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若月【秋月型駆逐艦 六番艦】

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起工日 昭和17年/1942年3月9日
進水日 昭和17年/1942年11月24日
竣工日 昭和18年/1943年5月31日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年11月11日
第三次多号作戦
建 造 三菱長崎造船所
基準排水量 2,701t
垂線間長 126.00m
全 幅 11.60m
最大速度 33.0ノット
航続距離 18ノット:8,000海里
馬 力 52,000馬力
主 砲 65口径10cm連装高角砲 4基8門
魚 雷 61cm四連装魚雷発射管 1基4門
次発装填装置
機 銃 25mm連装機銃 2基4挺
缶・主機 ロ号艦本式ボイラー 3基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸

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1年半、常に走り続けた若月 空襲の雨の中、沈没

【若月】は当初昭和17年/1942年6月起工、昭和19年/1944年5月竣工の予定でしたが、起工日、竣工日ともに前倒し。
特に竣工日は1年も早くなっています。

竣工後、第十一水雷戦隊にて訓練に励みますが、6月22日には【玉波】とともに【武蔵】護衛のために横須賀まで回航。
しかし到着後の任務は【武蔵】の護衛だけではなく、【米ガトー級潜水艦 ハーダー】の雷撃を受けて大破した【水上機母艦 相良丸】の救難に駆けつけたりもしています。

一度瀬戸内海へ戻りますが、8月2日には再び横須賀の港へ向かい、そしていよいよ出撃となりました。
【涼月、初月、若月】の第六十一駆逐隊は、トラック島へ向けて日本を後にしました。

9月、10月とマーシャル諸島方面へ出撃するものの、会敵の機会はなく、せっかくの対空砲もこれでは真価を発揮することができません。
悶々とする日々が続き、腐らずに訓練に励む【若月】でしたが、そこへネームシップである【秋月】が半年の修理を終えてトラック島へ到着。
これでようやく、第六十一駆逐隊は4隻となりました。
しかし【秋月】はこの後も別働隊として動くことになり、【若月】【秋月】と顔合わせをする程度でした。
2隻が共に戦うのは、さらに1年後の事になります。

10月末、「ろ号作戦」が発動され、第十戦隊旗艦の【阿賀野】に率いられた【若月】はパイロットらの輸送を行いラバウルへと到着します。
ところが到着した11月1日、米軍がブーゲンビル島に上陸し、「ブーゲンビル島の戦い」が勃発。
輸送船団の撃退や上陸部隊に対しての艦砲射撃を行うために、第十戦隊や第五戦隊は急いでブーゲンビル島に向かいます。
そこで勃発した「ブーゲンビル島沖海戦」ではしかし、【川内】の沈没、【妙高】【初風】の衝突(【初風】はのち撃沈)など日本の完全なる敗北に終わります。
さらに、反撃を阻止するために米軍は11月5日にラバウル空襲を行い、この空襲で海軍は徹底的に攻撃されてしまいます。
11月6日に逆上陸を試みた日本でしたが、そこでもやはり空襲にあい、【若月】はこの空襲で中破。
止めとばかりに12日には再びラバウルが空襲で火の海となり、これまでのラバウル・ブーゲンビル島に関わる戦いで非常に多くの人員を失い、そして多くの艦艇が傷つき、沈んでいきました。

その中で幸いにも中破以上の被害をうけることがなかった【若月】は、11月26日に横須賀へ帰投。
修理途中に缶室から火災が発生するというアクシデントがありましたが、昭和19年/1944年1月9日、【若月】は再び大海原へと帰ってきました。

2月6日、【矢矧、初月】とともに【翔鶴、瑞鶴、筑摩】を護衛し、【若月】はシンガポールへ向かいます。
リンガ泊地で訓練を積みますが、3月15日には輸送のために【初月】と再び日本へ戻ることになります。
そして次に【若月】が日本を発つときに隣にいたのは、日本が反撃の狼煙とするべく建造した【装甲空母 大鳳】でした。
【初月】とともに【大鳳】を無事シンガポールまで送り届け、その後6月の「マリアナ沖海戦」でも【若月】【大鳳】の護衛を任されました。
ところが【大鳳】【米ガトー級潜水艦 アルバコア】の放った雷撃を受けてから、ガソリンの気化、対応の不味さ、訓練不足などの負の連鎖によってまさかの沈没。
初陣で世を去った【大鳳】を守りきれなかった【若月】でしたが、2日目も【瑞鶴】の護衛を務め、長10cm高角砲からは440発もの砲弾が発射されました。

しかし「マリアナ沖海戦」はさらに【翔鶴、飛鷹】と数多くのパイロット・艦載機を失い完全敗北。
【若月】は横須賀へ帰投後、後の祭りである13号対空電探と機銃増備の増強工事を受けることになりました。

昭和19年/1944年8月20日時点の兵装
主 砲 65口径10cm連装高角砲 4基8門
魚 雷 61cm四連装魚雷発射管 1基4門
機 銃 25mm三連装機銃 5基15挺
25mm単装機銃 12基12挺
13mm単装機銃 3基3挺
単装機銃取付座 2基
電 探 21号対空電探 1基
13号対空電探 1基

出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年

7月5日、【霜月】とともに呉へと向かい、今度は【長門、金剛、最上】を護衛してリンガ泊地へ向けて出港。
9月19日には呉へと戻ってきますが、10月17日に【若月】【涼月】とともに大分から台湾への輸送任務を任されました。
しかし当時は「台湾沖航空戦」が行われており、また豊後水道が米潜水艦の巣窟となっていたことから現場からは猛反対されます。
ですが命令は撤回されず、強行した結果、危惧したとおり【米バラオ級潜水艦 ベスゴ】が2隻を待ち構えていました。
餌食となった【涼月】は、雷撃を2発受けて艦首断裂という痛ましい被害をうけることになりました。
【涼月】にとって、これは2度目の艦首断裂でした。
当然修理が必要なので、【涼月】は当日に発令された「捷一号作戦」には参加できることができなくなってしまいました。

一方、無事だった【若月】小沢艦隊に所属して「レイテ沖海戦」に突入することになります。
小沢艦隊は空母を餌とした囮作戦で、米軍の主力艦隊をこちらに引きつけて、栗田艦隊がその隙を見てレイテ湾に侵攻するというのが「捷一号作戦」の趣旨でした。
囮ということですから、当然時間稼ぎが必要になります。
小沢艦隊には【武蔵】も所属し、また空母もすべて小沢艦隊に配備されました。
防空駆逐艦である【若月】も同様です。

10月25日、「エンガノ岬沖海戦」が勃発。
止むことのない空襲の嵐によって、あの戦艦【武蔵】が、歴戦の幸運艦【瑞鶴】が、そしてすべての空母が失われます。
そして初めて行動を共にしたネームシップ【秋月】も魚雷が誘爆して沈没。
【若月】【初月・桑】とともに涙を流す間もなく懸命な救助活動に追われました。

「エンガノ岬沖海戦」で【瑞鶴】を護衛している【若月】

しかし救助中も敵艦隊は去ってくれません。
最後まで戦場に残っていた【若月、初月】、そして【五十鈴】はこの最後の脅威から逃れようと速度を上げました。
ですがこちらは手負い、一方敵艦隊は重巡を含め計16隻という大群でした。
射程も長く、このままではいずれ追いつかれる。
そこで命を投げる覚悟をしたのが、【初月】でした。
【初月】は突如反転し、【若月・五十鈴】らに後を託し、単艦で16隻の死神に立ち向かったのです。
救助した【瑞鶴】の乗員とともに2時間もの間粘り続けた【初月】の活躍によって、【若月・五十鈴】はもう一度日本の海に帰ることができました。

11月8日、【若月】は多号作戦第四次輸送部隊の護衛としてマニラを出発し、無事被害をうけることなくオルモック湾へ到着しました。
しかし現地で陸揚げに使うつもりだった50隻の【大発動艇】が台風や空襲の損傷によって圧倒的に足りず、結局兵員しか陸揚げすることができませんでした。
しぶしぶ踵を返し、マニラへと戻るところで空襲が始まりました。
オルモック湾で無理に物資を降ろさなかったのは、この危険性があったためでした。
ほとんど兵装のない輸送船が被害を受け、【陸軍特種船 高津丸、輸送船 香椎丸】が沈没。
これの救助には【霞・朝霜】があたりました。

2隻を欠き、再び航行していると、そこでやはりオルモック湾へ向かう第三次輸送部隊とすれ違いました。
戦力としては第四次輸送部隊のほうが上回っていたからか、第三次輸送部隊から【若月・長波・朝霜】が第四次輸送部隊へ加わり、逆に第四次輸送部隊からは【初春・竹】が第三次輸送部隊に入り、引き返しました。

再度オルモック湾へ向かうことになった【若月】ですが、先ほど空襲を受けたばかり、オルモック湾では無事にことが済むのだろうか。
残念ながら、無事では済みませんでした。
オルモック湾到着直前に、300機を超える航空機の爆撃が始まったのです。
これで4隻の輸送船は全滅、輸送部隊の駆逐艦も、日本最速の【島風】や二水戦旗艦も長く務めた【長波】らが最後の最後まで戦い続け、そして沈没していきました。
そして【若月】も、防空駆逐艦とはいえ多勢に無勢、2発の爆撃を受けて、沈没。
1年半の激闘は、常に劣勢に立たされ続ける苦しいものばかりでしたが、【若月】は幸い大きな被害に悩まされることが少なかった「秋月型」でした。

第三次多号輸送で空襲を受けて黒煙を上げる【若月】

駆逐艦
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※1 当HPは全て敬称略としております(氏をつけるとテンポが悪いので)。

※2 各項に表記している参考文献は当方が把握しているものに限ります。
参考文献、引用文献などの情報を取りまとめる前にHPが肥大化したため、各項ごとにそれらを明記することができなくなってしまいました。
勝手ながら今は各項の参考文献、引用文献をすべて【参考書籍・サイト】にてまとめております。
ご理解くださいますようお願いいたします。