
「トラック島空襲」です。
昭和19年/1944年2月17日、本来ならば16日出港だった予定が1日遅れたことがこれほどまでに大きな被害につながるとは誰も思わなかったでしょう。
早朝にトラック島に無数の航空機が襲来し、容赦なく爆撃が行われました。
この空襲で、第四駆逐隊では【舞風】が沈没。
【舞風】に座乗していた磯久研磨第四駆逐隊司令(当時大佐)【野分】に救助、移乗を求めましたが、あまりにひどい爆撃の連続にその命令を叶えることができず、【野分】はただ自身が被弾しないことに全力を尽くす他ありませんでした。

やがて水上部隊が現れ、爆撃とは比べ物にならないほどの大きな砲弾が海軍を襲います。
中心には米最新戦艦の【アイオワ級戦艦 アイオワ、ニュージャージー】が君臨していました。
空襲も恐ろしいですが、戦艦の砲弾はわけが違います。
直撃すれば被弾どころか即崩壊するほどの大きさ、威力です。
その超火力とそれに続く重巡、駆逐艦の襲撃を、【野分】は死に物狂いでかいくぐります。
8時間もの激闘の末、【野分】は残弾ゼロ、燃料も枯渇寸前ではありましたが、奇跡的に死者1名のみの被害でこの難局を乗り切りました。
無線機も破壊されていたため連絡が取れなかった【野分】は、満身創痍で横須賀へと帰投しますが、その時に幽霊船扱いをされたそうです。

かつての第四駆逐隊は皆散ってゆき、【野分・山雲】は新たに【満潮】を迎え入れます。
5月には「渾作戦」が発動されますが、その作戦開始前にアメリカがマリアナ沖へと侵攻してきたために作戦は中止。
急遽「マリアナ沖海戦」へと出撃することになりました。
しかし「マリアナ沖海戦」は空母3隻を失うという、「ミッドウェー海戦」に次ぐ機動部隊壊滅の海戦となり、特に最前線に立ち続けた【翔鶴】と今後の機動部隊運用の基軸となるはずだった【大鳳】の沈没は大きな痛手でした。

昭和19年/1944年8月20日時点の兵装
主 砲50口径12.7cm連装砲 2基4門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 2基8門
機 銃25mm三連装機銃 4基12挺
25mm連装機銃 1基2挺
25mm単装機銃 12基12挺
13mm単装機銃 2基2挺
単装機銃取付座 1基
電 探22号対水上電探 1基
13号対空電探 1基
爆 雷

出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年

「マリアナ沖海戦」後、「渾作戦」にともに参加するはずだった【朝雲】が第四駆逐隊に編入、そして10月、「レイテ沖海戦」へと歴史は進んでいきます。
「レイテ沖海戦」は第四駆逐隊の中で最新鋭だった【野分】だけが別行動となり、【満潮、朝雲、山雲】ら途中編入組はすべて西村艦隊に所属しました。
その最後は、様々な艦艇の紹介文の中にあるとおりです。

【野分】栗田艦隊の第二部隊に所属しますが、戦艦を始めとした大規模部隊に叩きのめされた西村艦隊と違い、こちらは潜水艦部隊が栗田艦隊を襲撃します。
これによって【愛宕、摩耶】が沈没、さらに【高雄】が大破し、大型重巡を突如3隻失うという大損害を負います。
さらに翌日の10月24日にはあの【武蔵】が止むことのない空襲によって撃沈、世界一の戦艦すら、航空機には勝つことができませんでした。

悲しむ余裕はありません、まだ艦隊は敵陣にいるのです。
翌日、日本は「サマール沖海戦」に突入、しかしこちらでも重巡部隊が相次いで攻撃を受け、【鈴谷】沈没、【熊野・筑摩】が大破します。
辛うじて自力航行ができた【熊野】は単艦で海域を離脱、その後壮絶なドラマを繰り広げることになります。
一方【筑摩】は航行もできない状態で、【雪風】が乗員の救助に向かうことになりました。
ところが、その命令は撤回、救助には【野分】が向かうことになります。

【筑摩】のもとへ無事到着した【野分】は、乗員を【野分】へと移した後、栗田艦隊に合流するために道中を急ぎます。
しかし、その【野分】を捉えた部隊がいました。
それはあの「トラック島空襲」を行った【米アイオワ級戦艦 アイオワ・ニュージャージー】をはじめとする部隊でした。
あの時は辛くも逃げ切りましたが、さすがに2度目はありませんでした。
レーダー射撃によって【野分】は集中砲火を浴び、最後には駆逐艦の魚雷を受けて大炎上、沈没。
【筑摩】から救助された乗員も含め全員が帰らぬ人となりました。
また、同海域では【鳥海】の乗員を助けた【藤波】も沈められており、2隻で4隻分の命が失われてしまいました。