起工日 | 昭和17年/1942年3月16日 |
進水日 | 昭和17年/1942年12月26日 |
竣工日 | 昭和18年/1943年4月30日 |
退役日 (沈没) | 昭和19年/1944年7月7日 |
マニラ湾西 | |
建 造 | 藤永田造船所 |
基準排水量 | 2,077t |
垂線間長 | 111.00m |
全 幅 | 10.80m |
最大速度 | 35.0ノット |
航続距離 | 18ノット:5,000海里 |
馬 力 | 52,000馬力 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 3基6門 |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 2基8門 |
次発装填装置 | |
機 銃 | 25mm連装機銃 2基4挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式缶 3基 |
艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
トラックを巡る護衛の専門家となった主力駆逐艦 玉波
【玉波】は八番艦【清波】の竣工から3ヶ月後に誕生。
この後の「夕雲型」は、第十一水雷戦隊への配属と訓練を行ってから戦場に向かうことになります。
訓練期間中には昭和18年/1943年6月8日の【陸奥】の爆沈に遭遇しており、不幸にもこんな形で本番の救助作業を体験することになります。
他にも【玉波】は6月23日に【米ガトー級潜水艦 ハーダー】の雷撃を受けて航行不能となった【相良丸】の救助に【若月】とともに向かっています。
護衛をしていた【澤風】が【相良丸】を曳航し、天竜川の河口で座礁させた【相良丸】でしたが、その後【米ポーパス級潜水艦 ポンパーノ】が追い撃ちをかけて【相良丸】の船体は止む無く放棄されることになります(海岸スレスレまで近づく【ポンパーノ】怖いもの知らず)。
6月28日に【玉波】は駆逐艦で戦艦を曳航する訓練も受けています。
出力が足りていれば、理論上数倍の排水量を持つ戦艦でも曳航することは可能です。
ただ出力が足りなければ複数の船で曳航するしかなく、そしてそのノウハウがなかった中で、「第三次ソロモン海戦」では【比叡】を失ってしまいました。
その反省から、【玉波】と【若月】の2隻で【長門】を使って舵故障の戦艦曳航訓練が実施されたのです。
【玉波】も【若月】も52,000馬力の出力があるので、単純に倍で最大104,000の馬力で引っ張ることが可能です。
ただ現実はそんな簡単な計算で動くわけがなく、互いの出力や動く方向を細かく調節しながら動かなければ、任意の方向に曳航できませんし曳航索が切れる危険もあります。
ところが【玉波】と【若月】は、見事に目標の5ノットを大きく突き放す12ノットの曳航速度を発揮。
阿吽の呼吸で戦艦を救助することに成功しました。
7月1日に【玉波】は第二水雷戦隊へと異動。
まだ空きの同型艦がいないので駆逐隊の編成もなく、二水戦直属となります。
【玉波】は【日進】や第一航空戦隊とともに7月10日に日本を出撃し、トラック島へ向かいました。
実はこの輸送はアメリカにバレていて、トラック付近で【米ガトー級潜水艦 ティノサ、ポーギー】が待ち伏せをしていました。
そして【ティノサ】から4本の魚雷が入港直前に一航戦に向けて放たれたのですが、幸いこの魚雷はすべて回避することができ、被害はありませんでした。
ですが日本側はこの2隻の潜水艦に反撃をしたわけではなく、依然トラック周辺は危険な海域のままでした。
到着後に【玉波】は【五十鈴】と【瑞鳳】とともにナウルへの輸送を実施。
その後トラックに戻り、今度は23日に輸送船たちを率いてパラオへ向かうことになります。
ところが翌日、この船団とは関係ないところで、以前空振りに終わった【ティノサ】にリベンジを果たされて、トラックからボルネオ島へ向かっていた【第三図南丸】が雷撃を受けて航行不能になってしまいました(この時の【第三図南丸】は護衛や動きの情報が情報源によってバラバラ。個人的に一番信頼できそうなものを取り上げています。この時の【第三図南丸】は単独行動でした)。
これを受けて、【玉波】は自身の船団護衛を同行していた【第28号駆潜艇】に任せて救助に向かいました。
他にも【五十鈴】や【朝凪】などが夕方以降救助に駆け付けています。
この時の【ティノサ】ですが、現場にいたら計器叩き割るんちゃうかぐらいムカつくことが発生していました。
【ティノサ】はまず4本の魚雷を発射し、2本が【第三図南丸】に命中。
ところがこの2本がいずれも不発でした。
ま、まぁアメリカ魚雷なら不発なんて日常です、気にせず次を発射。
今度は2本が命中し、そしてちゃんと起爆し、艦尾に被雷した【第三図南丸】は航行不能となりました。
あと1~2本当てりゃ沈むべと【ティノサ】も楽勝モードだったでしょう。
ところがこの後撃てども当てども全部不発、ゴンゴンと鈍い音が聞こえるばかりで、最終的には命中12本のうちたった2本しか起爆せず、作戦後に責任者の胸倉掴んで怒鳴り散らすほどの不良品が【ティノサ】には積み込まれていました。
敵ながらさすがにこれはかわいそう。
【第三図南丸】からしてみればラッキーもラッキーなのですが、ただ魚雷は爆発しなくても突き刺さったりするので、ノーダメージというわけではありません。
【五十鈴】の曳航でトラックまで戻ることができた【第三図南丸】でしたが、透き通る海面からは【第三図南丸】にグサッと刺さったままの魚雷が見えるほど。
もちろん修理が必要なので、この後【明石】の修理を受けています(結局この後動くことはなく「トラック島空襲」で沈没)。
トラックに戻ることになった【玉波】は、8月3日に【磯風】とともに【旭東丸】を護衛してトラックを出撃。
ただトラック近海こそ潜水艦の危険があるため厳しく警戒しなければなりませんが、そこを突破したは1隻のタンカーでも日本近海までは安全に航行できます(日本に近づくとまた危険ですが)。
【玉波、磯風】の護衛は警戒水域までとされて、途中で【旭東丸】とはお別れ。
その後逆に日本からトラックに向かってきた【武蔵】達の護衛に合流し、再びトラックに戻りました。
5日には【米ガトー級潜水艦 スティールヘッド】に雷撃され、【武蔵】と【雲鷹】に魚雷が迫ったのですが、今度は信管の過敏な反応で命中前にすべて爆発してしまいました。
【スティールヘッド】はその後反撃を受けたために撤退しています。
14日には【神州丸】を含む4隻の第7144船団を護衛してパラオを目指していました。
到着後は28日に第8283船団を【矢風】と一緒に護衛してトラックへ帰還。
その後9月18日に【玉波】は【日栄丸】を護衛してブラウン環礁に向かいましたが、25日にまたトラックに戻ってきています。
このブラウン環礁への移動は、第二艦隊と第三艦隊の移動に付いていく形だったのですが、敵が現れなかったので成果なく引き返したことになります。
このように、【玉波】は護衛護衛また護衛と、とても第一線でバリバリ働く最新の艦隊型駆逐艦に任そうとは思っていなかった仕事ばかりが続いていました。
しかし10月1日、ようやく【玉波】はすでに編成されていた【涼波】【藤波】【早波】と第三十二駆逐隊に加わることになり、これで駆逐隊としての活動ができるようになります。
が、事態はすでに駆逐隊の仕事も輸送や護衛ばかりになっていて、結局【玉波】の役割が変わることは最後までありませんでした。
11月5日、「ブーゲンビル島の戦い」に合わせて重巡部隊を派遣し、一気に制海権を奪い返すためにラバウルには【高雄】をはじめ錚々たる重巡達が集結しました。
【玉波】ら第三十二駆逐隊もその護衛としてトラックから随伴しており、【玉波】にもいよいよ砲を交える機会が巡ってきたのでしょうか。
ところがどっこい、この時ラバウルは敵に空襲されるぐらいには制空権が脅かされていて、さらにこのメンバーの移動は触接を受けるなどアメリカには筒抜けでした。
到着したのは早朝でしたが、9時ごろになると歓迎の挨拶である大規模空襲がラバウルに訪れました。
大量の艦載機がラバウル上空を覆い尽くし、選り取り見取りの獲物たちに向けて次々に爆弾を投下します。
湾外に出る暇もなかった重巡達は、破れかぶれに機銃や砲を放つことしかできませんでした。
空襲が去った後、ラバウルには黒い煙があちこちから舞い上がり、精悍な重巡の姿は消え去っていました。
沈没艦こそなかったものの、この後ブーゲンビルに乗り込むなんて絶対無理な被害を出してしまいます。
空襲を受けた重巡達は、特に被害が大きく航行不能になった【摩耶】を除いて全員トラックに引き返します。
【玉波】はこの時、速度が遅く他の重巡についていけない【最上】の護衛に就き、2隻だけ後からトラックに向かいました。
ただ2隻だけでは心許ないとのことで、後で【鈴谷】と【島風】が護衛に加わってくれています。
その後【玉波】は【高雄】【愛宕】【翔鶴】と一緒に日本へ帰投。
この時【玉波】も整備を受けていますがメンテナンス程度で、26日には早くも日本を出発。
【翔鶴】【千歳】【島風】【谷風】【秋月】とともに、またまたトラックに向かいました。
到着後も船団護衛を数回こなし、その間に【明石】による修復を受けていた【最上】の応急修理が完了。
これを護衛して、【玉波】は【霞】とともに日本に戻りました。
昭和19年/1944年1月19日、【玉波】は【薄雲】とともに【神鷹】を護衛する任務を受けます。
しかしドイツの客船を改造した空母の【神鷹】は、そのディーゼルエンジンが非常に扱いづらい問題があり、すでに輸送の予定が中止となって再検査を受けていました。
試運転を踏まえて再出撃を予定していたのですが、【神鷹】の試運転の結果は全くよろしくなく、またまた輸送任務も取り消しとなりました。
改めて【玉波】にはトラックへ向かう【瑞鳳】【千代田】を護衛する任務が与えられました。
ところがこの時、同じく改装空母だった【雲鷹】がサイパンで助けを待っていて、この輸送から【玉波】と【高雄】が外れてこちらに向かうことになります。
実は【雲鷹】は【瑞鳳】とともに日本に戻るところで【米ガトー級潜水艦 ハダック】に襲われて艦首を大きく損傷、航行すらギリギリというほどの被害を出してしまいました。
【瑞鳳】は【初春】【若葉】の護衛の下でそのまま日本に戻ってきたのですが、【雲鷹】はサイパンに避難し、そこで応急修理を行っていました。
そして低速ながらも航行が可能となったので、修理のために日本へ戻る際の護衛を増やすことに必要となったのです。
【潮】らの護衛を受けてサイパンを出発していた【雲鷹】達と合流した【玉波、高雄】は、Uターンして日本へ戻ります。
ただ、合流後の31日に【玉波】は【瑞鳳、千代田】の護衛に戻るように言われたので、また踵を返して本来の輸送任務に戻りました。
この感じだと【玉波】は【雲龍】護衛ではなく、それに向かう【高雄】を護衛したと言ったほうがいいでしょう。
こちらも無事に2月3日にトラックに到着しています。
しかしこれまで何度も往復し、第二の故郷とも言えるトラックにもラバウル同様に危機が迫っていました。
5日に「クェゼリン島の戦い」で日本軍が玉砕したことから、要衝トラックも敵の手が届く範囲に入ってしまいます。
「ラバウル空襲」の記憶も新しいことから、連合艦隊はトラックからの引き揚げを決定。
ただこの動きは末端まで周知されていなかったことから、でかい船とその護衛の船だけが先行して逃げる形となり、駆逐艦や軽巡、また補助艦船や輸送船の離脱はバラバラに行われてしまいます。
【玉波】はたまたまでかい船の護衛につくことができたので、10日にはトラックから逃げることができたのですが、17日の「トラック島空襲」では多くの仲間が犠牲となっています。
日本に帰ってきた【玉波】は、このタイミングで22号対水上電探を装備。
竣工時に電探を装備していない「夕雲型」はこの【玉波】が最後のはずです。
3月に入ると日本はサイパンやマリアナへの輸送を強化するために松輸送を実施します。
しかし東松二号輸送では3月13日に【米バラオ級潜水艦 サンドランス】に襲われ、旗艦の【龍田】と【国陽丸】が沈没。
日本にいた【玉波】は、まだ沈んでいなかった【龍田】を救助するために派遣されましたが、向かっている最中に【龍田】は沈んでしまったので、合流後に【卯月】が救助していた【龍田】乗員を引き受けて【平戸】とともに日本に戻りました。
自身は東松三号輸送の護衛として参加、旗艦は【夕張】でした。
ですがこちらの輸送も潜水艦の網に引っかかってしまい、15日には【第54号駆潜艇】が【米ポーパス級潜水艦 ポラック】の魚雷を受けて沈没。
船団は無事だったのですが、犠牲なしの輸送とはなりませんでした。
さらに途中でパラオ行きとサイパン行きの二手に分かれた輸送も、敵機動部隊が現れたという報告があったことから、【玉波】護衛のパラオ組もサイパンへ行き先を変更。
サイパン到着後にパラオに向かうことはできましたが、ヒヤヒヤさせる輸送でした。
帰国後、海軍は久々の艦隊決戦を想定して多くの主力艦をタウイタウイ泊地に送り込みました。
しかしフィリピンにほど近いタウイタウイ周辺は潜水艦による監視が鋭く、頻繁に対潜哨戒が行われるとともに、訓練も狭いエリアでしか行えない問題がありました。
哨戒活動を行っているにもかかわらず、海軍はここでも潜水艦に翻弁され、次々に被害が累積していきます。
6月5日から8日に至っては毎日駆逐艦が沈む有様で、特に第三十二駆逐隊としては7日に【早波】が【米ガトー級潜水艦 ハーダー】の雷撃で沈められてしまいます。
この時第三十二駆逐隊旗艦は【早波】だったことから、もともと【早波】艦長になるはずだった千本木十三四中佐が【玉波】艦長となり、【玉波】艦長の青木久治中佐が第三十二駆逐隊司令となる玉突き人事が発生。
また【玉波】が第三十二駆逐隊旗艦となり、直後の「マリアナ沖海戦」に参加しています。
「マリアナ沖海戦」で決定的な敗北を喫した後、【玉波】は【藤波】とともにマニラ経由でシンガポールへ移動(マニラまで【国洋丸】護衛)。
シンガポールからは【北上】を加えて【旭東丸】を護衛し、これまたマニラ経由で日本に戻ることになりました。
ただこの時【北上】は魚雷2本の被雷による損傷を応急修理しただけの状態で万全ではなく、【玉波、藤波】が頼りの輸送でした。
7月7日、一行はマニラのすぐ近くまで到着します。
しかしそこで【玉波】は潜水艦の存在を確認し、攻撃のために探知のあった方向に向かいました。
そこには確かに【米ガトー級潜水艦 ミンゴ】が潜伏していました。
【ミンゴ】も【玉波】の接近を把握し、両者による静かで激しい攻防が始まりました。
まず【玉波】が爆雷を投下しますが、【ミンゴ】はこの爆雷を回避。
潜水を続けながらレーダーで【玉波】の動きを把握し、今度は【ミンゴ】が反撃の魚雷を発射します。
ですが【玉波】もこの魚雷を避け、穏やかな海の上と下で緊迫する殺し合いが続きました。
お互い有利な場所を取り合おうとしがら、1時間が経過。
ついに「ここだ!」という攻撃のチャンスをつかんだのは、残念ながら【ミンゴ】のほうでした。
艦首から放たれた魚雷のスクリューがグルグル回り、一斉に【玉波】の艦底目掛けて突っ込んでいきました。
放った魚雷4本中3本を受けてしまっては、駆逐艦では到底太刀打ちできません。
【玉波】は轟音とともに沈没し、乗員全員が戦死しました。
突然の大爆発を受けて、護衛をしていた【藤波】がその爆発場所へ急行。
もしやられたのならば救助せねばと駆け付けたそこには、【玉波】の痕跡は全くありませんでした。
第三十二駆逐隊はまたしても旗艦と司令部を根こそぎ喪失したのです。
この【玉波】ですが、【玉波】の写真であると確定しているものは現時点では確認されていないはずです。
しかし一般的に【親潮】の写真とされているものが、これは【玉波】ではないかという声がありますのでご紹介します。
異論を唱える方は他にもいらっしゃるようですが、HP上で述べているのはこの方しか見つかりませんでした。
私がここでベラベラ語るのもよろしくないので、【玉波】説を唱える理由については下記HPよりご覧いただければと思います。
私はこのような写真による解読解析が全くできないので、このような考察ができる方は大変尊敬いたします。
出典 『模型の標本箱』 より駆逐艦玉波の写真について