起工日 | 昭和18年/1943年3月16日 |
進水日 | 昭和19年/1944年2月29日 |
竣工日 | 昭和19年/1944年5月15日 |
退役日 (沈没) | 昭和19年/1944年12月26日 |
礼号作戦 | |
建 造 | 浦賀船渠 |
基準排水量 | 2,077t |
垂線間長 | 111.00m |
全 幅 | 10.80m |
最大速度 | 35.0ノット |
航続距離 | 18ノット:5,000海里 |
馬 力 | 52,000馬力 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 3基6門 |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 2基8門 |
次発装填装置 | |
機 銃 | 25mm連装機銃 2基4挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式缶 3基 |
艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
艦隊型駆逐艦の最終艦 半年の奮闁
【清霜】は「夕雲型」の十二番艦で、これは最終艦のみならず、甲型駆逐艦、そして対艦戦闘能力を有する艦隊型駆逐艦としても最後の駆逐艦になります。
「秋月型駆逐艦」は乙型駆逐艦、「松型、橘型駆逐艦」は丁型駆逐艦に分類されます。
ちなみに【島風】は最強の駆逐艦を目して建造されましたが、分類は丙型駆逐艦です。
【清霜】は5月下旬から第十一水雷戦隊での訓練に入りましたが、戦況が緊迫していたためにほとんど訓練も受けず、すぐに軍事作戦に投入されます。
6月18日、【清霜】は【松】と【長良】とともに横須賀へ向かいました。
まずはここで【大発動艇】の搭載設備工事と機銃の増備を行い、29日にはもう初任務となりました。
【清霜】は「伊号作戦」と呼ばれる輸送任務につくことになり、まずは日本海域ではありますが小笠原諸島を目指すという、となかなか危ないエリアへの輸送を行いました。
ちなみにメンバーには【松】も【長良】もおらず、【多摩】【木曾】【皐月】の4隻です。
横須賀に戻った後も訓練と輸送を並行することになり、7月には「呂号作戦」の一環で沖縄経由の南大東島輸送を実施。
8月には呉からマニラへの輸送を行いますが、到着した後、フィリピンからパラオへ向かっていた【名取】が【米バラオ級潜水艦 ハードヘッド】の魚雷を受けて沈没してしまいます。
【名取】はこの後大冒険の末に180名の乗員が助かっていたのですが、この報告を受けてマニラから【清霜】【浦波】【竹】が救助のためにパラオ近海へ向かっています。
ただマニラとパラオは別に近所というほどの距離ではないので、捜索をしても【名取】の手がかりは何一つ見つけることはできませんでした。
少々時間を戻して8月15日、【清霜】は【早霜】【秋霜】とともに第二駆逐隊を編成します。
第二駆逐隊は従来「白露型」で構成されていたのですが、稼働艦が【五月雨】だけになったことから解隊されて空き番号となっていました。
その後【清霜】は他の多くの艦と同じくリンガに停泊。
「マリアナ沖海戦」すら経験していない【清霜】は、この「捷一号作戦」が初めての艦隊作戦となります。
昭和19年/1944年8月22日時点の兵装 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 3基6門 |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 2基8門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 4基12挺 |
25mm連装機銃 1基2挺 | |
25mm単装機銃 14基14挺 | |
13mm単装機銃 4基4挺 | |
電 探 | 22号対水上電探 1基 |
13号対空電探 1基 |
出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年
10月18日、栗田艦隊はリンガを出撃してブルネイへ向かい、そこからレイテ島を目指す旅が始まりました。
第二駆逐隊は第二水雷戦隊に所属のため、栗田艦隊の指揮下に入っています。
しかし【清霜】は第一部隊につく第二駆逐隊から外れ、【金剛】【榛名】を中核とする第二部隊に入っています。
3隻編成となった第二駆逐隊は、同じく第四駆逐隊から分離されて1隻で行動することになっていた【野分】と誰かを組ませることで偶数編成を構築しようとしたのだと思われます。
なので【清霜、野分】はそれぞれの駆逐隊に籍を置きながら、「捷一号作戦」では第十戦隊の第三隊という臨時編成が組まれています。
23日、栗田艦隊はパラワン水道に差し掛かり、そこで【愛宕】【摩耶】を相次いで喪失し、【高雄】が大破により撤退を強いられました。
潜水艦が絶対出てくるので厳重な警戒を敷いていたのですが、実際に魚雷が飛んでくるまで全く潜水艦の所在を掴めず、栗田艦隊は敵影を見ることなく旗艦を失いました。
手痛い洗礼を受けた栗田艦隊は、翌日には潜水艦同様に日々苦しめられてきた航空機による空襲の嵐、「シブヤン海海戦」が始まります。
どこからともなく現れる航空機が、爆弾を落とし、魚雷を落とし、銃弾を撃ち込んで去っていく。
幾度となく繰り返される爆撃雷撃に栗田艦隊は振り回され、特に【武蔵】には被害が重なるにつれてどんどん攻撃が集中していきました。
巨漢の【武蔵】は爆撃を受けても魚雷を受けてもそうそう壊れはしないのですが、浸水だけは如何ともしがたいです。
構造上浸水は受け入れる造りだった【武蔵】は、身体に水を蓄え続けて牛歩の如き速度で撤退を始めます。
一方で【武蔵】の被害甚大とみるや、【清霜】と【利根】が護衛のために派遣されました。
痛めつけられた【武蔵】のそばで、【清霜、利根】は【武蔵】目掛けて執拗に攻撃を繰り出す敵機に向けて反撃します。
ですが一部の編隊が狙いを【清霜】へ定め、【清霜】はここで直撃弾を1発、至近弾5発という駆逐艦にとってはかなり危険な被害を受けました。
さらにはその直撃弾が1番魚雷発発射管に命中したため、【清霜】の乗員はその瞬間死を覚悟したことでしょう。
しかし幸運なことに、直撃した衝撃で炸薬の詰まった弾頭が吹き飛び、爆発する前に魚雷から外れたのです。
これで誘爆による沈没という危機は去ったのですが、それでも2番魚雷発射管も被害を受け、さらに通信設備や電探が故障、また2番缶も使用不能となったことで最大速度は21~24ノットにまで低下してしまいます。
こんな状態でも【清霜】は【武蔵】の護衛を続け、そして「シブヤン海海戦」を耐え抜きました。
空襲は去りましたが、【武蔵】の寿命はもう幾何も残されていませんでした。
【島風】【浜風】が途中で援護に加わりましたが、作戦行動が継続できる【利根】と【島風】は本隊に合流することになり、【清霜、浜風】が【武蔵】の護衛を続けました。
足を引きずって遥かコロンを目指す【武蔵】ですが、豪快な走りで波を切り裂いてきた艦首が、今やどんどん波に埋もれていきます。
徐々に前傾姿勢を強めていく【武蔵】の最期は目前でした。
死を目前に、【武蔵】からは、乗員救助のために横付けするように信号を受けました。
ただ相手がでかすぎる上に、すでに傾斜が進んでおり、このまま言われた通りに横付けすると傾斜を強めた際に駆逐艦の如き小舟はすぐに渦に飲み込まれてしまいます。
【清霜】達はその命令に従うことはできず、やがて【武蔵】は予期された通りに傾斜が進み、また艦首から海底へ潜っていきました。
大艦巨砲の象徴、【武蔵】沈没。
【清霜】と【浜風】は生存者の救助にあたりますが、なにせ相手は世界最大の戦艦【武蔵】ですから、仮に乗員全員が救助できる状況であったとしても、駆逐艦2隻には到底収まりません。
【清霜、浜風】はそれでもギリギリ一杯まで生存者を救い上げ、また敵に発見されるリスクを冒してでも、探照灯で海面を照らしながら生存者の捜索に全力を尽くしました。
【清霜】は450~500名、【浜風】は950名の乗員を救助したと言われています。
本隊が「サマール沖海戦」で幻影を追いかけている間、2隻はコロンへ到着。
その後【清霜】はブルネイまで撤退していた【高雄】を護衛してシンガポールへ向かい、そこで自身も整備を受けています。
シンガポール停泊中の11月15日、第二駆逐隊には新たに【朝霜】が加わりました。
ただ僚艦の【早霜】は「レイテ沖海戦」後の空襲で座礁後放棄され、【秋霜】は13日のマニラ空襲で大破の末、翌14日に転覆してしまいました。
なので第二駆逐隊は【清霜、朝霜】の2隻体制となります。
【清霜】が整備を受けている間もフィリピンでは決死の防衛戦が行われていて、その支援が「多号作戦」だったのですが、「多号作戦」は第四次、第三次輸送の大きな被害とマニラ空襲で下火となっていました。
それでもレイテへの輸送を止めてしまうと現地の守備隊は自爆するほかに道がないので、「多号作戦」は規模を小さくしながらも続けられていました。
【清霜】はこの「多号作戦」の第十次輸送に参加するためにマニラへ向かうことになりました(この時【清霜】はカムラン湾にいました)。
ただ12月15日、マニラのすぐ南にある、守備隊も僅かなミンドロ島へアメリカ軍が上陸を始めてしまい、マニラのあるルソン島も戦地になる時が迫っていました。
このため「多号作戦」は第十次を実施することなく中止となり、【清霜】もカムラン湾へ戻っていきました。
そもそも「フィリピンの戦い」は大本営の方針が悉く失敗していて、それでも飛行場がミンドロ島に造られるとフィリピンどころか海路も封鎖されるから、何とかしてくれと海軍が陸軍に泣きつき、特攻隊がミンドロ島に向かう敵船団に襲い掛かっていました。
ここで海軍が何もしないわけにはいかず、海軍もミンドロ島を攻撃するために「礼号作戦」が立案されます。
この「礼号作戦」が始まる前に、実はミンドロ島へ攻撃に向かった駆逐艦がいます。
それは【榧】【樫】【杉】の3隻、つまり「丁型駆逐艦」で艦砲射撃をしてこいというのです。
みな「多号作戦」で傷を負っていて、しかもその傷は三者三様でいずれも見過ごせるものではありませんでした。
それでも時間がないからと修理をさせることもなく、17日にカムラン湾からミンドロ島に向かって出撃させたのです。
しかし出撃からしばらくもしないうちに3隻は台風に遭遇。
手負いの3隻は強引な突破はできない、もし抜けたとしても作戦の成功はまずありえないと判断し、サンジャックまで撤退しました。
無駄な犠牲を出さずに済んだとはいえ、最初の作戦は中止になったことで、次こそちゃんと作戦を達成するように南西方面艦隊からプレッシャーをかけられます。
ですがどれだけプレッシャーをかけようとも、船を揃えるのだけでも大変な時期です。
まともに機能していない二水戦と、あとはそこら辺にいる使えそうな船という程度の理由で、【足柄】【大淀】【霞】【朝霜】【清霜、樫、榧、杉】が寄せ集めで作戦に参加することになりました。
司令官は困ったときの木村昌福少将であり、旗艦は当初は【大淀】だったのですが、本人の判断で【霞】に変更されています。
「礼号作戦」に参加する部隊は挺身部隊と称されました。
24日、挺身部隊はカムラン湾を出撃します。
【清霜】にとっては、途中離脱した「レイテ沖海戦」の無念をこの作戦で晴らすと意気込んだかもしれませんが、【清霜】にとっては今回が初めての夜戦になります。
果たして道中で空襲にあったとき、【清霜】はしっかり働いてくれるだろうか、「丁型」3隻も傷はもちろん癒えておらず、幾多の不安材料は残ったままです。[1-P134]
しかし木村少将は、【足柄、大淀】との連携には少々不安を覚えていたものの、この作戦は必ず成功すると自信を持って出撃しています。[1-P146]
マニラへ向かう偽装航路をとっていた【清霜】達は、24、25日は敵に発見されることなく悠々と航海ができました。
ただし航空偵察の報告から発見を恐れて北上するなど、慎重な立ち回りをしております。[1-P148]
26日に入って挺身部隊は雨のカーテンに包まれました。
これ幸いと部隊は一気に南下を開始、ミンドロ島に迫りました。
雨が上がった後、ミンドロ島から180海里の距離でとうとう【PB4Y】に発見されてしまいましたが、すでに行程は9割近く走り抜けていて、構うものかと予定通りミンドロ島へ向かいます。[1-P162]
「【大和】(実際は【足柄】)の艦隊が迫っている!」という感じの平文を挺身部隊もキャッチしましたが、相当な慌てようです。
その挺身部隊を発見したアメリカですが、上陸済みとは言えまだ途中だったので、攻撃能力は不十分でした。
航空機はボチボチあったのですが、空襲用の爆弾は全然なく、輸送船団護衛のための水上艦もおらず、これまでのように無謀に突っ込んでくる日本の船を滅多打ちにすることは難しかったのです。
日本もありあわせの戦力でしたが、相手もありあわせの迎撃しかできませんでした。
アメリカは急いでレイテにいる第4巡洋戦隊に出撃を要請しましたが、少なくとも挺身部隊の突入には絶対間に合わない距離でした。
しかしアメリカは連日の特攻に怯え、輸送船団は荷揚げが終わった船は急いで逃げ帰ってしまい、ミンドロ島に留まる貨物船はたった4隻だけでした。
つまり挺身部隊は発見されようがされまいが、攻撃できる獲物の数は限られていたのです。[1-P159]
発見から1時間後、今度は【B-25】が8機現れました。
いよいよかと皆身構えましたが、なぜか【B-25】は爆弾を搭載しているにもかかわらず爆撃を行いませんでした。
それはしばらく続き、30分後、たまりかねた【清霜】は12.7cm砲で威嚇射撃を行いました。
もちろんこれにビビったわけではないでしょうが、結局この【B-25】は1発の爆弾を落とすことなく去っていきました。
しかし入れ代わり立ち代わり触接機は現れ、今は攻撃を受けないけどいつか攻撃が始まるのは明白です。[1-P172]
当日は夜になっても月光が眩しく、闇夜に紛れることもできませんでした。
ミンドロ島はもうすぐです、ここが踏ん張りどころでした。
9時ごろからいよいよ空襲が始まりました。
爆撃はまず【大淀】に命中。
ただ命中した2発の爆撃はともに信管が作動云々ではなく付いてすらいなかったので、1発缶室に命中するという首の皮一枚なところはありましたが、大事にはなりませんでした。[1-P177]
しかし次の爆撃を受けた【清霜】の場合はそうはいかなかったのです。
21時15分、次から次へと迫ってくる戦闘機に向けて無数の弾丸を放っていた【清霜】にも同じく250kg爆撃が命中。
左舷中央部に直撃した結果、重油タンクが破壊されてこれが燃え上がります。[1-P180]
漏洩した重油は機械室や缶室にも及び、導かれるように機関エリアの火災も広がり、【清霜】は全く動けなくなりました。
誘爆を避けるために魚雷は投棄されましたが、消火ポンプは被弾や火災の影響で大半が使えず、【清霜】は初の被弾で自力で生き残る力を失ってしまったのです。
【清霜】が大ピンチに陥る中ですが、敵地目前にして【清霜】救助に避ける戦力はありませんでした(「丁型」ですら魚雷攻撃に加わっています)。
挺身部隊がミンドロ島へ向かう中、【清霜】では必死の消火活動が続けられました。
一時期は火の手が収まり、このままなんとかなるかと思われました。
しかし23時10分ごろ、いきなり被弾箇所から重油が溢れ出してこれに火がついてしまい、【清霜】は重油が漂う海の上で焼かれてしまいます。
まずい、この火災はとても防げない。
油の上を走る炎は油が途切れない限りはそう簡単に消えません。
【清霜】からは総員退去命令が下されますが、逃げる間もなく炎は【清霜】を包み込んで、やがて23時15分、大爆撃の末に沈没してしまいました。
木村少将は【清霜】が停止した場所を記録させ、ミンドロ島へ進撃を止めませんでした。
当初からこの作戦がもたらす影響は僅かであることは誰もがわかっていたのですが、それでも砲撃や雷撃で輸送船や物資の破壊を達成し、日付が変わった7日に部隊は撤退を開始します。
戻ったころにはすでに【清霜】の姿はなく、付近を捜索するとカッターが1艘見つかり、やがてその近くには【清霜】の乗員が大勢浮かんでいるのがわかりました。
木村少将は【霞、朝霜】で【清霜】の救助を行い、他の艦は先に離脱させます。
その離脱した【大淀】達も、道中で魚雷艇との戦闘が起こっていて、これを追い払っています。
最後の艦隊型駆逐艦【清霜】は、アメリカによる救助も合わせて263名が救助され、その幼く短い一生を終えました。
参考資料(把握しているものに限る)