
起工日 | 昭和8年/1933年11月14日 |
進水日 | 昭和10年/1935年4月5日 |
竣工日 | 昭和11年/1936年8月20日 |
退役日 (沈没) | 昭和19年/1944年6月15日 リアンガ湾北東 |
建 造 | 佐世保海軍工廠 |
基準排水量 | 1,685t |
垂線間長 | 103.50m |
全 幅 | 9.90m |
最大速度 | 34.0ノット |
航続距離 | 18ノット:4,000海里 |
馬 力 | 42,000馬力 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 2基4門 50口径12.7cm単装砲 1基1門 |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 2基8門 次発装填装置 |
機 銃 | 40mm単装機銃 2基2挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式缶 3基 艦本式ギアードタービン 2基2軸 |
初春型の改良型も、未だ発展途上の白露
「特型」が予算不足だったり「ロンドン海軍軍縮会議」の締結だったりといくつかの理由によって建造を断念することになり、代わって軽量型となる「初春型」が建造されますが、その結果は日本の駆逐艦史上でも最悪と言っていい失敗となってしまいました。
トップヘビーによる復原力不足、強度不足、バランスの悪さが災いし、結局「初春型」は「特型」よりも重いのに「特型」よりも攻撃力が劣化、速度も33ノットという平凡な姿に成り下がります。
その後、「初春型」は意外なほど活躍をするのですが、それは後の話。
「初春型」のあれこれは『求めすぎた結果、大損した初春型』をご覧いただきたいのですが、そのあれこれの結果、「「初春型」の問題を解消し、61cm四連装魚雷発射管を積んで速度が出る駆逐艦が必要」ということになって設計しなおしたのが「白露型」です。
本来であれば【白露】以下は「初春型」の7番艦以降として建造予定でした。
「白露型」は「ロンドン海軍軍縮条約」下での建艦計画の第一弾である「マル1計画」(昭和6年度~11年度まで)で6隻の建造が、「マル2計画」(昭和9年度~12年度まで)で4隻の建造が決定します。
しかしこれは歴史を振り返ってみた場合の見方であり、上記のように当初は「白露型」は存在せず、「初春型」(及び「有明型」)計12隻の計画でした。
「マル2計画」に関しても、14隻の計画だったうち10隻が「朝潮型」となっています。
「友鶴事件」発生後、最大で22隻となる可能性があった「有明型」は幻となり(一時艦艇類別等級別表では【有明、夕暮、白露~春雨】までが「有明型」にちゃんと分類されている時がありました)、復原性をしっかり確保した形で「白露型」の建造が決定します。
前述の通り61cm四連装魚雷発射管が完成していたため、これが新型のメインとなります。
ちなみに「白露型」は昭和10年/1935年の「第四艦隊事件」を受けて、設計段階から強度補強を行った【海風】からの4隻が「改白露型」と称されます。
「白露型」で知っておきたいのは、【白露】前後の起工日の関係です。
【有明】の起工日は昭和8年/1933年1月14日、【夕暮】は4月9日、【白露】は11月14日です。
【子日】が昭和8年/1933年8月に公試を行っていて、「初春型」の問題が初めて明るみに出るのはこの頃です。
そして「友鶴事件」が昭和9年/1934年3月12日ですから、これは【白露】起工から4ヶ月後の出来事です。
この時の【白露】は【夕暮】と同じような船体設計に加えて61cm四連装魚雷発射管2基、連装砲3基搭載の武装だったはずです。
つまり、【夕暮】はもう間に合わなかったが、【白露】は起工後4ヶ月で全部チャラにしてもう一回考えなおすことができるギリギリのラインだったということです。
もう少し起工日が早ければ、【白露】も「初春型」に属する可能性もあったのでしょうか。
まずトップヘビーを解消するために艦橋がめちゃくちゃコンパクトになりました。
平面が多く角張っており、指でつまみやすそうなシンプルな形状になっております。
「特型」以来羅針艦橋の上に射撃指揮所や魚雷発射指揮所などが配置されていましたがこれもありません。
羅針艦橋の上にはのちに「暁型」や「初春型」でも改装時に設置された3m測距儀付きの九四式方位盤射撃塔が置かれ、3層構造となっています。
船体にはこれまでの高張力鋼から上甲板などにもDS鋼を用いて電気溶接ができる範囲を拡大し、水線上の軽量化を狙っています。
しかし電気溶接は「第四艦隊事件」で裏目に出てしまい、改修時に張りなおすことになってしまいます。
攻撃力に関してはやはり61cm四連装魚雷発射管2基と次発装填装置の組み合わせが目を見張ります。
「初春型」は改装前の雷撃力が三連装×3+次発装填装置という【島風】を上回りかねない強力なものでありましたが、この威力を発揮する機会を得る前に三連装×2に減じてしまいました。
日本は次発装填装置の開発によって、9射線を忍んで8射線を短時間で2回攻撃できる能力を優先しました。
やっぱり3基は場所を取りすぎます。
そしてこの四連装魚雷発射管が以後【島風】を除いた全ての駆逐艦で採用され続けます。
駆逐艦としてはもちろん初めて、海軍全体で見れば「妙高型」に次いで採用された艦となります。
61cm四連装魚雷発射管には3タイプがあり、「白露型」では2型が使われています。
1型では旋回が人力だったのが機力式に代わり、全周旋回が25秒と即応性に優れ、また15度程度の傾斜でも旋回・発射が可能となりました。
次発装填装置の配置ですが、「初春型」では次発装填装置を置くために艦橋の後ろの構造物は発射管含めてとにかく左右非対称が多く、大変不格好なものでした。
2番煙突は右舷寄り、1番、2番、3番魚雷発射管は左舷、中央、右舷寄りと斜めになり、さらに魚雷発射管の高さも違う。
「吹雪型」であった美しさは武装強化によって徐々に損なわれていき、それが極まったのが「初春型」で、そしてその結果が「友鶴事件」です。
とにかく「白露型」は復原性を確保するのと同時に、バランスを保つためにスマートなデザインとなりました。
魚雷発射管はいずれも中心線上に置かれ、次発装填装置は1番魚雷発射管に対しては2番煙突を挟む形で2本ずつ斜めに、つまり右から2本、左から2本装填する形へ。
2番発射管にはそのすぐ後ろに置かれ、わかりやすい配置となりました。
しかし四連装を搭載するということは、1基あたりの重量が大幅に増えてしまうことが確実視されていました。
開発の段階では造兵部が三連装並みの重量に抑えると約束したそうですが、1本分の追加スペースなり材料なりが全てイコールになるわけもなく、結局1基あたり4tも重くなってしまいました。
まぁ重いから三連装にしようってなっちゃうと「白露型」はほんとに「初春型」を造り直しただけの艦になってしまいますから、重くても四連装を載せるのは致し方ないとは思います。
出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ
主砲は「初春型」と同じく12.7cm単装砲1基連装砲2基の5門となり、2番主砲が単装砲でした。
ただ【有明、夕暮】もそうですが、12.7cm連装砲B型に関しては仰角75度の必要性が重量に見合っていないとのことで、軽量仰角55度の制限を持たせたC型へと変更されています。
間違ってはいけないのは、55度「制限」であり、C型でも75度まで仰角を上げることは手を加えれば不可能ではありません。
単装砲については調べる限りでは2つの説があり、仰角75度のA型改一の仰角を改造して40度に制限した説と、仰角40度制限のB型を搭載した説です。
つまりB型という単装砲が存在したのかどうかという違いです。
少なくとも【白露】のみはA型改一であることがわかっておりますが、見る限りでは【白露】以後はB型搭載説が多い気がします。
主砲でややこしいのは連装砲もです。
なぜか【夕立】の連装砲だけでB型改二なのですが、これもB型改三だという資料もあってはっきりしません。
外観からB型であることは確実なのですが(砲塔後部が丸みがある)、B型改二とB型改三は内部構造の違いによる分類であると思われます。
【夕立】の連装砲2基は【真鶴、初雁】から撤去されたものを使用していて、B型改三の場合はB型改二に加えて方位盤受信装置が新設されているようです。
【夕立】以外はみんなC型を搭載しています。
機銃は変わらず毘式40mm機銃が2挺のみ。
時期的には国内でも【蒼龍】の建造計画が進んでいる時なので、もうそろそろ増強してもよさそうなものですが、重心を下げることを第一とした弊害でしょうか。
ちなみに「改白露型」からは13mm連装機銃2基を搭載したらしいですが、これが初期からなのか毘式40mm機銃から換装されたのか、これもまたはっきりしません。
対潜兵装も強化され、「初春型」では1基ずつだった九四式爆雷投射機と爆雷装填台が2基ずつに増えています。
その代わりに舷側に配置されていた手動投下台がなくなっています。
「白露型」で最も不満となったのは、航続距離の短さと速度の遅さでした。
18ノットで4,000海里は「特型」よりも劣る数字で、水雷戦隊をあらゆる海域で活躍させるためにはやはりこの数字では納得いかなかったのです。
実際は5,000海里ほど航行することができましたが、それは運用して初めて判明したものであり、計画時点では知る由もありませんでした(この頃から機関関連の計画と実績の乖離が続きます)。
速度も34ノットと決して速くなく、後ほど他の艦も強度補強の工事を行った結果速度が落ちるとはいえ、駆逐艦の利点を大きく損なう速度でありました。
そもそも「白露型」は「初春型」で失われた雷撃力と速力を底上げするための駆逐艦だったので、低速なのは非常に問題でした。
さらに「白露型」はあくまで損なわれてきた復原性を取り戻すために新しく設計された駆逐艦であって、強度不足を補う取り組みがメインではありませんでした。
「白露型」が取り組んだのは、あくまで復原性を高める構造に改めることでした。
甲板上の構造物の軽量化を追求し、艦底外板を厚くして重心を下げた設計が、とんでもない爆弾を抱えていたことを知るのは、「第四艦隊事件」まで待たなければなりません。
「第四艦隊事件」が発生した時、「マル1計画」の6隻はすでに進水済みで、艤装中に発生したこの事件は「白露型」も容赦なく飲み込みました。
「白露型」はバランスよくコンパクトになったとはいえ、引き続き1,500t以下に抑えるため、また重心を下げるために軽量化を重視した設計でした。
しかし予測し得ない嵐の中で行われた演習によって多くの艦が大小さまざま損傷を負い、特に電気溶接を採用している艦には被害が目立ちました。
電気溶接の技術力が不十分なまま多用したツケをしっかり払わされることになり、「白露型」の工事は中断、多くの艦同様強度補強のための工事が行われました。
想定外の補強工事を行った結果、登場した「白露型」の排水量は1,685t、公試では2,075tと目も当てられない数値に。
できあがってみれば1,500t級には遠く及ばず、重さは「特型」とほぼ同じになってしまいました。
この重量は「初春型」の1,700tとともに諸外国には伏せられており、次の「朝潮型」はもともとオーバーすることも覚悟の上で建造され、結局日本には「ロンドン海軍軍縮会議」の排水量基準を満たした駆逐艦が登場することはありませんでした。
出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ
出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集』
いつの間にか沈んでしまった白露 その原因は
【白露】は姉になるはずだった「初春型」五番艦、六番艦の【有明、夕暮】と【時雨】とともに第二七駆逐隊を編成。
何と竣工してすぐに北海道で行われる陸軍特別大演習、神戸での昭和11年特別大演習観艦式に参加するために天皇陛下が乗艦された【比叡】の護衛を任されるという大役を担っています。
この任務は【時雨】とともに行っていて、できたてほやほやの駆逐艦の初陣は非常に栄誉あるものでした。
太平洋海戦開戦後は輸送と護衛に特化した任務で、はっきりした海戦の参加は昭和17年/1942年5月の「珊瑚海海戦」が初めてとなります。
この時【白露】は【翔鶴】【瑞鶴】の護衛で出撃しており、発見できなかったものの不時着水した【翔鶴】の艦載機捜索に出ています。
「ミッドウェー海戦」も途中までですが同行していますが、こちらも言わずもがな仕事なしです。
7月14日に第二七駆逐隊は第四水雷戦隊に編入。
8月17日にトラック島に進出するのですが、同日にマキン島にアメリカ軍が潜水艦による奇襲上陸作戦を実施します。
マキン島には陸戦隊1個小隊しか存在せず、軍人はわずかに71人というペラペラの防備体制。
アメリカ軍も夕方までには撤退する作戦だったために応援をよこして叩くということはできませんでしたが、この奇襲を受けて【白露】と【時雨】は防備を固めるために新たに陸戦隊を輸送しています。
これが【白露】のガダルカナル島を巡る初めての任務となりました。
ここからは船団輸送と鼠輸送を頻繁に行いますが、その中で10月下旬、とにかく目の上のたんこぶであるヘンダーソン飛行場を取り返すため、陸軍第二師団によるヘンダーソン飛行場総攻撃が行われることになりました。
この突撃のために多くの艦艇が動員され、輸送、艦砲射撃、脱出艦船の追撃など多岐にわたる任務が配分されます。
【白露】はここでは【暁】【雷】とともに突撃隊に任命されました。
24日夜には飛行場の占領の報告が入り、艦内は大いに沸き立ちますが、やがてそれは誤報と知ることになり、突撃隊の緊迫感は増しました。
ヘンダーソン飛行場が健在ということは、このルンガ突撃は敵の制空権に突っ込むことになるからです。
突撃隊はまずはツラギ方面で揚陸作業中の【掃海駆逐艦(旧米クレムソン級駆逐艦) ゼイン】を発見し、間合いを詰めてから砲撃を開始。
しかし接近を悟った【ゼイン】もすぐさま逃走を図ったため、あまり追い回すとルンガ泊地から離れてしまうため命中弾1発で取り逃がしてしまいます。
ルンガ泊地方面に急いで戻ってみると、そこではやはり揚陸中の曳船【セミノール】と警戒中の哨戒艇【YP-284】を発見します。
すぐさま砲撃を開始して、この2隻と他に輸送船と仮装巡洋艦1隻ずつの撃沈に成功しました。
しかしこの時沿岸砲による反撃で【暁】が被弾し、火災が発生しています。
突撃隊は【暁】の火災だけで被害を抑えることができ、また夜が明けてからも逃げ切ることができましたが、第二攻撃隊はヘンダーソン飛行場からの反撃にあって【由良】が沈没、【秋月】が中破。
ヘンダーソン飛行場占領も失敗し、戦況は悪化する一方でした。
そのヘンダーソン飛行場への艦砲射撃を行うため、11月12日に【比叡】【霧島】が出撃したところで発生した「第三次ソロモン海戦」では、【白露】は【時雨、夕暮】とともにガダルカナル島・ラッセル岬警戒隊として参加しています。
しかしエリアとしては実際に海戦が勃発した場所よりかなり後方のため、海戦には参加していません。
【比叡】損傷の報告を受けて3隻と【雪風】【照月】が【比叡】の護衛に就いたのですが、すでに【比叡】は操舵不能、速度も遅い状態でした。
更に夜明けからの空襲によって【比叡】はついに沈没してしまいます(【比叡】の最期は諸説あり)。
24日はパプアニューギニアのラエへ向けて【磯波】【電】【春雨】【早潮】の5隻での鼠輸送を行いますが、この輸送では夜間でもアメリカが的確にターゲットを捕捉し、「B-17」の爆撃によって【早潮】が至近弾を受けて浸水し、最大速度が28ノットにまで低下してしまいました。
このしつこさの中で揚陸を強行するのは危険だと判断し、輸送は中止されて撤退を行いますが、【早潮】には至近弾や直撃弾などが折り重なり大破炎上。
最期は【白露】の砲撃によって自沈処分となりました。
僚艦の介錯を務めた【白露】ですが、自身にもまた大きな危機が迫っていました。
28日、ラエより南東にあるブナへの輸送が実施されます。
今度は【白露】【夕雲】【巻雲】【風雲】というというメンツでした。
ラバウルを出撃した4隻ですが、今度は日中に再び「B-17」に捕捉され、【白露】は直撃弾と至近弾を受けます。
この直撃弾は1番砲塔すぐ後ろに命中し、甲板を貫通して第一兵員室で爆発。
内側から押し上げられる形で甲板はめくれ上がり、艦底も一部破断して浸水が発生しました。
艦首も少し傾きましたが、幸い切断には至らず、【白露】は【夕雲】の護衛を受けて自力でラバウルまで引き返しました(途中ラバウル発の【春雨】と合流)。
トラックで【明石】の応急処置を受けた後、【白露】は昭和18年/1943年2月16日に佐世保へ向けて出発しますが、まだ彼女の危機は去っていませんでした。
道中で悪天候に見舞われた【白露】は応急処置で接合された亀裂部分が再び破損し、航行が難しくなってしまいます。
この時は【野分】もともに航行していましたが、【野分】も右舷の推進器を損傷している状態で、このままどちらかが致命的な状態になってしまうと共倒れの危険性がありました。
緊急で2隻は近くのサイパンまで避難して事なきを得ますが、その後命令で【野分】だけ先行して帰還することになったので、【白露】は再び応急処置を行って単艦で佐世保まで戻ることになりました。
幸い今回の旅路は切り抜けることができ、【白露】は7月まで修理は長引きますが、その間に僚艦である【有明、夕暮】が7月20日、24日に相次いで沈没。
第二七駆逐隊は1週間で【白露、時雨】の2隻となってしまいます。
同じく第ニ駆逐隊で2隻編成となっていた【村雨】【五月雨】が第二七駆逐隊に編入され、新生第二七駆逐隊が誕生します。
また第四水雷戦隊が第二水雷戦隊にすげ替えとなったので(「コロンバンガラ沖海戦」)、同時に第二水雷戦隊所属にもなりました。
復帰後は【武蔵】や【雲鷹】、【間宮】や船団護衛で本土とトラック、ラバウルを往復。
しかしそのラバウルを袋小路に追い詰めるための策が連合軍では着々と進んでおり、その布石として南東にあるブーゲンビル島のエンプレス・オーガスタ湾を抑えるための行動を行っていました。
11月1日、日本は同湾からほど近いタロキナに連合軍が上陸していることを察知し、それを妨害するために【妙高】【羽黒】を中心とした艦隊を派遣します。
2日に日付が変わったころ、【川内】が敵影を発見したことで「ブーゲンビル島沖海戦」が勃発。
しかしすでにレーダーでアメリカの艦隊は迎撃態勢に入っており、戦闘は終始アメリカ側が優勢でした。
更に日本は隊列は乱れるわ攻撃も散発的だわ衝突も起こすわと散々なもので、【川内】【初風】が沈没しています。
【白露】もこの海戦で至近弾を受けたことによって速力低下、そこに【五月雨】に衝突され、双方中破するという有様でした。
【川内、時雨、五月雨、白露】という単縦陣での行動の中で、【白露】の艦尾に【五月雨】の艦首が衝突したということですから、Uターンに近い行動をとっている最中の衝突かと思われます。
【白露】は16ノットにまで速度が低下しますが、損傷個所が艦尾で舵やスクリューに被害がなかったため【時雨】とともに無事に戦場からの脱出に成功。
一方艦首が少し垂れ下がった【五月雨】は【白露】とは状態が異なるため、安易に速度が出せません。
そのため脱出の際にも後れを取ってしまい、追撃の駆逐艦との砲撃戦の中でかなりピンチな状況に陥っています。
敵が止めを刺すまで追撃を続けていたら確実に沈没していましたが、【五月雨】は炎上しながらもラバウルまで逃げ切っています。
海戦後、【白露】は再び佐世保で修理をうけます。
またこの時2番砲塔を撤去して25mm三連装機銃が2基新たに装備されました。
復帰後は今度も【武蔵】の護衛、また船団護衛を行いながらトラックやパラオを往来。
しかしトラック島が2月18日に大空襲を受けたことで、日本は一大拠点を失ってしまいます。
落ち延びた艦船の一部はパラオへ避難しましたが、そのパラオも3月30日に同じように空襲を受けてしまい、ここでは輸送船などが大量に被害を受けました。
一方海軍艦艇といえば、連合艦隊の見通しが甘く29日に軍艦や駆逐艦だけがとっとと脱出し、輸送船や補助艦艇はほとんど見捨てられたような形になってしまいます。
この空襲で【明石】が沈没しているのはとんでもない痛手でした。
一方で退避中の【武蔵】は【米ガトー級潜水艦 タニー】の魚雷一発を受けて小破していますが、【明石】の沈没に比べればほんとにかすり傷のようなものです。
5月末の連合軍ビアク島上陸に端を発した三次に渡る「渾作戦」もすべて失敗。
この関係で【春雨】が沈没し、更にはマリアナ諸島に機動部隊が押し寄せてきたことで、日本は連合軍に振り回される形で「マリアナ沖海戦」に突入してしまいます。
しかし【白露】は、その「マリアナ沖海戦」の結果を知ることができませんでした。
「第三次渾作戦」が中止となったのが11日。
そこから日本は「あ号作戦」発動のために機動部隊と輸送船団の合流が急がれ、【白露】は【時雨】【響】【浜風】【秋霜】とともに3隻のタンカーを護衛していました。
15日深夜、船団は【浜風】を先頭に航行していました。
そこへ急に【白露】がグイっと横断してきて、油槽船【清洋丸】の針路を完全に塞いでしまいます。
【清洋丸】の減速が間に合うわけもなく、【清洋丸】が【白露】を貫く勢いで衝突してしまいました。
この衝撃で【白露】は爆雷や弾薬庫の誘爆によってあっという間に爆沈。
報告ではたった3分で見えなくなってしまったようです。
その後155名が救助されていますが、艦長の松田九郎少佐を始め104名が戦死しました。
この横断の原因ですが、色んな所でアメリカの潜水艦による雷撃を回避したと言われています。
ですがわかる範囲で調べてもこの雷撃を行った潜水艦が全然わかりません。
他艦による爆雷投下もなさそうですし、ほんとに雷撃だったのかは疑問です。
じゃあ船団を横断する必要があるのかと言われるとそれもおかしな話で、【白露】は船団の左舷側に位置し、当然ながら右舷側にも駆逐艦がいますから、たとえ何かがあっても【白露】が船団を横切ってまで緊急に右舷に回る必要もないのです。
同船団にいた【日栄丸】の報告では「白露は日栄丸の前路を右より左に横ぎり日栄、国洋の間を反転し更に清洋の前を右より左に航過せんとせりしか或はその儘反航せんと企図したるものの如く、その際清洋丸右に回頭せしめたため清洋丸の艦首にて衝撃せられたるなる可し」とあります。
(参照:昭和19年5月1日~昭和19年10月31日 特設運送船日栄丸戦時日誌戦闘詳報(3)
アジア歴史資料センター)
しかしこの報告の一方で、当時の陣形は以下のようなものだったとされます。

両方信じると、【白露】はどうにかして【日栄丸】の右側に回り込んで、【日栄丸】の前を右から左へ通り、その後【日栄丸】の後ろに回るような動きを取って、【清洋丸】の前を右から左に通り過ぎる、ということになります。
飲酒運転でもしてたのでしょうか?
絶対にどこかが間違ってると思います。
【白露】と【響】が逆ならあり得そうな感じです。
一つだけですが、【白露】が海面に映る何らかの光を雷跡と間違えた可能性を伝えるものがありました。
調べたところ、当時は月齢23.9(半月よりも少し左側欠け)で月はまだ高く昇っていない時刻でした。
そして天候としては少し雲間がある程度の曇り具合で、月はほぼ真東にありました。
船団はダバオからマリアナへ向けて、つまり最短距離であれば北東から東北東への針路と想像できます。
これらの要素から、あまり高くない位置にある月の弱い光が、東の雲間から海面に差し込み、それを雷跡と勘違いした、という可能性はないことはないでしょう。
これも【白露】が左舷にいるより右舷にいる方が真実味が増しそうですが、やっぱり【白露】の沈没につながる動きの理由は謎のままです。