悲劇と奇跡と地獄を体験した朝雲
【朝雲】は神戸川崎造船所で建造され、【山雲】【夏雲】【峯雲】の4隻で第四十一駆逐隊を編成、横須賀鎮守府所属で誕生しました。
しかし翌年11月15日に第四十一駆逐隊は第九駆逐隊に改称され、さらにピッタリ1年後には第四水雷戦隊に編入されます。
【朝雲】は満州国の皇帝溥儀が訪日した際に、御召艦となった【日向】まで送り届ける役目を果たしています。
太平洋戦争がはじまると、第九駆逐隊はビガンやマカッサル、バリクパパンなど主要な攻略作戦や輸送に立て続けに参加。
しかし【山雲】が大晦日に日本が敷設した機雷に誤って接触してしまい、結構な事故となってしまいます。
【山雲】はこのあと本土に戻ってしばらく修理に入ったため、第九駆逐隊は早速1隻を欠いてしまいました。
一方【朝雲】は1月21日にはタラカンからバリクパパンへ向かう船団護衛の準備をしていたのですが、同日未明に【朝雲】は【第二号大井丸】と衝突事故を起こしています。
幸いこちらは酷い損傷ではなく、そのまま船団護衛に参加することができました。
この損傷が原因なのかどうかはわかっていませんが(リベット緩みが多かったらしい)、【第二号大井丸】はバリクパパンへの輸送には参加していません。
しかし不幸はむしろここからでした。
夕方に船団はタラカンを出港して一路南下しますが、船団は夜中に【米サーモン級潜水艦 スタージョン】の雷撃を回避したり、空襲や潜水艦の探知など忙しい限りでした。
空襲では【南阿丸】が被弾してガソリンに引火する大炎上を起こし、船体放棄が決定。
さらにバリクパパン付近で停泊していたところに【那珂】のすぐそばにいた【敦賀丸】が【蘭K ⅩⅣ級潜水艦 K ⅩⅧ】の魚雷を受けて沈没し、被害が徐々に増えていきました。
潜水艦の脅威が船団にあるとして【那珂】や【朝雲】達は周辺の哨戒活動にあたります。
一方で揚陸は着々と進んでいて、第一陣の揚陸は完了、大発動艇など上陸用舟艇が戻り始めて続いて第二揚陸が始まろうとしていました。
ところが潜水艦の襲撃を警戒する一方で、その隙に堂々と現れたアメリカ第59駆逐隊【米クレムソン級駆逐艦 ジョン・D・フォード、ポープ、パロット、ポール・ジョーンズ】の4隻に全く気付くことができませんでした。
別に特別なことはしていないのですが第59駆逐隊は全く気付かれずに船団に接近し、【第15号掃海艇】が気づいたときは時すでに遅し。
【須磨浦丸】が魚雷を受けて轟沈、続いて【呉竹丸、辰神丸】も魚雷で沈められてしまいます。
一番近くにいたのは掃海艇群だったのですが、掃海艇や哨戒艇で駆逐艦を相手にするのはあまりに分が悪すぎます。
結局【第37号哨戒艇】も魚雷を受けて沈没し、【那珂】ら対駆逐艦や魚雷艇用の護衛は全く何もできずに敵駆逐艦にいいように暴れまわられてしまいます。
「クレムソン級」は【那珂】と同じ4本煙突で、闇夜の中で何度も間違えられて初動の遅れがありました。
結局敵側にはほとんど被害もなく、再び現れた【K ⅩⅧ】が【第12号駆潜艇】に撃破されたぐらいです。
揚陸はほとんど完了していて船内にいた人数も少なかったことから、人的被害は乗船数に対して少な目ではありましたが、それでも空襲を含めて4隻の輸送船が沈んでいるのですからえらいことです。
この「バリクパパン沖海戦」は、【朝雲】も絡んではいるものの全然知らないうちに始まって全然知らないうちに終わっていたので、何とも言えない気分だったでしょう。
しかし戦いはまだ終わりません。
ジャワ島攻略に向けて、2月下旬には上陸のために艦船が集められます。
主力となったのは蘭印部隊の第五戦隊で、同じく蘭印部隊に所属していた四水戦、すなわち【朝雲】達も出撃準備をすることになりました。
そして東部ジャワ攻略部隊を護衛して蘭印部隊はジャワ島を目指します。
依然として窮地に立たされているABDA連合軍もまた残存艦を集めてジャワ防衛のために出撃。
この動きは【那智】の偵察機によって筒抜けになっており、2月27日、「スラバヤ沖海戦」が始まりました。
第一戦では巡洋艦の砲撃によって【英ヨーク級重巡洋艦 エクセター】は速力が大幅に低下し、【蘭アドミラーレン級駆逐艦 コルテノール】が誰かしら(【羽黒】?)が放った魚雷が命中して沈没。
ただし魚雷は1/3が早爆するなど、この【コルテノール】の1本以外は全て外れていて、確実に仕留めるために今度は駆逐艦が猛接近します。
【那珂】は10km以上の距離で魚雷を放ちましたが、四水戦はその距離をどんどん縮めていきます。
第二駆逐隊は7,500mの距離で魚雷を発射しましたが、【朝雲】と【峯雲】はさらに迫って砲撃戦を交えながら、5~6,000mの距離で魚雷を発射しています。
いくら何でも近すぎるので岩橋透艦長(当時中佐)が反転を促すも、第九駆逐隊司令の佐藤康夫大佐は「艦長!後ろを見るなっ!前へっ!」と一喝してド根性を見せつけました。
この魚雷は命中しなかったのですが、【朝雲】と【峯雲】の近接戦は続きます。
【英E級駆逐艦 エレクトラ、エンカウンター】【英J級駆逐艦 ジュピター】との3対2の砲撃戦となり、【朝雲、峯雲】は【エレクトラ】に砲撃を浴びせます。
その反撃で【朝雲】は機械室付近に被弾をし、電源を一時喪失しますが、手動照準により砲撃は継続。
こちらも機関室に被弾して逃げる【エレクトラ】を【峯雲】は逃さず、最終的に【エレクトラ】は砲撃に耐えきれずに沈没し、【朝雲、峯雲】が勝利を収めたのです。
海戦そのものも2日に渡る長丁場になり、命中率が目瞑って撃ってんのかと疑われるほど酷い有様ではありましたがなんとか勝利。
その後の「バタビア沖海戦」も含めて、ジャワ島の攻略の障害は一掃。
オランダは太平洋戦争への影響力を失いました。
【朝雲】はその後【山彦丸】を護衛して横須賀へ帰投し、修理を行います。
この修理中に【山雲】が第九駆逐隊から除籍となり、第九駆逐隊は3隻となります。
そしてこの3隻で戦争の大きな分岐点となった「ミッドウェー海戦」に参加しました。
第四水雷戦隊は攻略部隊の護衛として出撃していますが、当然水上艦は第七戦隊を除いて何もしていない戦いですから、【朝雲】も大敗を喫した中で引き返すだけでした。
帰投中に追撃を避けるためにウェーク島へ向かい偽電を交信しましたが杞憂に終わります。
しかし間髪入れずに第九駆逐隊には北方部隊に編入され、同じくウェーク島に派遣された第五戦隊の【妙高】【羽黒】と、【玄洋丸】とともに北上します。
ですが目立った活動はなく、1ヶ月後にはアリューシャン列島から離れています。
8月24日、【朝雲】は「第二次ソロモン海戦」に参加しますが、これもまた空母直掩ではなかった【朝雲】に戦果はありません。
【龍驤】の喪失の他にも空襲で輸送中の【睦月】が沈没するなどいよいよ日本は航空劣勢の中で苦しくなってきました。
これを打開するために日本は速度最優先の駆逐艦による輸送作戦、いわゆる「鼠輸送」を開始。
例に漏れず【朝雲】も「鼠輸送」に参加し、敵の目をかいくぐってラバウルやショートランドからガダルカナル島に向かう日々を過ごします。
しかしその日々は毎日が生死を分ける過酷な作戦であり、10月5日には輸送中に【峯雲】が空襲を受けて小破して【夏雲】の護衛を受けて撤退。
この輸送では【村雨】も至近弾を受けて単艦で退避していて、半数の駆逐艦での輸送となってしまいます。
さらに12日には「サボ島沖海戦」の翌朝の空襲を受けて【叢雲】が大破し、その救援に向かった【朝雲】と【夏雲】までもが空襲の巻き添えを受けてしまいます。
この空襲で【夏雲】が沈没し、【朝雲】が生存者を救助しています。
また【叢雲】も最終的には炎上や艦尾切断による曳航困難な事態から自沈処分され、「サボ島沖海戦」は大敗北となりました。
同時に第九駆逐隊も【峯雲】の修理のために【朝雲】1隻だけになってしまいます。
そしてどこにも属さない【朝雲】は、【那珂】修理、【由良】沈没、【秋月】修理と転々とする羽目になった四水戦旗艦の地位に滑り込むことになりました。
その四水戦旗艦の位より挑んだのが、「第三次ソロモン海戦」です。
11月9日、四水戦は【比叡】【霧島】の第十一戦隊を中心とした挺身艦隊の護衛として南下を開始。
しかしガダルカナル島が迫ってきたところで猛烈なスコールに遭遇したため、艦隊はいったん反転します。
ところがこの反転と再反転の中で、戦艦2隻の両翼で警戒していた四水戦の陣形がともに乱れてしまいます。
その結果、いつの間にか左舷前方にいるはずの【朝雲】【村雨】【五月雨】が最後尾に、そして右舷前方の【夕立】【春雨】も【比叡】らよりも少し後方に位置し、そしていずれも今自分たちがいる場所が予定よりも後方であるということに全く気付いていませんでした。
そんな中で突然始まった「第三次ソロモン海戦」で、最後尾になってしまった【朝雲】達は当然出遅れます。
【五月雨】はちょうど追いついた【比叡】を見て敵だと勘違いして誤射してしまったり、前方では【夕立】と【春雨】が脇差で敵の腹を掻っ捌くかの如く敵陣に飛び込んでいて、あっという間に乱戦となります。
【朝雲】は魚雷8本、砲撃88発、駆逐艦1隻の撃沈を記録していますが、戦果はどの艦もはっきりしません。
【米グリーブス級駆逐艦 モンセン】の撃沈に関わっている可能性があります。
第一夜の戦いでは航行不能で炎上している【夕立】に対して脱出用のカッターを用意して撤退。
【夕立】の生存者は主に【五月雨】に救助されました。
双方にかなりの被害が出た第一夜ですが、結局艦砲射撃も翌朝の輸送も妨害されて【比叡】も沈んだために日本の敗北は明らかでした。
なのですぐさま次の手を打つことになり、【朝雲】は【霧島】を護衛して再びガダルカナル島へ向けて出撃。
今度は陣形が乱れることはなかったのですが、敵艦隊の規模の見誤りがあり、敵に戦艦が含まれることに気づいたのは戦闘が始まる直前でした。
サボ島周辺での砲撃戦により【綾波】が大活躍と引き換えに沈没し、そしてついに【霧島】と【米サウスダコタ級戦艦 サウスダコタ、ノースカロライナ級戦艦 ワシントン】との砲撃戦が勃発。
【朝雲】は敵戦艦に対して魚雷4本を発射、命中と記録していますが実際には他の艦を含むすべての魚雷が戦艦2隻には命中していません。
結局【サウスダコタ】は退けたものの【ワシントン】の連続砲撃で【霧島】はノックダウン。
【朝雲】と【五月雨】、【照月】が生存者を救助しましたが、【比叡】に続いて【霧島】までもが鉄底海峡に沈んでいきました。
負けると後がない戦いで負けてしまった日本はついにガダルカナル島を捨てることを決意。
【朝雲】もいったん横須賀に帰って修理を受けることになりました。
そして【時雨】とともに【冲鷹】のトラックへの輸送を護衛。
これは1往復半の護衛で、再びトラック島に戻ってきた後は【隼鷹】とともにウェワクへの輸送を行っています。
昭和18年/1943年1月20日にはトラック島からブーゲンビル島へ陸軍第六師団を乗せて向かう六号輸送C船団が【米ガトー級潜水艦 シルバーサイズ】に襲撃されます。
この雷撃で【すらばや丸】と【明宇丸】が沈没し、【朝雲】がトラック島から急遽出撃、救助にあたっています。
潜水艦の探知があったために爆雷も投下しており、その後【シルバーサイズ】は油漏れを起こしているのですがこれが爆雷の影響なのかは不明です。
魚雷詰まりも起こしていることから、このタイミングで【シルバーサイズ】に何かしら問題があったのは間違いなさそうです。
ちなみに【シルバーサイズ】、軍艦ベースの太平洋戦争史では馴染みのない存在ですが、第二次世界大戦で23隻、アメリカ第3位の撃沈数を誇り、今もミシガン州で博物館として現存している潜水艦です。
【朝雲】はこのあと「ガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)」に参加。
1回目の時は撤収ではなくもし敵艦隊が現れた時のための戦闘要員として召集されており、2回目3回目はいずれも撤収部隊としてガダルカナル島に向かいました。
損害は予想を大幅に下回り、人的被害が計り知れない地獄の餓島からついにおさらばすることができました。
しかし餓島からは逃げられても地獄からは逃げられません。
「ニューギニア島の戦い」での増援のため、今度は各輸送ルートの中でも断トツに危険な、ダンピール海峡を抜けてラエへ向かうルートの輸送を任されてしまいます。
「八十一号作戦」です。
航空支援はあるものの空襲は避けられないこのルートは、どれだけの楽観主義者でも脂汗が出るほど危険な任務でした。
28日にラバウルを出撃した、駆逐艦輸送船それぞれ8隻の船団は、3月2日の空襲で早くも【旭盛丸】が沈没してしまいます。
【朝雲】は【雪風】とともに2隻合わせて800~900名ほどの兵士と積めるだけの物資を乗せて先にラエへ向かいました。
戻らずこのままここで待っていたいという思いも僅かにはあったでしょうが、船団を守るため、2隻は再び船団護衛のために合流しました。
そして3日、水平爆撃と反跳爆撃を織り交ぜた空襲が船団を薙ぎ払っていきます。
前日の【旭盛丸】を含めてすべての輸送船が餌食となり、また駆逐艦も【白雪】【朝潮】【荒潮】【時津風】が沈没。
【朝雲】らは何とか空襲から逃げ延びて避難することができましたが、想像を絶する光景がダンピール海峡で広がっていました。
日が沈んでから、【朝雲】【雪風】【敷波】による生存者の救助がはじまりました(【浦波】【初雪】は日が落ちる前に生存者を乗せてラバウルへ撤退)。
まだ沈没していない船もありましたが生き延びる未来は見えず、合計12隻の船から放り出された生存者をできる限り救い出してラバウルへと帰っていきました。
帰投後岩橋艦長は「こんな無謀な作戦をたてるということは、ひいては日本民族を滅亡させるようなものだ。よく考えてからやっていただきたい」と第八艦隊に怒声を浴びせました。
さらに悲報があります。
3月5日、「ビラ・スタンモーア夜戦」で一方的なレーダー射撃を受けた【峯雲】が【村雨】とともにわけがわからないまま沈められてしまったのです。
【山雲】は前年10月から戦列に復帰していましたが、これで第九駆逐隊は2隻を欠いてしまいます。
【峯雲】の離脱を受けて、4月1日には【薄雲】【白雲】が第九駆逐隊に加わり、また同時に新編第九駆逐隊は第一水雷戦隊に異動となりました。
その後第九駆逐隊はコロンバンガラ島への輸送を経て北方部隊に編入され、幌筵島へ向かいます。
南も激戦ですが、北もアッツ島、キスカ島の情勢は極めて悪化していて、ついに5月29日にはアッツ島守備隊が玉砕、陥落してしまいます。
この影響でキスカ島からの撤退も急務となり、潜水艦でのピストン輸送は低効率と被害の問題から中止、「八十一号作戦」に続いてまたもや木村昌福少将がこの難事の指揮を執ることになりました。
【朝雲】は【薄雲】とともに「キスカ島撤退作戦(ケ号作戦)」に参加(【白雲】は【沼風】との衝突により不参加)、最初も2回目の出撃も収容部隊として出撃しています。
作戦意図の浸透、連携、予測、幸運、すべてがかみ合った奇跡の作戦は無事に成功し、【朝雲】は自身2度目の「ケ号作戦」も無事完遂させることができました。
【朝雲】はその後も北方海域で哨戒活動などに従事します。
9月1日には第九駆逐隊に【霞】が加わりましたが、翌月末には【朝雲】が第十駆逐隊に配置転換されます。
当時の第十駆逐隊は【秋雲】【風雲】の2隻となっていました。
また11月には2番砲塔が撤去されて25mm三連装機銃2基に換装されました。
この時期は残存艦の機銃増備が進んでいましたが、遅きに失した感は否めません。
時は進んで昭和19年/1944年5月、幾度かの護衛を経て【朝雲】はタウイタウイ泊地にいました。
「あ号作戦」実施に向けて久々に大艦隊が戦を前に集結していたのですが、潜水艦が沖合に張り付いていることがわかり、訓練もおちおちできませんでした。
そんな中で【朝雲】は【風雲】とともに「ビアク島の戦い」の支援のために「渾作戦」(第一次、第三次)に参加しますが、3回全部が失敗というか空振りというか、とにかく成果はゼロに終わります。
さらに【風雲】が6月8日に【米ガトー級潜水艦 ヘイク】の雷撃で沈没、実は4月11日に【秋雲】も【米ガトー級潜水艦 レッドフィン】の雷撃で沈んでいて、第十駆逐隊は【朝雲】1隻だけになってしまいました。
実際にタウイタウイ周辺に何十という潜水艦がいたわけではなく、他のエリア同様各海域に点在していただけなのですが、被害が大きすぎるため日本は必要以上に潜水艦を恐れてしまいます。
そんな中で発生した「マリアナ沖海戦」ですが、【朝雲】は第一機動部隊の護衛として参加。
見るも無残語るも無残、空から海中からやりたい放題だったアメリカ軍に対して日本はほとんど何もできずに完全敗北します。
7月10日、1隻だけになった【朝雲】は第四駆逐隊に編入。
そこにはかつての僚艦だった【山雲】がいました。
第四駆逐隊は【朝雲】【山雲】【満潮】【野分】の4隻編成となります。
昭和19年/1944年6月30日時点の兵装 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 2基4門 |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 2基8門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 4基12挺 25mm連装機銃 1基2挺 25mm単装機銃 8基8挺 単装機銃取付座 4基 |
電 探 | 22号対水上電探 1基 13号対空電探 1基 |
出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年
絶対国防圏を突破された今、日本は事実上敗北したも同然です。
しかも戦争の大きな鍵であった空母と航空機を大量に失ったばかりで、日本の勝ち筋はないに等しく、それこそ【富嶽】を大量生産でアメリカ本土爆撃を繰り返すとか、原爆をアメリカよりも先に開発して投下するとか、そんな夢物語にすがるしかないレベルでした。
そんな有様ですから「捷一号作戦」という突撃作戦ぐらいしかできることがなく、また宝の持ち腐れになった空母を囮にするという事態に陥ってしまいます。
この作戦で第四駆逐隊は西村艦隊に所属し、スリガオ海峡踏破ルートを進むことになりました。
ただ【野分】は栗田艦隊に配属されることになったため、西村艦隊には代わりに【時雨】が加わっています。
敵の管理下にある海峡の恐ろしさは皆身をもって体感しています。
日本でも城郭を築く際は敵の進路を制限し、そこに重点的な攻撃を浴びせることができる設計にするのが定石です。
つまり海峡、特にスリガオ海峡のように細長く、島と島の間隔も狭い航路となると天然の城郭のようなものです。
しかし敵の兵力を分散させるためにはこちらの兵力も分散させる必要があり、西村艦隊は道中で志摩艦隊と合流してここを通過することになりました。
ところが10月24日、西村艦隊は予定よりも早く到着、逆に志摩艦隊はこの時間には予定よりも遠い位置にありました。
この作戦はこの期に及んでもなお各艦隊の連携が下手くそで、栗田艦隊の反転などによる時間調整が取れず、このままでは西村艦隊は海峡手前でボーっと待ち続けることになります。
ここは敵陣です、夜間なら空襲の心配は若干減りますがあくまで若干です、志摩艦隊を待っているうちに敵襲を受けるとどうしようもないので、西村艦隊は単独で海峡に突入しました。
そしてアメリカからしたら飛んで火にいる夏の虫、自分たちの思い描いたシナリオ通りに敵が無策で入ってきてくれるわけですからこんなに楽な戦いはありません。
西村艦隊はまず魚雷艇の襲撃に始まり、その後駆逐艦からの雷撃、戦艦、巡洋艦からの砲撃の雨と、当時の水上艦ができる最大の連携攻撃を受けました。
【扶桑】は魚雷を受けて断裂、【山城】は巨大な松明のように天高く火柱を上げて突き進み、そして【山雲】も魚雷を受けて轟沈、同じく被雷した【満潮】の命運も長くはありませんでした。
【朝雲】もまた【米フレッチャー級駆逐艦 マクダーマット】の艦首に魚雷を受けて艦首を失ってしまい、あっという間に西村艦隊は崩壊しました。
【最上】と【時雨】は後方にいたため被害がありませんでしたが、前方の船を軒並み片づけたことで【最上】にも砲撃が集中し、次は【最上】が炎上します。
【時雨】だけが無事に逃げ切ることに成功しましたが、艦首のない【朝雲】は10ノット出すのが精一杯でとてもそれに続くことができません。
真っ赤に燃えながら逃げる【最上】の炎がだんだん小さくなっていきます。
【朝雲】を、第四駆逐隊を助けてくれる味方はもう残っていないのです。
【朝雲】には追手の砲撃が降り注ぎます。
【米クリーブランド級軽巡洋艦 テンバー、コロンビア】の砲撃が【朝雲】に命中し速力はさらに低下、ついに【朝雲】に総員退去命令が下されました。
最後は【米フレッチャー級駆逐艦 コニー】から放たれたと思われる魚雷が命中(砲撃による沈没など不確定)し、【朝雲】は沈没。
【朝雲】は蹂躙されますが、沈むその瞬間まで絶対に砲撃をやめず、艦首が水没してからも3番砲塔からは砲弾が発射されたそうです。
生存者が乗り込んだ内火艇も沈められるなど、200名ほどの戦死者を出してしまいました。
また、別行動の【野分】も【筑摩】の救助中に沈没し、第四駆逐隊は一夜にして壊滅してしまいました。