時雨【白露型駆逐艦 二番艦】呉の雪風佐世保の時雨 幸運と察知力で終戦間際まで大奮戦 | 大日本帝国軍 主要兵器
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時雨【白露型駆逐艦 二番艦】

起工日昭和8年/1933年12月9日
進水日昭和10年/1935年5月18日
竣工日昭和11年/1936年9月7日
退役日
(沈没)
昭和20年/1945年1月24日
マレー半島東岸
建 造浦賀船渠
基準排水量1,685t
垂線間長103.50m
全 幅9.90m
最大速度34.0ノット
航続距離18ノット:4,000海里
馬 力42,000馬力
主 砲50口径12.7cm連装砲 2基4門
50口径12.7cm単装砲 1基1門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 2基8門
次発装填装置
機 銃40mm単装機銃 2基2挺
缶・主機ロ号艦本式缶 3基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸


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地道な輸送を繰り返すが、じわりじわりと危機が迫る

【時雨】は横須賀生まれですが、昭和13年/1938年12月に佐世保へ転籍し、そこで第二七駆逐隊を【有明】【夕暮】【白露】と編成。
竣工僅か1ヶ月後の10月24日には、北海道で行われる陸軍特別大演習のために天皇陛下を乗せた御召艦【比叡】の供奉艦を【白露】とともに務めた実績を持っています。
北海道から戻って数週間後には、今度は江田島の兵学校に訪れるために天皇陛下が乗艦された【愛宕】を護衛して再び出発。
さらには昭和11年特別大演習観艦式で再び乗艦された【比叡】を護衛し、観艦式終了後は横須賀までお供をしています。

太平洋戦争が始まるとき、第二七駆逐隊は第一水雷戦隊に所属していて、【時雨】は他の艦とともに連合艦隊を護衛して柱島を出撃していました。
万が一「真珠湾攻撃」が失敗したり、また大きな被害を受けた場合に備えた出撃でしたが、無事に作戦は成功したために11日に反転撤退。
その後機動部隊が戻ってきたときに護衛のために再度出撃、合流しています。

大一番を終えた後、【時雨】は船団護衛をメインに活動。
「蘭印作戦」が終了し再編が行われた時、第二七駆逐隊は第五航空戦隊に所属することになりました。
しかし配属された直後に東京はまさかの「ドーリットル空襲」を受けて大混乱します。
慌てて五航戦には敵機動部隊を探すように出撃命令が下りますが、その時台湾にいた五航戦が敵に追いつくわけもなく、命令は間もなく撤回されました。

さて、再編された五航戦は南洋部隊の主軸となっていました。
南洋部隊は「MO作戦(ポートモレスビー攻略作戦)」を実施するという大事な任務を背負っていて、5月1日にMO機動部隊はトラック島を出撃して南下。
機動部隊はツラギ攻略部隊を支援するために敵基地空襲を主目的としながらも、当然敵機動部隊も現れたらこれを仕留めるという予定でした。

7日の索敵の結果、【翔鶴】「九七式艦上攻撃機」が敵空母を発見したと報告しますが、のちにこれが【油槽船 ネオショー】の見間違えであることが発覚。
【ネオショー】「九九式艦上爆撃機」によって撃沈しましたが、敵機動部隊を探し回っているうちにMO攻略部隊の【祥鳳】がこれと遭遇して沈没してしまいました。

翌日ついに五航戦は【米レキシントン級航空母艦 レキシントン】【米ヨークタウン級航空母艦 ヨークタウン】と激突。
激戦の末に【レキシントン】を撃沈し、【ヨークタウン】にも甚大な被害を与えましたが、日本も【翔鶴】が大量の黒煙を吐き出して命からがら戦場から離脱。
戦果としては日本がギリギリ勝利と言えなくもないですが、この結果「MO作戦」を継続できなくなったという大きな代償を背負ってしまいます。
そして翌月にはこの時止めを刺し損ねた【ヨークタウン】が傷だらけながらも蘇り、「ミッドウェー海戦」で日本の前に立ち塞がったのです。

7月14日に第二七駆逐隊は第四水雷戦隊所属となります。
そして「ガダルカナル島の戦い」が始まると、【時雨】はギルバート諸島やマーシャル諸島などの輸送や占領支援を行い、やがて最前線であるガダルカナル島への鼠輸送に頻繁に駆り出されるようになりました。
危険な任務ではありましたがほかに手段がなく、ある時は引き返したり、ある時は降ろすや否や空襲で焼き払われたりと、こんな努力に見合わない任務はありませんでした。
10月17日には輸送隊が揚陸を行っている間【時雨】【白露】でヘンダーソン飛行場への艦砲射撃も行っています。

度重なる大規模突撃でもヘンダーソン飛行場の奪還には至らず、ついに日本は【比叡】【霧島】を主力、【金剛】【榛名】を輸送支援として一気に投入し、艦砲射撃によりヘンダーソン飛行場を破壊しつつ強襲させた陸軍でアメリカ軍を蹴散らすという作戦を決定。
11月9日に主力部隊はトラック島を出撃し、ショートランドにいた第四水雷戦隊たちも11日に出撃し合流します。
機関故障によりトラック島にいた【有明】を除いた第二七駆逐隊は、ガダルカナル島の西側にあるラッセル諸島付近の警戒でした。
ここが突破されてしまうと最悪のケースでは日本艦隊は挟み撃ちになってしまいます。
そのために3隻はここで哨戒活動を行っていましたが、その間に島の北側ではアメリカ第16任務部隊と激突して「第三次ソロモン海戦第一夜」が勃発。
【夕立】が一騎当千の働きを見せるものの、舵故障により操舵不能となった【比叡】の処遇に頭を抱えました。
急いで駆け付けた第二七駆逐隊が曳航を試みるもさすがに戦艦1隻は引っ張れず、夜が明けて空襲が始まったことで最終的に【比叡】は沈没してしまいました。

【比叡】の生存者を収容した【時雨】達はそのままトラック島へ向かいました。
なので「第二夜」の戦いには【時雨】は参加していません。
【冲鷹】をサイパン→トラック島、トラック島→横須賀へと護衛したところで激動の昭和17年/1942年の大晦日を迎えました。

年が明けても【時雨】は輸送任務に明け暮れます。
昭和18年/1943年1月15日は護衛していた【妙法丸】【米サーゴ級潜水艦 ソードフィッシュ】の雷撃で沈没し、さらに救援に駆けつけた【秋月】までもが【米ナーワル級潜水艦 ノーチラス】の雷撃で大破してしまいます。

「ガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)」は前進部隊に所属していたため撤退そのものには関わっていませんが、作戦が大成功に終わってからも【時雨】は日本-トラック間を中心とした輸送任務を着々とこなしていきます。
「海軍甲事件」で戦死した山本五十六連合艦隊司令長官の遺骨を乗せた【武蔵】の護衛にも就いています。
国内にいる間に機銃の換装工事も実施され(一部未了)、その後ナウルやラバウルへの輸送にも参加しました。

このように休む間もなく東奔西走した【時雨】ですが、「クラ湾夜戦」「コロンバンガラ島沖海戦」の被害で第三水雷戦隊、第二水雷戦隊の各司令部が全滅。
特に二水戦が瓦解したのは非常にまずいため、四水線の第二七駆逐隊と直属だった【五月雨】が急遽二水戦にスライドされることになります。
ところが二水戦が再編された7月20日に【夕暮】が沈没、さらに28日には【有明】も沈没してしまい、あっという間に二水戦は3隻になってしまいました。
そしてついに【時雨】も大規模な海戦に遭遇してしまいます。

8月6日、【時雨】はコロンバンガラ島への輸送隊【嵐】【萩風】【江風】の目となる警戒隊として真っ暗な海を進んでいました。
この時【時雨】は最後尾にいて、後方からの追撃を警戒していました。
しかし偵察機でこの輸送隊の動きを知ったアメリカの第31.2任務群は、まるで潜水艦のようにじっと待ち続け、レーダーで捉えたところで静かに魚雷を発射。
これが面白いように輸送隊に命中し、【江風】が轟沈、動けなくなった【嵐、萩風】を砲撃で仕留めます。
【時雨】が急いで飛び出して魚雷8本を発射しますが、これはいずれも命中していません。
次発装填後に再び戦場に戻ってきますが、相手は無傷の駆逐艦6隻でとても勝ち目はありません。
暗殺と言ってもいい結末を迎えた「ベラ湾夜戦」で、【時雨】1隻だけが【川内】と合流してラバウルの土を踏むことができました。
実はこの戦いで【時雨】にも魚雷が1本舵に命中していましたが、運よく不発で穴が開いただけで済みました。
ここから【時雨】の幸運が目立ってきますが、残念ながら【時雨】の幸運は【雪風】よりも死神っぷりを発揮しているようにも感じます。

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仲間の死を乗り越えて 多く海戦で生き延びるが

「ベラ湾夜戦」の影響で防衛はムンダを捨ててすぐ向かいのコロンバンガラに集中することになります。
しかし15日にコロンバンガラ島のさらに北西のベララベラ島にアメリカ軍が上陸し、陸海軍は混乱します。
ベララベラ島はチョイスル島を除けば一番ブーゲンビル島に近いので、コロンバンガラ島が挟み撃ちに合うだけでなくブーゲンビル島のすぐ前のショートランドを含めて敵が目の前に迫ってきたことになるのです。
ベララベラ防衛とブーゲンビル防衛に意見が割れてしまい、結局予定よりも少ない数の兵員がベララベラ島へ輸送されることになります。

17日、【時雨】【漣】【磯風】【浜風】とともにラバウルを出撃。
しかし往路では夜間爆撃を受けた上に「フレッチャー級駆逐艦」4隻の第41駆逐群と遭遇し「第一次ベララベラ海戦」が始まりました。
敵への攻撃は命中しませんでしたが、こちらも【磯風】【浜風】の若干の被弾で済み、海戦は終結。
輸送も大方成功し、まずは一安心でした。

ですが日本の不利な状況は全く変わらず、ベララベラ島の防衛含めて周辺諸島の確保は諦めることになってしまいます。
こうなるとベララベラ島やコロンバンガラ島の守備隊を撤退させなければならず、つい先日運んだばかりの兵士たちをまた迎えに行くことになりました。

その一環として、まずコロンバンガラ島の北にあるサンタイサベル島のレカタ水上機基地の兵士たちをブーゲンビル島に送る任務が与えられます(「E作戦」)。
8月22日に【時雨】【磯風、浜風】とともにラバウルを出撃したものの、敵艦隊出撃の報告を受けて撤退、25日に再出撃となりました。
26日未明に無事到着しましたが、兵士たちが乗り込んでいる間に空襲を受けて【時雨】は至近弾を受け、またブイン行きを取りやめてラバウルへ逃げていく途中でも断続的に空襲を受けて今います。
この空襲では【浜風】が至近弾を受けて浸水し、その後修理のために本土に戻ることになってしまいました。

【浜風】は脱落してしまいましたが、9月28日と10月2日にラバウルから【時雨】ら外南洋部隊が出撃してコロンバンガラ島に到着(1日に【五月雨】が第二七駆逐隊に編入)。
駆逐艦と大発動艇に兵士たちが次々と乗り込み、北のチョイセル島まで一目散に逃げていきました。
最終的に大半の大発が魚雷艇や駆逐艦によって失われましたが、それでも約12,000人が無事にコロンバンガラ島からの撤退に成功しました。

次はベララベラ島の守備隊です。
今回は夜襲部隊、輸送部隊、収容部隊の3つに分かれ、夜襲部隊の【時雨、五月雨、磯風】【秋雲】【風雲】【夕雲】は6日にラバウルを出撃。
途中【時雨、五月雨】は収容部隊に合流して部隊の護衛に参加するのですが、この間に夜襲部隊が3隻の駆逐艦とぶつかり「第二次ベララベラ海戦」が勃発します。
砲撃戦の中で【夕雲】に被弾が集中し炎上しますが、敵も【米フレッチャー級駆逐艦 シャヴァリア】【夕雲】の魚雷を受けて大破、さらに【シャヴァリア】に衝突した【米フレッチャー級駆逐艦 オバノン】も艦首を大きく損傷させます。
そこに敵発見の報告を受けていた【時雨、五月雨】が到着。
ともに魚雷を8本ずつ発射しますが、そのうち1本が【米ポーター級駆逐艦 セルフリッジ】の艦首を抉り取りました。
【夕雲】はこの後さらに魚雷を受けて沈没してしまいますが、敵艦3隻全てを撃沈撃破させた日本は無事ベララベラ島の守備隊約600人を救出しています。

激動の1ヶ月が終わりましたが、輸送の任務に終わりはありません。
第二七駆逐隊はニューブリテン島の各地域に向けての輸送を数日おきに実施していて、この間に【時雨】は空襲で至近弾を1発受けています。
また10月からはラバウルも空襲を受けるようになり、待機場所ですら安穏とできなくなりました。

相変わらず連合軍ペースで戦況が進む中、11月1日、ついに連合軍がブーゲンビル島タロキナに上陸してきました。
これを受けて日本もタロキナに逆上陸することが決まるのですが、艦隊が偵察機に発見されて【川内】が爆撃を受けたことで逆上陸は中止。
輸送隊はラバウルへ引き返し、【妙高】【羽黒】らの襲撃部隊だけが輸送船団に攻撃を仕掛ける形に計画が変更されました。

2日午前1時ごろ、タロキナ沖にいた第39任務部隊を【時雨】が発見し、襲撃部隊と相まみえます。
「ブーゲンビル島沖海戦」の始まりです。
この戦いは常に混乱の中にあり、日本側は被弾した【川内】の速度低下や敵弾回避行動の中で隊列が崩壊し、【五月雨】【白露】【妙高】【初風】が衝突してしまいます。
敵側も【米フレッチャー級駆逐艦 スペンス、サッチャー】が衝突したり、【妙高】【羽黒】を味方だと誤認したり、味方を誤射したりと双方まともな戦闘が実現できませんでした。
日本は動きの鈍くなった【川内、初風】がともに戦場に取り残されて沈没しています。
第二七駆逐隊の誰かの魚雷が1本【米フレッチャー級駆逐艦 フート】の艦尾に命中していますが、結果的にアメリカは沈没ゼロでした。
【時雨】は魚雷発射後に【川内】との衝突を避けたことで隊列から離れてしまい、単艦で再び攻撃のチャンスを狙っていましたが、混戦の中で飛び込むのは危険である上、味方の不利がみるみる濃厚になっていったことで止む無く撤退しました。

重要な海戦を落として間もない5日、ついにラバウルも大規模な空襲を受けてしまいます。
ソロモン諸島での戦いの海軍の一大拠点であるラバウルすらついに敵の手が届くようになり、この空襲で到着したばかりの多くの重巡などが被害を受けてしまい、すぐにトラック島へ帰ってしまいました。
【時雨】は被害を受けませんでしたが、ブカ島への輸送を行った後に【時雨】もトラックを経由して日本に帰投することになりました。

帰投後、第二七駆逐隊は【春雨】を加えた4隻編成となります。
12月24日に戊二号輸送作戦の為に呉を出港しましたが、間もなく漁船と衝突してしまい護衛から離脱。
被害そのものは大したことはありませんでしたが、呉に戻って修理をし、その後横須賀へと回航されました。
昭和19年/1944年1月3日に【春雨】とともに【伊良湖】を護衛してトラック島へ再び出発します。

ところが今度はトラック島までもが大規模な空襲に晒されます。
2月13日、【時雨】は護衛中に現れた【米ポーパス級潜水艦 パーミット】を発見し、【春雨】とともに爆雷で攻撃します。
撃沈までは至りませんでしたが、浸水はきたすことができたので当面の危機からは逃れることができました。

しかしトラック島は潜水艦1隻の危機とは比較にならないほどの被害を受けてしまいます。
2月17日のトラック島空襲でトラック島は事実上の陥落。
【阿賀野】や6隻の駆逐艦を失った他、大量の輸送船なども沈没し、全く役に立たなくなってしまいました。
【時雨】【春雨】は空襲警報が出るや否や緊急発進し、空襲を受けながらもなんとかその雲からは逃れることができました。
それでも【時雨】は直撃弾1発と多数の至近弾により主砲がすべて停止、1番缶も停止して速度が25ノットに落ちる被害を出していて、21人が戦死しています。
【時雨】はパラオに逃げて【妙高】に横付けして応急修理を行い、その後パタ04船団を護衛し、高雄経由の佐世保で本格的な修理を行いました。

5月16日、【時雨】【武蔵】や第三航空戦隊を護衛してタウイタウイ泊地にやってきました。
この時アメリカ軍はビアク島攻略に動いていて、一方で日本のニューギニア島への竹輸送が失敗していたことから何とかして挽回しなければならない状況でした。
そして27日にはアメリカ軍がビアク島に上陸。
ですがビアク島の重要性が浸透していない幹部もいて、南西方面艦隊の強い要望で「ビアク島の戦い」の支援として「渾作戦」が立案、実施されることになりました。
【時雨】は第二次作戦に参加して8日にソロンを出撃。
しかし道中で「B-25」の空襲を受けて【春雨】が被弾沈没。
さらに【豪オーストラリア級重巡洋艦 オーストラリア】を中心とした艦隊にも発見されて、皆曳航してきた大発を切り離して散り散りに撤退します。
【時雨】はこの「ビアク島沖海戦」とも呼ばれる砲雷撃戦の中で3発の被弾を受けてました。
随分しつこく追いかけられましたが、何とか5隻はハルマヘラ島で合流することができました。

実は「渾作戦」は第一次も報告ミスで中止、さらに第三次はマリアナ諸島にアメリカ軍が空襲を仕掛けたことで中止となり、結局何の成果も出すことができませんでした。
バタバタしている間についにマリアナにまで踏み込まれてしまい、日本はこちらから「あ号作戦」で仕掛けるつもりだった戦いに逆に向こうのペースで戦いに挑むことになってしまいました。
「マリアナ沖海戦」【時雨】は第一補給部隊の護衛として参加することになります。
しかし護衛中に【白露】が謎行動(一説には潜水艦の魚雷回避)で【清洋丸】と衝突して沈没してしまいます。
何と幸先の悪いことか、結局アウトレンジ戦法をとった日本の艦載機はマリアナの七面鳥撃ちにあって滅多打ちに合い、さらに【翔鶴】【大鳳】【飛鷹】を失う大敗北を喫しました。
【時雨】は撤退時の空襲で【龍鳳】に襲い掛かる「TBF アヴェンジャー」に砲撃を行い、さらに自身に襲い掛かる魚雷も紙一重で回避していて、その運の良さは確かなものとなっていました。

本土に戻ってから、【時雨】は修理と並行して13号対空電探22号水上電探が各1基搭載されたと推定されます。
機銃の増備もこれまで、そしてこれからも実施されているはずですが、この時期については明確になっていません。

8月18日には【五月雨】が座礁してしまい、救出することができずに空襲と潜水艦の雷撃を受けて沈没。
これで第二七駆逐隊は2隻となってしまい、編成以来在籍を続けてきた第二七駆逐隊が10月10日についに解隊されました。

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西村艦隊の壊滅 その最期を語るも死は去らず

戦争の主役となった空母は【瑞鶴】と小型の改装空母だけ、そして艦載機の数もごく僅かとなったことで、日本はついに機動部隊を囮として、残された戦力を一気にレイテ島に突入させる破れかぶれの「捷一号作戦」に出ます。
所属先がなくなった【時雨】は第二水雷戦隊直属となり、第一遊撃部隊第三部隊、いわゆる西村艦隊の一員として出撃することが決定。
西村艦隊はこれまでほぼ仕事のなかった【扶桑】【山城】を戦場に送り込み、これを中心に【最上】と第四駆逐隊【山雲】【朝雲】【満潮】で構成され、スリガオ海峡を超えるルートを進むことになりました。
海峡は進路が限定されるので非常に危険なルートであることは皆理解をしていたでしょうが、22日に西村艦隊はブルネイを静かに出撃。
虎穴に入らずんば虎子を得ずと言いますが、勝ち目のない作戦ではこのことわざは使えません。

当初は志摩艦隊と合流する予定でしたが、西村艦隊は早着、志摩艦隊はそもそも身の振り方がなかなか決まらなかったことで逆に遅れている状態、さらには栗田艦隊も空襲を受けて一時反転しており、各々計画とは異なる事態となっていました。
しかし西村艦隊は夜戦に一縷の望みをかけ、独断でスリガオ海峡に24日夕方に突入を開始。
当然ですがすでに触接機によって艦隊は発見されていて、【時雨】も空襲の中でロケット弾を1番砲塔に受けて9人の戦死者を出しています。
ここからの道は死出の旅となることは覚悟していたことでしょう。

一方アメリカからすれば見えている罠に相手から飛び込んできてくれたようなもので、魚雷艇を幾重にわたって配備、さらに駆逐艦、巡洋艦、戦艦と万全の隊列で待ち伏せ。
作戦としては魚雷艇と駆逐艦の魚雷で大混乱を誘い、隊列が乱れたところでレーダー射撃によって集中砲火を浴びせるというもの。
これはかつて日本が水雷戦隊や重雷装艦によって仕掛けようとしていた目論見と瓜二つでした。

魚雷艇の襲来に対しては各艦の砲撃で何とか排除していきましたが、ついに【扶桑】が魚雷1本を被雷。
「大和型」なら1本ぐらいへっちゃらですが、こちとらいらない子扱いされ続けた「扶桑型」ですから、一気に速度低下を招きます。
【扶桑】は結局この被雷の誘爆で弾薬庫などが爆発して船体が二分され、やがて沈没してしまいます。
この攻撃を皮切りに、今度は駆逐艦の魚雷が西村艦隊にザーッと襲い掛かってきました。
加えて敵のレーダー射撃が始まり、各々被雷、被弾の嵐の真っ只中に晒されます。
【山城】はその大きな艦橋が命のろうそくになったかのように大炎上をしながら突撃、【山雲】は魚雷を受けて轟沈し、【満潮】も雷撃で沈没、【朝雲】が艦首を失いガタガタと震えるように動いていました。

単縦陣の右側で警戒をしていた【時雨】は幸い魚雷を受けることはありませんでした。
しかし向こうはレーダーを駆使してガンガン砲撃を行うのに対し、日本は電探の性能も決して高くない上にアメリカのような精度の高いレーダー射撃ができるようなものでもありません。
加えて目に頼ろうにも煙幕を展開されていては正確な砲撃もできません。

その後最後尾にいた【最上】も被弾により大きく燃え上がりました。
【時雨】にも砲撃が行われましたが、これも幸運艦のなせる業か、燃料庫に命中した砲弾は不発で誘爆を免れ、さらに飛び込んできた魚雷も艦底を潜り抜けていきました。
それでも至近弾によりジャイロコンパスが故障したほか、明らかに形勢不利と離脱を始めた時に舵が故障して操舵不能となってしまいます。
舵を修理しながらも撤退を行う【時雨】と、炎上しながら引き返す【最上】、そして艦首を喪失しながらも必死に逃げようとする【朝雲】
1時間で「スリガオ海峡海戦」の勝敗は完全に決しました。

【時雨】が先行して南下する中、突入前に合流予定だった志摩艦隊とすれ違います。
志摩艦隊【時雨】に後続するように伝えますが、【時雨】は舵故障を理由に南下を続行。
その【那智】が這いつくばって水をかく【最上】に衝突してしまい、また12ノットにまで速度を回復させたものの死神の鎌からは逃れられなかった【朝雲】が砲撃により沈没します。
志摩艦隊西村艦隊の成れの果てを前にして撤退を決意し、志摩艦隊はただ【阿武隈】を失うだけの結果に終わってしまいました。

西村艦隊唯一の生き残りとしてブルネイに避難した【時雨】
本丸の栗田艦隊も結局引き返してしまい、「捷一号作戦」も失敗したことで日本の生きる道はほとんど残されていませんでした。
11月6日、【千振】【第19号海防艦】とともに【萬栄丸】を護衛してボルネオ島からマニラへ向けて出港しますが、道中で複数の潜水艦で行動するウルフパックの網にかかり、【萬栄丸】【米バラオ級潜水艦 ハードヘッド】の雷撃により沈没。
この攻撃の前に3隻の爆雷攻撃で【米ガトー級潜水艦 グロウラー】の撃沈に成功していましたが、【萬栄丸】を守り切ることができませんでした。

【萬栄丸】沈没を受けて、海防艦2隻はボルネオへ反転、【時雨】のみマニラまで向かい、その後【隼鷹】【利根】【卯月】【夕月】とともに本土へ帰還。
修理を受けている間に【時雨】【初霜】のいる第二一駆逐隊に所属となり、また一水戦に編入されましたが、20日にその一水戦が解隊されたため二水戦所属となりました。
修理が完了した後、【時雨】は【雲龍】雲龍【雲龍型航空母艦 一番艦】を護衛してマニラまで向かう任務に就きます。
しかし12月19日に【雲龍】【米バラオ級潜水艦 レッドフィッシュ】の雷撃を受けて沈没。
【雲龍】は特攻機「桜花」をマニラに輸送するところだったのですが、2本目の魚雷が「桜花」に誘爆し、初陣すら達成することができずに沈没してしまいました。

昭和19年/1944年12月1日時点の兵装
主 砲50口径12.7cm連装砲 2基4門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 2基8門
機 銃25mm三連装機銃 3基9挺
25mm連装機銃 1基2挺
25mm単装機銃 15基15挺
13mm単装機銃 4基4挺
電 探22号水上電探 1基
13号対空電探 1基
対 潜九四式爆雷投射機 2基
九三式水中聴音機 1基
九三式水中探信儀 1基

出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年

ここまで幾多の沈没の危機を乗り越えてきた【時雨】でしたが、日本が窮地に追い込まれていくに従い歴戦の船達がどんどん沈んでいきました。
特に『呉の雪風 佐世保の時雨』と呼ばれた【時雨】の幸運ぶりは海軍のだれもが認めるところでしたが、もはや船運だけでは困難を突破できない事態まで日本は陥ったのです。
「スリガオ海峡海戦」で逃した獲物を死神は見過ごしてはくれませんでした。

「レイテ沖海戦」後の最も危険な航路と言ってもいい、フィリピン・シンガポール航路。
そこを通るヒ87船団の中に【時雨】も加わり、【龍鳳】【神威】を護衛して日本から台湾、香港を経由してシンガポールへ向かうことになります。
船団は12月31日に山口を出港し、まずは台湾を目指します。
航路は空襲や潜水艦の攻撃を回避するために中国大陸を沿って移動していましたが、昭和20年/1945年1月3日に台湾が空襲されたことで船団は杭州湾付近の嵊泗列島(【龍鳳】【時雨、磯風、浜風】)と舟山群島(残りの船)に分かれてやり過ごすことにします。
5日に船団は再出撃をしますが、ここで【宗像丸】【米バラオ級潜水艦 ピクーダ】の雷撃を受けて損傷。
潜水艦の脅威が迫っているということで、最も貴重な【龍鳳】だけ駆逐艦3隻の護衛の下急いで基隆まで送り届けました。
到着後【磯風、浜風】が再び船団の護衛に加わるために引き返しますが、この中で【浜風】【海邦丸】と衝突してしまい、馬公で修理を受けることになりました。

無事に高雄に到着した船団ではありましたが、9日に台湾は再び大規模な空襲に見舞われます。
船団も無事ではすまず、【時雨】は難を逃れましたが【海邦丸】が沈没、【黒潮丸】が損傷して離脱してしまいます。
再編されたヒ87船団の中で駆逐艦は【時雨】1隻、残り9隻の海防艦で6隻のタンカーを護衛するという任務になりました。

ですが言った通りこの航路は敵からしても確実に戦果が見込めるエリアなので頻繁に空襲が行われます。
途中で故障を起こした【光島丸、天栄丸】が引き返し、また【天栄丸】護衛の為に海防艦も3隻離脱。
そして13日に香港に到着するも、15日と16日の香港空襲で船団は大きな被害を受け、結局無事なタンカーは【さらわく丸、橋立丸】の2隻だけになってしまいました。
被害を極限にするため、船団はA・Bの2つに分けられ、【時雨】【干珠】【三宅】【第13号海防艦】とともに【さらわく丸】を護衛するA船団に配属となりました。
一方【橋立丸】を護衛するB船団ですが、肝心の【橋立丸】がガス爆発を起こしてしまい出港が取り止めとなあり、結局ヒ87船団はA船団のみがシンガポールへ向かうことになります。

そのA船団ですが、22日に哨戒機に発見されます。
そして24日、【時雨】22号電探が潜水艦を発見します。
続いて目視でも潜水艦を発見したことで、【時雨】は潜水艦制圧の為にその潜望鏡に向かって速度を上げました。

ところが敵は1隻ではなく、【時雨】が目視で発見した【米バラオ級潜水艦 ベスゴ】のすぐ近くに、電探で発見した【米バラオ級潜水艦 ブラックフィン】も潜んでいました。
目視と電探の発見を同じ潜水艦だと判断した【時雨】は、複数の潜水艦が潜んでいるという可能性を消してしまったのです。
【ブラックフィン】に対して横腹を見せる形となってしまった【時雨】は、1本の魚雷を左舷後部に受けてしまい激しく振動を起こします。
大量の浸水で【時雨】はみるみるうちに左に傾斜し、さらに船体に亀裂が入り始めました。
ここまで艱難辛苦を乗り越えてきた駆逐艦は、被雷後わずか10分で沈没してしまいました。

船団最後尾にいた【時雨】の後を追って【三宅】がたどり着いたとき、すでに【時雨】の姿はなく、海に浮かぶ多くの生存者だけが救助を求めていました。
【三宅】【第13号海防艦】が爆雷を投下しつつ生存者を救出。
しかし今度は護衛が【干珠】1隻となった【さらわく丸】【ベスゴ】の雷撃を艦首に受けてしまいます。
被雷後も【さらわく丸】は航行が可能な状態だったのでそこは助かりましたが、船団は最後までいいように連合軍に弄ばれました。

戦争末期まで生き残った駆逐艦のほとんどに言えることとして、度重なる空襲や潜水艦の脅威に晒されながらも輸送任務を数十とこなし続けた実績があります。
【時雨】は終戦まで生き延びることはできませんでしたが、【時雨】は自身が直接戦闘に関与した負け戦に多く参加しています。
勝利を掴むことこそ難しかったものの、困難な戦いを何度も生還して帰ってきたというのは、やはり実力だけでなく高い船運も【時雨】を守り続けてきたからでしょう。

しかし【時雨】は決してその運におごることなく、必死に練度を高め、そして戦いを研究していました。
25mm機銃の性能の高さを大きく評価し、【時雨】は多くの艦載機を撃墜してきました。
また「ベラ湾海戦」の敗北から米軍のレーダーの性能の良さを認め、開発が遅れていた日本の将来に不安を覚えていますし、さらにその性能や対策の研究も熱心に行っていました。
沈没寸前にも電探射撃に自信を持っている旨を通信しています。
敵との技術力の差が如実に開いていく様を目の当たりにしながら戦い続け、そして最期は天敵である潜水艦により命を奪われました。

2022年11月04日 加筆修正